ノ ー ト

好 き な 読 書 を 中 心 に 考 え 中 を 記 録 す る ノ ー ト

2010年12月

迎春

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今年もありがとうございました。
よいお年をお迎えください。

覚書 ソングライティング

生前、マイケル・ジャクソンが、
レコーディング・プロデューサーに語ったという言葉が、
とてもいいので記録(赤字にしたのは私)。
以下は「マイケルジャクソンの奇跡を辿るブログ」より引用。

彼(MJ)はソングライティングの美しさを僕に教えてくれた人だ。言われたんだ。
“テディ、昔の人はコンピュータを持っていなかっただろう?”って。
バックトラックから作る音楽は駄目なんだよ。昔の人はピアノか、ギターの伴奏で曲を作っていたよね、
それをデモテープとして録音する。それが大切なのさ”
ってマイケルは言ってくれたんだ。
それからぼくはバックトラックをコンピュータで作ってからはじめるような曲作りは一度もしていないんだ。
ちゃんとシンプルにピアノで弾いて歌ってみて美しい曲じゃなきゃ。マーヴィン・ゲイもそうだろう?
愛し合うことと曲作りは同じさ、心に残るムードが大切なんだよ
                    

                   新しい「マイケル・ジャクソン」の教科書より抜粋 著者 西寺 郷太

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(つづきはここから)


私の知り合いの、
一流の技術習得へ歩んでいる工芸家たちの中には、
“オーガニック”とかは偽善っぽいと思って、拒否反応を示す人がいる。
(まぁ、確かに“コスプレの類”でしかないような人たちもいるから。)

緻密に計算し、技を磨き、自然を加工・構築する彼らは、
自分たちといわゆる自然派の人々との間に大きな隔たりがあると感じている。
でも、彼らは一様に、機械的に大量生産されたものよりも、
丁寧に作られたものを讃美する。
(私の大好きな河井寛次郎は、機械生産ばかりをマイナスに捉えることを批判しています。
なるほどと思うので、別記事でいつか転載します)

私は、マイケルが言ったように、
大事な人に音楽を勧める時、
バックトラックから作った音楽は勧めたくない
、と思う。
仮に自分ではそういう音楽を聴いたとしても。

でもそれは、私にしてみれば、
天然酵母でない、イーストフードで出来たパンをあえて、
大事な人には勧めたりしないのと一緒
だと思う。
日常でイーストフードのパンを食べたとしても。
そう言ったら、彼らはわかってくれるだろうか。

ただ作るだけ・食べるだけなら、何でもいいかもしれない。
でも、そこに“自分なりの誠意を表したい”という願望があるなら、
何でもいいわけじゃない。

「100年先も残るものを作る」という工芸家の気概は、
自然や社会に対する責任の表れだろうし、
工芸はだから、“自分なりの誠意をいかに示すか”、という仕事だと思う。
(私にしてみれば、“作らない”というのも最大の誠意の1つなのだけど。)

世間から異端だの亜流だと呼ばれようが、
「これが、自分なりの誠意の示し方だ」と熟慮して思えるなら、
それはすべからく“正統”を自負する権利がある。

と、何となく思った。

おまけ♥ ニーナ・シモン  名盤ニーナ・シモン・アンド・ピアノより


節目2

前の記事に書いた通り、最近また娘の予防接種で悩んでいて、
尊敬する小児科医の黒部信一先生のブログのコメント欄で、
「長野県に先生のお知り合いの小児科医をご紹介いただけませんか?」
と書き込みました。
『院長先生のここがまちがい小児医療』という黒部先生の著書を読んでから、
先生の病原環境説という考えにとても惹かれているので。

そしたら、先生から丁寧なお返事を頂くことができました。
このことは私にとって、とても大きな出来事でした。
黒部先生、心より感謝しています。

そのことを、まゆみさんがブログで記事にしてくれました。

「お便り紹介 (予防接種について)」
「お便り紹介 (予防接種について) 2」

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(つづきはここから)

その記事に付けた私のコメントの文章↓です。
まゆみさんに上のメールを書いた森です。
多分、この件でつけてくださるだろう全てのコメントに関して応答していくことが、時間の都合上出来ないと思いますので、少し自分の立場について書きたいと思います。

