ノ ー ト

好 き な 読 書 を 中 心 に 考 え 中 を 記 録 す る ノ ー ト

2011年11月

教育

『緑の書』から「教育」の部分を全文転載します。

これを読むと、ボランティアとか慈善団体の、
いわゆる後進国に学校を作ろうとするプロジェクトが、
いかに自己満足に陥っているかがわかると思う。
学校は、1個作れば足りるなんてことはない。
年間1種類の社会の教科書を、理科の教科書を、国語の教科書を、
1人に1冊ずつ与えることができれば、それがゴールなのではない。
もし、本当に学ぶ人たちを「自律的に考えられる」ように促したいのなら、
ありとあらゆる種類の学校を不断に作り続けなければならないはずなのだ。

自分たちが一方的に正しいと考える学校を、他人に与える以前に、
日本にだって、「自律的に学ぶ」ための学校は絶対的に不足している。


学校とか知識を学ぶとかいうことが、一定時間机のまえに坐って、体系的な強化や特定のテーマを教科書によって義務的に学習させられる、という性格のものである必要はない。このような教育が、こんにち世界中で定着しているが、それは人間の自由に背くものである。どの国も、義務教育がいかに若者のあいだで普及しているか、そういうことを誇りにしているが、義務教育は自由を抑圧する一手段にすぎない。それは、人間にひとつの選択を強制するとともに、人間の才能を強制的に抹殺することなのである。それは、人間から自由な選択、創造性、才能を奪いとるから、自由を滅ぼす独裁行為ということになる。型にはまった教科課程を準備しその学習を生徒に義務づける国家は、国民に対して強制力を行使しているのだ。人間の精神を偏執狂的な授業から解放し、また人間の好み・理解力・志向性を恣意的に枠づける教育から解放するための文化革命(サウラ・サカーフィーヤ)によって、世界の教育制度は廃止されるべきである。
 しかしそれだからといって、軽率な読者が考えがちなように、学校は閉鎖されるべきだとか、人びとは教育に背を向けるべきだとか、いうことにならない。それどころか、かえって、社会があらゆる種類の教育を準備して、人びとが希望する学習課程を自由に選べるような機会を提供することが要請されるのである。このためには、あらゆる種類の教育に見合うだけ十分な数の学校が必要となる。学校数が不十分だと、受講可能な科目は限定されて、人間の選択の自由が制限され、人間の選択の権利が奪われることになるのである。知識を抑圧したり独占したりする社会は、意図的に無知をつくりだして自由に敵対する反動的な社会なのだ。だから、宗教について学ぶことを禁止している社会は反動的な社会であり、それは無知をつなぎとめ、自由に敵対する社会である。知ることはすべての人間にとって固有の権利であり、本人がみずから手放さない限りは、いかなる理由によっても他人がこれを奪いとることはできない。
「緑の書 教育」より


つまり、
「落ちこぼれ」や「学校嫌い」と呼ばれる人々のほとんどは、
十分な種類と数の学校を用意できなかった社会が、
その自らの落ち度を棚に上げるために作り上げた「虚像」のことなのだ。

所詮、一面的でしかない「義務教育」があるかどうかということを、
自由な社会の基準とすること自体が、押しつけであり、強制なのだ。
国民総幸福量を自慢するブータンの「幸福」が、
南部のネパール系住民を国外へ排斥していることで成立しているように(※過去記事参照)、

不自由な社会、普遍的経済を採用しない社会は、
つねに「一方」と「他方」をつくりだす。「中心」と「周縁」のごとく。

この構造がある限り、
昨今の、がれきや焼却灰の処理における情報の混乱も、
請負制でしかない原発作業員の問題も、起こるわけだ。
私たちは自らで処理しきれないもの、「表の世界で処理できないもの」を
他人に押し付ける「=裏の世界で処理させる」のだ。
このことを、西谷修氏が見事にブログに書かれていた(※記事はこちら)。
一部抜粋↓

スティグリッツも言っていたように「トリクルダウン理論」(富裕層が現れればそのおこぼれが全体を底上げするという主張)には根拠がない。それどころか、社会を華やかなショーウィンドーと汚泥の闇とに分化する。“安全”が強調されるのは、この種の“繁栄”が必然的に不穏の種を生み出すからだ。一方の“安全”のために他方が“無法”に排除され、その間に“分離壁”と監視装置とが据え付けられる。

領土問題をうるさく主張する、国家主義的ナショナリズムは、その実、
地域主義のことではないのだろう。
実際、国家主義的ナショナリズムが平成の大合併を引き起こし、
地域の独自性もコミュニティーも分断してきた。
地域を超え出てしまうこと(地域で処理できないこと)とは、
つまり「領有権のあいまい化」を認めるということだろう。
それは、縮小は許さないが拡大は歓迎しているからだ。

