ノ ー ト

好 き な 読 書 を 中 心 に 考 え 中 を 記 録 す る ノ ー ト

2009年05月

フィッシュマンズについて その5

※少し補足しました。

前回、「後で書き足します」なんて書いてしまったけれど、結局時間がなくて書けませんでした。
しかし、本当はもう、フィッシュマンズに関する記事は終わらせてしまいたい。
ダラダラと愚痴のように書く文章は、フィッシュマンズに似合わないし、
佐藤君が死んだことによって、ある種フィッシュマンズが伝説になりつつあるけれど、
そういうことは佐藤君が本来とても苦手としていたことだと思う。
自分が書けば書くほど、なんだか空虚なフィッシュマンズにまつわる幻想を生みだしている気がして、
居心地も悪い。
早く終わらせてしまいたい。いつものフィッシュマンズとの静かな付き合い方に戻りたい。
正直、そんな感じです。
ただ、書かないというのも私にとって不自然なので、やっぱり書くのですが...。
今回で終わりますように。

これは本当に小さな世界でのことで、わざわざ話題にするほどのことではないのだけれど、
フィッシュマンズを好きだ、という音楽ファンの中には、
テクノやダブといった音響系の音を好んでいる人たちがいて、
フィッシュマンズもその枠でとらえている人たちがいます。
私はフィッシュマンズを“音響派”だと思ったことはなくて、レゲエとかダブだと思って聴いたことがないのです。
音楽好きだからフィッシュマンズが好き、みたいなワン・チョイスではないんです。
そういうことは「その3」で載せた佐藤君のことば、
『「音響が好きだから音響出す」のと「こういう感情を表現したいからこういう音を出す」っていうのでは、
受ける側は全然違うんじゃないですか。』
であって、
日本語の音楽を卑下している人が言うような、
「フィッシュマンズは音響系だから聴ける」なんていう感覚は
私には一切ないです。
もっとプライベートなところに寄り添うような音楽だと思っているので。

それから、佐藤君が亡くなってからもフィッシュマンズは解散していなくて、
ただひとりのメンバー、ドラムの茂木さんがその後もフィッシュマンズの活動をしていて、
今のところ、あくまで佐藤君生前時の曲の再発だったり、編集だけが、
音源としてリリースされているのですが、
ライブに関しては、過去にフィッシュマンズを脱退していった旧メンバーや、
フィッシュマンズを好んでいるミュージシャンも参加するかたちで
「フィッシュマンズ」のライブが行われています。
別に悪くないし、いいんだけど、でも私はどうしても喜べないのです。
フィッシュマンズの音楽を今後も引き継いでいこうというのもわかる。

だけど、それなら、
ほとんど廃盤となってしまった過去のアルバムを通常の価格で再発すればいいのではないか。
正直、またフィッシュマンズの音源が出たり、DVDが出たりするとゲンナリする。
聴いている側の生理とは全く関係のないタイミングで発売になったりして困惑もする。
佐藤君生前時代は、リスナー側も待つ身だったし、
フィッシュマンズというバンドとリスナーのタイミングがシンクロしていた気がするのだけど、
結局今は、ただ商売に付き合わされている感じが否めない。
だから新譜が出ても、今はむしろ欲しくない。

今のフィッシュマンズのライブは、同窓会と仲良しによるパーティーでしかない。
そんなに、楽しいことだけでいいなんてことはないはずだ、と思う。
和気あいあい楽しいグッドミュージック、そんなのフィッシュマンズじゃない。
あれだけ「売れたら自分の好きなことができなくなる」と恐れていた佐藤君だったのだ、
もうフィッシュマンズを商売にするのも、
フィッシュマンズを聴いていることを自分の手柄みたいに思うのは止め、だ。

