ノ ー ト

好 き な 読 書 を 中 心 に 考 え 中 を 記 録 す る ノ ー ト

歌が歌えるって

最近とても好きな奇妙礼太郎氏。
久しぶりにワクワクする感じ。

ひとのうたとか自分のうたとか関係なく、
ただただひたすら歌うのが大好きっていう感じ。
でも全部、奇妙礼太郎の歌になっている。

歌が歌えるってなんて素敵なんだろう。
しかも、こんなに。

都知事選は私としては残念な結果になったし、
政策を実現することよりも、
これだけ歌えるなら、
歌手の方が断然いいよ。

ひとの心にすっと入って、ずっと残ってる。
そして大事な時にまたふっと思いおこせば、
またそのひとの中で流れ出す。

「喫茶クラクラ」をまだやっていたなら、呼んでみたかった。
多分、来てくれた気がするんだな。
誰か松本に呼んでよ。

奇妙くんの曲を聴きながら、
「楽器出来なくてもいいから、
歌う事だけはずっとずっと好きでいてよね」
と娘に思わず言っちゃったね。

どれも奇妙くんのうたは素晴らしい。
ぜひぜひ聴いてください。




とにかく、
フィッシュマンズの佐藤君以上の人に早く会わせてほしい。
これはかなり切実な願いなんだよ。

通約不可能な世界~ピダハン族と

私にとって、アマゾンに住むピダハン族はすごい驚きだった。
一般的に言われている「未開の」部族というのは、
いつだって刺激的なものだけど、
ピダハンに関する研究の内容はずば抜けている。
以前も書いたんだけど(↓自分のブログから)
ピダハン語の衝撃。
アマゾンの部族のピダハン語には、「右」と「左」も「神」も色や数の識別もない。
平等に分配するので数は必要ないらしい。
そして「入れ子状」の再帰的な文がない。
つまり、「彼女が欲しいと言っていた、ピンクの帽子は既に売り切れですと、
店員が彼女に言ったと妻が話した」みたいな入れ子状がないんだって。
英語で言うとthatでつながる文章が、ピダハンにはない。
で、チョムスキーが相当不機嫌になっているらしい。
普遍文法説を唱えている人はそりゃ、ナーバスになるだろうな。
で、ピダハン族と一緒に暮らしていた言語学者に
ピダハン族と接触できないように圧力がかかったらしい。
まだ本を読んでないんだけど、加えてピダハンには伝承がないらしい
神話がないんだって。
ピダハン族は、基本、実際経験したことしか話さないんだけど、
ある人が死んだら、その人が生きていた時に話したことは無効になるらしい。
死んだ人が語った内容を話すことはしなくなるらしい。
生きている人の 経験したことしか話さない。
だから伝承も信じないし、神話がない。
これってすごいことじゃないか?本当なら。

 ピダハンのこのことを知ってから色々思いを巡らすと、
アニミズムとか自然崇拝っていうのを、
私たちはえらく原始的なもののように思い込んでいるけれど、
実は「入れ子状の再帰的な文法」が獲得された社会の
屈折した発明品であるような気がしてくる。

多分この「入れ子」というのは、貨幣(制度)の事じゃないかって気がする。
貨幣というのは等価という価値観を前提としている。
でも物々交換というのは互換性ではあるけれど、厳密にいうと等価ではない。
貨幣はそれを担保している存在が別にあって、
その存在が無くなると、貨幣自体が無価値になるような性質のものだけど、
物々交換の「もの」は、それ自体が価値を持っている。

「入れ子状の再帰的な文法」が獲得された社会と
不平等な社会は強い相関関係があるんじゃないかな。

随分前に、池谷裕二さんのツイートで
「ルールは平等でも不平等は自然発生します。例えば各人一万円づつ持つ集団。
ランダムに2人選んで一方から一方へ百円渡すという無作為トレードを延々繰り返すと、
一部の大金持ちと大勢の貧乏人に分かれます。
この数学的に自明な事実を知らずに自由や公平を謳うと色々な誤解が生じるように思うのです」
ってのがあったんだけど、
こういう不公平っていうのはお金だから起きるんじゃないかなって思った。

これ実験の道具がオレンジだったらどうなんだろう。
確かにあの人のオレンジは大きいけどあまり甘くないとか、
私はオレンジ嫌いだから少なくていいとか。。。
もっと実験が面倒なものになるだろうな。
お金はみんな貰いたがるものって思ってるでしょ?!
なんかその前提、うっとおしいんだなー。

このツイートでは、
平等不平等って、誰かがジャッジできるものになってるけど、
本当の実際の平等不平等って感覚って、主観的な訴えであるのが普通。
結局、平等不平等っていうのは錯覚か妄想みたいなもの。
でも、平等不平等って、つまり通約可能な世界を前提としてるわけだから、
等価の世界の文化なんじゃないかな。
つまり
平等不平等っていう意識の文化は、貨幣制度から生まれた
んじゃないのかな?