なぜ「地図上の国境線が変わるのか?」、
それは民族を平定したものがあって、それから独立しようとする民族がいるからだ、
というのは『緑の書』が言うところのことだ。
単一民族でまとまるべきだということも書かれている。
これに拒絶感を抱く人は多いだろう。私も一瞬そうだった。
しかし、考えてみよう。
「一国家に単一民族しかいない」という言質が間違っている、
ということを私たちは問題にしてきたに過ぎないじゃないか(日本においては)、と。
単位が「国家」でなければ、単一民族でまとまる、ということに特に不満はないはずだ。
どうしてこうも「国家」を基本単位に語る言語に、私たちは毒されてしまっているんだろうか。


『緑の書』は国家よりも家族が大事だ、と書いている。
国家よりも部族=家族社会を優先している。
つまり、『緑の書』は、
国家主義が伝統主義でも地域主義でも、部族主義でも家族主義でもないことを見抜いている。

がれきや焼却灰の処理で、県民同士が争うのはそもそも間違っている。
これは地域主義のせいではない。国家主義のせいなのだ。
戦う相手は国家主義であり、地域主義とそれを混同してはならない。


『緑の書』の正当性を、日ごとに強く実感する。


労働者から生産者へ

最近、直也君がムアンマル・アル・カッザーフィの「緑の書」を購入した。
(第三書館 訳=藤田進)

例のごとく、パートタイムの休憩時間に読んでいるのだけど、
読んでいると、胸が本当にすくような思いになる。
こんなにまともなことを言う人が悪人ならば、私は極悪人だ、と思う。

カダフィ大佐が死んだときのニュースの映像で、
リビアの人々が英語で「自由だ!」と叫んでいたのを見た人は多かったと思う。
少なくとも、自国の自由を英語で声高に叫んでいるあたりが、全然自由じゃないし、
結局、「誰かの死」が「自由」を意味するのだとしたら、それも本当の自由じゃないだろう。
つまりは、「大切な命」なんて考えも大嘘だし、
法廷で自らの主張をする権利や弁護人依頼権が、
たとえ全ての人に与えられていない状態でも、それが「自由」である、ということになるらしい。

あくまで私見だけれど、
社会主義者だった、大好きなバートランド・ラッセルはもとより、
「緑の書」はバックミンスター・フラー氏の考えにも通ずる、と思った。
またはBさんにも。

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例えば、太陽は惜しみなく休むことなく、地球上にエネルギーを贈与している。
太陽は節約をしないし、自然界は電気で満ち溢れている。
太陽は地球にとって根源的な自然現象で、自然の経済の基本にあるもの。
だからBさんは、人間の「限定的な経済」に対して、「(自然の経済=)普遍経済」を理解するためには、
「太陽を見ろ」と言った。
これはシナジェティクス研究所の梶川泰司氏が書いていたテキスト、
「オール電化」「電気製品」にも通ずる気がした。
だからか、このテキストを読んだときの興奮は忘れがたいものがあった。

オール電化


イチゴの果実にも微弱な電流は流れている。

風も雲も潮流も
太陽と海洋が生成する
電気的作用の結果である。

人類がエコロジー概念を発明する前に
バイオスフィアは
もっとも効果的な
オール電化を達成している。

この無料のオール電化の起源は
太陽系に互いに非接触に浮かぶ
惑星と衛星間に存在する交流発生機である。

人間は電力テクノロジーを発見しただけだ。


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電気製品

本当の美しい電気製品とは
それを使いながらエネルギーを生み出す
全体の装置のことだ。

植物のように
エネルギーは買わないシステムを
まして売る必要もない方法を
想像したことがあっただろうか。

本当の見えない機能は
まだデザインされていない。

つくるばかり、消費するばかりでは、
つまり、生産と消費のどちらかでしかないような存在は「全体装置」と言えないから、
現在の西側諸国の人間の経済は全体的ではなく、一面的なものでしかないのだろう。
人間も自然物なのだから、この限定的な経済だけでは、
およそつじつまが合わなくなってくる、というのがBさんの説だ。
人間の諸問題の解決の糸口は、
普遍的な経済の研究と、発見なしにはないのだろう。
それには、起源に戻ろうとする視点は避けられない。

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だから、
カダフィ大佐が「緑の書」の第2部「経済問題の解決」という章で、
「第3の普遍理論の経済的基盤」というタイトルで論じているのを読んで、
まさにBさんの言う、「普遍経済」だ!と思った。

大佐はまさにこう書いている。
「生産者は生産物を自ら消費する」と。
人は部分装置ではない。人自身も全体装置であるはずなのだ。

もう消費者と生産者を分けて語るのはやめた方がいいのかもしれない。
プロの農家には、出荷用の野菜より自家用野菜の方が減農薬にする人も結構いて、
こうした、「他人の必要のための生産物」と、
「自分の必要のための生産物」が違って当たり前な社会は、どう考えてもおかしい。
全く持って、「他人の気持ちになって考える」なんてことからは程遠い。
他人におさめるものと自分で消費するもの、その2枚舌の詭弁の成立が、
この世を不均衡ないびつなものにしているんじゃないだろうか。
それは、長く続いた不当な納税による隷属が生み出した結果の、
今もなお残る後遺症なのではないだろうか。
以下、「第3の普遍理論の経済的基盤」より引用↓(※部分は私)。

