ノ ー ト

好 き な 読 書 を 中 心 に 考 え 中 を 記 録 す る ノ ー ト

2011年03月

リンクと精進酢麩多

文章を書く時は、いつも詩人リルケの言葉を思い出す。

「作家になれるかなど聞くな。
書くことが何より好きなら、君はすでに作家だ。」
「あなたが見るもの、体験するもの、愛するもの、失うものを、
最初の人間になったつもりで言い表すようにしてごらんなさい。」


文章を書くときは、
なるべく自分だからこその文章を書こうと思う。
他によい書き手はいっぱいいるから、無理に書くのは余計なはなし。

「ブログ主」という言い方同様、記事を「エントリー」と呼ぶのが嫌いだ。
まるでゼッケンをつけられて競争させられているみたいだから。
「主」に「エントリー」って、馬主と競走馬じゃないからね。

ただリンクを張るだけのことは誰でも出来るから、
自分なりの解釈を披露もせずにリンクだけ紹介するのも情けないのですが...。


「原発がどんなものか知ってほしい」
 平井憲夫さん(↓)による文章のサイトです
 1997年1月逝去。
 1級プラント配管技能士、原発事故調査国民会議顧問、原発被曝労働者救済センター代表、
 北陸電力能登 (現・志賀)原発差し止め裁判原告特別補佐人、
 東北電力女川原発差し止め裁判原告特別補佐人、
 福島第2原発3号機運転差し止め訴訟原告証人。
 「原発被曝労働者救済センター」は後継者がなく、閉鎖されました。


(20)に書かれている、女の子の叫び↓は本当にもっともで、そして情けなくなる。
戦争でだまされたと言っている人を糾弾した、伊丹万作氏の文章に通じるものがあります。

「今夜この会場に集まっている大人たちは、大ウソつきのええかっこしばっかりだ。私はその顔を見に来たんだ。どんな顔をして来ているのかと。今の大人たち、特にここにいる大人たちは農薬問題、ゴルフ場問題、原発問題、何かと言えば子どもたちのためにと言って、運動するふりばかりしている。私は泊原発のすぐ近くの共和町に住んで、二四時間被曝している。原子力発電所の周辺、イギリスのセラフィールドで白血病の子どもが生まれる確率が高いというのは、本を読んで知っている。私も女の子です。年頃になったら結婚もするでしょう。私、子ども生んでも大丈夫なんですか?」

 「原発がそんなに大変なものなら、今頃でなくて、なぜ最初に造るときに一生懸命反対してくれなかったのか。まして、ここに来ている大人たちは、二号機も造らせたじゃないのか。たとえ電気がなくなってもいいから、私は原発はいやだ」

 「何で、今になってこういう集会しているのか分からない。私が大人で子どもがいたら、命懸けで体を張ってでも原発を止めている」
政府や行政や電力会社を責めるんなら、
その前に、まず自分の親を、教師を積極的に責めようじゃないか。
日進月歩の科学の前で、いつの時代でも出来ることと言えば、これしかない。
自分の親を責めることは子供の責任だし、反面教師ほど強力な教師はいないから。
来たるべき次の事態に備えるには不断にこれを続けなくてはならない。

誰も無責任でいられる人などいないと自覚すること。
そして、外部と辺境を生み続ける「国家=中心」への未練は一切捨て去るべきだ
常にモニュメントは中心に、出城や城塞は辺境に作られるのだから。
城塞(citadel)に囲まれて生まれる市民(civis)なんて、くそくらえだ。


先日の金八先生のドラマをちらちら観ていたら、いいセリフがあった(から、嫌になる)。
 「悪はどこにありますか?悪はどこにありますか?警察にあるんですか?悪は。
 学校にありますか?路地裏のゲームセンターにありますか?違う。悪はそんなとこにない。
 悪はどこにあるか、皆さんの心の中に悪はあるんです。
  他人の悪をもし批判するというならば自分の悪をしっかり見つめ認識しなさい。
 それが悪を批判するということです。」


「原子力資料情報室」 
 小児科医の黒部信一先生のブログで知ったサイト。
 「地震大国に原発はごめんだ」とか「原発震災」などの出版もしています。
 
※「本日(2011/3/31)、20:00頃よりUstreamで、中継を行う予定です。」とのことです。
  後藤政志さん(東芝・元原子炉格納容器設計者、博士(工学))に
  福島原発の現状解説をしていただくそうです。
  中継画面はこちら: "http://www.ustream.tv/channel/cnic-news
 
  後藤さんという人はテレビで貞観津波のことを語った数少ない人でもある。
  原発の詳しい事情は、原発側にいた人にしか聞けないというのが、本当に自分の限界を感じる。
 

             ++++++++++++


◆≪「自己流・精進酢麩多(酢豚の豚の代わりに“お麩”を使います)≫
   豚の代わりのお麩の調理方法だけ書きます。
   その他は、通常の酢豚と同じように作ってください。
A2011033101B2011033102
C2011033103


 ・材料(3人前) <b>油麩8枚~10枚/もしくは 車麩5枚くらい</b>         
  車麩の方が弾力&食べごたえがあり、低カロリーです。

 A--- お麩は水で戻して水を絞ります。
     車麩は水で戻してから4~3等分します(あまりかたく絞ると崩れます)
     おろし生姜少々と醤油、酒、砂糖少々を水で少しのばしたものの中に、
     お麩を浸けてしばらく置きます。
 B--- たれに浸けたAを少し絞って、片栗粉をまぶし、油で揚げます。
    (油の跳ねに注意してください。多めの油で両面焼いても良いです。)  
 C--- 出来上がりはこんなんです。筍の代わりにレンコンでも美味しいです。
    写真は油麩使用です。

