ノ ー ト

好 き な 読 書 を 中 心 に 考 え 中 を 記 録 す る ノ ー ト

2011年08月

避難の権利

避難の権利というのは、東電に対する賠償請求活動を支援しておられる、
弁護士の福田健治さんが使われている言葉です。


この動画で、初めて「予防原則」のこと、「日本国憲法前文」のこと、
「こどもの権利条約」のことを知りました。

国家が市民を避難させないこと、避難させてもその区域の狭いこと、
それらを非難するのはみんながやっていること。
けれど、それってちょっと違うんじゃないか。
国家が市民を「避難させる義務」を問うよりも、
そろそろ、
市民側が「避難する権利」を主張できる環境のサポートの方へ転換すべきなのだ。
これは全国民にとって長期戦なのだから。
使える法律はたくさんある。


<予防原則>
●予防原則(よぼうげんそく)とは、化学物質や遺伝子組換えなどの新技術などに対して、
 環境に重大かつ不可逆的な影響を及ぼす仮説上の恐れがある場合、
 科学的に因果関係が十分証明されない状況でも、規制措置を可能にする制度や考え方のこと。
ーーーそもそも放射線被害に「しきい値」など存在しないわけだけど、科学的数値の是非を云々する前に、こうした考え方が国際的にも成立している、ということ。この原則には不備もあるようだけれど、正しいデータが遅れてやってくる現状を考えると、理にかなった考え方だと思う。


<日本国憲法前文>
福田氏の触れた部分抜粋
●われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
ーーー放射線に対する恐怖は、これに該当する。


<こどもの権利条約>

環境汚染の危険を考慮に入れて、基礎的な保健の枠組みの範囲内で行われることを含めて、
 特に用意に利用可能な技術の適用により並びに十分に栄養のある食物及び清潔な飲料水の供給を通じて、
 疾病の予防及び栄養不良と戦うこと。(24条)
ーーー子供に被ばくの恐れのある食料を供給することは、条約に反する。


権利は国家によって与えられるのではなく、
人間がもともと持っているものである。
福田氏の言われる、
「国家や行政によって、地域や集団単位で命令されて避難させられるのではなく
 自分で情報を集めて、自分で考え、個人が判断して避難する」
というのが本当のあり方なんじゃないだろうか、
と改めて思った。



B その続き1 ~内的体験~

前々回書いた、「内的体験自身は権威である」のこと。

Bさんが意味したかった内的体験とは、
つまり神秘体験というか瞑想体験?のようなものである。
瞑想に関しても全くの不案内なので、あれこれ言う術はないのだが、
前提として、この内的体験は「瞬間の体験」のことだ。
(なぜ瞬間なのか、ということは次回以降に書きます。)


だから前々回の記事で、
私が体験全般を権威であると考えたのと、
Bさんの考えとでは異なります。
Bさんならば、
“一般的な体験は、体験自身が権威なのではなく、
その外部の権威にその価値を担保されているに過ぎない”なんて言うでしょう。


Bさんは若かりし頃、救いを求めて熱心なカトリック信者となった。
物心ついた時にはすでにお父さんが梅毒で全盲になり、
Bさんは、発狂していくお父さんのシモの世話までやらねばならず、
この経験はBさんを、人一倍多感で繊細な人にさせただろう。

たぶん、お父さんを拒絶したい気持ちと、
お父さんを擁護したい気持ち、
そのふたつに引き裂かれるような生活だったろう。
葛藤は最高の試練になるから、そこに教師はいらない。
アカデミックにならずに学ぶことを可能にさせた素質は、
Bさんの中でこのようにして養われただろう(多分)。

人間の社会にとって無用なものとされるだろう、
お父さんの存在。
けれども、無用であろうと、
目の前でアクチュアルに存在する父親の姿に、
有用性だけで生命は語れるのか
というような反発心がBさんに起きただろう。


自分や身内が障碍者だったり、
慢性的な疾患を抱えている場合、
こういった感情はとてもよくわかる。

当時のフロイト的発想では、
正常な個人を人間の基準に据える、
「西欧の人間中心主義」そのものだっただろうし、
精神病棟はただの、社会から排除された人々の掃き溜めだった。
実際に精神病を患った患者だけでなく、
異端審問や魔女狩りのようにして、
社会にとって邪魔とみなされた人々も収容されていた。


Bさんは頭のいい人なので、
ニーチェの影響もあったかもしれないけれど、
お父さんのことで救いを求めたものの、
そのカトリックが、というか、
キリスト教的道徳観が、
このような様々な差別や矛盾を生んでいることを、
見抜いた。


私が中学生のころ、
全ての自分の悩みが、己の自意識過剰から来ることを感じて、
自意識を抑えよう抑えようとしたのにも似ている。
所詮、自意識は、全くの自分の目というわけではなく、
他人の目や世間の価値基準といった、
外部の権威によって私にもたらされたものに過ぎなかった。
他人の目を、自分の目と錯誤しているから、不自然なのだ。