下に張り付けた動画のインタビューで佐藤君はこう言っています(2/3の動画内)。
★動画は削除されてしまいました。。。
(ちなみに私自身は全く格闘技は好きではありませんし、格闘技を評価する気はないです)
「今のプロレス界は僕にとってはもう魅力ないです。毎週欠かさず見てるんですけど。
でも、なんかこう、幻影を追っているだけっていうだけで、別に感動もないし
こんなこというと変かもしれないけど、音楽界ではわりと俺は後継者だと思ってて、
プロレスって戦いで、で、...良いですかこんなこと言ってて...なんですけど、
個人の生きざまを見せる場であって、最後は。勝った負けたはどうでもいいことであって、
だから音楽も、例えるなら、例えばライブなんかでは、歌がうまく歌えたっていうのも重要なんですけど、
演奏が上手くいったとか...
それより大事なのは、プロレスと一緒でたたきつけるって感じが大事で、
そういった意味では僕は後継者なんですよ。」
あんまり好きなことばではないけれど、音楽によらず表現は「生きざま」そのものであるはずだし、
懐メロみたいな、甘ったるいのは佐藤君が望んだことじゃないと思う。

中嶋君がかつてやっていた「喫茶クラクラ」では、
かつてフィッシュマンズのメンバーであったHAKASE-SUNや、
フィッシュマンズ後期のレギュラーサポートメンバーだった故HONZIさんに来てもらって、
演奏会を開くことができて、ことばも交わさせてもらったのですが、
もちろん嬉しくはあったけど、上の佐藤君のことばのように
“幻影を追っているだけ”のようで、そこに私の「フィッシュマンズ」はなかった。

申し訳ないけど、佐藤君がいないフィッシュマンズはフィッシュマンズじゃない。
そして、それでいいのだと思う。
フィッシュマンズが何を表現したくてやっていたのか、それを知っているだけでいい。
それで、既にある「型」に自分をすり寄せていくのではないやり方で、
フィッシュマンズのように「生活が表現である」ことを、自分自身でやっていけばいい。
フィッシュマンズの、佐藤君の精神的な後継者になればいいのだ。ただ追随するのでなく。
そんな気がする。

ああ、これで本当にお終い。
フィッシュマンズよ、さようなら。ありがとう。



フィッシュマンズについて その4


私は、ちょっとでも歌詞に違和感があると、その音楽さえ聴けなくなる性質なのですが、
何故かフィッシュマンズの歌詞には嫌なところが一つもない。
それが、私にとってフィッシュマンズが特別な存在であるゆえんでもあると思う。
佐藤君の書く詞は“フィードバック率が高い”とよく言われるけれど、
(ここでいう“フィードバック”とは「自己投影」に似た意味だと思う)
彼の素朴で易しい日本語表現がそうさせているんだと思う。

私は佐藤君の、決して「攻撃的」でないこと、
歌う目的で用意することばではない率直なことばであること、
という姿勢が素晴らしいと思う。

ある音楽ライターが、阪神淡路大震災の後で音楽なんて聴く気になれなかった時に、
フィッシュマンズだけは聴くことができた、と語ったのを知っているけれど、
それはフィッシュマンズの歌が描く世界には、
すぐに風化して消え去っていくような消耗品としての“情報性”が
歌われていないことがそうさせるのだと思う。
政治的なことを煽るように歌うことも、それを聴いて喜ぶことも、もう決して新しくはない。
特に、形あるものに対して失望してしまった時など、プロパガンダのように鳴る歌は嘘臭く聴こえる。
佐藤君の書く歌は、決して知識に訴えるものではなく、生理に訴えるものだった。
フィッシュマンズはそれだけ、記号化し風化してしまった景色を歌わない、
本当に稀をみるくらいの、嘘臭さのないバンドだった。

それは佐藤君があくまで日常を歌にしたからだと思う。
彼にとって音楽は日常的な存在だからこそ。
特殊なことを声を大にして言わなくても、ギミックを効かせたことばを使わなくても表現は出来る。
それをフィッシュマンズは体現していると思う。

「生活そのものが表現である」とはいうものの、
ちまたに溢れている表現とは、○○風に染まった形式的なものか、
大袈裟に奇をてらおうとするものばかり。
本当はみんな個であることを持て余してしまっているのでしょう。
カリスマを求める心理は、自分自身を持て余してしまっているからでしょうし。
佐藤君は「好きなミュージシャンがいたからといって、共演したいとは全然思わない」と言っていて、
私も、どんなに素晴らしい人がいたからといって全く交流したいなんて思わないので、
なんだかその気持ちがよくわかる。

