ノ ー ト

好 き な 読 書 を 中 心 に 考 え 中 を 記 録 す る ノ ー ト

2011年01月

テスト sick of recorder



you tubeに動画をアップする方法を練習中
今はなき名古屋のバンドsick of recorder
どこにもなかったので 

再現としての「理解」とは別に

最近ずっと、“理解って何だろうか”と考えていました。
答えは出ていないのだけれど。

私は何故か、
“極論にはさほどの真実は存在しない”と思っているので
(これも1つの極論かもしれませんが)、
「本当に理解することなんて不可能なんだ」とする考え方は、あんまり好みではありません。
ただそれを右傾化した宗教的な人が“ニヒリズム”や“厭世主義”としてとらえて、
「その手のネガティブな態度は社会や人類の為にはならない」と、
やたら公共の利益を盾に卑下してくるのも、違う気がする。
one for allを強要するのはいいが、世界が1度でもall for oneだった試しがあるのか、と思うから。

そもそも、
理解しあえないことを虚無的・厭世的であると断定してしまうこと自体が、単視眼的だと思う。
実際、絶望することの方がよっぽど建設的な行為である場合だって多いし、
所詮、“絶望も希望の一形態”なのだから。
「理解すること」に何の疑問を持たずにあっさり了解してしまうよりは、
「理解すること」を疑えるほうが、理解を丁重に扱ってはいる証拠だと思う。


でも、
これはあくまで経験的な見地によってそうなのですが、
完全に同じように理解する、ということを過剰に期待する必要はない、
と普段の私は思っています。
完全に同じように理解する、ということを目的にした時に生じるデメリット、
つまり、ひとの個性にまで検閲をかけるようなことは、
時間的にも精神的にも労力が半端じゃないから。
だから、その労力を強いる時は、ある特定の場に限定すべきであり、
なおかつ、お互いがそれとあらかじめ了解し合っている時でなければ、
ただの呪いか迷惑の類でしかないことはよくよく承知すべきだと思う。
(ネットではこの類いの呪いと迷惑は日常茶飯事で起きている気がする。)



例えば、実際は地動説が正しいのに、
普段の私たちは「お日さまが沈んだね」と天動説で話をしています。
私のような普通の生活者では、多分、天動説こそが「アクチュアル」であって、
地動説というのは死ぬまで知識としての「リアル」でしかないでしょう。

精神病理学者の木村敏氏が言うところの、
「リアルな時間は一本の流れとして表象される…
これに対してアクチュアルな時間では「いま」の生き生きした存在がすべてである

なのです。

簡単に言えば、
「リアル」とは客観的な「モノ」のことであり、「アクチュアル」とは主観的な「コト」です。

現実はこの「リアル」と「アクチュアル」が対立するのではなく、共存している状態でしょう。
でも、「<わたし>という危機」という一連の記事の中でも書いたように、
統合失調症の患者はこの「アクチュアル」の方だけを信じて、
「リアル」を拒絶してしまう傾向があります。
「リアル」と「アクチュアル」を対立させずに上手く共存させること、
そのバランス感覚をして、私たちは精神の安定を得ているのだと言えると思う。

普段の私は、このようなバランス感覚をもって、
「理解するということ」を「完全に同じように理解すること」と客観的なロジックとして問うのではなしに、
アクチュアルなコトとして了解しているのです。


木村敏氏はまた、ヴァ―チュアリティのことを、
「なんらかの<効力(virtue)>あるいは<力>を備えていながら、まだそれを展開していない状態」
のこと、としています。
ラテン語の語源的に、ヴァ―チュアリティは、
「潜勢態」(内にあって外に現れない状態⇔「顕勢態」)
という意味としてとらえる方が自然だとか。

しかも、「真にアクチュアルであるにはアクチュアリティになりきる前の、
下半身を半分ヴァ―チャリティに浸した状態でなければければならない」

ということを木村氏は言っています。
全てに先行するヴァーチュアリティと、アクチュアリティとリアリティ
私たちの世界がこの3様体によって出来ているのだとしたら、
当然理解にも、これらの様体ごとの別々の理解の在り方があるのではないだろうか?
と思ったのがはじまりでした。