苦しみとは、自然の調和がとれていないときに感じる
ものだ。
本来は、他人の目をさらに覗き込み凝視する目こそを、
自分の目にしなければならなかったのだ。
つまり誰のものでもない(特定の誰かにだけ有利に働くのではない)目でなければ、
本当の<わたし>を救ってくれるものはないのだ
、ということを。

そんな訳で(?)、Bさんはカトリックの神秘主義者に憧れながらも、
彼らが神の存在に固執してしまって、
カトリックの教義を超えることができないことに対して限界を感じ、
特定の宗教教義に束縛されるような神秘体験ではない、
別の神秘体験、
純粋な「裸の体験」=「内的体験」を見つけたかったんだと思う。


神秘体験が、
結局は、常識や教義に裏打ちされることで成立しているなんて!
これは昨今のスピリチュアル的な表現も全く同様だ、
と言える気がする。
所詮は、既存の宗教の神秘体験の真似事をしているだけなのだろう。
そうでないならば、
既存の価値や表現を踏襲することで、
自分たちの表現に代えようとは決してしないはずだ、と思う。
そうであれば流行のスピリチュアルも、
易々と人々を満足させたり勧誘したりする質のものではなくなるだろう。


こうした上辺だけのスピリチュアルとは一線を画して、
だからBさんは、
本当の「至高性とはなにものでもない」と、
言うに至るのだ。
この“なにものでもない”の迫力は、深い思慮から生まれているのだ。

純粋な裸の体験、それがなければ、
人間は一切の野性を失い、
予定調和の知によってこの世から他者性を失うだろう。
それは同時に、<わたし>や知そのものの「死」に他ならないから。

(つづく)

追悼 松田直樹選手

本当はBの続きを書こうと思っていたのだけど、

年が近いせいもあってか、
ここ松本のクラブ「松本山雅」に属していたからか、
よくわからないけれど、
多くの人がそうであったように、
松田選手の急逝は本当に本当にショックだった。

「(中田)ヒデを殴れるのは俺だけ」と自負していた松田選手、
「出さなかったら殺すぞというオーラが出ている」と、
トルシエ元監督に言わせた松田選手。

詳しく知らないのにエピソードだけ追っているのは情けないが、
日本人選手には珍しい反骨精神というか、勇ましさが、
この人には強くあったと聞く。

松本山雅に入って、
最愛の古巣「横浜マリノスと対戦できることがマリノスへの恩返し」、
と語ったという話は何度聞いても胸を打たれる。
それで、彼は余計に頑張っていたんじゃないだろうか。

「最後の瞬間まで現役だったのは幸せだったんじゃないか」、
とかなんとか言う人もいるようだが、
それはちょっと待ってくれ、と思う。

AEDさえ、練習中に携帯していれば、救えた命かもしれないのだ。
なんで、山雅はAEDを持ってなかったんだ?
だからって、山雅だけを悪者にしないでほしい。
日本サッカー協会のJリーグ準加盟制度の条件を見たって、
法人の役員のこととか、ホームスタジアムの規模だなんちゃらのことばかり。
協会はもっと他に、最初に条件づけることがあるでしょうが!

プロスポーツなんだから、AED不携帯は大問題。
そこにお金かけないでどうすんだ。
それを条件にしないでどうすんだ。
お金のない地方クラブなんて、
中央からがっちり指導して、選手を保護してやらなきゃダメじゃんか。

プロスポーツはみんな過度に体を酷使するもので、
どっちかっていると、体にはよくないもんだと思う。
体にはよくないことを人にやらせているという認識が、
協会側にはないんだろう。

「マリノスにいたら、こんなことにならなかった」って、
横浜の人たちが悲しむのだとしたら、情けないし、何とも言えない。

スポーツするときにはAED、
これ、どうか全ての基本にしてください。


B

私自身、妄想癖がある方なので、混同は日常茶飯事。
けれど、ゆえに、混同が何をもたらすかということはよく分かる、
というか、しばしば経験していることだったりする。

大好きなBという人がかつて、また別のBという人にこういわれたそうだ。
「体験自身は権威である」と。
この助言に前者のBさんは驚いたようだが、
その驚いたという話を知って私も驚いた。


以前1度書いたことだけど、
驚きついでに私は、
今まで自分が「権威=権力」と認識の混同をしていたことに、
その時初めて気がついた。

権威は、もっと別のところ(自分とは縁のないところ)にあると思っていた。
権力者にしか権威はないと思っていた。
けれど、(内的)体験自身が権威であると、後者のBさんは言うわけだ。
つまり、私も権威とは無縁ではない、ということだ。
だから体験は唯一無二な価値として、憧憬されもし妬みの対象にもなる。

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ちなみに「内的体験とは何か」っていうことは置いておきます。
「(内的)体験自身は権威である」という言葉を受けて、
前者のBさんがその後考えたことと、
私が考えたことは全然違っています。
もちろん、前者のBさんが考えたことはもっともっとすんごいことです。
だから、ここからは一旦、一切Bさんとは離れます。

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けれど、同時に、
権威が権力を必ず持つかどうかは別問題だ、ということにも気が付いた。
すべての体験が権威であるとしても、すべての権威が権力となるわけではない。
そうでなければ、権力を止めることもできなくなってしまう。
つまり権威と権力を個別に認識できなければ、
権力の構造を理解できないわけだから、権力化を未然に防ぐ技術を永遠に得られない訳だ。