昨日の記事でも引用したけれど、佐藤君は「音楽に人柄が引っ張られるのは嫌だ」と言っていて、
テクノを聴きだして急にアッパーになってしまうような人のことを嫌悪していて、
どこかで「インドに行って人生観変わってくる人は嫌だ」とも言っていたっけ。
精神科医の河合隼雄さんは「もう病気は治りました」と急に言い出す人は治っていない、
こういう傾向は強迫神経症の人に多いんです、と言っていたけれど、
私も急に変わるのは自然じゃないと思う。
例えば、激しい政情や戦火や迫害があって、急に人格の豹変を強いられることはあるかもしれない。
でも、それは本来望むべきものじゃないし、結局、洗脳や暗示の犠牲になってしまうことに変わりない。
反権力というプロパガンダ・反体制は、体制がなければ存在できないような依存関係だけど、
「日常の生活そのものが表現」になるならば、そこに脱権力の道があるとも言えるのではないかしら。
私はそういう誠実さをフィッシュマンズに感じています。

 “みんなが夢中になって 暮していれば
  別に何でもいいのさ”(「幸せ者」)
これを世迷い言と笑う人もいるかもしれないけれど、
今までの日本のポップミュージックの中では、
佐藤君ほど知的な人はいないんじゃないかと、私は秘かに思っています。

私の大好きな小説家Aも、小学5年生並みの語彙と、
ブランドや企業名などの固有名詞という「情報」を一切廃して小説を書いたが、
だからシャツはあくまで「シャツ」だし、ズボンはあくまで「ズボン」としか表記されない。
どんなシャツや何色のズボンかなど、形容詞は書かれない。
全ての情報(ここでは特に視覚的情報)は読者の心の中でフィードバック(投影)される。
そうして表現された作品は完結した「過去」として読者に渡されるのではなく、
読者の中で初めて「現在」となるようなものです。
Aは特に「現代文学」を書いている自負があって、現代とはどういう時代かと考えた時に、
共時的に体験が可能な時代で、知識や社会的差異がその妨げになるようであってはならない時代だ、
と考えていたのだろうと思う。
表現と受け手が依存の関係ではなく、互いが独立し合ったまま結びつくこと、
それは私の夢でもあります。

昨日の記事の佐藤君のことば、
「本当は、ミュージシャンの“こういうことをやりたい”っていう純粋な気持ちと、
リスナーの“こういうのを聴きたい”っていう純粋な気持ちが結びつくのが普通じゃないですか」
は、そんな意味を含んでいると思う。

以前、河井寛次郎について書いたとき
 私にとって本当に素晴らしい作り手とは
 その作者や作品に執着させるのではなく、むしろ解放してくれるひとです。
 どこまでいっても自分自身に向かわせてくれる作り手。 
と書きました。
受け手も千差万別ですから、すべからく同じ結果を求めることは決してできないし、
受け手がどう取るかまで責任を持つことは、越権行為にもなりうるので難しいけれど、
執着を引き起こすのではなく、
相手がそれによってむしろ執着から放たれるような表現の在り方は、きっとあると思う。
受け手に執着される表現は、やっぱりどこか問題があると思う(どこかに商売があるとか)。

また後で書き足します。

フィッシュマンズについて その3

P5180452
今日は、フィッシュマンズ佐藤君のことばや考え方で好きなものを載せます。
私のわがままで勝手に引用し貼り付けるので、
それだけでもう、本来佐藤君が意味したかったものとは違ってしまうし、
それ以前に、私が知っている佐藤君のことばは、
音楽誌のライターさんのフィルターを通した後の、
あくまで3次情報にすぎないのですが。