労働者が社会的生産過程の中に埋没してしまったり、あるいは賃金を実現するためだけに労働するのではなく、労働者がみずからの生産物に有する権利の問題は、所有制度がいかに変化しようとも、これまで解決されてこなかった。その証拠には、所有形態が変化しても(※雇い主が個人か政府かで変化しても)、生産者はあいかわらず賃金労働者のままである。賃金を廃止してその束縛から人類を解放することによって、また、階級形式、国家および人定法の成立にさきだつ段階から、人間の関係を限定していた自然法に立ち返ることによってのみ、究極的解決は実現されよう。自然法は、回復されるべき基準であり、人類の諸関係の唯一の源泉である。
 自然法則は、経済生産における諸要素間の平等にもとづくある種の自生的な社会主義をもたらし、自然の生産物は各個人の間でほぼ平等に消費されていたのであった。人間による人間の搾取と、自己の必要とする以上に多くのものを所有する事態こそが、自然法則からの逸脱であり、人間社会のゆがみと腐敗がここに始まるのである。それが搾取的社会の起点となる。
 古代から今日にいたるまでの経済生産における諸要素を分析すれば、それはつねに次の諸要素から構成されていたことがわかる。すなわち、原料、生産手段、生産者である。自然の平等原理によれば、諸要素のそれぞれが生産の不可欠要素であり、どれが欠けても生産は停止する。各要素が生産過程において不可欠な役割をもち、それなしには生産は停止するのである。各要素は必須である限り、生産過程でそれぞれ同じ重要度をもち、または生産物に対しては同等の持分を有している。一要素が他の要素に優先することは、自然の平等原理に反するばかりか、他者の権利を侵害することでもある。
(略)
 従来の歴史理論は、生産の一要素としての所有にだけ視点をおくか、あるいは生産物と交換される賃金にだけ視点をおくかして、経済を論じてきたが、生産それ自体がはらんでいる根本的問題を解決することはなかった。(ちなみに、ひろく現代世界で支配的な経済諸制度において特徴的な賃金は、公共企業、私企業のいかんを問わず、労働者に、みずからの労働による生産物に対しての一切の権利を放棄させるものである。)

大佐は、これからの来たるべき社会では、労働者はもう労働者と呼ばれなくなる、と言っています。
労働者とは、自分の生産したものの権利を放棄させられた存在だからです。
これからは労働者という呼び名はなくなり、生産者だけになればいいと思う。


、、、新しい社会主義社会は、世界を覆っている不公正な関係が弁証法的に止揚されるものにほかならない。その場合、うみだされる必然的な解決は、他人を利用することなく、みずからの必要を充足させるためにのみ運用される私的所有、ならびに生産者が生産活動において共同参加者であるような社会主義的所有である。従来の私的所有者が生産物に対する生産者の権利を認めず、彼をもっぱら賃金労働者としてだけ位置づけてきたこの不当性は、この社会主義的所有によって克服されるのである。
結局、私たちにある自由とは、
貨幣による商品購入の自由でしかないのではないだろうか。
(しかし、その自由も広告やメディアによってコントロールされたものだ)
畑をやるにしても、たいてい自由な農法は歓迎されないし、
無農薬・無施肥の農法を選択した人なんかには、
圃場を貸したくない雰囲気は、依然として強くあると感じる。
直也君から聞いた話だと、
農協は有機生産物を「有機生産物」として売るシステムすら持っていないそうだ。
しかも、福島の原発事故以降、生産の自由はさらに制限されたと思う。

西側の自由とは、
他人よりも「良い」暮らしをしようと競争する自由があるだけなんじゃないだろうか。
けれど、それは、
他人とは「違う」暮らしをしようとする自由のことでは決して、ない。
一方的な、特定の人々によって作られた「善悪」の基準があって、
その「善」へ、努力して(=他人を出し抜いて)到達しようとする自由があるだけで、
そもそも、この善悪の基準に従わないことは、論外となる。

全国でも放射能汚染されたがれきの受け入れが始まるし、長野県でも受け入れがありそうだ。
県内で無農薬・無施肥で農産物を生産していたって、何の説得力もなくなりつつある。
作りたいように農産物が作れない。
これが本当に、自由な国なんだろうか。
それはもう仕方がないことだ、と識者たちが唱えるならば、
もう既に、彼らは自分の好きなように研究も発言もしていないことを証明しているだろう。
誰しも、自分にとって当たり前のことは、他人に強要しても、概して抵抗感は少なくて済むものだから。


「緑の書」は真っ当な本だ、と言えば、この国では頭がおかしいのだろう。
でもこの際、そう思われた方がいい。
政治亡命でもなんでも、そういった理由や動機の貯金になるならば、それでいい。

また、「緑の書」から転載するつもりです。
次は教育について、かな。


★「緑の書」の「女性」についての文章はココで読めます。


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