以前もここで書いたけど、
関係と呼ばれるものがつねに通約不可能な何かとのかかわりであり、
関係の1項と他項とを
絶対的に等価でないものにするものとの関わりである
(青字ジャン・リュック・ナンシー)。
これはレヴィナスも言っていたことだったりする気がする。

本当の関係っていうのは、平等不平等とは簡単に言えない関係
のことじゃないかな。

ピダハンは分配が基本だから数は数えなくていい。
実際数えないから平等に分配されているかどうかはわからないわけで。
だから西洋人が分配だって?!素晴らしい!!なんて絶賛しても、
分配自体、ピダハンにとってどーでもいいことだったりして。
でももしかしたら、特殊に鍛えられたピダハンの脳は、
大体の数を誤差なく平等に分けられるのかもしれない。
殆どの人間の行為は無意識的なので、
そういう可能性はないとはおおいに言えない。

ピダハンは私たちの理想でもあり、
こうあってほしいという願望なのかもしれない。
だから私たちにとって都合がいい。
都合がいいから、根絶されなかったのかもしれない。
そう思うと世界は人間が願った通りの世界なのかもしれない。
どんなに残酷でも、それを人間は願ったのだと。

この冬の手芸とりあえず

★娘と一緒に作った猫のぬいぐるみ。
設計図なしでまたぶっつけ本番で縫いだしたもの。
思いのほかうまくできた。
娘は「ミーニャ」と命名。
右目は左目と同じ色のネコ目のパーツなんだけど、
娘が油性マジックで緑に縫った。
デビット・ボウイみたいです。
しっぽで自立します。
P1050376


★娘に作ったレッグウォーマー。
生まれて初めて、小物用の輪編み専用わっか棒?を買って作成。
指が釣りそうだった。
PC130363


障害者基本法

私は職場で知障の方と働いている。
が、私の所属する会社は以下の障害者基本法を守るために
なんら目に見える効果ある努力をしていない。
憤りとともに、なぜ多くの正社員という給与所得者は、
給与がかなり保障されている身分にもかかわらず、
自分の事しか考えられないでいるのだろうか。
金銭的な余裕は決して他人への想像力や理解を生むものではない。
金銭的余裕は結局、自律的な生き方ではなく
対処療法的、消費的な生き方を引き起こすことになっているケースが散見する。

コミュニケーションを疎ましく思う人は、誰の上司にもなってはいけない。
上からの評価システムしかない会社は、ブラック企業と呼んでもいいと思う。
知障の人を活かす仕事の仕方を工夫もしないで、
知障の人を雇い、知障の人ばかりが苦しむ現状を放置しているのは、
企業として社会的責任を果たしていないし、
これは組織的ないじめだ。
学校のいじめよりももっと悪質なのは、
収入が途絶える不安を必ず被害者に与えるからだ。

明日以降、断固抗議したい。
しかし、こんなにおぞい人しかこの会社にはいないのか。

以下、障害者基本法から抜粋

(差別の禁止)
第四条 何人も、障害者に対して、障害を理由として、差別することその他の権利利益を侵害する行為をしてはならない。
2 社会的障壁の除去は、それを必要としている障害者が現に存し、かつ、その実施に伴う負担が過重でないときは、それを怠ることによつて前項の規定に違反することとならないよう、その実施について必要かつ合理的な配慮がされなければならない。
3 国は、第一項の規定に違反する行為の防止に関する啓発及び知識の普及を図るため、当該行為の防止を図るために必要となる情報の収集、整理及び提供を行うものとする。

(雇用の促進等)
第十九条 国及び地方公共団体は、国及び地方公共団体並びに事業者における障害者の雇用を促進するため、障害者の優先雇用その他の施策を講じなければならない。
2 事業主は、障害者の雇用に関し、その有する能力を正当に評価し、適切な雇用の機会を確保するとともに、個々の障害者の特性に応じた適正な雇用管理を行うことによりその雇用の安定を図るよう努めなければならない。
3 国及び地方公共団体は、障害者を雇用する事業主に対して、障害者の雇用のための経済的負担を軽減し、もつてその雇用の促進及び継続を図るため、障害者が雇用されるのに伴い必要となる施設又は設備の整備等に要する費用の助成その他必要な施策を講じなければならない。

戦う君の歌を戦わないやつらが笑う

かなり誤解されそうなのだけど、というか、
実は誤解でもなんでもなかったりするのだけど、
私はあんまり、
ベテランの、この道ウン十年とかの経験保有者が語る、
その道の極意的な、悟り的な語り、というのが好きになれない。

これは私側の卑屈さが原因なのかもしれないけど、
どうしたって説教臭く思えるわけです。
お年寄りは大切に、と思いつつも、
やっぱりdon't trust over thirtyでいたい。
(ってなると、自分のことも信用できないんですけどー!羽交い絞め~)

確かにその人にとっての確信めいたものは、
ある真理をついてはいるでしょう。
でも、「私はこうなんじゃないかなぁと思う」くらいの、
多少、自分の会得したものに対する疑念を最後まで持ちながら、
断言しきらないところに私は知性を感じるし、
聞く側と何か対等なまなざしを持とうとするその人の気持ちが、
ただ嬉しいし、素敵じゃないですか。

とりわけ最近何かを始めたばかりの、
うきうきとしたフレッシュな報告などは、
聞いていてもとても楽しい。
子供の「初めての出来事」を語るさまなどはただただ垂涎の的です。

先日、NHKのロシア語講座をぼんやり見ていたら、
ロシア革命のことをやっていた。
私はレーニンは嫌いではない。なかなか良い顔をしている。
スターリンが意地悪そうな傲慢な顔をしているのに比べて。
スターリンが嫌いだからレーニンが良く見えているのかもしれないけど、
そのスターリンも影武者の方なのかもしらんが。

最初レーニンが目指したことはいいことだったんだろうと思う。
けれど、やはり何事も実際やってみると、
うまくいかないことがあるのが普通。
そういう局面に達したら、
こういうところがやっぱりうまくいかない、と言って
一旦ロープブレイクしちゃいけないんでしょうかね?
だれかいいアイデアない?って聞いちゃいけないんだろうか。
実際、1人の人が何から何まで万能に分かるなんてこと無いし。
結局はブレインストーミング的なやり方しかない気がする。
そして自分はリーダーから降りて、
別の新たなリーダーを見つければよかったんじゃないか。