モニュメントは要らない 

※少し加筆しました。

週末を利用して、親子3人で伊勢旅行に行ってきました。

松本平に戻ってきてから、父に土産を渡す時、
伊勢神宮で「(東日本震災のことで)お祈りしてきたか?」と
尋ねられてハッとしました。

伊勢神宮の内宮に参じたものの、
個人的なことはもとより、一切何のお祈りもしなかった。
ただ行為として、二拝二拍手一拝をしただけ。
それで良いと思っているからなんだけど、
こんな非常事態なのだから、
多少は例外的にお祈りしても良かったんじゃないか、と一抹の後悔。

しかし、
私が伊勢神宮を歩きながら考えていたのは、
「原発を伊勢神宮に作ればいい」というようなことばかりだった。


今回の東日本大震災を受けて最初に思ったのは、
先の大戦のことと、法隆寺などを修復した宮大工の西岡常一氏の言葉だった。
忘れやすい私の記憶では、
世界最古の木造建築である法隆寺が1300年もの年月を経てもその姿を保っている理由として、
西岡さんは以下のことを上げていました。

・その建築方法
・木材(1000年持たせるには樹齢1000年の木材が必要である)
・四神相応の立地(土地風水によるもの)
 ※詳細は「木に学べ」
 この本は建造物の危機管理読本としてもその価値があると思います。
kinimanabe

<MEMO>
土地風水によると、中国では、世界の屋根ヒマラヤ山脈に隣接する、
コンロン山脈が大地のエネルギーの源となっていて、
そこから、エネルギーライン(龍脈)を通じ、世界にエネルギーが送られている
とするそうな。 
日本では、富士山が大地のエネルギーの源となっていて、
そこからエネルギーライン(龍脈)を通じ、 
国内にエネルギーが送られているということになっています。 
その送られた大地の気が凝縮している場を「龍穴」というそうです。
法隆寺や伊勢神宮などの寺社仏閣で、現存しているものの多くは、
天災の起きない、この「龍穴」の場所に建てられているそうです。


四神相応(しじんそうおう)
は、東アジア・中華文明圏において、
天の四方の方角を司る「四神」↓の存在に最もふさわしいと
伝統的に信じられてきた地勢や地相のことをいう(wikiより)。
・ 「玄武」
 山脈の中央にある、とがった大きな山。一般的には、龍穴の北面にある。日本も中国も共通。
・「白虎」
 玄武の左側にエネルギースポット(龍穴)を囲い込む形で伸びている山脈。
 日本では大道。一般的には、龍穴の西面にある。
・「青龍」
 玄武の右側にエネルギースポット(龍穴)を囲い込む形で伸びている山脈。日本では川。
 一般的には、龍穴の東面にある。
・「朱雀」 上記の三つの山脈で囲い込まれた場所。広い平地になっており、
 川の流れでさらに囲い込まれ、その向こうに山(案山)で囲まれている。
 日本では池や湾もありうる。一般的には、龍穴の南面にある。

この西岡さんの本を読むと、なまじ家なんか買いたいとは思わなくなると思うので、
この本1冊を学校の教科書にしたらいいのにと、どんなにか思う。
西岡さんは、日本一の宮大工を自負していた。
これは実に「天晴れ」であるのと同時に、
西岡さんの歴史観からすると「さも尤も」なことなのだけど、
この「日本一」は当代日本一という意味ではなく、日本通史日本一、なのだ。
細かく時代を刻もうとする小者と違って、西岡さんは常に通史で物事をとらえているのだ。

西岡さんは日光東照宮を装飾ばかりの「くだらん建物」と言いきってしまう。
室町以降の建築技法は、飛鳥時代のそれとは比べようもないほど酷いらしい。
江戸時代の建築なんて、もう目も当てられないほど酷いとか。
こういう西岡さんの文章を読んで知っていると、
江戸建築をちやほやする気にもなれないし、
まして近代・現代建築はなおさら、の話しになってくる。
巷の優等生が口にする、古けりゃなんでも評価してしまうような、
下手な「懐古主義」なんかも、浅くて程度の低いのは諦めたとしても、
いかにそれが無責任な言質なのかがよく知れるというものだ。


以下は西岡氏の言葉です↓

「飛鳥時代に学者はおりません。大工がみんなやったんやないか。
その大工の伝統をふまえているのだから、われわれのやっていることは間違いないと思ってください」

「鉄は、飛鳥時代のように、砂鉄から作ったものなら千年でも大丈夫だけれど、
最近の溶鉱炉から積み出したような鉄はあかん。」

「学者は、木一本一本のクセを考えず、寸法、形、様式で語ろうとする。話にならん。」

「(薬師寺)金堂の申請をしましたときに、白鳳様式といえども建築は昭和の建築で国宝ではない、けれども内部は世界的な宝である薬師三尊をまつるんやから耐震耐火のコンクリートにせよ、そして収納庫の周辺を木造で包むというやり方でやれということでしたんですが、わたしの意見は反対でしてね、コンクリートは村松禎治郎さん(建築学者)に聞いたら百年しかもたんと言いますねん。百年しかもたんものを千年もつ木造を使うてはあかんやないかと、コンクリートがあかんようになるとき木造もあかんようになるやないか、やめてくれと言うたんですが、そんな勝手なことを言うなら金堂を建てる許可をせんということでしたんで、しゃあないからコンクリートにしたんですが、あまり感心したことではありません。」
(結局西岡さんは、コンクリートの部分だけユニット的に取り外せるようにした。コンクリートの方が、木よりも先にダメになるので。)

