ノ ー ト

好 き な 読 書 を 中 心 に 考 え 中 を 記 録 す る ノ ー ト

2011年09月

ショック・ドクトリン

あるブログのコメント欄にもリンク先を載せたのだけど、
9月13日、大好きな哲学者の西谷修氏のブログに、
ナオミ・クライン著の「ショック・ドクトリン」の紹介記事がアップされていた。
岩波書店刊行の雑誌「世界」のサイトでも、
西谷氏の文章が読むことができる。
以下の通り。

9.11から10年、アメリカは「テロとの戦争」に失敗して、アフガニスタンやイラクに暴力的な混迷を作り出した。ニューヨークでどんなセレモ ニーを行おうと、「アメリカの戦争」のために命を落とし運命を翻弄されたアジアの何十万何百万の人びとは、何の慰めを受けることもないだろう。
 ところがこの戦争の「失敗」にもかかわらず「成功」したこともある。それは「ショック・ドクトリン」の適用であり、「衝撃と破壊」に便乗して 「規制」を撤廃し、国富を「自由化」された市場に流して吸い取る、社会的資産の「民営化」である。アメリカが政治的に失敗しても、この国家を操縦 する企業家たちはみずからの目的を果たしている。それを暴き出したのがナオミ・クラインの本だ。
 ミルトン・フリードマンの広めた新自由主義は、市場の「自由」を実現するために、戦争や体制崩壊や災害による社会の崩壊に便乗する。「破壊」は 社会調整のためのあらゆる規制や慣習を一掃し、市場の「自由」を実現する好機なのだ。けれども、そこで利益を得るのは、心をもたず利己的な収益だけを求めて活動する市場のプレーヤーとしての企業である。
 日本の震災後の「復興」も、外部資本の跳梁する「自由化」の機会にさせてはならないだろう。それは被災地の人びとをさらにもうひとつの「被災」 にさらすことになる。
西谷 修 (東京外国語大学大学院教授)
東日本大震災の一部の被災者には家電6点セットが、
日本赤十字の義捐金によって渡されたという。
しかし、多くの方がネットで証言している通り、
その全点が、原子力プラントメーカー「東芝」製の家電で届いたりしているらしい。
確かに東芝は、日本赤十字に5億円の義捐金を寄付しているらしいので、
その兼ね合いもあるのかもしれないが。


けれど、
「もう原発なんかごめんだ」と思っている被災者の中には、
「原子力プラントメーカー製品なんて嫌」という心情の人も少なくないと思うのに、
俄然その手のメーカーの製品をあてがう日赤は、
ちょっとデリカシーがなさすぎるんじゃないだろうか。
ただで支給するんだから、「そんなこと配慮する必要はなし」なんだろうか。
結局、義捐金が東芝製品や日立・三菱製品の商品シェア率に貢献しているんだったら、
一体どういうことだろう。


どんなに甚大な事故を起こしても、義捐金という形で市民から資金を調達し、
自らの企業シェアを伸ばす、ということが起きているのだったら、
これも「ショック・ドクトリン」そのものじゃないだろうか。
この理屈でいくと、
日本赤十字に義捐金を寄付した人は、「ショックドクトリン」に与したことになり、
こうして、市民の大多数を共犯者に仕立て上げることができる。

税金が無理なら、義捐金によって。



原子力プラントメーカー↓
plantmaker

He isn't you ~ 予見不可能性

トマス・スタンコ 美しい

太極拳が、特殊感覚野ばかりに頼らず、
一般感覚野を磨く必要を説くのはなぜかと言うと、
やっぱり自分の姿を鏡に映して、
視覚で確認しながら意識的に身体を動かすのが、
自分の動きを客観的にとらえるのには1番簡単なのだけど、
でも、いつも鏡があるわけじゃないし、
しかも、太極拳は空気の澄んだ屋外でするのが、「気」の面からもいいので、
(もはや放射能のおかげで、外の方が空気が澄んでるとは全く言えないんですけど!!)
鏡によるフィードバックではない、
一般感覚野によるフィードバックの能力を高めるといいんだそうな。
(多分。私の理解では。)

特殊感覚野の中でも、「視力」は情報の8割を占める、
というのはよく知られているようだ。
しかし、本当かどうか知らないけれど、
意識がなくなるときに、順番から言っても、1番最初に奪われるのはその「視力」なんだそうだ。
対して、最後まで残るのは「聴力」だという。

私がお世話になった松本丸茂旅館の故・新田貞雄氏は、
戦争で負傷して死にかかったときに臨死体験をされていて、その話を多くの人に語ってこられた。
「なるほどなるほど」とうなずいて聞く人、「そんなまさか」といぶかしげな顔をして聞く人、
その表面的な違いはあったが、
内面的には概ね、ほとんど絵空事だと思って、みんな聞いていたように思う。
けれど、視力と聴力は結びついていて、音がヴィジョンを想起させるということがあり、
朦朧とした意識の中で、聴覚だけが最後まで残るならば、
新田さんの臨死体験はあながち嘘の体験とは言えないと思う。
そもそも「臨死体験は聴覚によるもの」というのは、わりと定説にもなっているようだ。
新田さんの晩年は、ほとんどの視力失われたが、耳がとてもよかったので、
大抵のことは1人でこなされていたくらいだ。