そうすればスターリンが権力を握ることを、
レーニンは阻止できたんじゃないだろうか。
レーニンはスターリンを嫌がってたけど、自分のせいもあるじゃんか。
ある座に長く居続けることは、
結局、自分の立場を正当化するために生きるようになってしまう。
そうなるとせっかくの当初の素晴らしい理念にまで泥を塗ることになる。
カストロはこのまま長寿を全うしそうだけど、ゲバラは39歳で処刑された。
権力の座に収まったカストロよりも、
動き続けるゲバラの方が恐ろしかったってことだろう。

中島みゆきの曲に
♪ガキのくせに、と頬をうたれ 少年たちの目が年をとる~
っていうのがある。
「いずれわかるよ」とか「私にもそういう時期あったけど」とか
若い人や経験の浅い人に言っちゃう人いますね。
話し聞いてるふりして自分のドーダ話にすり替えてしまうという。
そんな話されると、黙っちゃう。
めんどくさくて黙っちゃう。
こうして周りが黙るから、
この手のめんどくさい人の声や意見ばかりがまかり通ってしまう、という悲劇。
相手に二の句を出させないとか黙らせるっていうのは暴力ではないか。
黙らせておいて勝ち誇る人の、なんと多いことか。

ハンセン病患者に対して長年差別をしながら、
やれ中国は人権意識が低いとのたまう。
放射能ばらまいておいて、
イタイイタイ病や足尾銅山事件も終わってないのに、
中国を環境汚染の元凶のように言う。
やれカンボジアに学校を作ろうとか言っちゃう。
これ全部みーんな、相手に「ガキのくせに」って言ってるのとおんなじだ。

戦う君の歌を笑わないでいられるのは、
今も同じように戦っている人だけだ。
再現性だけでなく、
たった1回きりのことをkagakuすることができたなら、
どんなにいいだろう。

メモ 魚とかチリの事

またまた、まゆみさんのブログに付けた自分のコメント。
なんだか最近、自分のブログなんて必要かねって気分。
一か所書き損じがあったのでそこだけ今回直しました。
 

チリ産の養殖塩銀鮭はウチもしばしば買って食べていたので、もう買わないようにしようと思います。なんかのサイトに、チリ産サーモンは年3回(or~6回)が上限と書いてありました。

日本の商社は世界中の魚貝類を買い付けに行っています。昨今の回転寿司の繁栄ぶりはその結果でもありますね。世界の鮭の3分の1を日本の住人が食べています。
ヴェネスエラの友人の話では、南米はヨーロッパ系の移民が富裕層の多くを占めていて、古くからの現地人(言葉が正しくない気がするけど)とは意識が随分違うんじゃないか、という事でした。チリワインもロスチャイルドのアルマヴィーヴァが評価されてからめきめきシェアを伸ばしていて、チリのその経済的な成長ぶりが、なんとなくあぶなっかしい感じがします。反対意見が多数だとしても、2025年までに原発建設する考えを示してフランスと交渉していて、研究炉はすでに2基あるそうです。

チリは高い山々があり、ミネラル豊富な川の栄養が流れ込む沿岸は小さい島々並ぶフィヨルドで、恵まれた漁場のはずでした。実は結構、漁場としては日本の三陸に似ているのかな?って思ってるんです。地震の多さも似ていますね。南北に長いっていうのも似ています。だから、日本の商社が目をつけやすい国のような気がします。太平洋を挟んでちょうど「裏」って感じがする。

日本の養殖の歴史は古くて1000年以上。でも淡水魚だけだったみたいで、海水魚の養殖は昭和3年のハマチが日本では初だそうです。民俗学の本によると、最近まで、マタギが鮎などの淡水魚を温泉場に売りに行ったり、山間部の民が塩分補給するために塩漬けの魚や丸干しが流通するという感じで、実は昔も魚を常食する習慣は一般的ではなかったんじゃないかな、と思います。

ファミレスや給食でも使われているという白身魚ナイルパーチ。イギリス植民地時代、ビクトリア湖に外来種である肉食ナイルパーチを放ち、草食系の魚しかいなかったビクトリア湖の生態系を破壊していると言われています。これに関したドキュメンタリー映画に「ダーウィンの悪夢」があります。私は見てないけど。

でもこの映画も随分嘘があるらしく、自然派活動家とか映像作家も評価が欲しくて作るから、本当のことだけではないみたい。ビクトリア湖を利用しているのは実は商社や企業だけじゃなく、それらに反対を唱えている人も同様なんですね。
悪いことに、後者の左翼系の人たちはデータや数字に弱いから、半分が本当のこと言ってても、半分がいい加減だから、結局は山師みたいに映ってしまうし頼りない。

もちろん、ナイルパーチや養殖魚は減った方がいいのは事実だし、食べない方が良いに決まってるんだけど、それとは別にどっちの意見にも入れ込み過ぎない姿勢っていうのは大事かなって思います。捕鯨の問題もそうですね。世界中の伝統漁業が破壊され、養殖魚が市場の半分以上になりつつある中で、日本の伝統的捕鯨という立場もナンセンスだし、鯨だけを別格視する活動家もナンセンス。これも本当の問題から目を逸らすための装置なんでしょうね。

最近ニュースをにぎわすバナメイ海老の高騰もそう。ブラックタイガーよりも生産性が高くて(=生育が早い)、過密と病気に強いっていうふれこみでバナメイ種が主流になりつつあったんだけど、やっぱり病気になった。

