ノ ー ト

好 き な 読 書 を 中 心 に 考 え 中 を 記 録 す る ノ ー ト

2011年02月

自慢の木目込み人形たち

いつもより随分おくれてしまったのですが、
今年も雛人形を飾りました。

今年は娘のひな人形も、私の立雛と共に家に飾りました。
今の家に引っ越してくる前は、スペースがなかったので、
娘の分は中嶋君の実家で飾っていました。


木目込みの雛人形は、
木地に布をしわなく貼り付けていく工程に技術を要するために、
実は一般的なお雛様よりも作るのが難しいとされています。


人形は他の工芸品とはまた特別なもので、
何よりも絶対に廃棄するようなことがあってはならないものだと私は思っているので、
もし娘がこの人形たちを手放すようなことがあって、
誰かにお譲りする時でも、
貰ってくれる人が心から欲しがるような“良いもの”でないと買わない、
と思ってこれに決めました。
そして、子供だけでなく大人の女性が部屋に飾っても楽しめるものでなくては、と。

そういうものでなければ、手から手へと受け継いではいけないし、
結局は廃棄されてしまうのがオチだと思ったからなのです。


だから、そういう意味で、
これらのひな人形を自慢に思うのは決して悪いことではない、
と思う。

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帰り道

今日も午前中から昼過ぎまで雪。

細雪の降る中のバイトからの帰り道、
融雪剤(塩カル)が巻かれている道路や、除雪車の入った車道はおおむね雪はないものの、
歩道や道端はかなり雪が残った状態。


たまに見かける盲人用の白い杖をついてる男性が、ちょうど私の前を歩く格好になった。
へんな世話心でしかないのだけど、
転倒の可能性を考えて、男性の後ろをついて歩くことにした。

男性は、我が家に面した東西の上り坂の右側(北側)を躊躇なく選んで歩きだした。
いつも見かけるとき、男性は左側を歩いていた気がする。
歩き慣れた側を行く方が楽だろうに、「どうしてだろう?」と思った。


左側通行の道路は歩行者も左側を歩いたほうが、
出会いがしらに車と出くわすことを避けられる。
目の見える私にとっては、多少足元が悪くても長靴をはいていれば、左側の方が良かったりする。
注意してよけるのは後方から来る車に任せればいいからだ。

不思議に思いながら後をついて歩いていると、
彼が選択する側の道は雪が融けていることに気が付く。

民家の陰になって寝雪になっている左側(南側)は雪がこんもりしているが、
彼が歩く右側(北側)は雪が融けているのだ。
彼は目では見えないが、原理でものは見えている、と思った。
私なんかよりもはるかに 。
視力健常者の方が盲目的である、という皮肉。

方角とは違い、所詮「右と左」という位置関係なんて、
仮想的な「中心」から発想される「相対的」なものでしかない。

今日はこの男性にとって、
確率からいって、車による事故よりも雪による転倒事故の方が、
優先的に回避すべき事由になるのだろう。
どうして彼が、今日は右側を歩いたのかわかった気がした。

危機管理能力が高いことほど、私が尊敬してしまうものはない。

徒歩の良さは、道のどちら側を歩いても問題にされないところ。
自転車の良さは、その最短コースが行きと帰りで同じではないところ。
そしてこれは、運転免許を持たない者の強がりでもある。


F

最近娘と作って遊んでいるもの。

(左)娘の作った女の子と家のある風景+ジャングル黒べえ、パオパオ、赤べえ(私作)
(右)娘が紙粘土で作ったドラえもん+のび太クン(私作)
   ※クリックすると拡大します。
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娘の作ったドラえもんは、多分中国籍ではないかと...。
黒べえとパオパオと赤べえとドラえもんとのび太クンの声優を務めるのは、私です。

娘が今1番好きなキャラクターは、全てのアニメ・漫画を通じて、
ずばり『ジャングル黒べえ』らしい。
いたずらばっかりしてるのが良いんだとか。
親バカながら、「なかなか見所がある」と思う。

私は、父親が藤子不二雄嫌いで、赤塚不二夫派だったものだから、
あんな説教臭いものは良くないという教育を一身に受けて育ったのだけど(今でもそう思う)、
娘にとやかく言いたくないので、藤子・F・不二雄は我が家で解禁されています。
(特に直也君がドラえもんで育っているので。)

娘は4歳にしては、なかなか絵心があって上手なのだ。
ちなみに『ジャングル黒べえ』は人種差別に当たるということで、
今では放送禁止だそうです。


ネットと呪詛

先日テレビを観てたら、どこかの大学の先生曰く、
呪いの実現の原理は科学的に言うと「ノーシーボ効果」なのだそうだ。
ノーシーボとは、プラシーボとは効果が逆で、
医学的に害のないものでも「有害だ」と信じることで心身が不調になること


