ノ ー ト

好 き な 読 書 を 中 心 に 考 え 中 を 記 録 す る ノ ー ト

2010年10月

目論みとしての祈り ~菅沼さんに捧ぐ~

ここ2・3日、「祈り」という言葉について考えていました。
先に言うと、私はこの「祈り」という言葉が大変に苦手です。
そして、この言葉を多用する人に至っては、はっきり嫌いだと思う。
どうしてこの言葉を使うことに嫌悪感と不信感があるのか、ずっと考えていました。

「自然農」とか「自然な子育て」とか「自然食品」だとか、
そういうキーワードがあったとしたら、私はそういう類に属する方だと思いますし、
ある雑誌の「オーガニックな子育て」特集号とやらをのぞいたら、
載っていた“お勧めの書籍”は、ことごとく持っていたり・読んできたものばかりだったので、苦笑してしまった。
結局は私も、ステレオタイプの、敷かれたレールの上を上手に行ってるだけじゃないのか、と。
思春期に入った中学生がまず最初に太宰治や
澁澤龍彦や寺山修二の本に手を染めるわかり易さと、一体何が違うんだ。

だけれど、上のキーワードに関する本やらサイトやら話やらを見聞きしていると、
みんな「祈り」という言葉を多用し、「祈る」ことを勧めるのにも抵抗がない様子なので、
いつもそこで興冷めし、引いてしまう。そこから先へのめり込むことが出来ない。
私はこんなにも抵抗感を感じている。
どうしてそこが違うのか、それを探っていけば何らかの自分の発見がある気がして、
なのでずっと考えていたわけです。

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私は道元が好きですが、道元の何に魅かれたかというと、
やはり道元その人の疑問の持ち方だと思う。
答えには多分個性は関係ないけれど、疑問や失敗には個性が色濃くあると思う。
何度も引用している映画のセリフ
「answer makes you wise but question makes you human」
だからでもあるだろうし、
何より、答えが見つかるから疑問を持つのではなく、見つからなくても疑問とは抱くものだから、
答える人と疑問を持つ人は必ずしも同人物でも、同時代でなくてもよい。
そこに、“疑問を持つこと”の最初の意味を見る気がするのです。
開かれ即物的ではない、損得を超えた意思というものが、
本当に確かにある事の証しのような気がして。
大抵が余計だったり邪魔だったりする、人の様々な意思の中で、
それこそが人にとってとても大事な意思のような気がするのです。
意思という言葉が適当かは、ちょっと自信がないですけど。
(ただ投げかけるだけで終わらせてしまう無責任さとは、もちろん別物です)

道元は出家したての時、
「仏教では森羅万象全てが仏の存在であると言っているのに、
つまり人は既に仏なのに、どうして修業をしなくちゃならないのか?」
というユニークな疑問を持ったそうです。この疑問の持ち方が好きなのです。
(多分、道元は出自が高貴な身分だったので、仏門にまで立身出世を求める気持ちがなく、
修業をキャリアアップの手段ととらえる発想がなくて済んだからなのかもしれない、と勝手に想像。
貧富関係なく“気立ての良さ”はユニークな疑問を抱くには大事な素質だと思う。)

それでそのことを道元は色んな人に尋ねたものの、
「修業は仏の道に近づくためにするのだ」とか、
道元にとっては矛盾でしかない答えを返す人ばかりで、
誰も道元の疑問に納得できるような返事をしてくれる人はいなかった。
それで彼は中国に渡って、彼なりの答えを見い出す。
それが形になったのが「只管打坐」で、
修業は悟りの為とか何かの目的の為にするのではない、いわば修業自体が目的なのだ、
という答えに至るようなのですが、
私はそういう道元だから、嘘を感じない。
だって皆が皆、出家をして托鉢だけで過ごすのだとしたら、
これは思想としてはアナーキーだと思うのです。
あんまり使いたくない言葉ですが、本当言ったらこれは革命です。

道元は、年老いた病気の母を抱えて出家すべきか迷っている者に、
迷わず出家することを勧めたとか。
息子は自分が母を看なければと思っているけれど、
近所の人に面倒見のいい人がいて、良い出会いがあるかもしれないし、
仮に母親が亡くなったとしても、
その後長らえて病を重くして苦しむよりは良いかもしれない。
多分、ゆだねることはお終いにすることなのではなく、
物事を転じさせていくことでもあるんだ、という考えが道元にあったりしたでしょう。