でも、記憶が正しければ、
佐藤君が存命中に私が買った、フィッシュマンズのインタビュー掲載雑誌はごく限られていて、
3枚目のアルバムが出る前の「ロッキンオンジャパン」誌と、
スピッツの草野マサムネ氏とb-flowerの人と佐藤君の3者インタビューと、
表紙を飾った「スタジオ・ボイス」誌と特集になった「クイックジャパン」誌だけだと思う。
これから転載するのは全て、近年買った「フィッシュマンズ全書」からのものです。
驚くのは、この本で初めて読んだ佐藤君のことばや考え方を、ずっと前から理解していたということ。
フィッシュマンズの音楽と歌詞にそんな佐藤君の考え方はにじんでいた。
それがわかるから、私もフィッシュマンズの音源を聴いているだけでよかったのです。
雑誌をあさったり放送のエアチェックをしたり、フィッシュマンズの活動に振り回されることがなくて、
執着で音楽を聴いているわけではないという関係の自由さが、すごく心地よかったのです。
恐らくフィッシュマンズのリスナーには、そういう関係で聴いていた人たちは多いと思われます。

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【“音楽”を作ることに関して】

「でもね、出したいことって、“力”なんですよ、これでも。ぼくが1番衝撃を受けた音楽ってボブ・マーリィなんですけど、それは力を感じたからなんだな。でも自分達はジャマイカでレゲエをやっている訳じゃないし、政治や宗教的なとこを変える力はないけど、普通の人の生活の仕方とかね、そういうのを変える力を持つ可能性があるバンドなんではないかと思っているんですよ、実は」

「家でスピーカーをグッと前に出し、じっくり聴く音楽じゃないと嫌だなっていうのが余計に強くなってきた。とりあえず自分が聴きたいのを作るってのはいつもあるんで、静かで、ずっと続くような曲を作ろうと。」

「いい歌で、いい歌詞で、っていうだけじゃ嫌なんですよ。心を動かされるもの、他にはどこにもないような歌じゃなきゃ、もう興味ないんですよね」

「まず音楽っていうのは何なんだい?っていうことをすごく考えていて。周りを見てて、売ることも音楽なのかなあ?っていうのがあってね。たとえば若い頃にボブ・マーリィとか、スライ&ザ・ファミリー・ストーンとかを聴いていた時の印象は、もっとすごく純粋に音楽だったし。そういうことができない環境がすごく嫌だったりもしたし。人の心をかきまぜるというか。そういう音楽を出したかった。攻撃じゃないやり方で、深みにはまらせるような音が出したかったというのがあって。そういうやり方でもっと人の心に入り込む、もっと純粋な音楽っていうのは出来ないのかなっていう。出来ないのが普通みたいな感じってあると思うんですよ、特に今の日本って。」

「俺たちのプライベート・スタジオができてね。これはアレンジがかなり試せるっていうことでデカかったですね。音楽っていろんな気持ちよさがあるけど、フィッシュマンズは10回聴いてやっとわかる気持ちよさがいいなって思ってたけど、普通のスタジオで作ると余裕なくてそれより攻撃的な感じがして、いざ家に帰って何十回も聴くにはきつすぎるのがすごく嫌だった。家でガッポリいけるような感じがとにかく欲しかったんです。昔から静けさっていうのが自分の中にあって、日々感じる空気感みたいな感じの中に果てしない静けさってのが絶対あるんだけど、そういうことをやりたい。だから、音はどんなにうるさくてもいいんだけど、その中に静かな何かが聴こえるっていうか、感じられるものですかね。」

「ダブ好きな人が音響やろうとしてやってるのと、結果的にダブになってしまったものとは、だいぶ違うんじゃないかな。... というか、音響がやりたくて音出してるのと、オレらの...だから、なんか最近、オリジナリティの問題とかあるじゃないですか?そういうところで言うと、音のオリジナリティというよりは、たとえばオレたちが作った音を聴いた人が受ける感情というか、“感情のオリジナリティ”みたいなものはあるかなって気がしてるんですよね。「音響が好きだから音響出す」のと「こういう感情を表現したいからこういう音を出す」っていうのでは、受ける側は全然違うんじゃないですか。」

「やっぱり、シリアスにやらないと通じないと思う。そこが音楽がナメられる原因だって気が僕はするんです。音楽はかなりナメられてる。だからマジメにやる。純粋にやればそうなるんだと思う。9割5分の国民がナメてるよ。作る人も聴く人もレコード会社の人も含めて、芸術の歴史というものを軽視してる。本当は、ミュージシャンの“こういうことをやりたい”っていう純粋な気持ちと、リスナーの“こういうのを聴きたい”っていう純粋な気持ちが結びつくのが普通じゃないですか。それがあまりになさすぎる。それに対して、誰一人立ち上がろうとしない。オレたちは音楽を作ることしかないから、それでやっていくしかない。リスナーの心をむりやり変えることはできないわけだし。だからやっぱりただ作っていくことしかないけど。ほんと、悪い星の下に生まれたと思ってるよ」