リアリティの理解だけが理解なら、この世はとても薄っぺらいものになる。

例えば、よく言われるのが、
「理解しているっていうのは、他人に説明ができて初めて理解してると言えるんだ」
という言い方。
これは多分、学校や会社で求められる一般的な理解で、再現性を期待したものでしょう。
無論、言葉で説明できない赤ちゃんにしても、
赤ちゃんは“繰り返し”が大好きなので、その再現の行為をつぶさに観察していれば、
赤ちゃんから理解力を記述することは可能でしょう。

けれども結局、一般的な相手が理解しているか否かという論点は、
相手の理解の中身を知るという<関係論>ではなく、
あくまで仕分けという<整理術>ではないだろうか、と私は思う。

多分、私が学校を嫌いなのは、生徒の理解力を関係論でなく整理術で処理しているからだ。
必ずしも第3者に“理解している”と認定されるために、私たちは理解するのではないし、
“わからなければならない”という強迫よりも、
“わかろう”とする心の方が始原的には先行しているはずなので。


ただ、一般的に「理解」という語には“再現性”が含意されているのは承知しよう。
けれども、その枠には収まらない「理解」が他にあるはずだと思う。
理解したかの基準である説明力が一般に通用する場合、
それがリアリティとしての「理解」だとしても、
かたや、その説明が私的にしか通用しないからと言って
「理解していない」と断ずるのではなく、
アクチュアルとしての「理解」の可能性を示唆してもいいんじゃないだろうか。
そして、言葉以前の直感はヴァ―チャリティとしての「理解」でしょうか...

しかしそれらに加えて、<理解>と<わかる>もニュアンスが違う。
<理解>とは、これまでの知識を使って、未知の事象を論理的にとらえることであり、
<わかる>とは、これまで散在していた知識があるきっかけでひとつにつながること、らしい。
論理的な<理解>は知識の蓄積に依存するので記憶容量が増大するけれど、
<わかる>というのは、今その時点の自分に即した状態で起きるので、
記憶量をコンパクト化出来る、と。

大雑把なものの見方(仕分け)をすれば、
<理解>というのは西洋哲学で評価されるものであり、
<わかる>というのは東洋的悟性として評価されるものかもしれない。

そのどちらが良いというわけではないけれど、
前者は努力的・段階的な積み重ねによって至るものなので、
より客観的な説明(再現性)には長けていて、
後者は、当人の暮らしの中のきっかけに契機を得るので、
より当事者的な説明に長けるだろうか。

どちらに親しみを持つかは、受け手の「好み」の問題でしかないと思う。
叙事詩が好きか抒情詩が好きか、のような。
軽はずみに、<わかる>の方が<理解>よりも本質的だ、
なんてことは言いたくない気がする。

最近のニュースで、
プロ・アマの棋士の脳神経回路を分析したら、
「直感」も習慣という日頃の積み重ねによって起こるものだ
ということがわかったらしいし、
決して直感的な<わかる>も、急に降って湧いたものではないということだ。
(ただ、データ上ではプロ棋士内には差は見られなかったのに
 それでも羽生善治氏が圧倒的に将棋が強いのは何故なのか、
 それを示唆するような脳神経回路のデータは未だ採取できていない。)

私の第1外国語はスペイン語なので、
まず、スペイン語で<理解する>・<わかる>を考えてみた。

スペイン語の理解する(・わかる)は単純に言うと、
動詞entendercomprenderの2つがあります。
実際この2つのニュアンスを区別するのは難しくて、とても苦労した。
けれど、良い例文として、
「彼は言ってることは分かってるけどちゃんと理解していない」
とスペイン語で言う時、
「entiende pero no comprende(エンティエンデ ペロ ノー コンプレンデ)」
と言います。

entenderが上辺の理解で、comprenderが本質的な理解の感じ。

まずスペイン語という言語は、
用件が具体的なのか抽象的なのかまたは、
事実なのか少しでも推量を含むことなのかを、
極めて分けよう分けようとする言語なのです。
その他のロマンス言語でもこういったことが起きているかもしれませんが。