私には予防接種に関して、それが正しいかどうかは別として、好きな考え方や意見の持ち主がいます。毛利先生や安保先生などなど。私みたいな方、多いと思います。
でも、それらはあくまで自分の意見ではなくて、他人の意見でしかない。だから、自分が好きな考え方の人がこう言っているから、そうだと信じる、というのだったら宗教と変わらない気がするので、そこは抵抗感を抱いていきたいと思っています。盲信するのも、彼らに失礼だと思うし。

だから、自分の志向性は踏まえつつも、なるたけ、「一方聞いて沙汰するな」でいきたいと思っています。だから予防接種を推進されている方の考え方に耳をふさぐというのもやりたくないことです。

少し乱暴ですが、私には、「ホメオパシーで毒出ししているからワクチンは不要だ」というのと、「ワクチンを接種しているから病気にはかからない」っていうのは同じです。そういった結論に至れる人は悩む必要がないからです。

「悩んでどうなる、疫学と公衆衛生学の専門家の意見を聞いていればいいんだ」という意見もあると思うけど、後悔をしないためにもとことん悩みたいと思います。「個人」と「社会」という問題が、集団的動物である人間に常に付きまとう限りは、この悩みは望むと望まないに関わらず「常に与えられている問題」なんじゃないかなぁと思うので、「無関心」だったり「みんながそうだからそうする」という立場こそが、私にとっては正反対の立場かもしれないです。

「うちの子には基礎疾患があるからワクチンは絶対必要」という親御さんの必死な気持ちもよく分かるし、以前あるところで“予防接種を絶対打たない”と高らかに標榜することが、「そうしたいけどうちの子には基礎疾患があるから叶わない」というお母さんを、追いつめていたという事実に気付かされたこともあります。

自分を完全なる「個人」として考えた時は、予防接種は要らないって思っても、「社会」と考えた時必要かもしれない。それが予防接種の問題の難しさだと思います。
これは多分「リベラル-コミュニタリアン論争」で展開されたような哲学的な問題なのかもしれないなって気がするのです。わかってないくせにエラソーなこと書きますが...。でも、こういう感覚と黒部先生の考え方(「医学は社会科学」)がとてもシンクロしている気がしているのです。楽観でも悲観でもないところを、黒部先生は進んでいる気がして好きです。


悩むことが大事、そんな気分の今日この頃です。



節目

ここ何日か、またしんどい日々。
娘の予防接種のことなどで。
私には答えが得られないし、ある人の言うとおり、
「悩みぬくしかない」そうだ。

子育ては、もちろん幸せなことかもしれないけれど、
とてもヒリヒリする。
娘が生まれてからこの方、ずっと緊張している気がする。

ある部分に敏感にナイーブになればなるほど、
他方では腐っていっている気がする。
ストレスが脳細胞をむしばむのは納得できる。
物忘れもひどくなってきたし、
言葉も以前よりたどたどしい。
中学生時代の“人前でしゃべると呼吸困難になる”症状も、
また出てくるようになってきた気がする。
でも、そもそもの私には、
吃音のけがあったわけで。

だからといって、
悩まないことを選択できるだろうか。
それも申し訳ないと思うけれど、
この私があるから娘は生まれたのだ。

無駄に悩むのは無駄だから、
私を反面教師にして育ってほしい。
母は無駄に悩むしか能がないのだ。
ほんとにこれしかできない。

↓久々にヅミ君の歌を聴きました。


一緒に渋谷AXにsuper butter dogのライブを見に行った、
私のかつての同僚は、
この曲を聴きながら会社を辞めることにしたんだそうだ。
私にとって、fishmansの佐藤君なきあとは、
一時super butter dogの永積君が拠り所だった。
この声とこの歌には、計らずも結局お世話になるなぁ。

学校の問題 2

本当は、学校の設備面についてまず書こうと思っていたのですが、
既に書いてある原稿があるでもなし、
ちょうどまた、中学校での武道必修化のニュースがあったので、
このことを少しまとめておこうと思います。
YAHOOニュース 礼儀正しい日本人育成できるか 中学の武道必修化

私は、武道自体が普及することは喜ばしいことだと思うし、
記録や点数ばかりを重視してしまいがちなスポーツよりも、
心身一体で考える武道は、
生涯通じて取り組むものとして素晴らしいと思うのだけど、
やはり、学校での必修化は反対。
ただこんなちっぽけなブログで「反対」云々言っていても、
ただのつぶやきかひとりごとでしかないので、
どういったことができるのか考えなくてはならないと思う。