多くの人にとってもそうでしょうが、
私も音や音楽によって、過去の記憶が現在に統合されるような感覚に陥ることはよくある。
「He isn't  you」という曲は、あるミュージカル映画の中の1曲で、
♪私の彼の人はこんなに素晴らしいのよ♪
とか言って、ある女性が自分の恋人の素晴らしさを友人の前でほめたたえるのだけど、
♪素敵なあの人はキングのようよ でも素敵なあの人はあなたにはなれない 彼はあなたではない
といって、むしろ“友人との関係の唯一無二性”を歌った曲なのです。

私にとって最も重要な人間関係というのは、影響面で言っても、断然親子関係なのだけど、
もちろんそれは今も変わらないけれど、
普通一般的には、夫婦関係や兄弟関係、親友なんかが、
その人にとっての重要な人間関係になるのだろうけど、
そういう自分にとっての人間関係のヒエラルキーとかプライオリティーは、
ただの慣習であり、その慣習が生んだ願望でしかないんじゃないか、とつくづく最近思う。


最近、職場で2年間も一緒に働いてきた人のお子さんが、ある病気だということを知った。
これは非常にショックなことだった。
そんな大事なことを知らずに、毎日居たのかと思うと愕然とした。
そのつもりはなくとも、何か失礼なことを言ったんじゃないか、
疎外感を抱かせるようなことがあったんじゃないか...。

プライバシーにかかわることだから、
おいそれ簡単に手助けしますよ、という話でもない。
けれど、うちの兄貴は2人とも精神障碍者だし「障害者手帳」も持っている。
直也君の弟も、今の時代なら「知的障碍者」と認定されるだろう。
そんな身内がいるからこそ、どうもまったく他人事な気がしなくて、
何かできることがあったら何でもしたい、と思う。


ちなみに職場には、知的障碍者で「障害者手帳」も有している女性の同僚がいる。
なかなか良い職場なのだ。
お互いパートタイム労働者だけれど、人生はパートタイムではない。
だから、職場の人間関係を本気でやれば、私の人生は大きく変わるのかもしれない。

私は基本、会社の仕事なんて、社長がしなくちゃいけないことを他の人が代理でやる仕事だと思っているので、
そもそも代理だから不自然・無理が生じて当たり前、
人間の生身の機微に応対できるような仕事の割りふりにはなるまいから、
「割り切って」仕事をするようにしている。そうじゃないと、割に合わないし。
だから感情的には一切ならずに仕事をするようにしている。
個人的な考えも同僚に、一切話していない。

けれど、だからこそ、本当に相手のことを思って働いたらどうなるんだろう、と思う。
本当に相手のことを思ったら、やっぱり怒ったりするんだろうし。

当たり前の事なのだけど、
一緒に働いている、あの人やあの人の「代わり」などいないのだ。
どんなにわが子が、家族が大事、なんて特別に線引きをしても、
あの人の代わりはいない。
あの人と私という関係は、唯一無二だ。
それを、誰か他の人との関係と比べようというのが間違いではなかったか。

気に入った人との関係は、自分が好きな自分でいられるから、好意的な関係だろう。
けれど、どんな人との関係においても自分は試されているし、
どんな関係においても、予見不可能な関係性は生まれる可能性がある。

そう思っていた時に「He isn't you」という歌のフレーズが頭の中で鳴ったのだ。
そうか!と思った。電光石火で統合された気分。
あの人はあなたではない。
あなたはあの人ではない。
同時に、私にとって好ましい私もおぞましい私も、同じ私なのだ。

多分、急にはそんなにいい人にはなれない。
「どんな人にも誠心誠意」なんかには、すぐなれないだろう。
だけど、なんか「自」信になった。
そして、この「自」には、私の家族だけじゃなく、
私のあの人もあの人も、含まれているのだろう。
He isn't you.

(これが書きたかったのに、なぜか前回太極拳の話になっちゃったのは何故だろう....)


He isn't you ~ インプットとアウトプット

先日、太極拳を始めようと思い立ちました。

それで頭でっかちにも、最近太極拳の本を読んでいて、
読むたびに感激の嵐という読書体験。
こういうのは久しぶりだから嬉しくて、
もったいなくて1冊ノートを作り、書き写しながら読んでいるので、
ちっとも全然進まない。


最近、インプットばかりでアウトプットがないと、
人はバランスを崩すんじゃないか、と思うことが多々あって、
これは私自身の経験からもそうなのだけど。
私にとって、祭りや「お笑い」というのも、
要は人間が野生のようなものを取り戻す、バランスを回復する運動だと思う。