例えば、
「彼は来ると思います」はcreo que vieneですが
「彼は来るとは思わない」はno creo que vengaになります。
“確信していること・確実なこと”と“不確定・願望”では動詞の活用が異なってきます。
これは口語体でも変わりません。

なので多分、あらかじめ、
具体的なことだと予感しているものの理解にはentenderを使い、
抽象的なこと(・難解なこと)だと予感しているものの理解にはcomprenderを使っているんだと思います。
comprenderにはある種の心の「覚悟」があります。
どちらの動詞を使うかは、発言者が理解の対象を、
常識や知識だけで理解できると察したか、それらだけでは簡単にわからないものと察したか、
そのことによって分かれるということが言えそうです。

言葉になる前の、ヴァ―チャリティの理解力が選択させているんじゃないでしょうか。
ここがとても興味深いと思います。

ちなみに、
comprenderから発生した名詞comprensionは「思いやり・心の広さ」を意味し、
comprensorは「悟った人・至福を得た人」で、comprensivoは「思いやりのある・包括的な」
を表わすそうです。
comprenderは上で書いてきた<理解>よりも<わかる>に近いのかもしれません。

更に<わかる>は下記のようにも分けられます。

● ver 「(見て取り)わかる」
● enterarse de 「(気がついて)わかる」
● saber「(知識・技能として)わかる、知っている」
● conocer 「(体験として、または熟知して)わかる、知っている」


こうしてみるとヒトがいかに、
どのような経緯や由来で“理解”や“わかる”という現象が起きるのかを、
言葉で表現し差異化して来たのかがよくわかるし、
そのことはつまり、“理解”や“わかる”ということが、その結論・結果のみならず、
それに至った経緯自体がいかに重要かを語っていると思う。

先述の「アクチュアル」と「リアリティ」を考える時、必ず「人称」という問題が出てきます。
統合失調症は「人称」の病とも言えるかもしれないからです。
以前私が、渡辺哲夫氏の著書『<わたし>という危機』の読後感として、
統合失調症の患者は<われわれ>から切り離された、
<わたし>1人でこの世界に存在している孤独者なのだ
、と書いたように。

私は15歳でスペインに行ったので、スペイン語の影響力は強くて、
スペイン語の「1人称・2人称・3人称×単数/複数」によって動詞が活用するという経験が、
私に「人称」の問題を与えてくれたと思う。

偶然、ある人が「<わかる>にも人称がある」と書いているのを見つけました。
これを見つけた時はかなり衝撃でした。
それこそ、バラバラだったピースがつながった気がしました。

●1人称の<わかる>--- ものの良さ・食べ物の味の良さがわかる
●2人称の<わかる>--- 相手の悲しみ・痛み・喜びがわかる
●3人称の<わかる>--- 再現性としてのわかる

多分、「本当に理解することなんてできない」という感傷が成立するのは、
この2人称の<わかる>においてなんじゃないか。
理解できないということは、1人称の<わかる>でも3人称の<わかる>でも、
沢山のオプションの中の1つの事実に過ぎないかもしれないけれど、
2人称の<わかる>において、わからないということは極めて致命的な問題で、
誰とも置き換えが不可能な私とあなたの関係の破綻を意味しかねない。
この「本当に理解することなんてできない」が感傷たりえるには、2人称的な<わかる>においてであって、
それだけ1番困難な痛みを伴う<わかる>は、この2人称の<わかる>なのだろう。
精神科医として患者と3人称的に接することのプロフェッショナルはいても、
2人称の相手として患者と接することは容易ではない。