以前も書いたのですが(過去記事)、
中学高校の武道における事故は相当発生していて、
被害者の子供も親も、泣き寝入りするしかない状況が起きているそうです。
特に多いのは柔道事故。
全国柔道事故被害者の会のHPによると

中学、高校における柔道事故の死亡者は1983年から2009年の27年間で実に110名にも上ります。
(愛知教育大学:内田良講師の資料より)
年平均4人以上の死亡者を出すこの数字は、他のスポーツに比べても、突出して高い数字です。
中学・高校での武道が必修化される中、今こそ柔道の指導方法、安全への配慮が問われなければなりません。
とあります。
これが、ワクチンによる死亡者だったら、皆、黙ってなんかいないでしょう。

私には、現時点の多くの問題を抱える学校が、
正しい武道の教授が児童に対して出来るとは全く思えない。
そもそも、体育の授業として武道を採点するということが、
目的にあっているのか、はなはだ疑問です。

多分、多くの中学生が初心者だろうから、
技術的な組み手が上手く出来るかどうかはあまり問えないから、
結局は、大きい声が出せるかとか、攻める姿勢を見せられるかどうか、とかの、
単に見てくれの部分のみ強調されて教育されるだけなのがオチな気がする。

多くの人が、柔道の世界選を観ていて不満に思ったことがあるはずでしょう、
一本勝ちだけを狙っている日本人選手に、
こざかしく動いている外国人選手が、よく分からない判定で勝ってしまうのに対して。
「静」よりも「動」の方が採点がしやすいから、
いわゆるアグレッシブな方が安易に評価されるということが起きる気がする。
こうした学校教育で指導・採点することをありきで始まって、
せっかくの武道が、かえって希釈されて見てくれだけの部分が伝達されてしまうのではないだろうか。
今や、停まってくれた車に脱帽して最敬礼するよう、児童にその形式だけを教えたり、
回転寿司の直管の裁断機に合わせて、まっすぐな胡瓜が栽培される時代なのだ。
学校で指導しやすい形に、武道も干渉を受けるのではないだろうか。
それがとても心配。

会社に勤めていると、評価は数値でされるから、
営業成績は件数や額面で評価されるし、
プレゼンが上手な饒舌な人が評価されるのを目の当たりにする。
私の以前勤めていた会社は、一応全国区の大きな会社だったけど、
後続の部下の指導だとか、煩雑な雑用をやっているかどうかを、
評価できるシステムは未構築だった。
今でも大抵の会社が似たり寄ったりだと思う。

結局、どのように見えるか・見せるかという、
表現面ばかり器用になることを重んじる社会とは、
本当に成熟していると言えるのだろうかと常日頃疑問だったけれど、
どうも武道が、こういったビジネスマナーの習得や、
“立派な”社会人育成といったことの裏の目的にしかなっていない気がする。

見えないものを教えることは、一教師によっては可能かもしれないけれど、
学校教育では不可能だと思う。
武道は見えないものこそが大事なんじゃないかという気がする。
これは世阿弥の能哲学も同じことだと思う。
せめて、武道の代わりに華道や茶道も選択可能にしてくれないか、と思う。

決して良い話でもなんでもないけれど、
欧米の徴兵制では良心的兵役拒否権が認められていて、
兵役の代わりに社会福祉活動が選択できるみたいだけど、
そうした代替案がないと、息苦しくてならない。

調べてみると、ある高専に通う生徒が、
信仰する宗教の戒律で剣道などの「格技」が禁止されていたため、
必修科目だった剣道の実技を拒否したら、体育の単位が認定されず、
その事情だけで2年留年し、最終的に退学処分になったこともあったそうだ。
中学校までは義務教育なので、
単位が足りなくて留年したり卒業できなかったりすることはないにせよ、
内申書が高校進学では大きなウェイトがあるため、
生徒にとって「踏み絵」のような状況が生まれるとも限らないと思う。

とにかく学校教育と生徒の問題で、
武道を必修にすれば解決されることなんてない気がする。
問題のすり替えか棚上げでしかないと思う。
そもそも、子供は大人のマネをするのだから、
子供だけを操作しようと思っても間違いじゃないでしょうか。

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