だいぶ加筆(翌14時11分)

・○○を知っている私、××に価値を見い出している私 が自己表現だと思っている人は、
 問題にする主題/主語が何であるか、ということに依存しているが、
 「主」が何であるか・誰であるか に依存しているのはまるで奴隷的発想のよう。
 
 主題は、ある観点や条件の中でトリミングすることによって抜き出された、
 便宜的な名詞でしかないという気がする。
 だから主題からは、本当の問題の構造にいつまでたっても到達できない。
 いくら哲学用語や現代思想のキーワードを沢山知っていたとしても、
 いくらネットでキーワード検索をしても、それが条件にはならない。 

 むしろ大事なのは述語の方。
 主題は多かれ、時代や文化圏に左右され賞味期限を失いやすいけれど、
 述語は時代や国境を超えてゆける。
 個人が自立するために必要なのは主題からの発想ではなくて、述語からの発想。
 

・労働(勤労)讃美は、結局は国家主義か、
 または、人にとっての労働をただの手段・道具としてしか認識していないことの証しのよう。
  
 過剰な讃美や賞賛を作為的に植え付けなければならないとしたら、
 元来、一般的に意味されるところの「労働」だけでは、
 そもそも、そのような価値を持ち得ないということではないのだろうか。
 
 労働は讃美する必要がない。
 労働は手段であると同時に(か、それに先行して)、健康を維持するための機能だから。
 かつては、働くこととは別に、あえて運動する必要なんてなかったのだし。
 (スポーツジムに行くまでに身体を駆使していれば、
 少なくとも、スポーツジムに車で通うことを止めれば、
 ジムのランニングマシーンは必要がなくなる。)

 今や、「労働イコール肉体労働」ではなくなったので、
 労働が健康維持とは無縁になりつつあるとしても、
 いまだ家事は、家電をいくら駆使しても肉体労働だ。
 そして直接的に“生きること”に近い仕事は家事の方で。
 会社が倒産して職を失っても、家事を失職することはないのだ。
 自分の身体の為にする仕事には失業はない。
 
 シモーヌ・ヴェイユの女工体験は、労働問題を考える時、
 特に社会主義思想を好む人からは、観念的で抽象的だと批判されることが多いけれども、
 “工場仲間と気の良い挨拶を交わすだけで労働の疲れが癒えた”という体験を、
 驚きを交えて書き残した彼女が、労働者の中に身を置く事で得た感慨は、
 労働をただ“自分の外に価値を生む生産行為”だとみなす短絡的な思想よりも、ずっと本質的だったと思う。
 だから彼女の著書は、同年代に出された政治思想書よりも、より永く読み継がれていくことだろう。

 少なくとも彼女は労働やそれに付随する階級闘争によって、
(社会的な)善がもたらされるはずだ、という安直な期待を最終的に捨てるに至った。
 労働条件や環境を改善したとしても、奴隷的状態や精神を改善できるわけではないことを知ったから。

 社会的意義のある誰かの為の労働でもなく、
 自分の健康を養う為の労働でなければ、隷属を解決することは出来ないのかもしれない。
 
森