ちなみにブラックタイガーは養殖だけど、網で囲い込んでいるだけで餌をやらないのでほぼ天然です。ただむきエビになっていると薬品を使っているので、天然の殻付き冷凍有頭エビ=ホワイト種がスーパーで売っている中で1番安全かと思います。
鮭は紅サケだけ養殖はなく、全て天然です。日本では取れないので、北海道産となっているものは北海道の漁船がとっただけで、カムチャッカ産です。アメリカ産となっているものはアラスカ・ブリストル湾産です。脂はカムチャッカ産=ロシア産の方が乗っています。
時鮭は白鮭で、秋鮭とものは同じです。秋鮭が産卵と同時に美味しくなくなるので、産卵時期は秋鮭と呼び、それ以外の時期を時鮭と言います。秋鮭時鮭は北海道産や宮城産が主流です。原発以後、天然ものにたいする判断も難しくなってきましたが、大きい魚は大抵回遊魚なので、西の産地であっても難しいです。鯵は黄鯵は回遊しない地鯵です。九州産の黄色い鯵はリスクは低い方だと思います。

以上、スーパーの鮮魚部門のパートの意見です。

| 森 | 2013/12/12 20:38 |

メモ

以前まゆみさんのブログに書いたコメント。メモとして。

以前、まゆみさんも書かれていたような気もしましたが、311以後、定期的に読んでいる栄養士の方のブログには以下のように書いてありました。

「フィチン酸はカルシウム、マグネシウム、鉄、亜鉛などの必須ミネラルと結合することで吸収を阻害するので、フィチン酸が含まれた食材(大豆を含む多くの豆類、穀類)を食べる時には前処理を十分に行うこと」

豆乳もフィチン酸が多いみたいです。
フィチン酸についての先のブログの別の記述はこちら↓。
http://nutmed.exblog.jp/8779106/

大抵の栄養士的な考えって西洋的な栄養学であんまり好きじゃないのですが、この方の文章を読んでると、栄養学って単なる足し算なんかじゃないんだなと改めて思います。もちろん私には、この方の文章の中身を精査するほどの知識はないのですが、その人の体質とか状態、食べ合わせ、摂取期間まで考えると、すんごい複雑な数式よりもっともっと難解なことなんだろうなっていうのだけは確信します。
調べれば調べるほど、これ食べてたら大丈夫!なんていう気持ちにはなれなくなります。

| 森 | 2013/11/07 15:47 | URL | ≫ EDIT


私が書けそうなことってそんなになくて、食餌学的なことでいけば、本当に受け売り状態なので、ちょっと脱線して書いてみます。

モグラではなく、野菜の皮を残したのはネズミです。以前、こちらでまゆみさんが記事を紹介されていた記憶があるのですが、傷ついた茄子は抗酸化作用が倍加するというような内容のもの、ありましたよね。そんな抗酸化作用がたっぷりでポリフェノールたっぷりの皮なのに、ネズミには不要だってことですね。
ちなみにモグラはミミズを食べる時、ミミズをひっくり返しながら食べるそうです。ミミズが食べた土や泥を下へこしながら、まず頭を食べ、ひっくり返して後ろを食べ、土や泥をミミズの真ん中に寄せてそこを残すんですって。野菜に付着した多少の泥や土もミネラルだ、なんて言って良いことしてる気になっている人に教えてあげたい。

直也君の畑のネズミの健康状態や暮らし向きは関知しないので、抗酸化物質なんて必要ない?若いネズミのケースなのかもしれないし、直也君の畑では害獣対策なんて一切してないので、ネズミにとっては食べ放題状態ですっごく飽食状態なのかもしれません。だから一概には言えないんですけど、ただ「一物全体だから食べるべき」だとか、「皮まで食べるのが自然だ」とかっていう理屈は少し強引過ぎる気がしますね。でもマクロビの内部でも、マクロビのあれを食べてもいい・食べちゃいけないっていうマニュアル化の風潮を、まるでミクロビオティックだと言って自己批判する声も出てきているようです。そういうのいいですね。

ポリフェノールは植物の苦味にあたるらしいですけど、緑茶を喜んで飲むのは(確認されている分では)ヒトだけだそうです。あの苦味を飲めるのは中毒性なんだって聞いたことがあります。寿命の長い生物が苦味を好むのかもしれないな、と妄想。寿命の長い生物っていうのはつまり「ゾウの時間 ネズミの時間―サイズの生物学」によるところの、動きの遅い脈拍の遅い生物ですね。ヒトでも小動物系の人は苦味成分はあんまり要らないのかも。

あと、関係ないのですが、よく「昔の人ってよくこんな食べ物が食べられるって知ってたよね」なんて言いますよね、毒性のあるフグとか。それで「ヒトって何が食べられるか自分で人体実験して学習してきたんだろう」って言いますけど、全然そうじゃなくて、私はずばり、ヒトは犬に毒見役をさせてきたって最近思っています。「犬も食わない」って言いかたしますしね。
犬は人間の相棒で、狩りを共にし、なんて言うけど、同時に「あいつは警察の犬」だとか犬を使った差別用語はたくさんあります。以前、ニュースで、故池田満寿夫氏が「飼い主が与える以外の餌は絶対に食べてはいけない」としつけていた飼い犬2頭を山で逃がしてしまい、数日後犬を見つけた時には、本当に何も食べていなくて餓死していたっていうのがありました。
現代、特に西側の人々もこの犬たちと同じような状態じゃないでしょうか。自分で食べるものを自分で考えられない奴隷のようなものなのかもなって。人類が総毒見をさせられているのかも。そういう意味で、「これは絶対体にいいよ」も「人体に害は認められない」も同じ質のものですね。そういうのは鵜呑みにしない。それが大前提かな、と。同時に、そういう類の事、ひとに言いたくないな。