わら人形に相手の住所まで書いて添えるのは、
それを神社にお参りに来た人が目にして、話題にするのが、
ゆくゆくは噂となって当人の耳に入ることを狙ったものだそうだ。
だから「呪い」は、
その行為自体が相手の知れるところにならなければ効果はない、とのこと。

当人は「自分が呪いをかけられてる」と思うことによって心身が不調になったり、
結果、たまたま事故や病気になっても、自他共に“それが呪いによるもの”とみなすことで、
呪いは成立するというのが仕組みのようだ。


ちなみに子供に多いのは、
「こぼしちゃダメだよ!」と言われるとかえって飲み物をこぼしちゃうケース。
小児科医の黒部信一先生も、
「日本はすぐに“風邪をひくよ”とか“目が悪くなるよ”とか言って子供を脅す風潮がある。
だから子供が病気になりやすい」というようなことを著書に書いておられました。
(最近の黒部先生のブログ記事もとても面白いです→http://kurobe-shin.no-blog.jp/bk/

そう思うと、ネットの書き込みは往々にして呪いになりうると思う。
私としては、ネット上で意見の交換を積極的に求めているわけでないし、
議論の場としてもネットは不十分だと思っているので、
今はもう過剰な期待も幻滅もしないけれど。

でも、こういう気持ちに至ったのも、その実「ノーシーボ」効果からでした。
私の記事に関しての、水面下での酷評にある日気付いてから、
一時書くのが面倒くさくなりました。
正直怖かったですし。


「気に入らなかったら訪ねてこなければいいでしょ」って思っても、
何度も何度も訪ねてきては嫌がらせの書き込みをする行為は、
ずばり「呪い=ノーシーボ効果」だと思う。
だから本人も止められないんでしょう。お百度詣りにも似て。

先の『再現性としての「理解」とは別に』という記事を書いてから思ったのですが、
ネットの世界っていうのは1人称と3人称過多の状態なんじゃないかって。
だから2人称的な痛みの感覚が欠けてしまうんじゃないか。

実際の2人称の関係なら、お互いが匿名ではないので、
片方の人間だけリスクを背負うなんて関係はあり得ない。

だから、
私はネットの書き込みは“1字¥○”とかの有料制にして、
サイトやブログの主催者※にお金が入るシステムがいいと思う。
そうすればどんなに嫌がらせの書き込みをしても、
相手になんらかのメリットを与えることができる。
一方的ということは少なくとも避けられます。
そもそもコメントとは、
その主催者の発信したものに呼応する形で自らに引き出された言葉なので、
インスピレーションという授かりものを、既にコメント者は主催者より受け取っているという
贈与関係
なのだと思うから。
(※私は「ブログ主」という表現が好きではありませんので、あえて。)

 ちなみに最近思うこと。
 ネットは、自分が本当に理解していることや記憶していることでなくとも、
 ソースやデータを引っ張ってきて、さも3人称的な知識や情報、論理は成立してしまう。
 そしてそれを1人称的に発言することが出来る。
 私なんか、それを実際やってる気がする。
 自分で生みだした小説や詩や造形作品などを発表するのでなかったら、
 何を書いても「編集」ばかりが器用になる気がして、危険だなと思う時がある。


話しは戻って、
まゆみさんのブログで紹介されていた早川由紀夫先生のブログを読んでいて、
「批判と指図は違う」というくだりがあって、なるほどと思った。
批判じゃなくて指図になってしまっている人がいる、と。
少なくとも指図はコメント欄でするべきものじゃないと私も思う。

“批判は言論の自由に守られているが、指図には責任が伴う。
 そこが違う。
 ただし不当な指図には従わない自由が残されている。”
この早川先生の言葉、カッコイイ!しびれてしまった。

本当に皮肉なことだけど、
プラシーボを否定する人ほど、ノーシーボを引き起こしていたりすると思う。
心理的な作用を充分な作用と認めないからこそ、
自分がいかに心理的に負の作用を与えているかが、わからない。


大正時代は、かなりオカルティックな時代だったみたいで、
連日、“透視”の話題が新聞を騒がせたこともあって、
帝大の先生による、地方の霊能力者(女性)の透視能力に関する研究の経過が、
逐一紙面でも報道されていたようだ。

その帝大の先生の前では、彼女は透視を何度も成功させるのだけど、
透視を非科学的だとする批判者が、新たに立ち会いメンバーを選出して透視を見守ると、
彼女は透視を何度やっても失敗してしまって、
それで結局、彼女はとんだ詐欺師だということになってしまい、
その風評被害が高じて、彼女は自ら命を絶ってしまったらしい。


今思うと、これは「透視の実験」というよりは、
プラシーボとノーシーボの実験だったんじゃないだろうか。
この世はプラシーボより、ノーシーボのことの方が多いのかも。
特に、年間3万人自殺者を出している日本では。
現状のノーシーボの圧倒的量からしたら、
プラシーボはむしろもっとあったっていいんじゃないでしょうか。

プラシーボとノーシーボを認めようが認めまいが、
それらと無縁である人はいない、というのが今回の雑感。



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