Bさんが、有用性のみを評価する人間の経済は「限定的な経済」だ、と言ったように、
人間の経済は自然の経済とは異なる。
しかし、人間とて自然の一部だから、それを回復したくて祭りを行う。
これはhttp://blog.livedoor.jp/kurakura50241/archives/51200232.htmlでも書いた。
だから社会がバランスを崩している以上、祭りは必要とされる、と。

どんなに良い本を読んでも、どんなに良い人と縁があっても、
つまり、どんなに良いインプットがあっても、
アウトプットがなければ、かえってバランスを崩す。
ストレスになったら、おしまいだもの。


だから、この太極拳の本からは、ただ読む(インプット)だけじゃなくて、
読んだところを、どうして自分がそんなに感激したのか、
口頭で説明できるようにブツブツ声に出してみたり(アウトプット)している。
思い返してみれば、10代まで、私にはこの癖があった。
だからか、10代のころの私は相手がだれであろうと、
気にせず自分の思うことを話せたものだった。

客観的に見れば、この癖はある種、病的だけれど、
2人の兄が統合失調症になっていることを考えれば、
統合失調症に移行する可能性大な境界性人格障害傾向を持っていた私が、
発症を踏みとどまったのは、
こういう変な癖を持つという療治を、自分で見つけて施していたからじゃないか、
という気もしてくる。
癖もバランスを崩した結果なんじゃないかな。
だから癖だけ直そうと思っても治らない。


太極拳では(?)、受け取る器官が頭部にある感覚、
つまり、視覚・聴覚・嗅覚・味覚のことを総じて
「特殊感覚野」と呼ぶのだそうだ。
それに対して「一般感覚野」とは、
皮膚感覚である触覚、内臓感覚、筋肉の感覚などのことを呼ぶのだそうだ。

特殊感覚野は、外的な刺激によって起こる感覚。
一般感覚野は、自分の内側から起こる感覚。

太極拳は、一般感覚野を磨くもの、という気がする。

太極拳以外の他のスポーツや武術は技の応酬であり、
(相手との競争において、)
過去培った経験則から反射的に最善の選択を生み出すことを目指すものだけど、
太極拳は過去の自分の経験則をも疑わなければならないそうだ。
そこが大変面白い。
太極拳でたいせつなのは、
あくまで経験則や反射で動かず、すべての動きを改めて意識的に行うことを鍛錬するものだ。
だから太極拳はスピードが遅い必要があるのだそうです。
早いと無意識で体を動かしてしまうからです。


しかも、他のスポーツや武術は交感神経優位でやるものだけど、
太極拳は副交感神経優位でやるもの。
スポーツ選手が脳梗塞で亡くなったりするのが多いのは、
それだけスポーツが交感神経を使ってやる高血圧運動だからでしょうか。
スポーツ=健康ではないのは、だからでしょう。

太極拳は、自分の考えている動きと、実際の自分の動きの差をうめていく訓練だそうです。
自分の考えている理想の動きというのはインプットで、
実際できる自分の動きはアウトプット。
これらのインプットとアウトプットのバランスを極めようとするものが太極拳なのかな、と。
そこに心の落ち着きが生まれる、と。

理想の動きと実際の動きとの間に乖離があると、
それを「自意識過剰」と呼ぶのだそうです!太極拳では。
(と言っても流派がたくさんあるので全ての太極拳でそうだとは言えませんが)

「自意識過剰」が私の永遠のテーマ(?)なので、
だから太極拳に非常に魅力を感じているのです。


で、心の落ち着きがないと、一般感覚野は磨けないんですね。
一般的に、特殊感覚野の方が情報が多いし、
そちらの方に傾く方が容易なんだそうです。
現代人の特殊感覚野過多は、だからではないでしょうか。
ストレスがそうさせるんでしょう。

応酬では人は救われないと思う。
まず、自分の中の応酬傾向を見直さなければ、国家間の応酬はなくせない。
『インプットとアウトプットのバランスを、自律的に見直そう。』
それが昨今の目標。


あれ?また書こうとしていたことからそれてしまった。

なので、つづく。


B その続き2 ~内的体験と瞬間について~

以前、娘と家の近所を散歩していると、
ダウン症の女性が歩いてきたので、こちらからあいさつをしたら、
嬉しそうに話しかけてくれたことがあった。
20歳の学生らしい。家も本当に近所だということが分かった。
ひとしきり話した後、その女性と別れた後で娘は、
「いいお姉ちゃんだったね、本当に家に遊びに来てくれるかな?
明日来てくれるかもしれないね」と言う。

今月5歳になったばかりの娘には、
一般的な意味での「健常者」と「障碍者」の区別がない。
私の統合失調症の兄とも仲良しだ。
だから、
無知が差別を生むのではなく、
中途半端な「知」こそが差別を生んでいる