お粗末な内容で相済みません。また何か思いついたら書きます。

| 森 | 2013/11/07 21:36 | URL | ≫ EDIT

「ゾウの時間 ネズミの時間―サイズの生物学」っていう本と、その書評を書いた池谷裕二さんの意見が私の中でごっちゃになっているのですが、殆どの哺乳類の寿命は心拍数○回目(忘れました)と相場が決まっているそうで、小動物になるほど心拍速度は速いし、動きも機敏で短命。でも寿命を迎えるまでの心拍数はゾウもネズミも同じなんだそうです。
その心拍数○回目っていうのを人間に置き換えると40歳前後らしいです。だから40歳以降は人間の技術が得た延命の時間なんじゃないか、と。そう考えると、なんとなく40歳以降はあんまり食べなくても生きていけるんじゃないかって気がするし、食べ物以外を糧にして生きていかなくちゃいけないのかなという気がしています。それを見つけるために勉強って必要なのかな、と。

皮を食べるかどうかっていうのも、日本みたいな水資源が豊富なところだと丁寧に洗浄できるけど、野菜を洗う水が制限されているなら、皮をむいた方が早いかもしれない。それをして「作物を無駄にしている」とも言い難いですね。
というか、作物と灌漑技術や水資源の開発っていうのはともに進んできたので、作物を本来どう食べるかっていう問題は、作物単体から紐解こうと思っても不毛なのかもしれない。地球の水資源の6割強は農業用水に使用されていて、地球上の人々の7割くらいの人が水不足に困っている。でも困っている人びとの何割かが、西側の暮らしや衛生概念を押し付けられたためにそう感じているのかもしれない。

多様性が保たれた生態系なら、生物が食べる時間というのは捕食者によって命が1番狙われ易い時間。だから無駄にむさぼり食べたりはしないだろうし、必要なものだけを食べるでしょうね。だからと言って人間みたいに、保身のためにその多様性を破壊しない、それが1つの知性であるのは間違いないかな、と思います。

| 森 | 2013/11/08 08:02 | URL | ≫ EDIT

娘のスカート

娘のスカートを2枚とベスト?を1枚作りました。
娘の小学校の音楽会にちょうどいいと思ったけど、
クラスTシャツを着るそうなので、当日着られるかはわからない。
PA110572

PA110573
↓ベストとセットアップで。
PA120575
PA190578
意外といいなと思うスカートは売っていない。
トーカイの会員価格で1mの布地2枚とゴムと糸で1900円位でした。

参考にした作り方の本は、
結構昔に出たらしい直線縫いの女の子のスカートの本。
図書館で借りました。
画像のせようかと思ったけど、ネットで検索しても出てこない。
珍しく渋谷系ではない良い本だったのにな。

ヴァイオレンスのためのヴァイオレンス

先日、松本の花月ホテル向かいに新しくできた、
想雲堂という喫茶店に行きました。
コーヒーも美味しかったし、置いてある本が懐かしいものばかり。
どっかの喫茶店みたいに、左翼系とか美学系だけじゃなく、
フィールドワーク系も多いのが良い。
カウンターのご主人の近くに、民俗学系の本を寄せてあるのが
とくに好ましい。

いろいろ懐かしい本を開いてみたけど、
「あー。。。」と絶句したのが詩人の故田村隆一氏の本。
あんなに読んでいたのに。
何故読まなくなったんだろう。
必要だったのはもしかして、実用的なハウツー的な何かとか、
何が正しいか、とかじゃなく、
田村氏のような、絶対的に“方向音痴にならない感覚”だったんじゃないか、と。

田村隆一氏と吉本隆明氏の対談を読んで、
なんだかもやもやしていたものが晴れた気になった。
吉本氏は方向音痴だから迷うんだけど、
田村氏は迷わないんだよね。

なかでも田村氏の話した、
「自分の中にあるヴァイオレンスっていうのは、
ヴァイオレンスに対するヴァイオレンスしかないんだけど、
ヴァイオレンスが絶対嫌だから、それもしない」
というような内容。
結果、自分の行為が誰からも見つけられなくたって、いいじゃん。
フィッシュマンズの佐藤君が言っていたよね。
「誰にも見つからないような詩を書くのが好き」って。
佐藤君は反権力と歌わなくたって、いつだって反権力でいられた稀有なひとだ。

祭りはあってもいいけど、祭りに参加するっていうのは別問題、
っていう田村氏の指摘も素晴らしい。
参加しないっていう工夫は江戸時代までならずっとあった、と。
田村氏は祭りの協賛金も「精神病だから」とかで払わずに済ましていたらしい。

世間にどう思われようと、
やりたくないことはしない。
やらない工夫。
誰のものにもならない人生の工夫って、
強靭な精神でないとできないんだろうな。

近況報告のようなそうでないような 

先日、ハイファッションモデルのTAOさんとジャズミュージシャンの菊池成孔氏の
対談をテレビで観た。かなりおもしろかった。

菊池氏は多方面でマルチに活躍されているらしいのだけど、
「どこにそんな時間があるのか」とTAOさんが尋ねたら、
菊池氏は「ネットを1日30分以内にしたら時間は作れるよ」
と言った。
なんかこの発言は、道理を得ているのだが
かたや、この発言から枝葉を分かつようにして、
いろいろな問題が提起されている気がした。

以前勤めていた蕎麦屋の女将は
インターネットを卑下していた。

なんか古い、頭の固い人なので、
現実の日常とヴァーチャルな世界を積極的に分断して考えたいんだろう。
歴代総理や経済界のおえらさんと接してきた女将のような人にしてみれば、
「なにをネット上で発言したってそんなもの戯言よ」ってなもんだろう。
こういう時代錯誤な誤解というか偏見っていうのはけっこう大多数なんだろな。

ネットはなんでか知らないけど多くの人が匿名でやる。
自ら率先して無名。
だけど有名には、なりたい。
これって気持ちが無整理状態なのかな。
でも私だって無整理状態なまま生きているわけで、
エラソーなことは言えまい。
ネットは、その無整理状態までが露出してしまうのが、
また生々しくて、いいところでもあるんじゃないか、と最近思う。
よっぽどネットの方がヴァーチャルじゃなくて、
リアルっていうかアクチュアルなことなんじゃないか。

