ある方に言われた大きな1言。

「その人は神様のお使いかもしれないけど、いいね、
でも決して神様じゃないんだよ。
神様は1人1人にいるもので、目に見えないものだからね。」

私にとって、
人も本も(宮澤賢治やリルケにしても)、一切の出来事や何もかも、
それらは“神様のお使い”なのだ。
でも、それは決して“神様そのもの”ではない。
答えではない。
自分への答えはやはり自分で出すものだ、と知った。
他人が稼いだお金では、ひとは決して幸せになれないのと似て。

私は神様のお使いを、神様そのものだと思っていたのだろう。
神様のお使いは私に「答え」をくれるわけではない。
くれるのはあくまで「きっかけ」なのだ。
でも、その「きっかけ」がとても貴重で、
同じ場所にいながら旅をさせてもらうようなものではないだろうか。

(ヒトの進化が、移動と交易=コミュニケーションによってなされたならば、
 ヒトとは旅をしなければいられないものではないかと最近思う)

神様のお使いに答えを求めるのも、
神様のお使いに褒められた気になったり、
そしられた気になるのも、
そもそも全て勘違いだった。
そう思うようになってから、
色んなことへの依存心が薄らいだ気がする。

私の答えは私が私に出さなければ、
それは答えではないのだろう。

(もちろん、この「神様」ということばは便宜上のもので
 もっとふさわしい言葉があるかもしれません)

My Heart Belongs To Me
本文とこの曲、全く関係ないけど、この曲の解釈が変わりました