ノ ー ト

好 き な 読 書 を 中 心 に 考 え 中 を 記 録 す る ノ ー ト

掃除

勤めている蕎麦屋では、
毎朝、店前の掃き掃除をすることになっている。

南隣のお店は、いつも広範囲に掃き掃除をしてくれるで、
何の心配もいらないのだけど、
北隣は1階が商店ではないので、掃き掃除をする人がいない。

最近は落葉がかなりあるので、掃いているのだけど、
時間がないとき、北隣より先を掃くものかどうか、
一瞬だけど躊躇する。

だけど、
自分の店の前の落葉だけ取り除いて
隣は掃かないんだったら、
見る人が見れば、「自分の店の前だけきれいにしている」と思うだろうし、
それはかえって美しくないだろう、と思うから、
一応ふんばって北隣より先を掃くことにする。

だけどもし、
隣の落葉をそのままにしないと間に合わないような忙しいときは、
いっそこちらの店の前も落ち葉だらけの方が
美しいのではないだろうか。
落ち葉は決してゴミではないから。

同じように店内でも、
蜘蛛が引越しした後の蜘蛛の巣は取るけれど、
蜘蛛がいる現役の蜘蛛の巣は、
そのままの方が美しい気がするし、
それが美しく映えるお店にいると思う。

そういうことを考えながらする掃除が、とても面白い。

本を開いたら

“開いたページが、その日のあなたへの言葉です”
というような本を見せてもらって、
昨日開いたページに↓の言葉が。

「まず自分を信頼することから始めなければなりません。
自分を信頼していないと、
自分の良さを自分に証明するために、いつも他人に
頼らなければなりません。
しかし、決して満足しないでしょう。
あなたはいつもどうすればよいか他人に聞き、
同時に、自分が助けを求めた相手にいつも腹をたてるでしょう。」

ひどく納得した。

my heart belongs to me

ある方に言われた大きな1言。

「その人は神様のお使いかもしれないけど、いいね、
でも決して神様じゃないんだよ。
神様は1人1人にいるもので、目に見えないものだからね。」

私にとって、
人も本も(宮澤賢治やリルケにしても)、一切の出来事や何もかも、
それらは“神様のお使い”なのだ。
でも、それは決して“神様そのもの”ではない。
答えではない。
自分への答えはやはり自分で出すものだ、と知った。
他人が稼いだお金では、ひとは決して幸せになれないのと似て。

私は神様のお使いを、神様そのものだと思っていたのだろう。
神様のお使いは私に「答え」をくれるわけではない。
くれるのはあくまで「きっかけ」なのだ。
でも、その「きっかけ」がとても貴重で、
同じ場所にいながら旅をさせてもらうようなものではないだろうか。

(ヒトの進化が、移動と交易=コミュニケーションによってなされたならば、
 ヒトとは旅をしなければいられないものではないかと最近思う)

神様のお使いに答えを求めるのも、
神様のお使いに褒められた気になったり、
そしられた気になるのも、
そもそも全て勘違いだった。
そう思うようになってから、
色んなことへの依存心が薄らいだ気がする。

私の答えは私が私に出さなければ、
それは答えではないのだろう。

(もちろん、この「神様」ということばは便宜上のもので
 もっとふさわしい言葉があるかもしれません)

My Heart Belongs To Me
本文とこの曲、全く関係ないけど、この曲の解釈が変わりました

いじめ

(A)いじめ、
窃盗を強要したり、親のお金を持ち出させたり、
人前で自慰行為を強要したり、暴力をふるったりするらしい。

(B)決して
「失われた時を求めて」を3日で完読してこいとか、
「革命」を1週間で弾けるようになれとか、
100メートルを5秒台で走れるようになれとか、
この手の無茶な命令は決してしないんだろう。
実際、この方が命令される側も完遂できないから、
よりサディスティックなのは、こっちの方だ。

と思うと、
やはり「いじめ」というのは支配欲であり、組織欲であって、
サディスムとも少し違う気がする。

(A)で命令されるようなことは、極端に言うと、
会社で起きていることとさして変わらない気がする。
その内容は、命令する側にもやってできないような行為ではなく、
むしろ、命令する側も同じことをやっていたり、やってきたことだ。
 
 実際の所、一切損が発生していないにもかかわらず、
 お客にキャンセル料を請求するように強制されるし、
 ノルマのために会社の商品を親族に買わさせるし、
 応援団の団長みたいな大声とそぶりで社訓を発声させられるし、
 失敗したら上司に無視されたり罵られたりする。

