※本文内の●~●部分は追記したところです(13時45分)

前回の記事で直したいところというのは、諺の件(くだり)でした。
本文をいじってもいいのですが、読み返す手間が面倒だと思われるので、こちらに書きます。

書き方がわかりにくかった気がするのですが、要は、
「人の褌で相撲を取る」という諺が今日、絶妙な例えとして口語で使用できるということは、
人の褌で相撲を取っていることを、見抜いてきた人がいた事を意味している。
そして、諺はそこに一般的な支持がなければ、“絶妙な例え”でもないし、共感もされない。
共感されない諺なんて死語になっていくだけです。だけど、この諺は今も大衆的に“的を得た”価値を持っています。
だから「人の褌で相撲を取る」ということを見抜く力は、特殊な能力でもなんでもなく、
大衆が普通に持ってきた力だってことを意味しているんじゃないかってことなのでした。

あとガンジーのことば、
「Happiness is when what you think, what you say, and what you do are in harmony.
幸せとは、 あなたが考えることと、 あなたが言うことと、 あなたがすることの調和が取れている状態です。」
を付け加えておきます。
説教くさいかな。

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ここから新しい記事です。

今や、ベストセラー作家と呼んだ方がいいんじゃないかと思われる、人気分子生物学者の方の本に、
こんなようなことが書かれていました。
浜辺を歩いている時、貝殻を見つけた。触らずとも、すぐにそれが中身のないただの貝殻だということは分かった。人はどうして生きているものと死んでいるものを見分けられるのだろうか。生物と無生物のあいだには何があるんだろうか。
その本には、この答えが書いてあったのかどうかはよく覚えていないのだけど、
“動物的な嗅覚”なんて表現があるように、こういう理屈ではなく明文化できないような、
察知する能力というのがヒトにも備わっていると思います。
そしてこういう能力は、知覚にも必ず影響を与えているに違いない、と思うのです。
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例えば、精神病に関する専門知識がないのに、
精神病患者を、それと見分けられるのは何故でしょうか。
視線が泳ぐとか、1人でブツブツ言ってるとか、赤色に異常に反応するとか、
あとこれは幻聴のせいなのですが、急に笑い出すとか、
とにかく「挙動不審に見えるから」というのが主な理由ではないでしょうか。
そして、何も悪いことをされてもいないのに、精神病者に対して偏見を持ってしまうのは何故でしょうか。

喫茶店で働いていた時に、常連さんに統合失調症の方がいました。
いつもは物静かな方なのですが、その日は、躁の波が来ていたのか、
とても機嫌がよく、ハイテンションでわりと大きい声で独り言を話されていました。
一緒に働いていた女の子たちは怯えて、嫌がっていました。
その彼女たちの態度が無性に腹が立ったので、
「別に怒ったりしてる訳じゃなくてご機嫌なんだからいいじゃん。
機嫌がいいんだから危害を加えられるわけじゃないでしょ!」
と言いました。だけど、彼女たちは怖がっていました。
(彼女たちの感情は畏怖でもあったんだろうと、今は思います。
 畏怖というのはヒトが、自由で天真爛漫な神・ディオニュソス的なものに対して抱く感情だろうと思います。)

彼女たちの怖さの質とは何かというと、それは「脅威」だと思います。
自分の領域(パーソナルスペース)が侵されかねない、侵されているという脅威です。
人は無意識のうちに他人との間に距離をとって、快適な空間を保とうとし、
この個人的な空間のことを「パーソナル・スペース」と言うのだそうです。
パーソナルスペースとは心理的な私的空間で「持ち運び可能な縄張り」とも言えるそうです。
恐らく精神病の人との人間関係の困難さと、彼らが受ける社会的な偏見の原因は、
このパーソナルスペースを互いに上手く取れないことにあると思います。
直接危害を加えられたわけでもないのに、相手に恐怖を感じ、退けようとするのは、
ヒトに、物理的な侵犯だけでなく、心理的な侵犯ということがあるんだ、ということだと思います。
これはハラスメント問題の浸透で、近年とみに見直されている感覚だと思います。
いくつか一般的なパーソナルスペースの例を挙げてみます。
※但し、私がパーソナルスペースについて読んだ本は1、2冊で、15年近く前になります。
 反証されていることや、古いデータであることも含まれるかもしれません。
 きちんと知りたい方は、ご自分でも調べてみてください。
 エドワード・ホールという人は「かくれた次元」という本を出しています。