最近読んだ本や、
まゆみさんに教わった飯島秀行氏の考え方に触れて、
(飯島さんの「テレビが50インチだなんてえばったってしょうがないんです。
電波がなければテレビなんて映らないんです」っていう表現はとても分かりやすくて好きです。)
「やはり 間にある、動いているものによって、存在はやっと輪郭を得ているに過ぎない」
と改めて思った。
<存在>の理解には、間の理解が必要だ、と。
これはある方にメールでも書いたのだけど。


↑の本に書かれていた一文↓
「西洋諸文化においては、絶対的なものとは、存在の絶対であり、
 存在はみずからを絶対的なものとみなすことなくしては存在することができないと言われています。
 とはいえ、すでにソクラテス以前の哲学において支配的であった考え方によれば、
 存在とは関係である、つまり存在とは絶対的なものでなく、
 他者との関係、世界との関係であり、宇宙との関係なのです。
 いま私たちが回帰しつつあるのは、このソクラテス以前の哲学なのです。」

 以前、このブログでこんなことを書いた(「聞くこと」)。
「意味として理解しようとしなければ、意味は立ちあがってこない。」
 それはそうなのだろうけれど、意味とは本来そういうものだ、で終わるのは何だかもったいない。
 成長する過程で、意味をそういうものにしてしまった(自分が、自分の生活史が)、
 ということを棚上げにしてはいけない気がする。」
と。

人の生活史は、人類史と重ねて考えられる気がして、
赤ちゃんの時と大人の時の意味では、その前提さえ異なるんじゃないか、と思ったのだ。
大人になってからの方が正解だなんてことは、まるでないと思う。
昔と今では、今の方が上等だって、そんな訳にはいかないと思うから。
だから「過去は決定済みではない」と、これまた別のBさんが言ったりしたのだろう。


同じように「存在」という概念だって、
時代によって変容してきただろう。

こうして私たちは、いや、少なくとも私は、
現在一般化している考え方を、ただ、便宜的に採用しているに過ぎないのに、
その考え方が最初から正しいと錯覚してしまう。
そして、ある語の周辺にある同類語を、一緒くたに混同してしまう。
私が権威と権力を混同したように。

たとえば私は、
「クラシック音楽は宮廷音楽だから、権力側の音楽だ。」
とか言う人が苦手だ。
最近も、あるブログのコメント欄で、
「絵や美術は現在支配している人々によって価値を付けられたのだから、
美術に時間を割いてる暇があったら小麦を栽培した方がいい(かなりの意訳です)」
というのがあった。

いやいや、そう言うならば、
あなたコメントしている間に小麦の種一粒でも蒔けるんじゃないの?
と思うけど、
まぁこういうのは、ただ難癖をつけているだけなのだろうから、
相手にしなければいいだけの話なのだけど、
ただただがっくりする。
こういう人は、障碍者の方の絵や美術作品を見たことがないのかな?

作りたいという意欲は、どう評されるか扱われるかということよりも、
先行し、もっと初源的なものじゃないだろうか。
アルタミラとかラスコーとかの洞窟絵画も、
学者は「シャーマンが描いた」ってことにしているけれど、
本当かいな、といつも思う。
分かりもしないのに、勝手に先史時代の洞窟絵画まで、
特権階級の専売特許みたいにしないでほしい。

何もかも混同してしまうと(これを”価値観の横滑り”と言うらしい)、
良いものさえ悪いものとされたり、
どこで間違ったかが分からなくなるらしい。

どこが分岐点だったのかの思慮がなくなるとどうなるか。
まず反省ができない。
これじゃあ間違ったら死ぬしかない。
だけどそれはただの根絶やしの、虐殺の思想だ。
それは、事故や間違いは起きないという前提を元に進められてきた、
この国の原発の建設と何が違うのだろう。


価値観の横滑りをさせ、混同させ、
無駄に市民同士に争わせることこそ、
支配者による言語教育のねらいなんじゃないでしょうか。
だからこそ、冷静な言語教育が自律の最重要課題なんでしょう。
安B公房曰く


一つ「国家信仰」を冷却させるための具体的な提案をしてみたい。
現在の民主主義制度はいちおう権力の楕円型二極構造から、
立法、司法、行政の三権分立をとるまでに進化しています。
この際それに「教育」のための独立した「府」を追加し、四権分立にしてみたらどうでしょう。
もちろん従来の意味での教育とは違います。
DNAが≪ことば≫という鏡の前に立って自己発見するまでの、
系統発生の歴史を教育基本法にすえた、新しい教育体系でなければ意味がありません。
もはやどんなシャーマンの御託宣にも左右されない、強靭な自己凝視のための科学的言語教育です。
存在や認識の「プログラム」を開く≪ことば≫という鍵を、
ついシャーマンの歌にまどわされて手放したりしないための教育です。
人間とはまさに「開かれたプログラム」それ自体にほかならないのですから。
あれ?
書きたいのはこんなことじゃなかったんだけど。
長いわりに。



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