また、フランスの哲学者のジャンケレビッチという人が、「死」を3つの人称に区分しています。
●1人称の死は自分自身の死であり、生の中で自分がこれを語ることは出来ない。
●3人称の死は、抽象的で顔をもたない無名の死。別れの体験を持たない死。
          客観的な分析の対象。非人格的であり、非時間的である。
つまり、これら上の「死」は自分の経験の外の死であったのに対して、
●2人称の死は、近親者の死であり、そこでは私は死と差し向かいの状態になる。
          この特質は現在である。

多分、「私」にとって本当に肉薄したアクチュアルな「死」とは2人称の死であって、
戦争や治療行為が可能なのは、死を3人称として処理するからだ。

娘(4歳)を見ていると、
悲しい話や恐ろしい話に対して怯え、テレビを観ていても「見たくない!」と
私の後ろに逃げ込んで、チャンネルを換えるように懇願してくる。
話の中で誰かが死ぬと、すぐに号泣してしまう。
娘は「死」を理解してはいないのかもしれないけれど、
別れの体験であるということは知っている。
幼子のすごさとは、多くの体験を2人称として、
つまり固定されない動的なものとして経験しているところだ。
経験の濃さがまるで違うと思う。

郡司ペギオ幸夫という方がこう言っているそうだ、

世界は静的な幾何学として用意されていて、
 3人称的描像から1人称的描像へ、幾何学的変換として転倒が可能になってくる。
 対して、2人称ってどういう概念か。
 それは、齟齬のあるわたしと他者の間の、動的な交渉を通してはじめて出現するもんだよね。
 だから、転倒が可能な世界像、もっと言うと、
 通約不可能な1人称(主観)と3人称(客観)が対立軸を成す世界像において、
 原理的に2人称は排除されちゃう。

小説でも、語り部の人称は1人称と3人称が一般的であって、
2人称というのは基本的に存在しない。
多分、世界を描くのは1人称と3人称であった方が楽なのだ。

特に近年の戦争は、国民総出の消耗戦から、システムの麻痺戦に変っている。
システム対システムの戦いでは国民が必要ないように、
軍需産業に支えられている社会では痛みの共感(2人称の<わかる>)は積極的に教えなくともよい。

「あなたの気持ちわかるよ」と言っても、本当に同じことが私の中で追体験できている訳でもない。
そしてそのことは相手も知っている。
まして相手の存在が具体的であるからこそ、
自分との違いがより明確で齟齬が前提とも言えるこの2人称の関係性の中で、
「わかる」ということは両者の同意のもとに共同で導かれるものでしかない。
その同意はどちらか片方の人間のものではなく、どちらかにだけ属するものでもない。
同意は両者の関係性の中だけに存在する。

なお、ここにおいては誤解や曲解も必ずしもリセットすべき間違いでもないのだ。
2人称の理解とは、comprenderなのだから。
端から形式ではないもの・抽象的なもの・難解なものとして覚悟している理解。

この不可思議なもの、
人の組み合わせが違えば、また新たに構築し直さなければならない一回性のような理解、
これもまた確かに、理解なのだ。

個性こそが金を生むと信じ込まされて肥大化する1人称の理解や、
教育によって強化される3人称の理解に比べると、ひどく脆弱で揺らいではいるが、
通約可能でかつ再現性のない2人称の理解というものが、確かにこの世に存在している
ように私には思える。



<スペイン語補足>
●【entender】意味 理解する・分かる・了解する
語源はラテン語のintendere(注意を向ける) 
in(の方へ)+ tendere → atender(注意を払う・世話する)tender(傾向がある)
仏語でentendre聞く 英語でintend意図する


●【comprender】意味 理解する・分かる・包含する
語源はラテン語のcomprhendere
com(一緒に)prender(捕える・固定する・根付く・接ぎ木が付く・伝播する)