匿名でやる人がいる限り、上の女将のような偏見は消えないんだろうけど、
女将の論理でいくと、人前で喧嘩するよりは仮面夫婦でもやって
「理想の夫婦」キャラで儲けた方がいい、てなことになっちゃう。
でもそれってなんかただの嘘っていうか隠蔽。

TAOさんにしても、メディアで露出する仕事なので、
メディア=文字の歴史の世界で名を残す=「露出」できることが
彼女にとっての良いか悪いかの基準なんだろう。
別にTAOさんだけでなく、女将にしたって、大抵みんなそう。

お城や寺社仏閣を見て回るのがブームで、
城マニアさんが築城した人=殿様を熱心に褒めたりするけど、
いやそれ築城した人じゃなくて、築城にお金出しただけの人でしょ
ってことがすんごく多い。
大工の名前や労役に従事した人の名前なんか残んないからね。
無名=文字の歴史に名を残さないでも、
有名なひとよりずっと立派な人、立派な仕事をした人はたくさんいるわけだ。

だからTAOさんは菊池さんの仕事を評価してはいるんだけど、
文字の歴史に名を残している仕事の方がすごいっていうのが基本にあるんじゃないかな。
「時間はある」「ない」って言うけど(私も)、
時間ていうのはみんなにあるわけで。

人から評価されるために費やした時間だけが有意義な時間であるって発想が、
なんか世界の良くないものを生み出している気もする。
ネットっていうのは確かに著作権がかなりアバウトだし、
費やす時間、文字数に対する対価っていうものがあんまり産業化してない。
これがすごく産業化したら、
ネットがヴァーチャルってイメージは消えるんだろう。
でもそれってなんかセコイ。
なんかトリクルダウン神話みたいな?

以前、ジャンリュックナンシーの本の感想でも書いたけど、
対価のない仕事=シャドウワークって鍵だと思う。
政府にとって1番嫌なのは、お金にもならないことに時間を費やせる人、だろうし。

ネットは共有の世界。
手柄は結局、誰か1人だけによるものじゃないってことが明白にされる世界。
ネットの時間を短くすればって言ったって、
ネット以前はそれが普通の世の中だった。
でもだからと言って、今より良い世の中だったとは言えない。

著作権がなかったり、自分の手柄にならないシャドウワーク大いに結構。

私のことですが、夏は野菜が沢山あって、
やってみたら毎日2時間以上は台所に立ってないと
野菜を消費できなかった。
パートから帰ってほどなく台所へ。
朝6時出勤なので夜ご飯食べてお風呂してほどなくして寝る感じ。
よってネットはほとんど見れなかった。
でも冬は見ると思う。
それでいいんじゃないか、と思う。

ネットも放射能も予防接種も、
何事も踏絵のように機能されては嫌です。

memo

クラのつく地名
クランボ・クラシシ=カモシカ≒羚羊の住む場所のこと。
狩猟時代の地名。

父へのメール

今まさに、東北へ縄文の旅に出ている父へ、
先日送ったメールを記録。

メールありがとうございます。
 
縄文の農耕の本を読んでいるのも、
今や気分だけはすっかり農家なので、
農を基軸に本を選んで読んでいるにすぎないのですが。
水田稲作以前の日本とはどんなものだったのかに関心があります。
 
実際問題、ウチの畑で部分的にやっている無農薬・無施肥というのは、
それイコール有機農業というわけではないので、
(つまり、戦前の慣行農法がみんな有機農法だったように、
 今現在の一般的な有機農業のルーツは、慣行農業なわけですから。)
このやり方を、現代までに栽培化・改良化された作物に適用すると、
収量の問題で非常に難しいです。
 
そこで昔の農業はどうだったのか、
農民の暮らしはどうだったのかを調べだしたのです。
 
きっかけは宮本常一氏の「忘れられた日本人」を読んだこともあるかと思います。
柳田國男の民俗学は「水田=日本」的な一元的な価値観がありますが、
(故に熱烈な支持者がいて、高く評価するに過ぎないと思います)
宮本氏の民俗学はもっと多様な日本をとらえているかと思います。
縄文時代も水田遺構がなければ稲作がなかったとする研究者も根強い。
陸稲と焼畑の文化が無視されています。
 
農業の歴史は収奪の歴史とも重なるわけで、
農業史=栽培史じゃなくてむしろ労働史に近いと感じています。
信長と秀吉が検地をやって石高制が採用された近世以降、
水田稲作=日本という価値観が押し付けられたと思います。
検地以前は農地面積や反収は、
農民のざっくりした申告ですんでいたようです。
この頃は「国破れて山河あり」が成立していた。
政治に巻き込まれない農民という層があった。
今は安倍公房が指摘したように、
世界的にも「国破れて山河なし」の時代です。
 
弥生時代の水田も、焼畑で、
毎年場所を変えて作っていたようです。
弥生時代とて、
水田=農地に人間が固定される、
という図式では決してなかったように思います。
焼畑であれば肥料があまりいらないのに、
検地が進んで農村が固定化し、
良くて5公5民の割合で収奪もされると、
反収をあげることを考えざるを得なくなるでしょう。
収量をあげた結果、連作障害が起きて地力が弱まると、
肥料が必要になるということになります。
 
ここ波田も江戸時代は刈敷の産地であったようですから、
主に松本平の田畑にいれる肥料を作るのが主産業だったと。
畑は焼畑のことで、畠は焼かない畑のことです。
こうして日本は畠と水田を中心に機能するようになったと思います。
まさに信長から中央集権的な近代は始まったんでしょう。
信長と秀吉は平野から出た武将ですが、
それ以外の武将はほとんど山谷出身です。
ウタリの農耕も粟や稗が中心でしたが、
そういった山谷を中心にして栽培された作物と暮らしが衰退していったのも、
近代かと思います。
 