「(法輪寺三重塔のとき)竹島博士の言わはることもわからんでもないのです。けれどももし鉄材を入れるんやったら、法隆寺金堂のときのように千三百年たってから入れたらどうでしょうかと。なにも新しい木に穴をあけるようなことはできんと。わたしは飛鳥の工法にこだわってるんやない、聖徳太子ゆかりの寺です、すこしでも木の命をもたすことを考えてのことですわ。けどまあ、決着はつきませんでした。で、仕方なしに(委員会の)鈴木嘉吉さんを呼んで、その立会いのもとに使わんということに決めまして、ボルトだけつけて、入れておいたことにして、中には(鉄材が)通ってませんにゃ。竹島博士は月一回しか(現場に)来ませんのでわかりませんねん。鉄を入れたあと埋め木しますんで知ってませんねん。飾りでボルトが付いているというだけで、へっへっへっ。」

ちなみに、西岡さんの当時の宮大工は民家には手を出さなかったそうだ。
仕事がない時は畑で農作業をしていた。

「宮大工というのは百姓大工がええのかもわかりません。田んぼと畑があればなんとか食っていけますんでな。ガツガツと金のために仕事をせんでもええわけですから。儲けを考えたら宮大工なんかできません。
やってはならんことです。食えても食えんでも宮大工は民家はやらんのです。
この家もわたしが作ったんやない、ほかの大工さんに作ってもらってるでっせ。」
とは西岡さんの弁。

これが本当の半農半Xじゃないでしょうか。
普段デスクワ―クしている人が、週末だけ畑をやれば「半農半X」なんじゃないと思う。

人間国宝が偉い訳ではないが、木工家の村上明氏は農作業をやっておられるらしいけど、
それは、木工をやるからには、
「植物を知らなければならない、もっと言えば、土を知らなければならない」
という考えに裏打ちされたものだと思う。
これは、現代的生活の申し開きのような、ニ重生活としての半農半Xとは全く似て非なるものだ。
「農」が、もう1つの自分の「X-しごと」の「証明」として機能するような関係、
それがあるべき「半農半X」の姿じゃないか、と思う。
そうじゃないなら、別に「農」に固執しなくても、
代わりに「生け花」とか「茶道」とか「アロマテラピー」だとかでも充分いいんじゃないだろうか。
そんなに「農」だけが特別な訳じゃないし。


話しが脱線しましたが、
同じ飛鳥の建築様式で建てられていても、法隆寺のように残っていないものもあるそうで、
そういう建造物は、立地がよくないそうです。
法隆寺は伊勢神宮や唐招提寺、京都と同様、
土地風水でいうところの「龍穴」というところに建てられているそうで、
西岡さんはこれも、法隆寺が1300年持った理由の1つに上げています。

建築技法や建材への配慮のみならず、土地の地勢や地相にまで配慮することは、本来当たり前だったことなんじゃないでしょうか。

この、本来は建築技法とセットであるべき、
「立地条件にたいする研究とセンス」というものが、
もし建設側にも、施設を受け入れる側の自治体や土地住民にもあったなら、
原発や福祉施設を、被災の可能性の高いところに建てるということは
自ずと避けられたんじゃないだろうか、と思うのです。

ただ、四神相応の龍穴の土地であった京都も、
「巨椋池が完全に干拓されてしまったために、京都の四神相応は破壊されている(wiki)」そうで、
土地を開発する勢力がいる限り、この四神相応は破壊され続けてしまう

だから、私は伊勢神宮を歩きながら、
原発なんて龍穴である伊勢神宮に作ればいい、と何度も繰り返し思っていたのでした。

伊勢神宮はモニュメントだが、原発だってモニュメントじゃないか、と。
伊勢神宮内宮で、私が「東日本大震災」について何の祈念もする気になれなかったのは、
そういうわけだと思う。


国家の安寧を願って作られた東大寺の盧舎那仏だって、
建立する時、水銀中毒で多くの人が死んだ。
5年間、50tの水銀を金と混ぜて仏像にメッキ加工を施す間、
平城京の人々は水銀で汚染された空気を吸いこみ、
水銀汚染された食物を食べ、神経や内臓がおかされて多くの人が死んだ。
これを当時の科学では説明できないから、
人は「祟りだ」と呼んだのだろうけど、
今、福島原発で起きていることや、その他の原発での働く作業員の置かれた状況は、
この奈良の大仏建立時の状況と変わりがないように思えるのだ。