<パーソナルスペース(とそれに関連するもの)>

パーソナルスペースは4つのゾーンに分かれる
・親密な関係 45cm以内     家族・恋人などとの身体的接触が容易にできる距離
・個人的関係 45~120cm   友人などと個人的な会話を交わすときの距離
・社交的関係 120~360cm  職場の同僚と一緒に仕事をするときなどの距離
・公共的関係 360cm以上    公的な人物と公式的な場で対面するときの距離
そしてその4つのゾーンをさらに「近接相」「遠方相」の2つに分類するそうです(→wiki)

・地位が高いと空間も距離も大きくなる。
・内的統制が取れている人はパーソナルスペースは小さく、外的統制タイプはパーソナルスペースは大きい。
・崇高さや威圧的なものを感じる相手は身長が高く見える。
・正面から他人が来た場合、どちらかに避けるべきかを見極めるために、2.4mまで相手を注視し続ける。
・吊り橋を渡るなどの緊張する体験の直後に出会った人に対しては好意を持つ傾向がある。
・逃走距離は動物が大きくなればなるほど大。
・目撃者が多いほど、援助行動は起こりにくくなる。
・特定の対象を繰り返し経験するだけでその対象に対する高感度、愛着、選好性が増大する。
・狭い空間に閉じ込められる囚人は、高血圧、心臓疾患、心身症になる確率が高くなる。
などなど...


これらはヒトが動物として先天的に持っているものだけでなく、
文化的に後天的に有した感覚のものも多分に占めるでしょうから、個人差があります。
社会や国や民族によっても違ってくるものだそうです。
だけれど、こうしたパーソナルスペースなどに代表される、縄張り意識であるとか、
無意識レベルの生理的な感覚というのは、
ヒトの考えや発想に密接に関係してくるんじゃないかと思うのです。
いかに言語(意識)上の形而上的な考えや、思弁の世界であっても、です。
抽象的な形容ではありますが、“健康的な考え方”とか“バランスのとれた考え方”とかいうのがあって、
なるべくそういう考え方を持ちたいと願うものですが、
その考え方の“健康”や“バランス”には、生体的に持っている縄張り感覚のバランス感覚は関係してくるんじゃないか、
と思うのです。
●自己評価が高すぎる人や低すぎる人は、他人との距離感にバランスを欠く傾向があるように、
落ち着いてバランスのいい考え方をする人は、パーソナルスペースの感覚もバランスがいいのではないかと思います。●
動物的な健康は、人間的(=知的 嫌な言い方ですが)な健康の前提でもあるというか。
ポランニとかいう人がこう言っています。
「全ての発見や創造は自覚できず、明文化出来ない暗黙の知なしにはあり得ない」

上で書いたように、私は精神障害者の方との問題はパーソナルスペースの問題ではないかと思っています。
以前「<わたし>という危機」というシリーズで記事に書いてきた内容とも関係するし、
精神病理学者の木村敏氏の「わたしとは<あいだ>のことである」でもあるのだけれど、
例えば「自分は他人から監視されている」という強迫観念を抱いている精神病の人は、
自分にだけそういうことが起きていると確信します。自分だけがおかしい。
他人に同様なことが起きているとは想像出来ない傾向があると思います。
つまり<わたし>の意識はあるけど<わたしたち>という意識が持てない。
しかし、<わたしたち>の意識を持てないと<わたし>は破たんしてしまうのです。
(<わたし>を日本人という集団に帰属させて考える場合、日本人以外の人を考慮に入れられないという事態が起きます)
<わたしたち>から切り離されてしまった孤独な存在が精神病者であると、私は感じています。

私の意識はほぼ日本語で出来ていますが、日本語は私だけの言語ではありません。
私たちの言語です。
人は1人1人違うはずだし、全く同じわけなんてないのに、
どうして私たちはある種の安心感を持って、「私たち」ということばを使うことができるんでしょうか。
これは私なりの考え方ですが、
「私たち」は私もあなたも溶け合っている無意識の領域の「人称」だからではないか、と思ったりするのです。
無意識の世界はお互いに共通の領域というか。心の無自覚部分は外部の環境と一層密接なんだそうです。

生理的興奮そのものは様々な情動経験の間でよく似ており、どの情動経験に至るかは未定で、
むしろそこから先の一種の自己知覚・自己認知・自己帰属の過程に負うところが大なんだそうです。
私とあなたが違うように思えるのは、
自己知覚~自己帰属という当人の個人的経験が反映された「結論」の部分が違って見えるだけのことなのかもしれません。
その結論の部分を、私たちは<わたし>や<あなた>と呼んでいるだけなのではないかしら。
<わたし>は<わたしたち>なしにはあり得ません。
私とは、<わたし>と<わたしたち>のあいだなのです。
だから私には、<わたし>と<わたしたち>の両方の問題が同じ生の中で起こりうるわけです。