「音楽を<曲>として考えないっていうか。<音>っていう感じにしたかったんですね。それはたとえば<虫が鳴いてる>っていうような、それに近い意味での<音>っていうことなんですけど。ただ虫の音っていうのをそのままやってもバンドがやる音楽としては全然伝わらないし、そこをどうしたらいいか考えるのにすごく時間がかかってしまった。」

「真剣にやるとこうなる。適当にやっちゃう人が多すぎると思う。他人がどうこうでなく、自分に忠実でありたいんですよ。発想するときから駆け引きゼロ。差し引きゼロでいたい。」

「音的な興味はいっぱいあるけど、音楽観ていうのはないな。俺が音楽観って考えるときはその人観っていうか。逆に音楽にその人柄を引っ張られるっていうのは、俺はすごい嫌なのね。」
              
               ∽∽∽∽∽∽∽

【“歌詞”に関して】

「歌詞はいつもサラサラッっと書くことにしてる。サラッと書いてあんまり見直したりしない。自分がすごくバカでダサくて無力な、社会のクズみたいな気分で、とっても謙虚な気分で書くことにしてる。そうやって誰にも見つからないような歌詞を書くのが好き。」

「何にやるんでもリアリティーですよね。ただね、よく言う“ぶっちゃけた話”ってあるでしょ。それも確かにリアリティーなんだろうけど、なんかジジイの戯言みたいで興味ないんです。そんなんじゃないリアリティーってのが、普通に存在しているはずですよね。そういうリアリティーを歌っていきたいですよ」

「発売日の季節よりも自分で作っている時の季節の方が大切。で、レコードってさ、けっしてその発売時期だけのものじゃないでしょ。わりと一生モンっていうか。だから長く聴いていくうちに、歌の季節にいつかハマればいいかな。」

「(曲を作るときは)歌詞から。この3~4年は。オレは思うんだけど、言葉なんていくらでもあるじゃないですか。で、こう思ってるんだけどなぁって書くんだけど、その時たまたま出た言葉ってオレは運かなって。ある心境があったとして、それを言う言葉は1つじゃないからね、絶対。それを何か1つにするっていうのは運かな。」

「(メロディのために言葉を探したくない?)うん。だから、たとえば言葉合わなかったら、2番なんか全然違くていいなと、メロディ変えちゃう。そうすっと、構成するのもすごく楽しいし。」

「俺はいつも歌詞から先に書くんですけど、詞を書いたとき、詞の周りにはいろんな景色があるじゃないですか。書いてないけど。それが音楽になるんじゃないですかね。」

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(つづく)

フィッシュマンズについて その2

フィッシュマンズについて書いているわけですが、
正しくは私の個人的なフィッシュマンズにまつわる<思い込み>であって、
フィッシュマンズが何たるかではないのです。
音楽を文字で説明するほど陳腐なことはありませんし。
実際、音楽についてレビューするなんて不可能で、
佐藤君が生前言っていたように、
「音楽は音楽のために、もっと公平であるべきだと思うのね。商売であるべきではないし。」
であるし、佐藤君は「“共有”ってことには興味がな」かったし、インタビューも嫌いだった。
こうして何を書いてもフィッシュマンズの音楽について語ったことにはならないのです。
北欧のクラッシックの作曲家が言ったそうです、
「批評家のいうことを真に受けるな。批評家の労苦を称えて、
 これまでに批評家の銅像が建てられたためしはないのだから」と。

ですから、申し訳ないけれど、フィッシュマンズが主役ではなく、
あくまでそれを書いている私が主役でしかない、文章なのです。
フィッシュマンズの音楽と私の文章力とでは、比べようがないくらいフィッシュマンズが良いので、
初めてフィッシュマンズを知る人に、どうか悪い印象で足を引っ張りませんように...。