収束し切れない・予防できない原発事故だって、
もはや現在の科学では対応できないってことじゃないだろうか。
平城京の大仏建立の時と何が違うというのだろう。

もう、人を害するモニュメントは要らない。
人を害する宣託を信じない。


今こそ、安部公房の言葉が生きてくる。
「もはやどんなシャーマンの御託宣にも左右されない、強靭な自己凝視のための科学的言語教育です。
存在や認識の「プログラム」を開く≪ことば≫という鍵を、
ついシャーマンの歌にまどわされて手放したりしないための教育です。
人間とはまさに「開かれたプログラム」それ自体にほかならないのですから。」


borotiti「キューバに伝わるヨルバ族の歌」 ~ 疎外

去年1番聴いたCDから1曲、you tubeにアップ。
レーベルの「ナクソス」のサイトhttp://ml.naxos.jp/album/8.555887で、視聴も出来る。
ナクソスの、そのレンジの広さにただただ感謝。



shojinsubuta
◆≪自己流・精進麻婆豆腐の作り方(4人前)≫
 ひき肉の代わりにオートミールを使います

木綿豆腐 2丁 (5分ほど茹でて水を切っておく)
オートミール 100CC (さっと湯通しして水を切るーーざるに入れたまま茹でると楽です)
・ニンニク・生姜 各1片 (みじん切り)
赤唐辛子 2本 (ぬるま湯で5分ほどつけて戻し、種を取って薄切りに)
ネギ 1/2本 もしくは玉ねぎ1/2玉 (みじん切り)


合わせ調味料 以下のものをボールで合わせておく
Γ しょうゆ 大さじ2
|  みそ またはテンメンジャン 大さじ1
|  砂糖 適宜
|  水 1/2カップ
∟中華だしの素(あれば) 小さじ1/2ーALL植物性で化学調味料無添加がおすすめ

ごま油

①中華鍋にごま油を熱し、ニンニク・生姜・唐辛子を炒める。
②香りが立ってきたら、ネギまたは玉ねぎを炒める。
③水切りしたオートミールを入れて炒める(くっついても大丈夫です)。
④合わせ調味料を入れて全体を混ぜ合わせる。
⑤煮立ってきたら、豆腐を5つぐらいに大きくちぎりながら投入。
⑥そのまま少し煮て、味をなじませて出来上がり。
※片栗粉でトロミをつける必要はありません。オートミールで勝手にトロミが付きます。
(上の写真は上記レシピから「+茄子」「-香辛料」になっています)



ある菜食の宿が、被災地の方を受け入れるという。
しかし、そこに書いてあった「菜食の方優先」という文字に、正直腹が立った。
その宿には全く悪意がないことは知っている。
けれど、初見の人が、特に被災地の人が見たら何と思うだろうか。
いかに菜食が良いものだとしても、
そこに人間的な選別や疎外が表現されるのだとしたら、全く意味がない。
選別や疎外以上に身体に悪いものはないと私は思うから。
「悪いことをするときよりも、良いことをするときこそ、気を使いなさい」
と書いたのは太宰治だった。
だからこの菜食の宿は、太宰治よりもずっとずっと遅れている。見本にする必要はない。


同じ被災地の方でも、家族皆無事だった人もいれば、そうでない人もいて、
「どうして自分(たち)だけは...」という疎外感を抱かざるを得ない人がいると思う。
同じ避難所の中にも、選別と疎外の感情は存在するのだろう。

自閉症の子供のいる家族が、被災したものの、
他人の迷惑になるからと言って避難所にうつるのを遠慮し、
車中で過ごしているという記事を、朝日新聞が書いていた。

今回の地震と津波と原発事故によって、
想定していた人生から、多くの人々は疎外された。
けれど例えば、
その自閉症の子のいる家庭は、それ以前にすでに疎外されていたのだ。

私の統合失調症の兄とて、もし被災して避難所に行ったとしても、
多分、そこに居続けることは出来ないだろうと思う。
もちろん、平穏そうに見える家庭も例外でなく、
どんな家庭だって、傍からでは分からない苦悩や問題はつきものだけれど。


「支援の輪」と言いながら、かたや、欧米諸国はリビアに空爆をすると言う。
自然災害の被害者は支援の対象で、政治による被害者は支援の対象ではないということか。
「被災地の人のことを考えて節電しよう、出来ることをやろう」と湧きかえるのはいいけれど、
どうしても「欲しがりません、勝つまでは」という戦時中の挙国一致と重なってしか見えないのは、
こうした私たちの言動があまりに矛盾しているからだ。


今回の東日本大震災によって浮き彫りになった、
選別と疎外に対して過剰に驚愕し騒ぎ立つのだとしたら、
今までの常なる選別と疎外には全く目を向けていなかったっていうことだ。
24時間テレビで年に1回だけ、障碍者の人をクローズアップするのと全く同じで。


どうして、普段からやれないんだろう。
どうして、起きる前から考えることをしないんだろう。
どうして、非日常や非常事態としてしか取り組めないんだろう。


震災や津波や原発事故の前から、
とうに選別と疎外は存在してきたのだ。


無常の遺伝子

お風呂に入るときは、ラジオを聴いている。
それは習慣的に。
非常事態であろうと、そうでなかろうと。

この「東日本大震災」以降、
ラジオの選曲は、いつも以上にアッパーでエモ-ショナルな内容になっている。
(だいたい、今の事態を「東日本大震災」という呼称を用いて一括で指し示すことは、
福島の原発問題が「人災」であるという事実を希釈することになるんじゃないだろうか)

さっきお風呂に入っている時も、
ラジオで流れるのは普段私が大嫌いな、応援歌や愛を扱った曲ばかり。
“なかなか良い選曲の番組だな”と思っていた番組さえも、
今はやたら「勇気」やら「前向き」だのを鼓舞するような曲を流している。
それでも、被災地の人の言葉や、また、
彼らに向けた応援の言葉と共に曲が紹介されると、
食うにも寝るにも困っていない私でさえも、さすがに泣きそうになる。