そして道元的には、“座禅する自分”とは、
座禅している自分と、その場所、そしてその場所を取り囲む世界→宇宙と、
それらを全てひっくるめないと“座禅する自分”は描写できないことになるそうです。
だから、たとい年老いた母親と離れていても、
出家する自分から母親を消去することではなく、
出家する自分に含まれているということになるのかもしれません。
分かんないけど。
でも、これは決して政治的・経済的な解決の仕方ではありません。
年老いた病気の母親を喜ばせること、それが目的ならば
医学や経済学を問題にしたらいいのです。

でも、道元の考えていることは違う。出家はむしろ経済学の否定だと思う。
道元にとって、出家(修業)とは“何かの目的の為に”することではないはずです。
出家(修業)するかしないかは、そもそも母親が問題になるような事ではないんです。
(もちろん宗教法人は食いっぱぐれがないので、俗な意味では今や宗教も経済学でしょうが。)

そういう意味において、
信仰というのは“何らかの目的を達成するために持つもの”じゃないと思う。
信仰は目的と中身(内容)がないから、信仰なのだと思う。
祈りもそうじゃないかと思う。

“平和の為”にとか
“戦争がなくなるように”とか
“飢えや貧困がなくなるように”とかの目的で、
祈るのだとしたら、それは単なる「願い」や「のぞみ」ではないでしょうか。
「祈り」と「願い」や「のぞみ」がイコールならば、祈りという言葉をあえて使う意図とは何なのだろう。
「祈り」を政治利用しようとする企てではないのか。

平和は定義自体が充分ではないので、元来目的にもなり得ないと思うけれど、
戦争をなくしたり飢えや貧困をなくすのが目的ならば、
祈る前にやる事・出来ることは山ほどあるじゃんか。
そんなわかりやすい問題は、そもそも政治学と経済学の次元の問題だと思う。
「飢えや貧困をなくすことは資本主義内部の問題であって、
資本主義の“否定”ではない」
という指摘は間違っていないと思う。

例えば、○月×日△時□分にみんなで一斉に祈りましょう、なんていうイベントがあります。
それに参加する人たちが増えれば増えるほど、確かに何らかの変化は起きるでしょう。
人類みんなが一斉になんてことになったら、劇的な変化があるとも思います。
コンピューター制御以外の全てのシステムが中断し、
物流がとまり、ありとあらゆる生産ラインが止まる、
それだけで大きな変化があるでしょう。
でもどこからどこまでが「祈り」の効果だと、誰が判別できるんでしょうか。
そしてその結果、人にとって必ず良いことが起きるんだと考える根拠は何なのだろう。
今だかつてそれを人類がやったことがないのだろうから、その力は誰にもわからないはず。
何だか、「核の平和利用」という発想と似ている気がするのだけど...。
それでどんな結果になろうとも構わないというのならば、やってもいいと思う。

けれど、あるキリスト教の尼さんは「祈りなさい」と言い、
スピリチュアル好きな人々は「祈りましょう」と言う。
つまり、「命令」と「推奨」には必ずその裏に「さもなくば...」という脅しが隠れているのだと思う。
中学生の英語の授業で、命令形の後 and でつなぐと、
その後のセンテンスは「そうしないと~~になりますよ」
と言う意味になると教わった記憶がある。

そもそも、
その行為によってもたらされる効果を意図しなければ、命令も推奨もあり得ない。
祈りの効果がわかる、というのならば、神なんていないことにならないのかな。
神の否定。

私は道元のような意味での「出家したほうがいい」という推奨(や命令)の形でなければ、
あらゆる命令と推奨には“目的が先立っている”と思う。
「祈ること」を命令したり、推奨したりするからには、そこに具体的な目的があるはずで、
だからその時点で、
ある特定の理想の状態・社会・世界が目論まれていると思わざるを得ないのです。
それを目論んだ「祈り」なんて、決して私の思うところの「祈り」ではないのです。
そんな具体的な目的があるのならば、もっと現実的にやれることをしたらいいのだ。
祈るよりもシオニストの製品の不買活動でもした方がずっといいでしょう。