当事者研究

『当事者研究』とは、
北海道・浦河町の“精神障害等をかかえた当事者の地域活動拠点”である、
『べてるの家』(※リンク)がやっている、
“自分で自分自身のことを研究し、それを発表する”作業です。
私はこの当事者研究という発想が、とても気に入っています。
全ての人ができて、当人にしかできない研究だからです。

お気に入りの番組であるNHKの『100歳バンザイ』を観ていると、
いつも思うのですが、
そこに出演される100歳を超えて元気な方は、
みんな自分なりの生活の法則なり、食事法・運動法を持っていらっしゃる気がします。
まぁ番組で取り上げる100歳を超えて元気な方なんて、全体の数パーセントなんでしょうし、
そこで見えるものを全体の総括とするのは拙速だし誤解に過ぎないのですが。
(少なくともそういう方々が、そのNHKの番組に取り上げられやすい、ということは言えそうです)

でも、そこで見る限り、
世間が言う一般的な健康法やら運動なんていうのは、わりとお構いなしで、
おのおのが“自分なり”の健康法を編み出して思い思いに実践されているのが、
どうやら私には、彼らの“元気で長生き”の秘訣に思われるのでした。
世間に振り回され過ぎない、というのも長寿の秘訣かも。

それら、ご長寿の面々が自分なりに見つけられた毎日の健康法・習慣というのは、
まさに"当事者研究”そのものだ、と思うのです。
そういう意味でとても興味深い。

最近、私は足の外反母趾と内反小趾を改善しようと思いたちました。
きっかけは、足の小指の爪が反り返って生えてくる不快感と、
パート労働中の足の冷えでした。



   ※これより先の文章には、商品情報や営利目的のサイトのリンクがあります。
 あくまで私個人の感想・当事者研究であって、他人に推奨するものではありません。
 くれぐれも鵜呑みにされませんように。
------------------------------------------------------------


私の足の小指は内反小趾の影響からか、常に下に曲がった状態でして、
床と垂直方向に対する踏ん張りの力が働いていません。
そのまま小指の爪が伸びると床方向で頭打ちになるからか、反り返って生えてきたんです。
下のイラストの上部です。
このまま肉に埋まっていったり、巻き爪になると手術が必要になったりします。
BlogPaint







私は食品スーパーの鮮魚売り場に半日勤めているのですが、
物流の搬入口から外の風が直撃する厨房は、恐ろしく寒く、
この年末年始は足の震えが止まらないのが常態という日々でした。
もちろん、会社指定の安い長靴で、余計に冷えます。
大きめの長靴に靴下を幾重にも履いて、足用カイロを貼ってもダメでした。
その冷えが腰や背中の痛みにつながって、しんどかった。

それ以外にも、
しもやけ・かかとのガサガサ・産後から足がつる・下顎を全開するとギシギシ鳴る
足の冷えやむくみ・肩こり・猫背 
などなど
今の私が自覚できる症状の全てに、
足病医学(ポダイアトリー)のサイトをいくつか見ていると、
どうも私の足の外反母趾と内反小趾が関係しているように思えました。
いわゆるヒトにとっての基礎である足が歪むことによって、
腰や肩・首がバランスを取ろうとして歪み、“代償”が起きているというわけです。

詳しく知らないのですが、『正しい歯の噛み合わせで体の歪みが治る』というような考え方があるそうです。
ヒトの身体の1番底の関節が“距骨下関節(きょこつかかんせつ--下で説明)”だとしたら、
ヒトの身体の1番上の関節が“顎関節”なので、なんとなく合点がいきます。

今まで、まず5本指の“絹or綿”の靴下を履いて、その上に靴下を幾重にも重ね履きし、
ズボン下+レッグウォーマーを装着するという、
いわゆる『冷えとり健康法』はやってきました。
これで随分むくみがとれました。
ただ私の場合、リンパの流れが悪いので、少しでも履き口のきつい靴下はNG
どんなに良い5本指ソックスでも、履き古したゴムゆるゆるのものでないと、
かえって血行不良になります。買ってすぐ履ける5本指の靴下に出会ったことがない。
だから、これを使えば絶対!なんてアイテムはないと思う。身体はひとそれぞれなので。
どこまで行っても当事者研究が必要、そんな気がします。
自分なりのアレンジが必要で、活かすも活かさないも自分にかかっている、と。

