最近、パート勤務の休み時間を利用して、
2週に1冊のペースくらいでコンスタントに本が読めるようになった。
パート勤務が7時間になって忙しくはなったけど、そこは良い点。
この習慣になってから読んだ本で、
感動した本はたくさんあって、記事にしたいと思うものもたくさんある。
けれど、なかなか時間が取れなくて、書けないでいる。
感動する本というのは、たいてい答えがそこに書いてある。
だから難しいことはない。むしろ簡単。
けれど、先週読み終わった「ツナミの小形而上学」という本は手ごわかった。
答えが書いていないから。
答えじゃないから、本の文章をノートに書き写すということもできないような、
そんな読書体験。
「なぜ情報を得ても、ヒトは行動を起こせないのか、
それは自分が信じているということに確信が持てないからだ」と書いてあった。
確信を持つにはどうしたらいいのか。
それをずーっと考えています。
近代以降の法律の概念では、
悪には悪の為し手が、悪の為し手には悪の意図があるということが前提になっているそうだ。
しかし現代は悪の為し手に悪の意識がない、という。
(私からすれば、それは「悪の末端の為し手」のことでしかない、と思うけど)
それにどう対処していけるのか。
例えば、強姦罪は逮捕されるけれど、東電の社長は逮捕されない。
人間にとっての「悪」とはなんだろう。
私にとっての「悪」とはなんだろう。
物理的な悪と、自然による悪の違いはなんだろうか。
東洋では、自然は善悪の対象ではないが、なぜそうなのだろう。
自然災害が起きるのは人間に対する罰だという感覚を長く持ってきたのに、
(実際、河川の氾濫や火山の噴火で竜神・風神らに生身の人を供えてきた)
それなのになぜ、罰と罪悪という対の関係を結ばずに、私たちの意識に存在できるのだろうか。
そこに矛盾の意識はなぜ発生しないのか。
しかし、今は「システムの悪」の時代なのだそうだ。
現代の悪の為し手を、非人道的で卑劣な人間だと描写すればするほど、
反対にこちらの批判力は薄まってしまう、というこの本の指摘は鋭かった。
悪の為し手には、悪の意識はないのだ。
自分は国の未来のために、日本人のために、公益のためにやっている、
と思っているに違いないのだから。
だから、そこには空しい平行線の議論の形が繰り返されるだろう。
私たちに見えるのは所詮、「悪の末端の為し手」でしかないから。
(本当の平行線なんてこの宇宙には実在しないそうだけど)
悪の意識のないものの悪を正そうとすることの難しさだ。
小児科医の山田真氏の↓の言葉にははっとさせられた(こちらのブログから拝借)。
Q:原発をなくすために何をすればいいですか?A:ぼくに聞かないでご自分で考えてほしいですね。
原発事故のあとであっても、石原があれだけの票を取ったということで、投票して勝てるという気はしません。多数を取って勝つということのしにくい国だと思います。多数を取るということでなく、勝つ方法を考えるしかないと思います。
チェルノブイリで事故があった1986年のあとはいまよりもっとデモがありました。しかしあれも風化してしまいました。風化させないためにはどうすればいいのか、みんなで考えましょう。
相手をただ否定する力では勝ち目はない気がする。
私と同様、相手にも権利があるからだ。
だから、自分たちの権利を主張する事でしか、勝つ方法はないと思う。
数で制しようとするのは、たぶん非常にもろく、欠陥が多い気がする。
しかし、ずーっとまだまだ考え中。
森