というのが私の実感だし、多くの人にとってもそうだろう。

加えて、以前「パーソナルスペース」という記事で書いた通り↓、

人は無意識のうちに他人との間に距離をとって、快適な空間を保とうとし、
この個人的な空間のことを「パーソナル・スペース」と言うのだそうです。
パーソナルスペースとは心理的な私的空間で「持ち運び可能な縄張り」とも言えるそうです。
恐らく精神病の人との人間関係の困難さと、彼らが受ける社会的な偏見の原因は、
このパーソナルスペースを互いに上手く取れないことにあると思います。
直接危害を加えられたわけでもないのに、相手に恐怖を感じ、退けようとするのは、
ヒトに、物理的な侵犯だけでなく、心理的な侵犯ということがあるんだ、ということだと思います
というように、人間にとって、
“パーソナルスペースが侵犯されるかもしれない”という不安こそが、
大抵の差別や偏見を引き起こしていると私は思う。
この意味においては、
幼子というのは常に抱っこされたり触れられるのに慣れており、
それが故に、
「パーソナルスペースの領域が狭い=偏見が少ない」という構造はある気がする。
(余談だけれど、小児科医の黒部信一氏によると、
乳幼児のアトピーの原因は“触られすぎ”にある場合があるそうで、
小さな子供にはパーソナルスペースの意識はない、としてしまうのは全くの間違いだろう。)

こうして考えると、一般的な「知」とは、
<主体>という領域の「拡大」や「連続性」を意味するのではないだろうか。
身体の実寸を超えて延長していく、
領域としての自分の拡大・連続性が「パーソナルスペース」の広さなのだろうし、
実際、高い地位の人ほどパーソナルスペースは広いらしい。
嗅覚や聴覚といった、“動的”な電気信号に対する能力が、
生物にとっては身を守るための重要な鍵となるように、
「存在」とは、実寸以上へと、サイズと空間を超えてくるものなのだろう。
ゆえに、存在者=存在ではない、と言えるのだろう。

 (多分、中学生のころの私だったら、
 この手の連続性を、
 「それこそ肥大化し続ける自意識なんだ、
 そうして他人事まで自分の事にしてしまうから、私の悩みの領域が広がり続けるんだ」
 と、憂鬱な顔をして言っただろう。
 
 例えば、Aさんと知り合って、「私はAさんをこういう人だ」と思うとする。
 すると、私の了解以上のAさんは存在しなくなる。
 私の理解を超えるAさんの<他者性>は、私の世界から奪われてしまうから、
 認識や理解とは、他者性を奪う暴力としての側面を同時に持つ。
  
 つまり中学生の時に、倫理学者のレヴィナスが言ったところの、
 「対象を認識するとは、対象を我有化することに他ならない」という感覚が私にはあった。
 そのころの私は、
 “こんな私が”手を付ける(=我有化してしまう)ことで、
 見る世界すべてがつまらなくなるようで怖かった。
 それが一種の境界性人格障害のような形で、
 自己否定へと当時の私を突き動かしていたんだと思う。)


領域の拡大・連続性ということで言えば、
権威はどうだろう。
権威は支配し、多くのものを従属させるものだ。
権威は連続的に威力を持たなければ「権威」にもなりえないし、
体制も、連続的に支配しているから「体制」となりえるわけだ。
権威はその勢力範囲を広げようとする運動体である。
だから反対に、
「瞬間的」でしかない存在は、権威化や体制化の過程において脱落する。

例えば、学校で習うような過去の歴史は絶対でもなく、
あくまで現時点での一合意でしかないから、
そもそも、1つの正解を問うような試験の設問になるような類のものではない、
と思うけれど、
文科省が、設問で問うのは真実ではなく「体制的な正解」でよいとするから、
この類の歴史の設問は成り立っている。
このように、“体制的=時間的な連続性”の中に権威は生まれるのだろう。

目的と善悪と教義は、意味が「連続性」を持つがために生まれる表現だ。

だからBさんが言うように、
神秘体験に目的があり、善悪の表現があり、
ある宗教教義や文化にのっとっているのならば、
その体験は外部に権威を持った体験なのだから、
純粋な裸の体験とは言えない。

ならばしかし、
「果たしてひとの体験が、権威から自由になるなんてことあるんだろうか?
外在的な権威・存在理由に支えられないで、社会的動物である私は存在できるのだろうか。」
Bさんもそれに相当悩んだ。「ずたずたになった」と言っている。
そこで、別のbさんからBさんに、あの言葉が語られたのだった。
「(内的)体験自身が権威である」と。


つまり体験自身の中に権威を見出す体験ならば、
体験は「外在的な権威」からは解放されるのではないか、と。
これは体験を別の権威によって根拠づけてきた従来の考え方とは違う。
私はこれを知った時、「道元だ」と思った。

 若かりし道元は「仏法では生き物すべてが仏であると説くのに、
 すでに仏であるはずの人が、なぜ修行をしなくちゃならないんですか?」
 と聞いて回ったけれど、誰も納得できるような答えをくれなかった。
 結局、道元は後年、
 「修行は悟りのためといった、何かの目的のためにするのではない。
 修行が手段で悟りが目的なのではない。
 修行そのものが悟りの証なのだ。」
 という、修行の外に目的・権威を持たないという考えに至った。


「知」や「権威」はこうして、ある状態が保持=連続性があると生み出される。
だから、体験自身が権威であるような自律した体験は、
「瞬間の出来事」でしかありえないのだ。
善悪の判断が介在する余地もないところのものなのだ。