戦後の青森の農民がいうことには、
「津軽の森は食べ物のデパート」だったそうですから、
江戸時代の東日本~東北の大飢饉は、
水田稲作を強要されなければ起きなかったと思います。
 
現代は、
武士だとかサムライというのを褒め言葉として使っていますが、
少なくとも江戸時代以降の武士はただの役人だと思っているので、
なんにも良いようには思えません。
江戸末期の日本人の人口は3300万人で、
内300万人が武士と公家です。
300万の働かない人々を3000万人で支えていたわけです。
 
西行や芭蕉といった、どこへ行っても大歓迎で宿もあったくせに
さもつらい旅をしたような風を吹かした輩よりも、
今は一遍や菅江真澄のような旅人がいいな、と思います。
 
脱線しましたが、これにて。
 

メモ 

まゆみさんのブログに付けたコメント

直也君が畑をやっているのを間近で見ていると、作物が苗になる頃までに栄養や環境面で苦難があると、決定的に食味に影響するような気がします。「三つ子の魂百まで的」な、すごく重要な時期だと思います。でも、有用性をあまりに強く考えて農作業をするとしたら、私にはちょっと窮屈ですね。雑草に対しては全くの放任で、栄養素なんて考えてやらないけど、作物が食物だから追肥とか考えるわけだし、栽培技術っていうのはあくまで人間の側のものであって、植物全体にとってはどうなんだろう。生長過程では動けない植物だからこそ、ネットワークというか、知っていることはすごいんじゃないか、と思います。近々「植物はそこまで知っている」って本読んでみたいと思っています。

農業の歴史は収奪の歴史とも重なるわけで、農業史=栽培史じゃなくてむしろ労働史に近いと感じています。中世ヨーロッパもペストで農奴制が崩壊して、かなりの農地が人手の要らない牧地に変わったらしいです。ヨーロッパもそこまで肉食じゃなかったかもしれない。それだけ、食べ物と権力って強い関係があると思います。江戸時代は良くて5公5民の割合で農作物を納税していたとか。日本列島の水稲の歴史は多く見積もって3000年。つまり3000回しか水稲を実践したことがないってことだけど、これはすごく少ない数(練習3000回しかしてないプロっていないと思う)。
その内、納税を考えないで(規制をされずに自発的に)水稲やれたのは実際問題、何回なんだろう?って思います。陸稲じゃなくて水稲になったってこと自体も、規制の結果かもしれませんし。だから自発的な作物との関係史ってまだ始まってないんじゃないかなって気がします。

例えば、普段農薬いっぱい使う農家も、自家消費用の田畑はかなり減農薬をしています。実際、労働として作る作物と、食べる作物が違うってことなんですよね。そこに大きな問題があると思います。
あと、近所にトマトジュースメーカーと契約しているトマトの畑があるんですが、結構手入れもいい加減で見た目ワイルドです(もちろんウチに比べると草も全然ないけど)。生食用に出荷するトマト畑もそのくらいワイルドだっていいんじゃないかって思うくらい。でも、ジュース用みたいに元の形がそんなに買い手から要求されないなら、慣行農家もわりとワイルドにやれるんだと思う。だから農家は、誰に食べてもらえるのか(どこに出荷するのか)っていうことに非常に依存して作っているのが現状だと思う。誤解を生みやすい言い方ですが、公が規制してきたのを、今は消費者が規制しているって感じかな、と。スーパーの売り場は、多くの私たちの頭の中身そのままってことですね。

今は、お肉や魚、加工品にお金を払うのはいいけど、野菜に高いお金を払う気になれないって人がとても多い気がします。でも民俗学の方が言うには、昔の農家の人って「自家製品は全部タダ」って意識が強くて、都会の人が何か売ってくれって言っても値段を付けられなかったらしいんです(だから「民芸運動」の人たちはタダ同然でかなりの民具を押収≒収集したんじゃないかな)。江戸末期の日本住民3300万のうち3000万が農民ということは、今の日本住民のほとんどが元をたどれば農家出身なわけですから、野菜に高いお金を払うっていう文化が浅い理由もまぁ、わかる気もするのです。室町のころは、古米が新米の2割増しの値段で流通していたっていうし(古米は水を吸うので炊くと2割増しの量になるから)、近年まで米の品種だってもっと多様で基本ブレンド米だった事からすると、今は野菜に対する価値観がすごく狭くなっていると思うし、結果、収量の低い農家を支える層が小さいから、単価安値&収量を追い求める農家が大半になるのも仕方がないかな、と。

とにかく、作物との関係を変えるには、それを食べる側が変わらなくちゃいけないと思います。

私がいいなと思うのは、もちろん各人が自分で畑をやるのが理想ですけど、そうでない場合、個人的に農家とある面積を年単位で契約を結んで、収量を分けるってやり方です。リンゴ園なんかではもう進んでいることですけど、自分で種まきとか、収穫とか要所要所で参加する。それで、できたものを引き受けて食べる。作物との関係が、降ってわいた目の前の商品(点)がいいとか悪いとかの選別になるのではなく、実体のある自分の暮らし(線)そのものを考えるものであってほしいと思います。生まれてきたものを引き受けるっていうのは、子供も作物も同じかな、と。都市生活者の方がメニューを決めてから材料を買いに行くのとは全く違うと思います。

なんか長いし、説教臭くなってきたのでやめます。

| 森 | 2013/07/17 11:34 | URL | 

踊る阿呆のその後

随分前のことになってしまったけれど、
娘の参観日の授業の後、学級PTAが行われて、
「松本ぼんぼん」への参加に関してのミーティングが
担任教師と保護者の間で行われました。