フィッシュマンズとの出会いは、今から18年前、17歳の時でした。
俗にいう“特に多感な年頃”で、受けた影響は計り知れないのですが、
当時の私のアイドルは、フィッシュマンズと、ある日本人の小説家Aと、棋士の羽生善治氏でありました。
私がこの3人に同じものを見出していたのですが、それは何かというと、
「音楽には音楽にしかできないこと、小説には小説にしかできないことを表現する」というような姿勢でした。
なぜ自分にとってそれでなければならないのか、という(表現)ジャンルとその人の関係の切迫さです。
当時、棋士の羽生さんはタイトルの7冠を制した頃で、
「将棋をやっている時、人生(ここでは日常生活の意味)は関係ない。将棋は別の宇宙なんです」
というようなことを対談で話していて、ひどく感動した覚えがあります。
知的障害者の芸術家たちが集団で暮らしているコミュニティーの存在を知ったのもその頃で、
日常生活でいわゆる「社会人として充分」でなくても、
何か1つ、何だっていい、この世で自分を表現する手段があったら、それでヒトとして充分じゃないか。
絵や彫刻の中では障害を持つ人だって対等になることが可能であるというような、
あるジャンルの中では人と人とが対等になることができる場所、
これこそが人と「仕事」との関係というものではないだろうか、と強く感じ始めていました。
そんなところに「自由」というものがある気がするのです。
佐藤君も、
「音楽やってて曲書いたりして、ほんとこれだけでいいじゃんって、いつも思うもん。
ひとりの人間の役割というものがあるとしたら、オレにはこれが出来るんだよっていうかね。」
と言っていた。

小説家のAは「世界で誰一人として試みた事のない意識的な行為」を小説で目指し、
それは「ことばによる、想像的現実の創造」をすることでした。
つまり、
「視覚から体内に取り込まれた電磁波である言語のみを駆使し、
 フィードバック機能を通じて視覚・聴覚・臭覚・味覚・触覚を再刺激することで、
 現実体験と等価な生理感覚を読者の中に隆起させる事を実践して、
 読書体験を現実体験と比肩する生理的体験に成らしめる事を目的とした」
のです。
本人もインタビューで、
「…文学作品というのは、極端にいえば、われわれが生きている小さいなりの世界を作って、
 それを提供するということです。
 そういう作業ですから「お説教」や「論ずる」ということは、小説において必要ないと思いますね。
 …人生の教訓を書くなんていうのはエッセーなどに任せておけばよろしい。
 小説というのは、それ以前の、意味に到達していないある原型を提出する。読者はそれを体験する…」
と語っています。このA氏は
「現実と同じように、絶望のあとに希望が来る、なんてことを小説でする必要はない」
「大意を述べよ、といわれたらぼくだって答えられない。
 ひと言で大意が述べられるなら、小説書かないですよ。
 …小説というのは、まだ意味に到達していないある種の原型を、作者が提供し、読者はそれを体験する。」
と言っていて(重複しますが)、それは佐藤君のことば、
「それそう簡単に“結”なんてありえないですからね。起承転結ってよく言うけど。
 インチキならいくらでもかけるかもしれないけど、それはイヤなんですよ。
 歌詞の中で、嬉しいとか悲しいとかっていう感情を、歌う為に強調するんじゃなくてさ。
 例えば、退屈って歌にしづらいでしょ。退屈だからつまんないってことを歌うんじゃなく、
 歌に退屈を漂わすっていうのはね。でも、それが自分の歌に対する大切な姿勢だと思う」
に、私の中では通じている。
今私たちがこうして「生きている」というリアリティーに限りなく肉薄する、別の「生成」を
自分たちが選んだ表現手段によって立ち上げてみせること。
それが、A氏やフィッシュマンズのやろうとしたことだったと思う。
A氏は非常にドライで感傷的なことを嫌悪する人だったし、
佐藤君は政治的経済的に何かをすることを頑として嫌った人だったけれど、
私はどうしても、この人たちの基底に、弱者をすくい上げようとする眼差しを見てしまう。
現実の社会での評価やレッテルとは別の、新たな境地を、表現によって開拓することの可能性を、
身をもって見せてくれた気がするから。