プルーストを完読したり、ピアノが上手くなったり、
足が速くなると、
その人は、もう、いじめる側の枠では収まらなくなるかもしれない。

本当に自分にはできないようなことを、相手だけには強要する、
というのではない限り、
いじめとは、予見できる未来しか相手に与えないでおこうという、
「閉じ込め」もしくは「封じ込め」の行為なんじゃないだろうか。
そして同時に、加害者はその自らの枠の中に囚われてしまう、というか。
そういう意味ではマゾヒスムなのかもしれない。

つまり加害者は、
被害者の屈辱を予定しなければ(もちろん一方的な予定だけど)、
加害することを通じて興奮は感じ得ないだろうから、
そういう意味では相手と“同位”に身を置いている投影という行為なんじゃないか。

これはどんな群れや組織の中でも、多かれ少なかれ起こることだと思う。
仲が良いと思っている友人関係の中にだって、日常茶飯に起きているだろう。
友人が自分にとって都合が良い振る舞いをすることを望むことは、
どちらかというと、この「支配欲」や「組織欲」に匹敵するんじゃないだろうか。

いじめとはどこか「可愛さ余って憎さ100倍」であって、
自己と自己投影先の相手に対する、想定される・共有される未来への、
自己嫌悪と倦怠なのだろう。

どんなときでも、相手が素敵になる要求ができるようになればいいと思う。

A氏に

私の父が東北へ今日から旅に出かけた。
火焔土器や遮光器土器などを見に縄文遺跡を回る。
誰かも言ってたけれど、
この列島の人は自然を謳う以外は表現方法はないんだ。
自然を観察することが肝心要。
だけど「自然は自然を模倣しない」(らしい)。
結局、種や形の違いは「創発」の結果そのものだからなのかな。

蝶と蕎麦

先日の私の誕生日にサナギから羽化したキアゲハ↓
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最初、ドウダンツツジについている蛾の幼虫を、
勤めている蕎麦屋さんで娘がもらったのだけど、
ネットの図鑑を駆使しても、何の蛾の幼虫か特定できなかった。
直也君がセリなど、その他の草を投入してみたけど、
全く食指を示さないので、娘に話して飼うのを断念。
私たちが一概に呼ぶ「蝶や蛾の幼虫」も、
それぞれ種類によって餌は全然異なる。

その代わりに「これなら餌がわかるので」ということでキアゲハを飼うことに。
キアゲハの食草はせり科の植物や人参、パセリ、フェンネルなど、らしい。
直也君が田んぼからセリを取ってきてくれた。
でも、このキアゲハは夕方に羽化してから飛び立つまで、1晩かかった(多分)。
なかなか羽が乾かなかったのだ。
飼育器にラップをかけて飼っていたから通気性がなかったわけではないだろうけど、
この時期は梅雨や台風があって、外では風が強い日が続いていたので、
外にいたらもっと通気性があったんだろう。
こんな時に羽化するキアゲハは、
その風の吹き方を想定していたんじゃないか、と思った。
サナギの中だって完全な密閉空間じゃないだろうし、
サナギの状態でも多少風を受けている必要があったのではないか、と。

やはり、生き物を飼うのは控えよう。
不自然の中で飼っていても、自然は一向にわからない。
飼うと本当の意味での観察からは遠のいてしまう気がした。

ちょうどシナジェティクス研究所の梶川泰司氏のブログに、
以下のようなテキストがありました。
「青虫」って概称は、「雑草」という概称に等しい。

全世界について

「キャベツにつく青虫はキャベツが全世界だと思っている」
ーーーーーーーユダヤの格言

この格言は動物行動学を反映していない。

もしキャベツが全世界ならば
モンシロチョウは産卵のために
ミカンやサンショウではなく
キャベツを選ばなかっただろう。

事実、アゲハチョウの幼虫は
キャベツの中では
何も食べられないので餓死する。

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↓の写真は、
茹でて残った蕎麦に少量の小麦と水と塩を加えて、
フライパンでノシて焼いたもの。
ごま油で焼くと、より美味。
蕎麦屋の女将さんに教わった食べ方。

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メモ

http://kenko100.jp/news/2012/07/11/02から。削除される前に。

全文転載開始
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やっぱり母は偉大? 声と心音で早産時の健康状態が改善

米研究

母の声


 早産児の場合、新生児集中治療室(NICU)で一命を取り留める確率は高いものの、NICUは子宮と全く同じ理想的な発育環境というわけではない。米ブリガム・アンド・ウィメンズ病院新生児研究所のLaura Doheny氏らは、NICUに入院した早産児に母親の声と心拍音を録音して聞かせると、無呼吸や徐脈などの心肺イベント(心臓や肺に関する事故)の発生率が減ったとの研究結果を、英医学誌「Journal of Maternal-Fetal and Neonatal Medicine」(電子版)に報告した。

