ノ ー ト

好 き な 読 書 を 中 心 に 考 え 中 を 記 録 す る ノ ー ト

2010年08月

ペット

給食のことは時間がかかりそうなので、また後日になります。

昨今ペットとして、ポピュラーな犬猫以外の珍しい?動物を飼うのが
流行っているのは知っていたけれど、
先日テレビでそれらのぺットを“エキゾチックアニマル”と呼ぶことを初めて知った。

そして、そのエキゾチックアニマルを診る体制がほとんどの動物病院で整っていない、
という現状のことも。
そのテレビ番組では、
世界のエキゾチックアニマル獣医界でも知られている若い日本人獣医が特集されていたのだけど、
その方が言うには「日本の動物病院はほとんど犬猫牛馬に対する知識くらいしかない」そうだ。
そして、
「飼い主は病院に来たら安心してしまうし、
だからこちらも何とかしなくちゃいけないから、プレッシャーですね」
と言っておられた。
そしてその獣医さんによる亀(何という種類の亀か忘れました)の結石手術の様子も放送されたのですが、
(この手術法は彼によって生み出されたもので、
その手法はネットなどによって国内外のエキゾチックアニマル獣医によって共有されているようでした)
しばしば家庭での飼育では、水分が不足したんぱく質が過多になる傾向があるようで、
亀の結石は増えているそうです。
約15㎝の個体から直径1㎝はあろうかという結石が2つも取りだされたのには驚きました。

飼い主自身はその亀を可愛がっているのだろうし、
日本でも数少ないエキゾチックアニマルを診る獣医の元を訪ねているのだから、
良心的な飼い主であると思う。
でも、可愛がってるつもりで、
あれだけの結石を2つためてしまうような生活をペットに強いているとは皮肉でしかないと思う。
結局、売買だけが繰り返されているものの、正しい情報は共有されていなのだ。
多くの動物病院では知識がないために誤った診断と治療法が繰り返されているようだし、
そうやって動物病院で病因がうやむやにされたのでは、
飼い主の方へも、いつまでたっても病気予防の為のノウハウや知識は浸透していかない。
あるサイトでは、
実際多くは、生き物が病気になってから初めて、その病気について調べたり、多くの動物病院ではエキゾチックアニマルを受け入れる体制が整えられていないことを知ることになる。病気になって時間的余裕がなくなってしまっているので、時間も知識もないままに、すぐに受け入れてくれるようなところに行かざるを得ない。
というのが実態のようです。
正しい飼い方を知らないで、
しかもどこに、自分のペットを診てくれる病院があるのかを知らないで
動物を飼うのは非常に残酷だと思う。
私は今はペットを飼わない考え方なので、ペットショップ自体に行かないのでわからないのですが、
エキゾチックアニマルをペットショップが販売する時、
購入者の居住区から最短のエキゾチックアニマル専門動物病院の所在を案内しないのでしょうか。
それをペットショップが行うことで、診療先の情報が偏ったり、
紹介料などが発生したりというトラブルでも起きるんだろうか...。
所轄が厚労省なのか通産省なのか知らないけれど、
エキゾチックアニマル販売業者に、
動物販売時は必ず専門医情報を購入者に案内するよう義務付ける必要があると思う。


それから、娘の予防接種のことで調べていた時に知ったのだけど、
やっぱりペットにも人と同様にワクチンの副作用問題は当然あって、
しかし驚くなかれ、何のワクチンだったか失念しましたが、
ペットのワクチンの副作用データは、ここ10年くらいになってやっと取られるようになったようです。
つまりはそれまで、一定量以上の飼い主が副作用のデータを強く要求してこなかった証しでしょう。
今でこそ、娘の予防接種でなんだかんだと騒いでおりますが、
私とて、18歳位までウチで飼っていた犬の予防接種時に、副作用を心配したことなど
1度もありませんでしたし、
ワクチン接種前に副作用について調べたことなどありませんでした。
ネットで検索すると、ワクチン被害のペットを飼われている飼い主さんのサイトも沢山ありますし、
上記に紹介したような熱心な獣医さんの文章にも出会うことが出来ます。
状況も情報も豊富とは言えないまでも、一通りそろってる。
あとは本当に飼い主次第。