しかし今日、とある番組で、
「絶対に元通りにするって決意したら必ず叶うと思います。
親をまた呼べるように、早くこちらで家を建て直します!」
という相馬市で被災した方のメッセージを紹介した後で、
DJが、
「その方からのリクエストです、エリック・クラプトンで“change the world"」
と言ったのには驚いた。

一体全体、「元に戻したい」のか、「チェンジしたい」のかどっちなんだ。

しかし、この類いのメッセージとこういった類いの曲は、
その意義同士の矛盾なぞ指摘されずに結合したままで、
何食わぬ顔で社会の中で受け入れられていくんだろう。


被災地にまた戻って暮すことが無謀だと言っているのでは決してない。
言いたいのは、
ローンを30年組まなければ買えない「家」という概念や、
エネルギーや生活そのものの概念を変えなければならないんじゃないかということだ。
そうでなければ“change the world”にはならない。


「日本人はこんな非常事態なのに暴動が起きなくて立派だ」と、
世界で高評価らしい。
たしかに、避難所では自主的な自治組織が生まれ、
暴動や窃盗などによる副次的な被害者が出ていないのは大変に誇りうることだと思う。
けれどやっぱり、原発の問題に限っては、
結局は戦後の私たちの、第2次世界大戦に対する反省と総括が不十分だったことが、
今の最悪の状況を生んだと言わざるを得ないんじゃないだろうかと思えてならない。

以前も紹介した、伊丹万作さんの文章をもう一度読んでみよう。

さて、多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。みながみな口を揃え
てだまされていたという。私の知つている範囲ではおれがだましたのだといつた
人間はまだ一人もいない。

そこで私は、試みに諸君にきいてみたい。「諸君は戦争中、ただの一度も自分
の子にうそをつかなかつたか」と。たとえ、はつきりうそを意識しないまでも、
戦争中、一度もまちがつたことを我子に教えなかつたといいきれる親がはたして
いるだろうか。

いたいけな子供たちは何もいいはしないが、もしも彼らが批判の眼を持つてい
たとしたら、彼らから見た世の大人たちは、一人のこらず戦争責任者に見えるに
ちがいないのである。

もしも我々が、真に良心的に、かつ厳粛に考えるならば、戦争責任とは、そう
いうものであろうと思う。
我々は、はからずも、いま政治的には一応解放された。しかしいままで、奴隷
状態を存続せしめた責任を軍や警察や官僚にのみ負担させて、彼らの跳梁を許し
た自分たちの罪を真剣に反省しなかつたならば、日本の国民というものは永久に
救われるときはないであろう。

「だまされていた」という一語の持つ便利な効果におぼれて、一切の責任から解
放された気でいる多くの人人の安易きわまる態度を見るとき、私は日本国民の将
来に対して暗澹たる不安を感ぜざるを得ない。

「だまされていた」といつて平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でも
だまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによつてだまされ始めている
にちがいないのである。

これは大した予言だったと思う。
もし、娘が被曝して健康被害が出た時に、
「お母さんは責任がないんだよ」と娘にのうのうと言えるだろうか。
世間がどう言おうと、
娘と私との関係においては、そんな了解はあり得ないだろう。
私は娘を守れなかった、それが結論になる。


今回の東日本大震災が人工地震かどうかなんてことはもう、別の話だ。
アメリカ合衆国のメディアが言うように、
日本人が「敬意と品格の民族だから暴動が起きない」のではないと思う。
それは、こんなに地震が多い火山国でもあるこの列島に住まう人々の
遺伝子が故のことだと思う。
とどのつまり、
過去の多くの災害を経ても、それでも生き延びてきた子孫だからじゃないだろうか。
だから受容できるんじゃないか。
それで戦争のこともすぐ忘れてしまうんだろう。


そもそも、この災害時の民族性という比較検証とやらだけど、
自然環境や気候風土の異なる国同士で「比較」が成立すること自体、
おかしい気がする。
一体どんな“同じ条件が揃っての比較”なんだ。
それこそ、グローバルスタンダードの思うつぼじゃないか。
どこまでいったって、比較する当人達はみーんな、自分かもしくは欧米人が基準なんだろ。
「こんな時に吠えない動物がいるわよ、珍しいな」って言ってんのと何が違うんだろう。


(火山国の日本は地熱エネルギーの先駆者になれるってニュース、過去にありました。
http://www.afpbb.com/article/environment-science-it/environment/2730249/5805532
原発という選択はつまり「グローバリゼーション」の一環だったんでしょう。
日本の国土条件に真に合致した、別のエネルギー開発の道もあったのだとしたら、
余計に無念だ。)


こんな時に、「お前はあげあしを取ることばかり書いていて恥を知れ」と思う人もいるかもしれない。
「電力会社から供給される電気を使ってブログだって書いてんだろ」、と。
おっしゃる通り、確かにそうだ。
ブログなんか書かずに、節電していた方が良いのかもしれない。
だけど、「でもそういうことじゃないんじゃないか?」と思うから書いてしまう訳です。
それは「何となく思う」というレベルでもなくて、むしろ確信を持ってるというレベルで。