在胎期間33週以上の子供で高い効果

 NICUには熟練した看護者が付き、気温と湿度が調節できる保育器も備わっている。しかし、Doheny氏らは「NICUに足りないものは、胎児が子宮の中で聞いていたであろう母親の声と心拍音だ」と考え、聴覚に働き掛ける処置が心肺イベント発生率に及ぼす影響を検討することにした。

 研究では、同院NICUに入院した早産児14人(在胎26~32週で出生)に、NICUの入院期間を通じて母親の声と心拍音の録音した音声を1日4回聞かせた。

 その結果、母親の声と心拍音を聞かせた場合、通常の病院内の騒音や音にさらされている場合に比べ、全体的な心肺イベントの発生率が低下することが分かった。この効果は、在胎33週以上で生まれた子供で統計学的に著しく低下したという。

 Doheny氏らは「今回、母親の声と心拍音を聞かせることで早産児の心肺イベントの発生率が低下し、短期的には早産児の健康を改善できることが示唆された」と結論。しかし、「症例数が14人と少なく、こうした介入が早産児の健康に影響を与えられると結論するには、さらなる研究が必要だ」と付け加えている。


(編集部)

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転載終了

覚書 ~ 祝祭など

「脳のゆらぎ」が
「夢をみること」または「夢の内容」を左右している
んじゃないだろうか、と勝手に想像。

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例えば、コップを取るという行動において、
「コップを取ろう」と思う以前に
本当はすでに脳がコップを取る準備をはじめているらしい。
つまり、過去の経験によって形成された反射などによって
脳が準備することに、ヒトの意思が追随しているのだとしたら、
物理的には自由意思など存在しないことになるらしい。
けれど、実際にはその行動を「おこさない」という自由はあるらしい。
ヒトにあるのは「自由否定」のみだ、と。
もちろん、他人から制限されない場合のことを「自由意思」とするなら
それでもいいわけだけど、
そうなるとこの場合の「自由意思」とは、単に倫理的な「自由意思」でしかないみたい。

誰かを見て、「あの人、太ってるな」と反射的に思うとして、
太いっていうのはあくまで相対的なもの、つまり、
私にとっての「太い」とは、今までの自分の経験が勝手につくりだした感覚でしかない。
この感覚から自由になるなんてことは、そうそう私はできない。
でも「あの人、太い」と思っても、口に出さない、ことはできる。

だから、反射的な行動を否定するっていうのが
唯一ヒトにとっての自由なのかも...
とこれまた文系的な曲解をしてみたりする。
「やろう」よりも、「やらない」の方が本当は難しいのかも。
太極拳は反射運動の否定だから、なのでなおさら可能性を感じるわけです。

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「祝祭」は多くの人が基本、好きなはず。
普通、社会的なストレスがたまると祝祭は当然必要になるもの。
デモやどんちゃん騒ぎは嫌いでも、祇園祭が好きとか花火が好きとかは、ある。
脳的には、前者に参加している人も後者に参加している人も
同じ脳の部位が活性化しているに違いない。

ではどうして、ヒトは前者と後者を区別できるだろうか。
それはやっぱり日頃からそれらの違いを習慣的に考えているか、
でしかない気がする。
“普段”から“不断”に考え続けていないと、
脳は反射的に祝祭を肯定するだけだろう。

祝祭に進化や洗練などは必要ないように、
多分デモやストに進化や洗練はない。
最初の形が最終形でしかないと思う。
だから、未熟でも稚拙でも最初の1歩だから仕方がない、
今後につながるだろう、というのは多分違う。

数(体制)に対抗するために、
数(デモや署名)を戦術に採用するのだとしたら、
それは同じ方法論の踏襲である以上に、
この限られた時間の中では2度手間だ、ということなのだろう。

私たちの投票は結局「委任状」を出した程度のことでしかない。
私たちは大事なことを決める時に、
進んで欠席をすることを選ぶ社会に住んでいる。
デモは、自分や自分の親が欠席してきたことを棚に上げて
欠席者が集まって、決められた内容に不服を申し立てている。

まず「委任状を出さない方法」「大事な時に欠席しない方法」
が可能かを考えてみたい。

滑稽な話

今日、明日で最終勤務日になるスーパーマーケットの仕事に出かけた。
(現在、有給消化中で、有給&公休日に蕎麦屋さんで働いている状態)