そしてbさんはBさんにこうも言ったそうだ。
「この権威に関して、体験は罪を償わなければならない」と。
「罪を償う」とはどのようになされるかと言えば、
「この裸の体験が新たに、何ものかにとっての外在的な権威とならないよう、自分自身を打ち消す」
ということによって、なされるのだ。
他に向かって命令を発するような存在にならないために、
その保持・連続性を放棄するのだ。

恒常的な実体を持たないものの可能性。
それこそがBさんが「内的体験」に求めた可能性なのだろう。


(つづく)


翻訳について

ただ引用することは、誰にでもできる。
でも、引用をするのは人間くらいだろう。
人間ほど、実践から離れている存在はないから。


と書きつつも、「ただの引用」をしてみる。
翻訳について語られた文章はいくつも読んだけれど、
こんなに心躍った「翻訳論」はない。

翻訳の仕事が“サブ=副次的”なものとしてしか認識されない世界は、
「単一言語的な世界」のことだ。
現代とは、仮に私が日本語しか話せなくても、
世界に対して単一言語的には存在できない時代のことだから、
そんなの、まるで前時代的な価値観なはずだ。

発信元だけが表現者ではない。
情報も、1次情報だけにその価値があるわけではない。
そうでなければ、表現(=メディア)への認識は、
中心主義に陥り、常に単一言語的に後退していくだろう。
単一言語的世界とは、つまり思想統制下の世界のことである。

当然ながら、文科省の、
“教育に関する政策に係る基礎的な事項の調査および研究に関する事務をつかさどっている”、
現「国立教育政策研究所」の前前身は、
第二次大戦中、思想統制に機能した「教学錬成所」なのだ。
まさに、福島医科大学のみならず、
全国に思想統制と治安維持の出先機関は、
学校の形で存在している。


接触と接近である「翻訳」において常に生じる、
「翻訳不可能性」とは、決して残念な乖離のことではなく、
むしろ「自律と関係の対等性への可能性」のことなのだ。
この翻訳の意義を正しく評価することは、
単一言語的な世界への批判の目を持つことだと思う。


「多様なるものの詩学序説」 エドゥアール・グリッサン著 から引用↓

最後に、私が未来のもっとも重要な技術(アール)のひとつになるだろうと考えているものについて簡単に触れてみたいと思います。それは翻訳という技法です。ひとつの言語から他の言語に移行するということで、あらゆる翻訳が根本的に示唆しているのは、世界の言語はどれもかけがえのないものだということです。そしてまさにこの理由から翻訳は、私たちが私たち自身の想像的なもののなかに、さまざまな言語からなる全体性を思い描かなければならないことの徴であり証拠なのです。この全体性を、作家がおのれの表現言語の実践によって実現していくのと同じように、翻訳者は、全体性を構成する個々の言語の単一性に向き合いながら、ひとつの言語から他の言語への移行によって、この全体性を表現するのです。しかし私たちの混沌ー世界においては、他の言語を死滅させることによってはいかなる言語も救えないように、翻訳者の想像的なもののなかに他のあらゆる言語が、彼のそのうちのどれひとつとして知らないとしても力強く現前しているのでなければ、それぞれ単一なものとしてある二つのシステムのあいだに、二つの言語のあいだに翻訳者が関係を確立することはできないでしょう。

詩人がおのれの言語のなかでひとつの言語活動を創造するのと同様に、翻訳者がひとつの言語から他の言語へ移行するのに必要な言語活動を創造することがなかったら、どうなるでしょうか?ひとつの言語から他の言語へと移るのに必要な言語、その二つに共通する、しかし双方それぞれにとっていわば予見不可能な言語活動。翻訳者の言語活動はクレオール化のように、そして世界における関係性のように作用している。つまりこの言語活動は予見できないものを生み出すのです。この意味で、想像的なものの技法である翻訳は、まさにクレオール化を実行することであり、かけがえのない文化的混淆の新しくも不可避な実践となるでしょう。
 全体性ー世界を希求する混血と交差の技法、めのくらむような技法、実りある彷徨の技法である翻訳はこうしてますます私たちの世界の多様性の中に組み込まれていくのです。翻訳はその結果。この新しい群島的思考のなかでもっとも重要なもののひとつとなります。ひとつの言語から他の言語へのフーガの技法、ひとつ目の言語がかき消されることもなければ、二つ目の言語が現れ出るのを諦めることもないフーガの技法です。しかしまた、今日では個々の翻訳が、すべての言語はすべての言語に翻訳できるという翻訳可能性のネットワークの一部となっているだけになおさらこれはフーガの技なのだと言えます。