そんなこんなで、心機一転、とりあえず購入したのが、
ソルボ社のパッドのはいったサポーターです↓。
sorbo_sorbo torisetsu











“美しくスリムな足”は、もはやどうでもいいけど。

●(左下)サポーター購入以前の私の足です。特に内反小趾(足の小指部分)と「指上げ足(浮き指)」が顕著です。
●(右下)サポーター装着時の足の状態。黒いズボン下は通販生活の“発熱スパッツ(化繊です)”。
gaihanboshisorbo
それに対して、裸足で生活するヒトの足はこんなだそうです↓。
足の指がしっかり地を踏ん張れています。
hadashi






笠原整骨医院・笠原巌氏のサイトから 
購入したサポーターは笠原氏監修のものなので、無断転載いいかしら)

指上げ足(浮き指)というのは、足先の狭いパンプスやヒールのある靴の着用だけが原因ではなく、
まず足裏の刺激が少ない上に、大き過ぎる靴を履いて、
足が前方の方に滑ってしまうことによっても起きるそうです。
実際、子供の指上げ足が増えているそうです。
私は上の両方、該当した時期があったと思う。
私の足の指は踏ん張れないので、歩行時にまるで利いてないんです。
いくら動いても足先の血行は良くならないのです。
と、いうことにやっと自分で気付きました。

ただ、裸足で生活する民族にも外反母趾になる人はいるそうです。
筋肉の衰えや合っていない靴のサイズだけが、外反母趾の理由ではないようです。
詳しくはこちらの記事

市販のレディメイド品のサポーターで強制的に”、
というのでは根本的な治療には至らないことは見えていますが、
春から直也君とカイロプラクティックに通おうと思うので、
それまでの多少のナグサミにはなろうかと期待しているところです。

履いて仕事に行ってみると、足が冷えませんでした。
今までにはなかった、小指が地を踏ん張っている感触が常にあって、
3点歩行には、なっている気がします。
(3点歩行の認識は2通りあるようです。
 指・中足・かかとで3点 or 足の親指・小指・かかとを結んだ三角アーチ)

小指がずっと刺激されるので、小指のしもやけは1両日で治りました。
勿論、コパイバオイルも塗布し併用しているので、サポーターだけの効用ではないとは思います。
また、サポーターの中足部分にソルボのパッドが入っていることもあって、
かかとへの衝撃も激減。
少しかかとが柔らかくなった気もする。

少し調べてみると、外反母趾などの足の変形の主な原因は、
「距骨下関節(きょこつかかんせつ)の過回内(かかいない)」だとか。
私は、体の関節や筋肉の部位名をまるで知らないので、
読んでも読んでも全く頭に入らず、誤解しているところ大ですが要約すると、

<距骨下関節(きょこつかかんせつ)ロック・アンロック理論>******************************

(距骨下関節 --- 距骨と踵骨(しょうこつ)の間にある関節のこと
         かかとの関節と思っていいです)

人間の歩行 接地期加速期によって成立
      接地期 --- 着地する時、衝撃吸収の時
      加速期 --- 蹴り出す時、エネルギー伝達の時

良い歩行  上の2つの時期が途切れることなくスムースにつながることを言う

●接地期において 体重がかかると距骨下関節は内側に傾く(“回内”)
        これによって地面からの衝撃を吸収することが可能となる     
        
●加速期において 足は固いテコの状態になり、距骨下関節は外側に傾く(“回外”)

距骨下関節と接している横足根関節(おうそっこんかんせつ)が、
接地期に締まり(アンロック)、加速期には緩むことで(ロック)、歩行の2つの時期の切り替えを行っている