久々に当スーパーチェーンに寄せられた「お客様の声」のレジュメに目を通した。
私はこの「お客様の声」っていうのを読み聞きするのが大好きなのだ。
やはり梅雨時、品質や夜間の品ぞろえに関する不満が増えていた。

気温が高くなってくると、スーパーの来客数の折り返し時間は、
午後3時から4時というずいぶん遅い時間になってくる。
つまり客足は夜に集中するため、夜間に品ぞろえができてないと、
お客さんの需要に答えられない。
結局、朝に陳列した商品がお客さんに渡るまでの時間が必然的に長くなるので、
鮮度が落ちやすく、クレーム化し易いという訳。

あと、夕飯直前に買い物に来て
「すぐ家に帰ってから食べられる」簡便商品を求める人が多くなるので、
いくら根菜や魚の生切り身が並んでいようと、
消費者は「何も買うものがなかった」という欠乏感を抱く、ということも起きる。
それでクレームも増えてくる。
以外と消費者は、自分の側の環境の変化を意識化できないので、
「店側がヘマをした」と相手の落ち度にしたがる傾向があると思う。
だけど、それを十分見越した対応ができるのが
スーパーの「当たり前」だし、しかもその方法化は大して難しいものでもない。

だけどびっくりしたクレームが
「地場野菜のレタスの中にカエルがいました!気を付けてください!!」
というもの。
それが毒ガエルだったとか、寄生虫がいたとかならわかるけど、
カエルでクレームって...。
昔野菜売り場でバイトしてた時、地場のブロッコリーに青虫がいたら
「ちょっと!青虫がいるじゃない!気持ち悪い。もう、買う気が失せたわ!」って
お客さんに言われたことがある。
そういうオタクも充分気持ち悪いわ!!
と思うような容姿のお客さんだった記憶がある。
毛嫌いしたって、その青虫と同じものを自分は食べようとしてるのにね。

それなのに、ひとはホタルをわざわざ見に出かけたりするんだよね。
それでキレーイ!とか言って写真を撮るんだ。
青虫ヤだけど、蝶の模様入りの服や雑貨は好きなんだよね。
なんて勝手なんだろう。

イオンは会社として、販売する食品の基準を「50ベクレル/kg」だかに自主設定したけど、
まだ私の勤めてきたスーパーには
「放射線量の自主基準をどうして作らないのか?!」などというお客様の声は届いていない。

べクレテいる食べ物にはクレームつけないのに、
カエルにクレームをつけるとは、これ如何に。
食べ物って一体何なんだろう?

A Liter Of Light

先日テレビで知った「ペットボトルが電気の代わり」になって、
フィリピンの貧民街の人々の日中の室内を明るく照らしている、
という活動。

貧民街のバラックは、無計画に建て増しが進んだり、採光を無視していたりで、
日中でも室内に光が届かないらしい。
家事するにも不自由。勉強したくても家で勉強もできない。
でも、MITに留学しているフィリピン出身の男性が、
ペットボトルをトタンに差し込むだけで、電気の代わりになるアイデアを生んだ。
ただ水と漂白剤を入れたペットボトルを屋根に穴を開けて差し込みむだけ、
というとても簡単なもの。
このペットボトル電気(?)は55ワット相当の明るさになるんだとか。
耐久年数は5年。
こういうのをアイデアっていうんだろうな。

そうはいっても、ペットボトルを作るのに石油を使うわけだし、
社会の富裕層側がペットボトルを作って捨てて、
それを再利用する形のこの「ペットボトル電気」が
永遠に“ナイスアイデア”であってもいけないんだけど。

でも本当にイカシタものは、
こんな風にお金がかからなくて無駄のないもの、なんだなー、きっと。

The less I needed the better I felt

↑というのは最近教えていただいた詩の一節。
と思ったら、ある方のブログで「こころの掃除」について書かれていたのを読み、
なんだかとてもこの一節とシンクロするものだったので、記録しておこう。

ずいぶん前だけど、
ある化粧品の添加物についての但書に
「この高い美容成分の品質をお客様にお届けするには
どうしても添加物が必要なので使用しています」
と書いてあるのを目にしたことがあった。

トイレの洗剤とかでも、すごく強力な洗浄力の製品が売っていたりして、
多分その商品は、市場シェア率もトップなんだろう。
でも、一体全体そんなに強い洗浄力が、日々の掃除で必要なのだろうか。
どんな薬だって、必要以上に服薬するのは危険で、
それと同じように、
実際の汚れ以上の洗浄成分は本当に必要なのだろうか、と思う。