たしかに言語が消失すれば、それといっしょに人間の想像的なものの一部が消失してしまいますが、どんな言語でも翻訳されれば、この想像的なものが、彷徨いながらも確実に豊かになるのです。翻訳はフーガです。つまりかくも美しくも諦めなのです。たぶん翻訳行為において何より推し量るべきなのは、この諦めの美しさなのです。たしかに詩は他の言語に翻訳されると、そのリズムとか、同類母音反復(アソナンス)とか、エクリチュールというものに必ず生じうる偶然を取り逃してしまいます。しかしたぶん、これは仕方ないと諦めるべきなのです。というのもこの諦めとは、全体性ー世界のなかで、自己の一部を他者へと詩的に打ち委ねることだと思うからです。この諦めは、十分な理性や創意によって支えられるとき、お話ししたような共有の言語活動へと行き着くときには、まさにかすかな接触の思考となり、私たちが世界の風景を再構成するために用いる群島的思考となり、あらゆるシステムの思考に抵抗しながら、私たちに不確かなもの、脅威にさらされているものを、そしてまた、私たちがこれからその中を進んでいくことになる詩的な直感を教えてくれます。
かすかな接触と接近の技法である翻訳は痕跡の実践です。存在の絶対的な制約に逆らって、翻訳の技法は、世界のすべての存在者(エタン)とすべての実存者(エグジスタン)の広がりを積み重ねていこうとするのです。諸言語の中に痕跡を残すこと、それは今後私たちの共通条件となった予見不可能ななもののなかに痕跡を残すことなのです。

メモ

まゆみさんのブログの書き込み欄にコメントした内容をメモとして。
子宮頸がんワクチンのことで。


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子宮頸がんワクチンのこと

今ではこのワクチンは、CMなどの影響からか、子宮頸がん予防の特効薬のような認識に世間ではなりつつあるようですが、「子宮頸がんと関わるヒトピロマーウィルスは15種類あるのに、認可されたワクチンは、16、18型の2種のみしか予防できない」そうです。この意味でも、万能ワクチンではないと思います。

小児科医の黒部信一氏のブログから転載↓
http://kurobe-shin.no-blog.jp/bk/2011/02/5_52e1.html

「16.子宮がんを起こすのは、パピローマウイルスで、これは、人のいぼ(水いぼではない)を起こすウイルスの一種で、種特異性があり、性器に特異的に感染するのです。感染は、いぼと同じく接触感染で、いぼと同じく自然に消退治癒します。一般的に、いぼは半年から1~2年で消褪しますから、しばらく常在し、消えていきます。自然治癒するウイルスですから、普通の人は問題になりません。また皮膚、粘膜に感染するので、本当に血液中の抗体を作っても防御できるかと言うと、ポリオワクチンの時のように、血液中の抗体では防御できず、侵入門戸の粘膜に免疫をつけなければ防御できないでしょう。その証明は、まだありません。だから、ワクチンをしても、子宮がん健診は不可欠です。とすれば、高い値段のワクチンの必要があるのでしょうか。がん発病には、C型がん性格という本も出ていますが、その人の遺伝的要因と性格や、環境にもよるのです。ワクチンで防げるというのは、少なくとも子宮がんワクチンに関しては、根拠もないし、今の所、幻想としか言えません。」

もちろん反論もあるでしょうが、あくまで<u>接種は本人が決めること</u>です。しかし、ワクチンと<u>接種禍の因果関係は本人では決められません</u>。だからたくさんのいろんな意見や情報を収集し、それらを理解して納得したうえで接種するか否かを評価する必要があります。決して「みんながするから」とか「国や医師によって推奨されているから」という理由で接種すべきではないと思います。かなりの覚悟が必要になると思います。そうでなければ「命を大事にする」なんてまやかしだと思います。
それができないなら、ワクチン接種は保留にした方がいい、と個人的には思っています。
| 森 | 2011/09/14 07:27 | URL|

「水銀由来」というのが何を指しているのかわからないのですが、水銀自体で言えば、最近のワクチンはエチル水銀(チメロサール)フリーのものも増えているし、減濃度の傾向にあるそうです。私は予防接種には慎重な立場ではありますが、水銀云々の話になると抵抗あります。
魚にはエチル水銀が含まれていて、魚を10g食べるとワクチン1回接種分にあたったりするそうです。そもそも、健康被害がはっきりしているメチル水銀とエチル水銀は違います。水銀の話をされる方は、そこをはっきり言われないので、混同を助長or黙認している感があり、その点で“引いて”しまいます。
もちろん、エチル水銀を経口摂取するのと注射で血液に入るのとではどう違うのかを私は理解していません。しかし、同時に、「天然由来で食しても安全なものなら注射しても大丈夫か」も分かりません。身体によい・悪いという一般的な認識や感覚が間違っている場合は多々あると思うからです。それだけ、ヒトの身体は奥が深い。

ワクチンの裏に様々な政治的・経済的駆け引きはあるかもしれませんが、そこを<u>主軸に</u>してワクチン問題をとらえても不毛に陥る気がしています。ワクチン接種禍の因果関係が個人では分からないのと同様で、裏の駆け引きの全様は個人では分からない。
まずは、役場の窓口で話しても実際に効力があるようなこと、ただ単に反対姿勢を明らかにするのではないような、<u>小さいけれども自分にとっては真実であること</u>を切実に訴えるしかないと思います。

ワクチンのことも放射線と同じで、わからないことだらけです。しかし、わからない中でも社会は決断を迫ってくるのだ、という心の準備は必要だと思います。それは、福島原発事故以後はっきりとしたことですが。

まとまらなくてすみません。
| 森 | 2011/09/14 09:19 | URL |


311以後の世界?