私たちにはやはり「仕事」が必要で、それは決して「生活費を産み出すもの」としてではなく。
この世と自分をつなぐ手段としての仕事です。
手垢のついた嫌な言い方だけれど、「生存価値が必要なのだ」と曲解されてもこの場合、構わない。
いろんな人たちが、各人で各人ならではで、生きていかれるには、
全ての人が適所を見出すことさえできればいい。
教育とは本来、この適所を見つける手助けをすることで、
政治とは本来、適所という“場所”を人の数だけ、というのは無理があるけれど、
際限なく用意し続けることだ、と思う。



特に、無宗教である(といわれている)日本人は、寺院からの説法からではなく、
「仕事」を通じてあらゆることを学んできた。
全ての手仕事には物理がつまっているし、材料や道具との関係のなかで自己を修錬してきたともいえると思う。
私も苦手ではあるけれど、
コンビニやファミレス、交通情報や館内放送のマニュアル化された声色は、
その実、江戸落語に出てくる、もの売りや曳き売りの行商たちのあの「粋な」声色と同じなのだ。
普段接する材料や道具という日常の景色が変わることによって、お粗末な結果になってしまう。
「日本人はずっと自然に託して歌を詠んできた。でも今や自然を失ってしまったから、歌うことが出来ない」
とはある批評家の弁ですが、特に日本人は環境に左右され易い。
周りに美しい自然がなければ本領を発揮できない性質なのだと思う。
(現在の自然保護の先進国は、自然がもともと貧しく、
産業革命以後に自然破壊の先進国であったことが必要だったわけで、何とも皮肉だけれど...。)
普段手にする材料や道具が変われば、私たちは変わるはずだと、そんな風に思うのです。

またまた脱線してしまいましたが、つづきます。

フィッシュマンズについて その1

※ことば足らずだったので、いくつか補足しました。

フィッシュマンズについて、また書きます。

何だか唐突なようですが、最近また、「ことばによる表現」について考える機会が多いので、
フィッシュマンズの故佐藤伸治さんから、一方的に私が「学んだ」なんて思い込んでいる、
「ことばによる表現」について書きたいと思います。
否、「表現」とはとどのつまり顕在化した時点で、いかなる分野であろうと言語行為のことでしょうし、
「表現する」ということは、その表現が個人の内部内のみで行われるにせよ、
ある表現が自己の中でも、無意識もしくは前意識から顕在化してくるという点においても、
「表現」とは常に「他者」の存在を示唆するものである、と言えそうです
(通俗的に、「無意識」が自己の“他者性”をあぶりだしていると考えても)。
これは、何度も引用している、精神病理学者の木村敏氏の
「自己とは、自己と世界の<あいだ>の関係そのもののことである」という考え方でもあります。

私は、ことばとは知らず与えられる足かせのようでもあり、
知らず与えられる恩恵でもあると感じているのですが、
どちらにせよ、私とは一個の物質ではなく「関係」そのものなのだとしたら、
「関係」とは言語によって立ち上がってくる世界のことですから、
“私は「ことば」である”とも言い換えられるでしょうか。
そうしたときに、この「足かせ/恩恵」を、私は誰から受け継いだのか?と問えば、特定することなんて不可能です。
あまたの人の存在が私のことばには含まれている。
私は、それを意識するかしないかは別として、
「ことばの表現」とは、この「足かせ/恩恵」の義理を返そうとする行為のようなものだろうと思っていて、
返す相手が特定できないのならば、あまたの人がわかるように表現する、というのはある種必須だろうと思っています。
だから、わかりにくい表現、理解できる人にだけ理解されればいいというような表現をする人は、
この「自己とは、自己と世界の<あいだ>の関係そのもののことである」ということを感じてもいないし、
「ヒトは食べたもので出来ている」「身体の原子は蓄積されたりせず、毎日入れ替わっている」
というような、他を取りこむ事で成立している生理現象の事実からも、
はるか遠く遅れてしまっていると言えるのではないかと思う。