上の化粧品のことだって、
高い美容成分が毎日必要な肌ってどんなでしょう?
どんな暮らしでしょう?
毎日を、そこまで肌を疲れさせないように過ごしていれば、
品質保持に添加物を必要とするような美容液は使わないで済むんじゃないだろうか。
トイレだって、
普通に掃除してる限り、洗剤は使わなくても汚れは落ちると思う。

適所適量の考察って大事だなと思う。
抗生物質やX線検査もしかり。

キーボー




追悼 尾崎紀世彦さん

私のおじさんがジミー時田氏のバンドで、
バイオリンを演奏していた時期があったんだけど、
そのジミー時田氏のバンドに紀世彦さんも在籍したことがあったらしい。
それでずっと強い親近感を抱いていました。

やっぱり素晴らしい歌声。生で聴きたかった。

ちなみにキーボーは和製トム・ジョーンズって言われていた。
トム・ジョーンズも大大大好き。

ちなみにトム・ジョーンズを初めて知ったのはこれ↓
多分「エド・サリヴァン・ショー」の再放送。16歳の頃。


ゆっくり尾崎紀世彦さんの音源を聴きたい。

仕事

28日からお蕎麦屋さんで働いています。

7月までは、スーパーとの掛け持ち。
なかなか濃い日々。
たぶんずっとこの感じ、忘れないだろう気がする。

スーパーを辞めるのはずいぶん残念がられたが、
さすが無遅刻無欠勤、頼まれたことは一切断らずにやってきただけあって、
同僚からの協力ムード満載で辞められるのが嬉しい。
まじめに勤めてきて良かった。



メモ 太陽

金環日食の朝、生理が始まる。
といっても最近ずっと大潮に生理が来るので、
当たり前といえば当たり前か。

あまり日食を見るのはいけないと思いつつも、
職場の人と金環日食を見に思わず駐車場に出てみた。
しかも裸眼で。
太陽は1秒も直視していられなかった。
偶像崇拝って太陽崇拝から最初に生まれたんじゃないだろうか
ととっさに思う。
月は直視できるけど、太陽は直視できないし。
太陽を崇めるにも、太陽の似姿・媒体物が必要な気がする。

古代エジプトの神様にケプリっていう神様がいて、
頭がフンコロガシ。
フンコロガシの糞を転がしているさまが
天体を転がしているみたいだから、
「太陽の運行を司る」天の神様なんだって。

堀金物産センターで買った太陽柄のふきん↓
てーぶるピカ子ちゃん 「堀金かえでの家」
P5240575

ピカ子はいい仕事をしそうだ。

アセロラジュースで

昨日飲んだアセロラ・ジュースで喉が撃沈した。
アセロラのど飴とか「アセロラは喉によい」なんて言うのに。
ジュースに含まれる添加物などが原因かもしれないけれど、
多分私は「口腔アレルギー症候群」であることが分かった。
(あくまで自己診断だけど)

昔から生のメロン・キウイ・ブドウ・パイナップル・すいかなどの
果物や野菜を食べると喉がイガイガしてたまらなかったのだけど、
なので最近敬遠してたのだけど、
つい飲んでしまった。「墓穴」とはこのこと。

メロンやパイナップルに含まれるプロテアーゼというたんぱく質分解酵素は、
たんぱく質でできている舌や口の中の細胞を溶かしたりするそうだ。
でも、これが原因かはわからない。
南方系のフルーツにはラテックスが含まれている場合があるので、
ゴムアレルギーかもしれないし、
芯に含まれているというプロフィリンってやつかもしれないし、
残留農薬かもしれない。
どっちにしても「生」の果菜。

このフルーツアレルギーは、花粉症を発症したのちになったり、
合併して起きたりするようだ。
もちろん子供の時に多食するとなったりする場合もあるらしい。
「健康のために」って言って
親が熱心にバナナを食べさせている家の子供の大半が
症状は出なくともアレルギーになっているんだそうだ。

この口腔アレルギー症候群は合併症としても厄介で、
花粉症よりもずっと症状が重くなるらしい。
確かに、風邪をひいて喉が痛いときよりも喉が痛い。

スギ花粉がダメな人はトマトもダメなケースが多いし、
気を付けないとトマトアレルギーになるんだって。
私がダメな果菜は、ブタクサがダメな人が気を付けなければいけない系。
確かに花粉症であれば、果菜のアレルギーを起こしても不思議はなかった。

最近、不織布のマスクしていても、
鼻部分に入っているワイヤー?でしっかりかぶれてしまうし、
ブラジャーのワイヤーなんてもっての外で、
すぐに強烈な肩こりになることもあって、
ブラジャーはもうとっくの昔に止めてしまった。
年中ノーサンキュー。

NGなものが年々増える。
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