最近、土壌や農産物の規制値(基準値)などを調べていたら、知ったこと。
以前もこのブログで、
60~70年代は核実験が世界各地で行われていたので、
“60年代や70年代の空間中の放射線量は今より高かった(もしくは同等)?”
なんて記事を書きましたが、
下記のサイトに、その通りデータが出ていました。


● 「農業環境中に存在する放射性核種の一般公開システム」
(独立行政法人 農業環境技術研究所)
http://psv92.niaes3.affrc.go.jp/vgai_agrip/samples

また、この研究所によって平成19年には
1986年のチェルノブイリ原発の事故によって、
少なくともセシウム137は日本に飛来し、
311以前にも、農作物や環境中で検出されていたことがわかっているそうです。


まるで311以後、世界は変わったように皆は思っているし、そう言う。
私もそうだ。だけど、それは間違いじゃないか。
311以前に、もう始まっていたのだ。
少なくともヒロシマ・ナガサキから。
このような、311以後と以前で区切るやり方・発想こそが、
結局は、ヒロシマ・ナガサキの原爆を経験してもなお、
核の平和利用=原発という矛盾を認めてしまった私たちの責任を放免することになりはしないか。
311以前も同様に、絶え間なく私たちは間違ってきたのだ。

しかし、その間違いに気づいて警鐘を鳴らし続けていた人はいた。
たとえば有名なところで言えば、高木仁三郎氏など。
人っ子一人、誰も気づかなかったわけじゃない。
人はそれに気づけたはずなのだ。

そう思いながら読んだ、
今日付けの「シナジェティックス研究所」の梶川泰司氏のブログのテキストはこうだ↓
客観的


被曝したら
楽観主義者は
 政府の検出データを見るが
 悲観主義者は半減期をみる。

しかし、
 結果が同じなら
 主観的である。

客観的とは
 それらの結果を
 より少なくする行為である。


そうだ、そうなのだ。
主観的でいる限り、事態は改善されない。

これは、上のテキストと直接関係ないのだけれど、
例えば先述の高木氏が気づいたように、
そのことに「気づける能力」とそれを「行動に移す能力」を、
いかに生んでいくか、育んでいくか、
その方法の発見と確立こそが、人類にとって1番急務で、
値打ちのある仕事であるはずだ
、と思った。
この意味でいけば、
すべての人にやるべき仕事はある。
仕事のない人などいない。


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タレントの島田紳助氏引退の騒動の日、
そのかげで?可決されたのが「汚染がれき処理法案 」だったそうだ。
なんと反対したのは共産党の議員だけ!
この法案は当初、全文非公開だったようで、
4日後公開された全文を見ても、はっきりとした放射線の基準値は明記されていない。
8月26日の報道では(現在はそのソースは削除されている)、
「同法に基づく中長期的な汚染除去の指針や基準は、環境省が今秋までにまとめる。」
とされている。
法案が通ってから、官僚に数値を決定させるというこのシナリオとは、、、。
それで、環境省がまとめたとの報道が↓。

「10万ベクレル以下は埋め立て=放射能汚染のごみ焼却灰-環境省」(時事ドットコム)

 環境省は27日、東京電力福島第1原発事故で放射性物質に汚染されたがれきやごみの焼却灰のうち、これまで一時保管するよう求めていた放射性セシウムが1キロ当たり8000ベクレルを超えるものについて、10万ベクレル以下の場合は一般の最終処分場での埋め立てを容認する方針を決めた。地下水への汚染防止策などを講じることで、安全な処理が可能と判断した。
 具体的には、焼却灰をセメントで固めたり、屋根付きの処分場を利用したりすることで水との接触を防ぎ、セシウムが流出しないようにする。埋め立て後は、処分場の排水や周辺の地下水の監視などを行う。
 同省はこれまで、8000ベクレル以下を埋め立て可能とし、この基準を超えたものは、処分方法が決まるまで一時保管する方針を示していた。10万ベクレルを超える灰の扱いは、周囲をコンクリート壁で覆った産業廃棄物用の「遮断型最終処分場」への埋め立てを軸に検討する。(2011/08/27-21:35)



環境省の発表はこの通り。8月31日。
「8,000Bq/kgを超え100,000Bq/kg以下の焼却灰等の処分方法に関する方針について」

これによって現段階で廃棄埋立処理に関わる放射性セシウムの暫定基準値が、
10万ベクレル/kgまで緩和され、
この基準値以下であれば日本中どこの自治体でも焼却・埋立処理が可能となった、ようだ。
ちなみにこの法案成立以前の埋立可能基準数値は、8千ベクレル/kgだったそうです。
約12.5倍になりました。
こうして全国の自治体のゴミ処理施設に放射性セシウムが配られる可能性があります。