私は犬が好きなので、黒柴飼いたいなーなんて思っていたこともあります。
でも娘が生まれてから、娘の予防接種も未だこのような状況なのに、
加えてペットの予防接種まで決断するほどの力量が自分にあるとは思えません。
だからペットを飼う資格はないのです。
少なくとも狂犬病の感染時の死亡率は100%だそうで、
中学生の頃、友人の飼い犬にお尻をかまれましたが
何の心配もなく治療しないで済んだのはワクチンのおかげですし、
公衆衛生の感覚も人と動物とで同じものを持つわけにもいかないので、
感染症予防の為にペットがワクチン接種することをはっきりと否定する力は、私にはない。

アニマルセラピーが体系化され、盲導犬や老年夫婦にとってのペットの存在などを考えると、
いきなり人から動物との生活を奪う気持ちにはなれない。
(ただ「ペットは飼われて幸せなのだ」とは思えない。
この筋で行くと、「養豚所の豚は食べられるのが幸せなんだ」というのと同じ次元になってしまうし。
幸せかは本人にしかわからないor本人さえわからない、そういう部類のものだと思う)

ただ、人がいかに動物を都合よく使っているのか、そしてまた、
いかに彼らが人にはないたくさんの力を有しているのかを決して忘れてはならない。
真実、ペットを飼っている全ての人が心の底から
「ペットは家族 家畜ではない」と思っているのであれば、
動物のワクチン問題は、人のワクチン問題とは比較にならないくらい、
もっともっと倫理的にも医学的にも難しい問題なはず
ではないでしょうか。

今の私には恐らく、ペットは家畜にしか見えていないと思う。
直也君の実家の柴犬は、今に始まったことではないのですが、
餌とおやつのあげすぎで肥満状態で、最近病気になり獣医から怒られたそうです。
皮膚病にもなり、毛が抜け落ちました。
もしこれが私の甥っ子・姪っ子だったら、私は病気になるまで看過したりはしないでしょう。
確実に私が「ペットは家族」なんて思っていない証拠です。
もしそれを言ったら偽善になる。

狂犬病のワクチンも、感染症のワクチンも毎年ではなく、3年に1度くらいにするのはどうだろう、
と書かれている獣医さんもおられます。
(リンク先→ 狂犬病 ・ 感染症
ただ、それを後押しする確たるデータがないのが現状です。
なので、ペットを飼っている方は安易に飛びつかず、冷静に学んでから決断されてください。


調べれば調べるほど、己が情けなくなることばかり。

学校の給食 その1

  • tenzo

    ちょうど、私の学校が嫌いな理由などを、恨みつらみにのせて書こうと思っていたところ、
    まゆみさんのブログで、給食に関しての記事を読みました。
    まず、学校のトイレ事情や机や椅子などの備品についての不平不満を書こうと思っていたのですが、
    先に給食のことを書こうと思います。


    私は小学生のころから、父にこう言われて育ちました。
    「給食の時、児童みんなに声をそろえさせ規則的に“いただきます”と言わせるのは、
    軍隊みたいでお父さんは嫌いだ」
    と。
    決して父は“いただきます”と言うのが嫌だとは言っていない。
    あくまで言わされているのが嫌なわけです。
    こんな父だから、紅組などの集団に分かれてする応援合戦が見たくないからと言って、
    小学校の運動会も観に来なかった時もある。
    父の、マスゲーム的なものに対する嫌悪感には一貫性があったと思う。
    卒業式の国歌斉唱でも、「ご父兄の皆さん、ご起立下さい」と言われても、
    最前席で足をくんだまま絶対に立たなかったし歌わなかった父なのです。
    家庭訪問でも先生に向かって「僕は学校には何の期待もしていません」と言ったりしていた。