外反母趾や偏平足などの変形は、上の内側に傾く動きが大きすぎ(過回内で)、回外ができなくなることで起きる
変形が起きると上のロック・アンロックの切り替えがうまく出来なくなる。

足の問題は、接地期と加速期のどちらでどのような不具合が起きているか、を知ることで分析できる(らしい)。
***************************************************************

シュー・フィッターさんに言わせると、
自分に合った靴は、眼鏡と同じで、自分だけでは選べないそうです。
そして、余裕があって痛くない靴よりも、“我慢できる”窮屈さの靴の方がマシなんだそうです。
履いて足が痛いか痛くないかだけで、靴を決めてはいけないと。
間違ってた...。
いずれ、シュー・フィッターさんのいる店で靴を選んでみたいものです。

記述のサポーターと、マッサージと足指のグーパー運動をやって、
また経過を載せようと思います。

辛卯

  • P1010515








    十干と十二支合わせて干支だから、今年はただのうさぎ年ではなく、
    辛卯(かのとう・しんぼう)と呼ぶ。
    この国が十二支ばかりで年を数えてから久しい。

    『万葉集』には“年賀の歌”はまとめられていないという。
    大好きな実朝の『金隗和歌集』を見ても、
    その“暮れの歌”の多さと対比すると、“新年の歌”はまるでない。

    新年をことさら祝うのは漢字文化圏とベトナムだけだとか(いわゆる柵封体制)。
    皇帝は時間をも支配すると考えられたから“元号”があるのだろうし、
    もしかすると天皇を詠んだ「万代に」とか「君が代に」とか「千々」なんて歌と、
    新年をコトホグ歌は一体・同義だったのではないだろうか...。

    年末は、
    “現実的”な政治は民族主義を土台にしてしかりという、
    コメンテーターたちの露出ばかりが目立って。

    彼らが表現すると、最たる“私たちの現実”とは何にもまして、
    極東アジアの軍事的緊張を意味するようだ。
    けれど、私たちは普通に2足も3足もの草鞋を履いて生活している。
    色んな顔を持っている。
    確固たる主義主張を持っているわけでもないし、
    全ての世帯が、ただ単1個所からの収入で生計をたてているわけではない。
    それと同じように、いくつもの現実を並行して語れないものだろうか。
    普段の私たちの生活はそれをやっているはずだ。

    NHKも、
    共同体主義の代表的論者である教授の「ハーバード大学の白熱教室」の放送を、
    この年末年始にたたみかけて流している。

    “現実的(=軍事)”やら“ハーバード大学”なんかは、脅し文句でしかないじゃないか、と思う。
    脅された上で考えたり決断しても、いいことなんてない。
    シナジェティクス研究所の梶川泰司氏
    「理解に同時性を求めない」と語られているけれど、
    まさに脅しとはその逆で、同時性の強制ではないだろうか。

    スペインの、国や人民の在り方について模索した、ある文学者は、
    こう書いているそうです。
    真理以外に正しいものはない。
    そして真理は理性にまさるもの、とソフォクレスも言っている。
    それはあたかも、生命が、喜悦や苦悩にまさるものであるというのと同じだ。
    したがって、真理と生命がわたしの箴言であって、理性や喜悦はそうではない。
    喜悦の中に推論したり、理性の中に幸福をみつけるよりも、
    たとい、苦悩するとも真理の中に生きることだ…
    以前、乳児のうちは様々な言語を聞き分けていることをここでも書いて、
    それで赤ちゃんには、実の生母とは異なる言語・民族に育てられようとも、
    それに順応していく能力がすでに搭載済みなのだろう、ということを書いた。
    赤ちゃんは民族主義を超えている、と。

    理性ではなく生命がわたしの箴言、これはいい言葉だと思う。

    おせち、“理性的に”ここ数年やってはいるけれど、
    普段粗食にしているわけでも、砂糖が貴重な生活でもないのだから、
    生命的には、結局は雑煮だけでいい気がして、
    春は来にけり。

    最新コメント
    記事検索