パーソナルスペース・なわばり意識というのは共通感覚ですし、
まさに<わたしたち>の感覚でありつつ、<わたし>を支える部類のものだと思います。
精神病の人のカウンセリングで、パーソナルスペースの取り方を患者に教授する病院もあるみたいです。
精神病患者に対する偏見がすぐには改善されるとも思えないので、
自衛の意味でパーソナルスペースを学ぶことは、わりと患者のストレス軽減に即効性があるかもしれない。
本当は悲しいことなんですが。
動物園の動物の多くが精神病だというのはよく知られたことですが、
原因は環境の変化など諸々あるでしょうが、
檻内の過密さや、群衆に見られることのストレスが主たるところなんではないでしょうか。
これもやはりパーソナルスペースの侵犯が問題だと思います。

先日中嶋君が養豚場のことを記事にしましたが、
こうした過密飼育を止めて、家畜を放牧する飼育方法もわりと盛んになってきました。
家畜にもパーソナルスペースを確保しようという動きです。
ウチは最近卵は食べるのですが、放牧されて育った鶏の卵を買うようにしています。
少なくとも臭いがくさくないです。
ただ、放牧されたものの方が美味しいかはわかりません。
人の味覚ほど当てにならないものはないので。
添加物で出来たイクラの方が美味しいと言い、ブロイラーの焼き鳥の方が美味しいと言ったりします。
放牧して育ったオージービーフは筋肉質で固く、やっぱり柔らかい国産には人気が負けてしまうようです。
ひと昔前、トリと言えば軍鶏肉だったようですが、
現代人が焼き鳥にしてブロイラーの鶏肉と食べ比べると、軍鶏は固くて美味しくないそうです。
昔の人はでも、軍鶏は鍋で食べたそうです。鍋にするなら断然軍鶏肉が美味しいそうです。
素材が違えば食べ方(調理法)も変わるということを忘れて、
純粋に素材として、どちらが美味しいかどうかを判定することなんて出来る話ではないと、私は思います。

本当に動物が好きな人は、檻に入った動物を平気で見られるわけがないから、
動物園には行かないだろうと思うのと同様に、
本当に家畜を大事に思うなら、家畜を過密のところで育てずにパーソナルスペースを確保して育てようとすると思います。
そして、そういう思いやりを真に持っているなら、
人に対してだって、パーソナルスペースを侵犯しようとは思わないはずだと思います。
ウチは放牧で家畜を育ててますと言いながら、
ずんずん近寄って相手のパーソナルスペースを犯してまで家畜を売り込む人がいたとしたら、
「放牧は家畜に優しいから」なんて嘘で、ただ商品価値を上げる為の方便でやっているに過ぎないことは、明白です。

ネットにもパーソナルスペースはあると思います。
それは日常のパーソナルスペースとは異なるかもしれません。
けれどそれは、郷に入っては郷に従え、
社会や民族が変わればパーソナルスペースの感覚が異なることと変わりはないと思います。
ネットは言語の世界ですが、ユーザーは決して言語だけを使っているわけではありません。
例えば、前回書いたハンドルネームや、書き込みの頻度とか、親しくないのに親しい間柄のように書かれたとか、
記事とは関係ないことを書きこんでくるとか、文字と文字のスペースが変だ、とか絵文字が多すぎるとか、
実際交わされた言語の中身だけではなく、そういったことを総合的に感じ取って判断します。
そろそろネットのパーソナルスペースというものを、各々が考える時期が来ているんじゃないでしょうか。
ネットの世界のアクセスの簡便さが、ともすると、
ヒトが本来備えているパーソナルスペースの関係を狂わせてしまいますが、
それが狂ってしまえば、考え方までに悪い影響が出かねません。
パーソナルスペースが十分に確保された方が健康に良いと言うのならば、
ネット上でも同じことが言えるのではないでしょうか。

相手の健康を重んじることは、何よりも先に優先すべき、関係の第一義的項目です。
何を言っても書いても、それができていないなら何の意味もありません。
健康とは、全ての人がみんなで望んだとしても、足りなくなることがなく、
みんなが持てたとしても価値の下がらない珍しい富です。
※この「富」という言い方は、ガンジーやシナジェティクスの梶川さんから拝借していることを白状しておきます。
「皆が持てたとしても決して価値が下がらないもの」こそが、本当の富なんだと思います。
そして、宮沢賢治が求めたものも、そういったものだったんじゃないかと思ったりするのでした。