こうやって考えるうちに、思い出したことがあります。
友人の菅沼さんは33歳という若さで亡くなりました
(私の母が亡くなったのも、母が33歳の時です)。
最終的な病名を、彼女のお母さんにも妹さんにも聞けなかったけれど、
子宮癌か何かで、若さゆえにか転移のスピードも速く、人工肛門をつける手術もしたから、
摘出範囲は広かったんだと思う。
彼女は検査入院してから多分、5カ月も経たずにあっという間に亡くなってしまった。
最初、私はまた彼女のヨーロッパへの長期旅行のチケットの手配をする予定だったし、
彼女は生理が重いので旅行前の軽い健康診断のつもりで受けた検査で、
病気が発覚し、あれよあれよという間に手術を幾つかし亡くなった。
本人には自覚症状がまるでなかったし、あんなに美しい肌をしていたから、
検査さえ受けなかったらもっと生きられたと思うし、少なくとも旅行に行って帰ってこれたと思う。
でも、手術に希望を託したお母さんと彼女の気持ちもわかるから切ない。

亡くなる2週間前ぐらいに、面会拒否をしていると聞いていたけれど、
駄目もとで訪ねてみると、彼女が受け入れてくれた。
私は何にも言えなかった。
彼女は私を見て「ごめんね」と声にならない声で何度も言った。
私は旅行会社を辞めていて、彼女が退院したら、
2人でパンとケーキを作って販売することをやろうと約束しあっていた。
彼女がもう助からない予感の中で、
全身やけどでグルグル巻きの包帯の隙間から、
私を見つめ返してくれたICUの母の目を思い出したりしていた。
私は、ただ彼女と目を合わせているだけでかける言葉も何もなく、彼女の横に立っているだけだった。
こうなればいいとか、ああなればいいとか、そういうことはとうに超えていた気がする。

彼女が亡くなってからしばらくして、
あの日、彼女の横に言葉もなく立ち尽くしていたのは、
「祈り」のようなものだったのかもしれないと思った。
祈りは、身体を使ってやれることをやりきった後に、最後に人に残されたものだと思う。
もちろん、私が彼女に対して全てやりきっていたとは思わない。
だから、祈りは軽はずみにすべきじゃないと思う。
これは彼女のことで私自身が持った戒めなのだ。

たとえ、戦争をなくすことや飢えや貧困をなくすための「祈り」というものがあったとしても、
「祈り」に頼るにはまだ早すぎる。
私たちはまだ身体を充分に使い切っていない。
まだ何もしていない。

それらを祈る事は、
つまりそれらを実現するための身体を、使わないことへつながるのではないか。
精神が身体を卑下する悪しき考え方が「祈り」にも浸透しはじめている。

覚書(宮沢賢治)

自分が「こうだろう」「こうであって欲しい」と思う考えがあったとして、
それを説明してくれる人物が、
“偉大な誰もが知っている”人であった方が嬉しい人と、
“偉大ではあるけれどもあまり一般的には知られてない”人だと嬉しい人。

多分後者の方が、神秘的な表現に抵抗がない人のような。
神秘的な表現に抵抗がない人は、概ね、無意識を高く評価するけれども、
それはつまり、
無意識というものが自己にとって、
“偉大であるのに一般的には知られてない”ことをよく知っているから。
そういう人には詩情があって。

偉大であることと認知度は伴わないことを1番体現しているのは小さい子供で、
だから1番詩情に恵まれている世代は幼い年代。

詩は無意識からの要請を多く含むものであり、
潜在的にひそんでいるものを再発見したり、
ラべリングが済んでいないものに普遍的な名前を与えることであるならば、
詩は科学と似ていて。

言語活動である詩や科学は、全くの無から意味を立ち上げることではなく、
全て仮説検証型の表現かもしれないけれど、
(“あてのない旅”も実は、局所的にはそれなりの“あて”があるように)
その仮説を要請する存在が、自分自身という私的な個人なのか、もしくは企業や業界なのか。
それが最も私的な存在からの要請のとき、
賢治の言う「信仰も科学と同じになる」は起きる気がする。
この時の“私”とは、
作りあげている私ではなく、私作りあげている<わたし>の方であって。
大抵、私作っている私は可視化出来るが、
作っている<わたし>は隠れている。

日本語の助詞は、自立語同士の関係を表したり対象を表すもので、
使い方が非常に曖昧なものだと考えられているけれど、
むしろその様な助詞、「てにおは(天爾遠波)」の曖昧さは、
自立語とみなされている単語の“自立”自体を揺さぶるような、
関係の相補性という、
動的でリアルなニュアンスを的確に表現することに対応した知恵、なのではないかしら。


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