    私自身は学校でも普通に“いただきます”と言っていたし、
    それを言うことにいささかの抵抗もなかった。
    語源だとか由来だとかを考えて、それに意味があるから、という筋のある理由でもなく、
    ただ単に、あいさつは何度してもいいものだし、
    あいさつは一日に何度繰り返しても決しておしゃべりにならない、
    希有な言葉だと思うので好きなのです。
    ざっと検索しただけですが、“いただきます”の語源はこんなように書かれていました
    (ただの受け売りです)。
    “いただき”は、動詞である“頂く”“戴く”の連用形です。山の一番高い部分を、頂(いただき)と言います。ですから、“いただく”は、本来は頭上に物を載せる意味を持つ語になります。中世以降では、自分より立場が上位である者から物を拝領する際に頭上に載せるような習慣があり、“いただく”“もらう”等の謙譲用法が生じました。後に、上位の者から頂いた物や神仏に供えた物を頂き飲用する際にも、やはり、頭上に載せてから食事を始めたことから、飲食をする意味の謙譲用法が生まれ、食前の際に挨拶としての“いただきます”が定着し今日に至ってます。
    仏教国のスリランカやチベットでは今尚、頭上に頂く習慣が残っています。
    “いただきます”は日本語独特の表現だから、
    日本人として残していかなければいけないという方もおいでですが、
    私はそれほど日本人としての自覚がありませんので、
    日本の伝統という意味での理由なら強い共感は持てません。
    それこそ世界中に、収穫祭にお供えしたり、
    狩りや漁の前にお供えをするなどの共通の風習はありますし、
    キリスト教だって食事の前にお祈りをするようだし、
    道元の“赴粥飯法(ふしゅくはんぽう)”という、
    食事における心構えの教えの中で日本に紹介されたという、
    食事の前に唱える偈文“五観の偈”だって元々中国から伝えられたものです。
    この“五観の偈”は私なんかには要するに“いただきます”って意味だなと思う。違うのかしら。
     一つ目には、この食事が調うまでの多くの人々の働きに思いをいたします。
     二つ目には、この食事を頂くにあたって自分の行いが相応しいものであるかどうかを反省します。
     三つ目には、心を正しく保ち過った行いを避けるために、貪りの心を持たないことを誓います。
     四つ目には、この食事を、身体を養い力を得るための良薬として頂きます。
     五つ目には、この食事を、仏様の教えを正しく成し遂げるために頂きます。    (偈文の略訳-ウィキより)
    “いただきます”という精神は、私なんかには非常に普遍的なもののようにしか思われない。
    お供えしたものが食卓に並ぶことは“下ること”で、
    お供え物を食べることは“お下がり”を受けることのようです。
    ここにはやっぱり上(頂き)から下へという構図と、
    語源のところにも出た“拝領する”という意識があるように思う。

    それでも、上記のとおりの“変わり者”?の父親に育てられた私としては、
    食事の挨拶は、形式だけの心にもない呪文ならば唱える必要はないと思うし、
    強制すべきではないと思う。
    ただ、子供が言いたくない、と申し出るならわかるけど、
    親がしゃしゃり出てきて“いただきます”と言わせるなというのは筋違いな気がする。
    子供が自ら判断する材料を与えること、それが食育なんじゃないでしょうか。
    大事なのは、どれだけ“いただきます”を実感に変えられるかだと思う。
    これは、精肉卸しや冷凍食品卸しで勤めた経験のある直也君がよく言ってることなんだけど、
    本当に食育というのならば、教師は子供たちと、
    屠殺場で生きた動物がいかに解体されるかを見に行き、
    農作業を体験し、冷凍食品がいかにして作られるかを見学に行かなくちゃいけないと思う。
    それをしてから初めて、子供自身が“いただきます”と言うのか言わないのか、
    という問題ではないでしょうか。