今回は私ではなく、直也君に参加してもらった。
直也君曰く、
あるお母さんが
「こないだ○○ちゃんのお母さんが言われた通り、
ゴミの問題などもきちんと子供に話してください」
と私の意見に対する賛同の声を上げてくれたそうだ。

直也君もトイレが不足している話などマナーのことを話してくれて、
担任教師も協力的な姿勢であるという。

なんだ、孤立していなかったかのかー、ととてもうれしかった。
孤立しているという錯覚は被害妄想を生みますね。

賛同してくれたお母さんは、笑われたと私が思っていたお母さんで、
笑っていたのは、その方も共感してくれていたからなのだろう。
その方のお子さんは牛乳アレルギーで、
肌に牛乳のしずくがとんだだけでアウトらしい。
とてもはっきりと要望する方で、
やはりそのくらい強い人じゃないと、子どもは守れんなー、と思いました。

何でも意見は、言わないより言った方がいい、
ということを改めて学んだ気がしました。


踊る阿呆に見る阿呆

娘の通う小学校では、
各学級が年度の目玉として何をやるか決めるそうなんだけど、
それが今年、娘のクラスは
担任教師の意向で「松本ぼんぼんへの参加」になりました。

私は松本ぼんぼんが大嫌いです。見るのもいや。
歌も酷いし、踊りにも何のエスプリを感じない。
私は松本ぼんぼんは「祭り」じゃないと思ってる。
「聖」なんか一切ない、ただの「俗」。
失うことがないイベントは「祭り」じゃない。
祭りはリスクがあってこそ。非生産・脱生産のもの。
職場のストライキだってなんだって、
失職するかもしれないリスクの上でやるもの。
反原発のデモはノーリスクだけど、実は職場ストの方がハイリスク。
ヨーロッパのストライキの様子をニュースで見るけど、
あっちの方がよっぽど祭りだと思う。

ぼんぼんは農耕儀礼とも一切関係ない。
ただの乱痴気騒ぎ・ばか騒ぎに過ぎないと思う。
サッカー日本代表の試合の後に、
渋谷のスクランブル交差点で大騒ぎしてるのと全く変わらないと思う。
ナイティナインの岡村君は
「(サッカーが本当に好きなら)黙ってみてるわな。
ワールドカップ決まった瞬間。あんなとこおれへんがな。おれへんがな!
アホしかいてへんやんあんなとこ、騒いで…」
言ったけど、本当にそう。

昔働いていた喫茶店は、ぼんぼんの連が目の前を通ったんだけど(今はコース外)、
店の入り口に座りこむし、トイレだけ勝手に使いに入ってくるし、
ゴミは捨てていくし、たばこのポイ捨てしていくし、
去年働いていた蕎麦屋では、鉢植えが傷んだ。
禁止されていても、踊りの連には酒気帯びの人が沢山いる。
そんなのみんな暗黙の了解。
とにかくお行儀が悪すぎる。

イベントは、参加した人すべてに連帯責任があると思う。
ゴミやたばこの吸い殻のポイ捨ても、
参加するなら、6歳の娘もその責を負う必要がある。
そのくらいのつもりじゃないと参加する意味がない。
地元の商店の人でぼんぼんを嫌がっている人は結構いる。
そんなイベントに有志参加ならいざ知らず、
学級として参加することに何のメリットがあるのだろうか?
輝かしい6歳・7歳の子供の顔に泥を塗るのに等しくないか?

学級として何かをするなら、
ぼんぼんの終わった後の清掃活動をしたらいいんだ。
その方がずっと勉強になる。
いかに大人がどうしようもないか、よくわかるだろうし。

イベントに参加して何かやった気になる、
1人でできない馬鹿騒ぎも集団ならできる。
それは戦争を肯定するのと同じことだと思う。
個人はヒトを殺しちゃいけないのに、戦争で大量殺戮するのは許される。
それとおんなじ。

土曜日に親子親睦会があって、
担任がみんなの前で
「いろんな意見があると思いますが、松本ぼんぼんに参加したいと思います」
と宣言した。
私は挙手をして名を名乗って、こう言いました。
というかこれしか言えなかった。
「私は松本ぼんぼんが大嫌いで、行くのも見るのもいやです。
昔、連の通る前の店で働いていたことがあって、
ゴミや吸い殻のポイ捨てされるし、トイレを勝手に使われるし、
とにかくお行儀が悪いからです。
植え木を荒らされたり、地元の商店の人たちも嫌がっている人はたくさんいます。
そんなみんなが歓迎していないようなイベントに
6歳・7歳の子供を参加させてもいいのか、と思います。
とにかく、ゴミのこととか、嫌がっている人もいるんだってこと、
そういうお祭りの裏側のことも同時に教えてもらいたいと思います。
光の部分だけじゃなくて、影の部分、その両方教えないと、
上っ面ばかりでは何の教育にもならないと思うんで、
先生よろしくお願いします」

先生は曇った表情をしていました。
親御さんたちもビミョーな空気。
笑っている人もいました。

先生は参加の最終決定を親睦会で宣言する前に、
既に子供たちにぼんぼん参加を話していました。
娘も、娘のクラスメイトももうやる気満々です。
娘は参加したいし、友達から一緒に踊ろうって言われたそうです。
するいです。
担任の発言の影響力を利用しています。
クラスでやるって言い出したら、
仲間外れにされたくない子供たちはやるに決まっています。
これはある意味、私たちにとっては先生によるパワハラ同然です。

娘が参加したいなら、それを抑えることはしませんが、
非常に不本意な結果になりました。
とても残念で、悲しく、空しいです。
私はワクチン接種よりぼんぼんの方が嫌なんです。

本当に本当に、心の底からガックリしました。
決定的に犯されたような気持ちです。
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