定住しない、固定資産を持たない、定職を持たない、定収入がない、

そういった状況に大して何ら偏見を持たない、挫折感を抱かない。
そういった精神こそが、まず人にとっての基本的なインフラであるべきじゃないか、
ということです。
それが、人のエネルギーだ、と。

在ることに固執した“在る”と、
在ることに固執しない“在る”は、同じ“在る”でもやっぱり違う、
と、そう私には思えるのです。


国家や社会は何かを選択する。それは常に合法的に。
だから決まった以上、市民は大方それを受け入れざるを得ないだろう。
もし、市民や個人が充分に行動できるとしたら、
あくまで国家や社会が決定をしてしまう「前」でしかない
まして、国家や社会のする決定の内容と方向性は、
私たちの感覚から遠くかけ離れたものでもなく、
確実に私たちの心の中のインフラと連動しているのだ、と思う。

旧態依然のインフラを復旧させるのではなく、
新しいインフラを、私たちの心に整備しなければならない。

ここで、小林秀雄の「無常というふこと」から

歴史には死人だけしか現れて来ない。従って退(の)っ引(ぴ)きならぬ
人間の相しか現れぬし、動じない美しい形しか現れぬ。思い出となれば、
みんな美しく見えるとよく言うが、その意味をみんなが間違えている。
僕等が過去を飾り勝ちなのではない。過去の方で僕等に余計な思いを
させないだけなのである。思い出が、僕等を一種の動物である事から
救うのだ。記憶するだけではけないのだろう。思い出さなくては
いけないのだろう。           

人間の置かれた「無常」を見つめるには上手に思い出すことしかない、と思うが、
記憶で頭をいっぱいにしている現代人には、心をむなしくして思い出すことができないし
鎌倉時代の「なま女房」ほどにも、無常ということが分かっていない。
常なるものを見失ったからだ、それが結論だ。

何かが不足しているように思えても人は生きてきた。
生きるということはその内に不足をも含んでいる。
不足はまだ死ではない。


私がラジオDJだったら、
「Igot plenty o nuttin(of nothing)」をかけたい。


気分を害された方がおられたら申し訳ありません。


国防

※加筆しました

今朝がた、父からメール。
かねてから考えていた、雲水になって行脚する計画を、
5年以上先だろうが始めるとの連絡だった。

それは父の人生の締め方に対する哲学なのだ。
現代は、あくまで普通の感覚からすると、
死に場所は病院や老人施設という「ハコ」の中になる。
そこでは、死ぬに至るまで支払いが生じるのだ。

数年前、父は思いついた。
雲水になって行脚しながら人生を終えることを。
「独居老人」になると、世間から同情の対象になり、行政からは福祉の対象になり、
「浮浪者」になると、世間から排除の対象になり、行政からは指導の対象になるが、
しかし雲水は、
『単独者で、家を持たず、働かず、漂流し続ける』ことが、
その存在価値であるがゆえに、
同情や福祉、排除、指導の対象にはならない。
中国の唐代の詩人がそうであったように、
この流浪は固定観念の強い日本文化の中でも認められている。

雲水は家を持たない伝統的な技術である。
その父から追加でメールあり。

地震学者などの科学者や専門家たちが「想定外」を
口にするが馬鹿げた言い草だ。
M9以上はつい近年スマトラ沖であったというのに・・・。
また、原発事故はすぐにでも軍が対応すべきなのに、
未だに東電のようなお手上げ組織に委ねているとは悲惨極まりない。
言い分は多々あるが、きりがないのでやめる。

ということは、この国で核戦争になったら、
出動するのは電力会社の社員だということだ。
いや、電力会社の孫請けの社員だ。
核兵器時代の今、日本の国防組織は自衛隊でない。
電力会社の孫請け会社なのだ。

ロボット

テレビで、
「依然ダウンスケールを示しているものの、
安定して」燃料棒がむき出しになっていると、東電の説明。

半分、燃料棒がむき出しになっているのに、
「安定して」というような、
その場しのぎの言葉をちょいちょい挟む感覚は何なのか。

私は核反応の物理の専門知識はないけれど、
彼らの考え方の嘘や矛盾は、
私たちが普段使っている同じ言語によって出来ているのだ。

しかし、原発で働く被曝した労働者の労災を、
この国は認めていない!
のですね。

いかにコンピューター制御能力が上がろうとも、
現場で働く裏方人口は年々増えている。
しかも、そのほとんどが電力会社の正社員ではなく、
下請け会社の労働者だ。

※参考リンク(記載されている写真などは時代が経っているようですが)
http://www.nuketext.org/roudousha.html"target 「原発で働く人々」

発展途上国の生産物を買ってフェアトレードだ、
現地の労働環境まで考慮に入れてモノを買おう と言っても、
現に足元の、この日本の原発における労働環境を私も無視してきたのだ。
灯台の元は真っ暗闇だ。

今回の原発事故(人為事故と言ってもいい)は、
スリーマイル島の原発事故以上になるんだろう。


※チェルノブイリにも足を運ばれた小児科医の黒部信一先生のブログに
 被曝に関することが描かれています。
 被曝した場合に、玄米に含まれるフィチンやヨウ素などが注目されていますが、
 やはり心理状態も、症状の発生を左右するんだということが書かれています。
 ぜひ読んでください。 

 http://kurobe-shin.no-blog.jp/bk/"target 「黒部信一のブログ」


親のせい

(最後再度加筆しました--更に追記 )