8月8日号の雑誌「週刊AERA」には、
「放射能汚染ガレキ受け入れ表明、全国自治体一覧」が
掲載されたようです。


先ほど一旦掲載したのですが、相方の直也君が長野県に問い合わせたところ、
AERAの記事そのものが正確でないことが分かりました。
このAERAの一覧は、
「4月初旬の段階で環境省から災害廃棄物(被災地のがれき等)を受け入れることができるかどうか?」</b>
という可能性についての調査があったときに、
可能性があると回答した自治体を掲載しただけの話のようです。
その時点で、放射性物質を含む廃棄物とは明記されていなかったそうです。
これに関して多くの自治体がAERAに抗議しているそうです。

R60国産野菜

実は、ある方面から松本市が土壌の放射線測定をしたとは聞いていたのだけど、
今日、松本市のHPを見たら、公開されていた。


農地土壌の放射性物質検査結果
1 検査方法
 ゲルマニウム半導体検出器で測定。検出下限値 10ベクレル/kg
2 土壌採取
 松本市内9地点の各ほ場ごとに5ヶ所から土壌を採取
3 分析機関
 茨城県日立市弁天町3-10-2 日立協和エンジニアリング(株)
4 検査結果

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       採取箇所         採取日              測 定 結 果 
                                                   ヨウ素131  セシウム134   セシウム137
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井川城 島内 中山 里山辺
今井 梓川 四賀 波田      H23.8.17         不検出     不検出     不検出
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奈川                 H23.8.17        不検出     不検出      13ベクレル/kg
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奈川地区で微量のセシウム137が検出されましたが、原子力災害対策本部が示した、
土壌中の放射性セシウム濃度の上限値(5000ベクレル/kg)を大幅に下回りました。
今回の検査結果は、農産物を生産する上で、問題のない値です。(担当 農政課)

不検出はゼロのことではないから、
松本の土壌は限りなく10ベクレル/kgだと思った方がいいと思った。
当然場所によってはそれ以上かもしれない。


続いて、県のHPの「県内産農産物等の放射性物質測定結果」を見ると、

『 長野県内産農産物等から、食品衛生法の暫定規制値を超える
放射性ヨウ素及び放射性セシウムは検出されておらず、
安全性が確認されています。
(実施回数:47回、検体数:156 ※回数・検体数は米の検査結果を除きます。)』


とのことらしいが、例のごとく、暫定規制値は以下の通りだ。

【暫定規制値】
   野菜類(果実、きのこ、魚含む)     放射性ヨウ素(I-131):2,000Bq/kg    放射性セシウム:500Bq/kg
   牛乳・乳製品              放射性ヨウ素(I-131): 300Bq/kg      放射性セシウム:200Bq/kg
   その他(肉、茶、麦、そば)      放射性セシウム:500Bq/kg

この野菜類500ベクレル/kgとはどういう数値なのか

以下のようなわかりやすい図を見つけた。
http://kingo999.web.fc2.com/kizyun.htmlそれによると、
チェルノブイリの原発事故の被害を受けた国の規制値は、
ウクライナで40ベクレル/kg、ベラルーシは100ベクレル/kg。
それに対して、どうなってるんだろう、日本は!?
日本の食品の輸入は多くの国で禁止されている。
ここ長野県の野菜も輸入禁止になっている。
こんな事書くと失礼だけど、あれだけ農薬でたたかれている中国にも、
ここ長野県の野菜は輸入禁止扱いなのだ。
下記リンク参照(PDF)↓
http://www.maff.go.jp/j/export/e_info/pdf/kensa_0906.pdf
 

内部被ばくの影響が出るのは、5年以上先。
東北を応援したいがために、こんないい加減な基準値で出荷される食品を食べて、
健康に被害が出ても、一体、医療費の保険料は誰が払うんですか。
税金で、他人に払ってもらうんじゃないですか。
「もう大人だし」とか「子供を今から産む訳じゃないから食べます」なんて言う人は、
それをどう考えているんでしょうか。
自分の糞尿に含まれる放射性物質は、どうなると思っているんでしょうか。
東北を応援する気があるなら、将来の子供たちを応援してよ!!

安全な食品なんてもうないのかもしれない。
でも、今こそ食について考える時じゃないでしょうか。
普段、ダイエットで煩雑なカロリー計算をして、
「ぐっ」と食べるのを我慢できる日本人なのですから、
このくらいのことは訳ないんじゃないでしょうか。


故郷への愛情だかが、避難を躊躇させているのかもしれないけど、
ここまで国土を汚染されて、1番激しく怒らなくちゃいけないのは、
本来、右翼の方じゃないのではないでしょーか。
有事有事と騒いで、軍隊の保有を願っておきながら、
これだけ原発を建てちゃったら、原発攻撃されてハイおしまいじゃないでしょうか。
国防上、原発の保有は非常に危険じゃないでしょうか。

とにかく、もうこの地球が嫌だ。


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