きっとそういう人は、幼い人や未だ見ぬこれからの人たちのことを考えていない。
私たちは、私たちがそうであったように、この足かせ/恩恵を、次の世代の人に渡してもゆくのだ。
私は、新しい世代の人たちが、私たち以前よりももっと深く進んだ見方・考え方を見つけて行くことを期待しています。
臨済哲学を学んでいる父が以前教えてくれたのですが、
「本当の師は、弟子から乗り越えられるのを望んでいる」のだそうです。
私も、真に良いものとは、それを乗り越えられることを望んでいるはずだと思う。
以前、ある人にも書いたのだけれど、
乗り越えていかんとする者と乗り越えられるのを待つ者、
両者とも実に孤独ですが、そんな厳しい孤独の中においてこそ、
人間の生み出すものは自然の美と対等に近づく気がするのです。
自然界の厳しさからある程度逃避してしまえる私たちにとって、
残された厳しさと、極限の個(孤)と直面する機会があるとしたら、それしか残っていないでしょう。
結局、理解を拒絶したようなわかりにくい表現をあえてする人や、
わかりもしないことを断定する人というのは、
後から来るひとが自分たちを超えていくことを、終わらせたいのでしょう。
だから、「最終」の人、the ultimateになりたいと欲する。
(キリスト教では、預言者は時代の新しい方が上だそうで、
それでムハンマドの方が新しいからといってイスラムを敵視しているとかなんとか。
そんな意味でも、自分が最終者である必要があるのかもしれません。)

以下は、大好きなある哲学者の思想の解釈(ウィキペディアより)の転載です。
「絶対的原理を廃し、次々と生まれ出る真理の中で、それに戯れ遊ぶ人間を超人とした。」
「(人間とは)流転する価値、生存の前提となる価値を、承認し続けなければならない悲劇的な存在(喜劇的な存在でもある)であるとするのである。だが一方で、そういった悲劇的認識に達することは、既存の価値から離れ自由なる精神を獲得したことであるとする。その流転する世界の中、流転する真理は全て力への意志と言い換えられる。」「いわば彼の思想は、自身の中に(その瞬間では全世界の中に)自身の生存の前提となる価値を持ち、その世界の意志によるすべての結果を受け入れ続けることによって、現にここにある生を肯定し続けていくことを目指したものであり、そういった生の理想的なあり方として提示されたものが「超人」であると言える。」

ことばは正しさを語るためにあるんじゃない。
それこそ唯一無二の<わたし>という、この世界との関係そのものを表現するためにある。
唯一無二は、無限の唯一無二のなかにあるからこそ、二つとないものになる。
この世に一つの価値しかないのなら、唯一無二なんて必要がない。

フィッシュマンズの佐藤君は、この唯一無二の<わたし>の世界を音楽にしようとした人です。
自分の日常に何にもないなら、何にもないことを音楽にすればいい。
言いたいことがなければ、言いたいことがないことを音楽にすればいい。
それが自分自身であるならば、それをきちんと音にする。
音楽には空気のようであってほしい(きっと佐藤君にとっては音楽なしではいられないという意味もあったんじゃないかしら)。
だから、詞も空気のようであってほしい(音楽とことばの一致=表現内容と表現者の一致、と同義だったとは私の勝手な推察)。
はっきりした喜怒哀楽がなければ音楽にならないなんてことはない、
こういうものじゃなきゃ音楽にならないなんてことはない、
と生前、彼は語っていました。
そして、彼はフィッシュマンズのほとんどの曲を作っていたのですが、
音響派と呼ばれていたフィッシュマンズなので、意外な気もするのですが、
曲を作るときいつも、「まずはことばありき」で書いていたそうです。
音を先に作って、そこにことばをあてがうと、ことばが間に合わせみたいで嘘っぽくなるからだそうです。
例えば「あーーーの日♪」の「あーー」を聴いている時、
日本語的に何を言っているのか瞬間的にわからないようなことはしない、と。
日本語に聞こえる音節でリズムを作る、ということを意識していたそうです。
日本語も小学生でもわかることば、英語も中学生でも知っている和製英語のみ。
本当は佐藤君はさらりとスゴイことをしていたのです。

フィッシュマンズ Go Go Round This World!


(つづく)

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