前回、記事に書いた、
ネットでカンニングをした受験生に対して、
一部では「世間や親のせいにするな」って意見があるようです。
すごいなぁ、みんなご立派なのね、と思った。


世間のせいにしちゃダメなら、
阿部謹也氏の「世間とは何か」という問いだって生まれなかったはずだ。
なんで親のせいにしちゃダメなの?
それを言いだすのは、ただの余計なお世話か、
「自分がいかに立派に自立しているか」の喧伝でしかないんじゃないだろうか。
そういう「自分を棚に上げて」って態度は1番タチが悪い。
カンニングよりも悪質じゃないだろうか。


親のせいにするなって、その受験生に言えるとしたら、実の親だけじゃないのかな。
その子の事情はその子にしかわからない。
だって、身近にいたその子の親だってわからなかったんでしょうから、
まして他人がわかるはずもない。

そもそも、「親のせいにする」のは人の自由じゃないの、
芥川龍之介だって太宰治だって、みーんな「親のせい」にしてきた勢力じゃないか。

そして、その子が親のせいにしているというのなら、
それはその親がその子とそういう関係しか作れなかったことの証しだと思う。
それで、子供ばっかりが我慢するのはおかしい。
子供だって、すんなりと巣立ちが出来るもんなら、そうしたいはずなのだ。
一体自然界では、巣立ちを必要以上に遅延させる動物がいるだろうか。


だいたい、結婚式に親を呼ぶのだって、「親のせい」のようなもんじゃないか。
親に孫を見せたいと思うのだって、「親のせい」じゃないの?
ヒトはゴリラのように、
群れから完全に孤立して独立するほど、もともと自立してもないくせに、
何言ってんだ。

子供が、親のせいにするのもダメって、
そしたら、自分のせいなんでしょうか。
何でも自分のせいなのだとしたら、
この国は自殺者がいっこうに減らない訳だ。
解決方法が自罰的な方向だもの。
(他罰的ならいい訳じゃありません。でも実際、自殺者の方が殺人者より多い)


私は親子関係が人にとって1番重要な関係だと思っています。
会ったことのない友人や、恋人や伴侶から影響を受けることはないが、
会ったことのない親からは影響を受ける。
私は母を7歳で亡くしたが、いまだに影響を受け続けている。


そして、
あるとき、たいがいパンクな私の父に向って、
「お父さんはそんなに父親としてロクデナシなのに、よく娘に“お父さん”って呼ばせるよね!」
と言ったら、
「それはお父さんがお前の“お父さん”だからでしょ」
と言われて拍子抜けしたことがある。
どんなに酷くても、それでも父親でいられるのは、父親だからだ、とそう彼は言った訳です。


友達なら、ある事に失望したり憤慨して縁を切ることは可能でしょうし、
もう友達とは呼ばない、認めないってことも可能でしょう。
けれど、親は(家族は)そうはいかない。
ほとんどの関係はある条件をもとに成立している契約関係と言えるので、
関係の解除は出来ます。
友人だって、恋人だって、伴侶だって、です。

けれど、ある条件に同意して成立する関係とは、親子関係は異なる。
全く次元の違う関係です。
親を契約解除することは出来ない。
(法律上でも、親の籍から出たところで、子の「親の相続を受ける権利」は続くそうだし。)

一生、親子関係は人にとってのテーマであり続けると思う。

「親のせいにするな」という親ほど、子供の話しを聞いていない親はいないと思う。
そして、そういう人ほどどうせ、
「なんでも政治のせいにするな」と政治家に言われたら、
なんと国民を無視した政治家だ!って憤慨するんだろ。


多分、この受験生は、カンニング事件を起こしてしまったけれど、
親子の問題という人生で1番難しい問題に正面から取り組むことになっただろう。
それは1人で解く問題ではない。
親と一緒に解く問題だ。
その機会を、彼は得た。大学の入学許可書と引き換えに。


※追記
 同志社大学は被害届を出さないとのこと。
 キリスト教主義大学として面目躍如たるものだった。
 京都における難関大学として、偏差値では京大に劣るものの、
 むしろ同志社らしさを全国的にプロモートできただろう。



暗記大学・暗記学科

最近ニュースになっている、仙台の受験生のネットによるカンニング事件。
受験したこと自体が無効になったり、合格が取り消されるのは理解出来るけど、
逮捕されるというのはどうなんだろう。
多くの人が疑問を抱いたように、
むしろ、大学側の危機管理に落ち度があったんじゃないだろうか。

昨日たまたま、購読の勧誘目的で届いていた新聞で、
「(学費の安い)国立大学に入学して母親を安心させたかった」と
その受験生が話したことを知ってから、
大学側が怒り心頭で会見していたのを思い返してみると、
大学側がなんとも頭が固くて大人げなく見えてくる。

それより、ブラジルかどこかのサッカー選手が、
サッカー場の中に舞い降りたフクロウを蹴りとばして殺してしまった行為の方が、
逮捕に値する気がするけど。


組織的にネットを通じてカンニングをする事件ならいざ知らず、
追いつめられた1人の青年の、明らかに履歴の残るカンニングによって、
大学にとって「最も大事な社会的な契約の1つ」である試験が揺らぐのだとしたら、
大学というところは、なんと脆い「契約」をお金を取ってやっているんだろうか。