    ただ、私が読んだ本の中の統合失調症の患者さんは、
    子供時代に親に何度か連れていかれた屠殺場の経験が、
    病気の発症に深く関わっているということだったし、
    おそらく授業で屠殺場にいこうもんなら、多くの子供たちがショックを起こすでしょう。
    それをケアする専門家も用意しなくてはならないので、屠殺場見学は現実的ではないでしょう。
    それより保護者が反対して絶対に実現しないとは思いますが...。

    でも本当の実感を持って“いただきます”と言うには、
    それだけの厳しさが必要なのかもしれません。
    でも、こういう体験は学校単位ですることじゃないのかな、
    学校におんぶにだっこっていうのもおかしいし。
    本当だったら親が直接子供に教えなくちゃいけないんでしょう。
    果たしてこの私は、娘を屠殺場に連れていかれるのか?
    ウチは肉は食べないけど、自分トコが食べないからいいって問題でもない。
    それに向けても色々調べなくちゃいけない...。
    ああ、給食の道は長く険しい。

    ※特に曹洞宗の食事作法に関してわかりやすいページのリンクはこちら
    次はもともと書こうと思っていた、給食のことについて書きます。


    つづく

    水泳

    YAHOOのニュースから

    <日本泳法>水泳初心者にもおすすめ 波、流れに応じ多様 水難も防止
    水泳といえば、クロールや平泳ぎといった競泳を思い浮かべる人は多いだろう。だが日本には武芸の一つ「日本泳法」が伝えられ、各地の教室で学ぶことができる。波の高さや流れの速さに応じた泳ぎがあり、水の事故から身を守ることもできる。年齢や体力に合わせて泳げるため、スピードを追求する競泳とはひと味違った生涯スポーツとして、子どもから高齢者まで楽しめるのが特徴だ。....(続きは上の見出しをクリックしてください)

    これいいなぁと思う。是非学校の水泳の授業ではこの「日本泳法」を主軸にしてくれたらいいのに、と思う。
    私は俗にいう「運動神経のよくない」方で、学校の体育の授業には嫌な思い出ばかりがある。
    年長から小学校1年生の時分、スイミングスクールに通っていたけれど、
    そのころと水泳の技術と泳げる距離はあまり変わりがないと思う。
    きっと水泳の授業が嫌いで、それであまり泳ぐことも好きでなくなってしまった。
    こんな私が水難事故にでもあったら自分の身を助けられるだろうか。
    きっと助けられないと思う。
    ‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐

    学校の授業は、というか、本来教育というのは、
    まずいかにして自分の身を守るかという技術の伝授でなければいけないんじゃないか、と思う。
    少なくとも小学校1年生から毎夏、水泳の授業があるわけだけれど、
    そのカリキュラムによって、どの程度、水難事故の当事者にとって役に立っているのだろうか。
    競泳ばかりをやって、生徒たちに水泳に対する苦手意識を植え付けるようでは、本末転倒だと思う。
    (学校に対する怨恨が露わになっていますが...)
    まず、(日本泳法では、)水泳の授業では不可欠のウォーミングアップは行わない。「日本泳法は日常の動きを水の中でするもの。それに、洪水に直面したら、準備運動をする暇はないでしょう」と言われ、納得。また、どんな技をしていても、顔を絶対に水につけない。顔を上げたまま平泳ぎが出来ない記者にとっては信じられない光景だ。コツは、 顔を上げようとしないこと 。人間の骨格は顔を上げようとすると胸が反るように出来ているから、体が沈んでしまう。むしろ背中を丸めるような姿勢をとった方がいいのだという。(「クリンスイ・クラブ」の記事より抜粋)

