前回の記事で文章を引用したスペインの画家、アントニ・タピエスは、
知っていると“ツウ”な画家でもなんでもなく、
多分スペイン(や欧州)では、有名すぎるくらいの画家なんじゃないかと思います。
美術界の事情とか、そういうのは全く知らないので、
これも当てにならないかもしれないけど。
どちらにせよ、タピエスと特別縁があるようなことを書いたけれど、
「ゴッホとは特別縁がある」なんて言うことが、白々しく響くものなのだとしたら、
私のも随分白々しいものだったのかもしれません。
だって、タピエスの原画は(記憶上)3枚しか見たことがないのだから。

私が最初にタピエスの絵を見たのは、イタリア旅行中だったのだけど、
偶然、タピエスの絵のある展覧会に立ち寄って観たのでした。
気に入ったのでその時名前を覚えました。16歳の時。

日本に帰ってきて、父の友人がタピエスにインタビューしているのを読んだ。
それが18歳の時。

以前働いていた旅館&喫茶店の常連さんだった松田功さんの、
坂城町の家に遊びに行った時に、タピエスの原画を見せてもらったのが24歳の時。
両手に挟んで、膝の上に絵を置いて眺めたタピエスは格別なものがあった。
その絵を聞きつけた画商が、何度もミロの原画と交換しないかと松田さんに言ってきたそう。
それを松田さんは全部断った。

当時松田さんはロートレックにご執心で、
面白い面白いと画集を見ては私に語ってくれた。
松田さんは当時84歳くらいだった。
でもその後、わりとすぐに亡くなってしまった。
私にとって、
他人で、お通夜やお葬式まで参列した相手は、菅沼さんと松田さんの2人しかいない。

松田さんには心臓に病があって、
松本市の信州大学付属病院に定期的に通ってきていたので、
私が働いていた旅館には泊まりがけで来ていた。
松田さんに部屋で聞かせてもらった戦争体験の話やら、茶道の話し、
その他諸々を話し合える、私にとって大事な友人でした。
戦争が終わって今日からみんな平等ですよ、と言われた時、
今までだって一等兵同士はみんな平等だった、何が違うのかと思った。

と言っていた松田さんは、戦後、政治によってもたらされた「平等」というもの自体を、
信じていなかった気がする。
それは政治によって与えられるものではない、という確信があったからだと思う。

松田さんは坂城町のご自宅に自分で茶室を造り、庭木を植えていた。
茶道について(所作ではなくその心意気だけだれど)も教えてもらった。
旅館に泊まりに来る時も茶道具一式持ってきてくれて、お茶を点ててくれた。
以前このブログで書いた、
“ウンチクぬきに抹茶を淹れてくれる友人”とは松田さんのことです。

私は基本的に頂いた手紙は時期が来ると全部捨ててしまうのですが、
松田さんから貰った手紙やはがきを処分したことだけは、いつも惜しいと思う。
だから、
何故か私の習字が好きだった松田さんがくれた、硯と筆だけが形見。

上記の旅館のご主人が亡くなったと聞いて、
まずその旅館に問い合わせたのが、
松田さんが自費出版した「生き残った兵隊の綴方」という本の行方。
旅館のご主人と喫茶店の従業員用に2冊、生前の松田さんから頂いていたのだ。
旅館のご主人が亡くなったら、もう、松田さんの戦争体験を語り継ぐ人はいないと思った。
あの本をもう一度読んで、誰かに伝えていかなくちゃ、と思う。
松田さんには、家族が、年老いた独身の妹さんしかいなかった。
その妹さんとも連絡が取れないので、もう亡くなったのかもしれない。
けれど、その旅館には松田さんの本はどこを探してもないのだそうだ。
どうも電話で察するに、先方は「私が持ちだしたのでは?」と疑っているようでもあった。

でもさっき、もしかするとと思って、
「上田地域図書館情報ネットワーク」で検索したら、1冊だけ旧真田町の図書館にあるらしい。
松本平もそうだけど、上田地域の図書館で借りた本はどこの図書館に返してもいいので、
坂城町から真田町まで動いているということは、どなたかが借りて読んだ方がいるのだろう。
それがとても嬉しい。

でも思い起こせば、松田さんの茶室にも一枚の大きな油絵の抽象画が掲げてあって、
それはある有名な画家のものらしかった。
松田さんは、若い美術家や工芸家の世話を随分してきたので、
彼らから託された作品をたくさん持っていた。
だからきっと、松田さんの人柄とその戦争体験は、どこかで脈々と語られているのかも。
そう信じたい。

松田さんは若い人たちと接するのを大事にしていて、
死ぬ間際も、ある悩んだ若者を外に連れ出そうと、旅をしていた。
「命に関わるから、そこまでしなくても」と周りに言われても、
病気を押して出かけていた松田さんは、とり憑かれているようでもあった。
その旅行から戻って体調を悪化させ、すぐに松田さんは亡くなった。

当時、その旅館では勤務時間の長さから言って、私は中心的な役割だったのだけど、
私は精神的にムラがあり、とたんに付き合いが面倒くさくなったり、
集団の中で楽しくやるということに極端に嫌気がさす時があるのですが、
それを松田さんにはよく叱られた。
「元気が出ないんですもん」と言う私に松田さんが返した
元気っていうのは出すもんだ」という言葉をよく思い返す。
色々言っても、あなたの今やっていることは丸茂(その旅館です)でしょ。
他に本当の自分がいるわけじゃないんだ。まず目の前の職場を変えていけないなら、
偉そうなことは言えないよ。

というようなことも度々言われた。

物理学の本(と言っても、ブルーバックスの初心者用に書かれた本)を読んでいる私に、
物理なんて、結局人を大量に殺めるために機能してきただけじゃないか。
そんなの読んでも平和にならないよ
」と松田さんが言ってきたので、
喫茶店で他のお客さんの前で口論になったことがある。
どうしてわかってくれないのか、と当時は思ったけれど、
意見の合意や正しいことを言うことが松田さんの目的ではなかったんだろうと思う。
「松田さんは何でも戦争のことに絡めて考えすぎだよ!」という私の気持ちを
見透かしていたと思う。
でも、生き残った兵隊、それこそが松田さんにとって生涯の自己規定だった。
最後まで、私の前でも松田さんは「生き残った兵隊」として語ってくれたのだと思う。
首から心臓病の薬であるニトロ入りの錠剤を常にぶら下げていた松田さんは、
ここに爆弾が入っているんだよ」と皮肉に笑っていた。

ある美術評論家は“書くことと描く事の一致を夢見て(長崎県美術館のサイトから引用)”、
タピエスと詩画集(「物質のまなざし」)を出していて、
その中に以下の一文があるそうです。
泥の上をのぞけ おまえの身分証明を 見つけること 最低のを。
これを松田さんは知っていたのだろうか。

どうして松田さんが、明るい色彩のミロではなく、
暗い色彩のタピエスを手元に置くことを選んだのか、今はよくわかる気がする。
再現としての絵画ではなく、物質そのものとしての絵画を目指すタピエス。
芸術作品の価値は、その効果によってのみ計られるべきである」と言ったタピエスの絵を、
結果として兵器に利用される物理学に疑いの目を向けた松田さんが、
大事にしていた意味。

何としてでも、いつかまた必ず見つけ出して、
松田さんの書いた「生き残った兵士の綴り方」に辿りつかねば、と思う。
思い出す松田さんの顔はいつも笑っているのです。