だいたい、まぁこれは中卒ならではの戯言なのだけど、
一体どこの学者先生が、本を著す時、
全く他人の本を参照することなしに自力のみで書くことができるだろうか。
教授の部屋のデスクの後ろに並べられた夥しい数の本は、
ただ読書量を誇るためのインテリアなんだろうか。
そうじゃないはずだ。


ただ知識量が多いから本を出せるんじゃなくて、
考え方や論点、切り口が他人と違うからこそ本を出せるんじゃないでしょうか。
今や、助教授の身分だけでは食べていくのも大変な時代ならば、
学問が食べ物に変わるためには、知識量ではなく発想力こそを鍛えなければいけない。
だから一応、最高学府とされる東大の設問は、
「世界史におけるバイカル湖の役割を述べよ」
とかいった、記述問題が特徴的で、
こういった記述問題こそが、やっぱり穴埋めや選択問題に比べて圧倒的に難しいから、
東大は採用しているわけでしょう。


試験だって、参考書や辞書の持ちこみを許可し、
それでも解答を組み立てていくのは難しく、
その解答の正否も専門家でないと判断しかねるような高度でユニークな良問を、
大学側が提供すればいいと思う。
カンニングしたところで、それが正しい解答だと判断し採用するのは生徒の方なのだから、
その生徒のセンス自体を問うような問題を作ればいいのだ。
もちろん、今の暗記中心の試験だって残ってもいいと思うけど、
その試験を行うのは暗記大学・暗記学科でいい。
暗記のスペシャリストを育成する大学で。


スペインにいた時、周りにいる日本人はほとんど大学生で、
慶応、早稲田、上智、同志社、中央、東京外大、拓殖、亜細亜、中部 等々の大学からの留学生だった。
けれど、スペインに留学してきている仏人やドイツ人、オランダ人大学生に聞いても、
上の日本の大学の名前を誰も知らなかった。
スペイン語に訳すと「中央」と「中部」と「亜細亜」大学がいかにも有名な大学っぽくなるため、
1番難しい大学だと誤認されていた。
ヨーロッパの大学は海外から留学生がたくさん来ている。
けれど、日本の大学における海外留学生の乏しさは、一体何だ。

世界で日本の大学が通用しないのは、
やっぱり暗記中心の入試と、入学だけが難しいことが理由じゃないだろうか。

しかも偏差値の高い日本の大学に行っている日本人ほど、文法や語彙は優秀だけど、
スペイン人の友人は少なく会話が下手だった。
常に、フラメンコ留学の女性に、日常会話の流暢さでは負けていた。
私と一緒のホームステイ先だった日本人の友人は、大変努力の人で、
とてもスペイン語が上手だったので、同じ日本人から
「ミキはスペイン語が上手だよね、すごいよね」と言われ続けていた。
でも、ミキちゃんは決まってこう言っていた。
「スペイン語を上手に話すのが目標じゃない。大事なのは何をしゃべるかだよ」と。


とにかく、本音と建前を教えているのは学校だと思う。
二枚舌を容認しているのは。

例えば、昨今のアレルギー体質の児童の増加は、学校が直面している問題だけれど、
アトピーの児童は、体育の授業の後シャワーをするだけで、随分症状が緩和するのだそうです。
北欧やドイツでは、学校で体育の授業の後はシャワーを浴びるのは当たり前になっているけれど、
日本ではまだまだ一般化されていない。
アトピー児童の親などが自治体に働きかけているが、養護教諭の人数が少ないため、
全校でシャワーを実施出来て、現在最大10名くらいなのが現状だそうだ。
しかし、重症なアトピー児童は全体の2%なので、とりあえずは賄えているという判断だとか。ほんまかいな。

※参考リンク↓
 http://hiroshima-dermatology.jp/scholar/archive/img/for_patient/Shower_atopic_dermatitis.pdf"target

しかし、
「汗をかいたらシャワーを浴びたい」という、誰でも抱く日常的な感覚が、
学校というハコでは否定されるのだ。
しかも、教室で食事も取らなければならない。
なぜ、食堂を作ることが出来ないんだろう。

学校は日本における「異空間」だと思う。


もっと言えば、
どうして教科書や筆箱を家に持ち帰らなければならないんだろう?と思っていた。
家で勉強したい人だけが教科書を持って帰ればいいのだし、
学校で運動する時は体育着着用と限定しているのだから、
学校と家で使う筆記用具も別々の、専用のそれでいいんじゃないか、と。

ある時、筆箱を忘れて、
先生から「勉強する気があるのか!!」と、みんなの前でどやしつけられたことがある。
だけど、忘れる機会を与えているのは学校だと思った。
学校でクラスみんな共有の筆記用具を置いておけばいいだけじゃないか、と思っていた。
教科書だってみんなで使えばいいだけだ、と。

私は父子家庭だったので、小さい時から洗濯は自分でしなければならなかった。
汚れた体育着を家に持ち帰っても、つい遊んで洗濯を溜めてしまうと、
そのまま汚れた体育着を学校に持っていって、着るしかなかった。
「どうして、大人は何を着て運動してもいいのに、子供はいけないんだろう。」
といつも思っていた。
なんと不条理で、現実の感覚から学校はかけ離れているんだろう、と。

汚れた体育着を着た私に、
「渡部さん(私の旧姓)のお家は一体どうなってるの?!清潔にしなくちゃだめじゃないの!」
とみんなの前で言い放った先生は、
仙台の受験生によるカンニング事件で、怒り心頭の会見をした大学関係者に、
とてもよく似ている。


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