    棋士の羽生善治さんは、将棋を始める子供たちとその親にアドバイスとしてこう言っていた。
    「まず、勝たせてあげることです。勝つ楽しみを最初に知らなければ、続かない」と。
    「勝ち」という言葉を使う羽生さんの意見と根本は変わらなくって、
    「勝ち」ではないけれども、“泳ぐ楽しみ”をまず知らなければ、その子供の中での「水泳」は終わってしまうと思うのです。
    日本泳法は誰でも泳げるし、初心者に向いているのだそうです。
    まず、日本泳法で身を守るための泳法を身につけてから、
    その後、競泳だって何だってやりたい人はそちらへ進めばいいのではないでしょうか。

    これまた「クリンスイ・クラブ」からの抜粋。
    素晴らしい、と感激した一文です。
    「現在、学校で習う水泳というのは、スピードを重んじる競泳的水泳ですよね。競争社会の現代らしいといえばそうですが、競泳で1位になる人は一人しかいません。しかし日本泳法は自分との戦いで、技を磨くことによって自分を高めることが出来る方法です。したがって一緒に練習する人たちは自分を高めてくれる人たちで、自分の敵ではないのです。海や川で溺れてしまうなどの水難にいかに対処するかも大事ですし、そうした自分の身を守るという目的のほかに、自らを磨き、また互いに磨き合うという、武道の精神をもって日本泳法をぜひおすすめしたいと思っています」。
    ただ、私としては昨今話題になっている、
    「学校教育でも武道を必修にする」という路線には、現時点では反対。
    文科省に言われて強制的に武道をやるというのは、なんか違うと思う。
    どんなに良いことでも、
    特に身体の鍛練といったことで、国家の管理下で強制的にやらされるのは嫌です。
    学校で武道を教えるということになると、それなりの数の指導者が必要になるけれども、
    武道は型だけでなく、精神面も重要だから、
    その両方を兼ね備えた充分な数の指導者が、おいそれと確保できるとも思われない。
    実際指導者の、生徒の体調に対する配慮が充分でなく、柔道の授業で亡くなった生徒も実は沢山いるそうだ。
    この場合、学校も教育委員会もその責任の所在をあやふやにし、多くの親が泣き寝入りに近い状態にあるという。

    群れで生活する哺乳類の中には、病気や傷を負った個体をかばうように仲間が行動する動物がいるようだけど、
    (もちろん、これは人間が解釈したがるような個体同士の優しさの類ではなく、
     群れにとってそれが最善策だ、ということなのかもしれないけれども)
    子供同士も組み合っている相手の状態が本当はよく分かるはずだから、
    子供達が自分で気付いたことを自信を持って指導者に伝える術を持ち、
    なおかつ伝えやすい環境を指導者が作れなければならない。
    もちろん、本人も自分の体調の変化に対して鋭敏な感覚を持ってなくてはいけない。
    それには、そういう感覚を育てる家庭も必要だろうし...。
    私は、5年前にやっと卵巣のう腫があることを知ったのだけれど、
    冷えに関して全く無頓着な父子家庭で育ったので、正直“自分が冷えている”という自覚さえ持っていなかったので。
    でも、こういう考えは行き過ぎると育ちに関する差別にもなりかねないし、
    実際、数々の宗教団体の勧誘ネタにもなってしまっている。

    そういう意味では、
    日本泳法を学校教育でも、というのも急には難しいのだろうと思う。
    本当に口惜しい。
    こういった伝統は、1度断絶すると修復するのに多大な時間とエネルギーがかかってしまう。
    0からではなく、マイナスからの出発になってしまう。
    河井隼雄さんが、
    「灯りを持っていない人に灯りを渡して明るくするのは簡単なんです。
    厄介なのは、すでに灯りを持っている人です。灯りを取りかえるのは難しい。
    もうすでにその人は充分明るいつもりなのですから」
    というようなことをおっしゃっていた。
    そういう難しさ。

    まぁ、でも今日はこの日本泳法を知った喜びにひたろう。
    羽生さんが言ったように、それが次につながるだろうから。
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