ノ ー ト

好 き な 読 書 を 中 心 に 考 え 中 を 記 録 す る ノ ー ト

2011年12月

今日の雑感

今日は1日中、娘と2人きりで過ごす。
なんだか久しぶりに2人でゆっくりした気がして嬉しい。
昔はこうだったのにな、と懐かしい。
上田市に住んでいた時を思い出した。

娘のクリスマスプレゼントがドイツ製の織り機「イネス」だったので、
縦糸をかけるのを覚えるのに時間がかかった。
けれど頭ではわからないのに、やってると感と手が働くのが不思議。
脳はどっちかっていうと、私の部位の中でダメな方のヤツだと思う。
この玩具の対象年齢は3歳以上だから、出来て当たり前なのかもしれないが、
3歳児ほどの適応力と集中力は今の私にはこれっぽっちもないので、
できてよかったと手放しで喜んでも構わないだろう、
ということにした(これは脳が。だから脳はダメな方のやつなのだ。)。

娘と2人だと、私自身はまったくテレビを見ようとは思わないのだが、
娘の付き合いで見た番組の感想を少し。


●「みうらじゅんの信越ゆるキャラ運動会」

面白かった。
「外国人がこれ(ゆるキャラ)を見たら日本って国が分からないだろう」というみうら氏の言葉に納得。
日経新聞の週刊視聴率を見ると、最近「ミュージックステーション」の数字が芳しくないようだ。
例えば、タモリさんといとうせいこうとみうらじゅんの3人で司会をしたら、確実に数字が上がる。
というのは、ここ最近の私の口癖だが、
しかしその際、司会者3人が喋りすぎるので、出演ミュージシャンは3組ぐらいが限度となるだろうから、
結局は視聴するファン数が減ってプラマイゼロに陥るのかもしれない。
ということが、多分、番組会議で議論された結果、「女子アナとタモリ」に落ち着いたのだろう。

ちなみに「ゆるキャラ」は新潟勢の勝利に終わった。
長野勢が負けても、くやしさは微塵もなかった。


●録画アニメ「ドラえもん のび太の人魚大海戦」

全くそんなそぶりもないのに「愛しています」と言われるのと、
「愛しています」とは宣言されないものの、愛されるのとでは、
どちらが人を満たすのだろうか。
この場合の「愛しています」という言葉は、お金や名誉に近い気がした。
名前が契約であるという発想は、ゲド戦記から受けた影響だろうか、なんだろうか。
最近、アニメ界で名前が契約であるというテーマが多用されすぎている気がする。

女子フィギュアスケートは、真央ちゃんの結果が怖くて見れなかった。
中森明菜を、見たいけど見るのが怖いというのに似ている。
同情をしたくないけど、必ずしてしまうだろうからの回避。
テレビを見ると頭が悪くなる、と一部の人は言うけれど、
見ないことの方が現実逃避であり、葛藤することからの逃避になることだって、ある。

今日はこんな1日。掃除ができてよかった。


考え中

最近、パート勤務の休み時間を利用して、
2週に1冊のペースくらいでコンスタントに本が読めるようになった。
パート勤務が7時間になって忙しくはなったけど、そこは良い点。


この習慣になってから読んだ本で、
感動した本はたくさんあって、記事にしたいと思うものもたくさんある。
けれど、なかなか時間が取れなくて、書けないでいる。

感動する本というのは、たいてい答えがそこに書いてある。
だから難しいことはない。むしろ簡単。

けれど、先週読み終わった「ツナミの小形而上学」という本は手ごわかった。
答えが書いていないから。
答えじゃないから、本の文章をノートに書き写すということもできないような、
そんな読書体験。


「なぜ情報を得ても、ヒトは行動を起こせないのか、
それは自分が信じているということに確信が持てないからだ」と書いてあった。
確信を持つにはどうしたらいいのか。
それをずーっと考えています。


近代以降の法律の概念では、
悪には悪の為し手が、悪の為し手には悪の意図があるということが前提になっているそうだ。
しかし現代は悪の為し手に悪の意識がない、という。
(私からすれば、それは「悪の末端の為し手」のことでしかない、と思うけど)
それにどう対処していけるのか。

例えば、強姦罪は逮捕されるけれど、東電の社長は逮捕されない。
人間にとっての「悪」とはなんだろう。
私にとっての「悪」とはなんだろう。

物理的な悪と、自然による悪の違いはなんだろうか。

東洋では、自然は善悪の対象ではないが、なぜそうなのだろう。
自然災害が起きるのは人間に対する罰だという感覚を長く持ってきたのに、
(実際、河川の氾濫や火山の噴火で竜神・風神らに生身の人を供えてきた)
それなのになぜ、罰と罪悪という対の関係を結ばずに、私たちの意識に存在できるのだろうか。
そこに矛盾の意識はなぜ発生しないのか。


しかし、今は「システムの悪」の時代なのだそうだ。
現代の悪の為し手を、非人道的で卑劣な人間だと描写すればするほど、
反対にこちらの批判力は薄まってしまう、というこの本の指摘は鋭かった。
悪の為し手には、悪の意識はないのだ。
自分は国の未来のために、日本人のために、公益のためにやっている、
と思っているに違いないのだから。
だから、そこには空しい平行線の議論の形が繰り返されるだろう。
私たちに見えるのは所詮、「悪の末端の為し手」でしかないから。
(本当の平行線なんてこの宇宙には実在しないそうだけど)
悪の意識のないものの悪を正そうとすることの難しさだ。

小児科医の山田真氏の↓の言葉にははっとさせられた(こちらのブログから拝借)。


Q:原発をなくすために何をすればいいですか?

A:ぼくに聞かないでご自分で考えてほしいですね。
原発事故のあとであっても、石原があれだけの票を取ったということで、投票して勝てるという気はしません。多数を取って勝つということのしにくい国だと思います。多数を取るということでなく、勝つ方法を考えるしかないと思います。
 チェルノブイリで事故があった1986年のあとはいまよりもっとデモがありました。しかしあれも風化してしまいました。風化させないためにはどうすればいいのか、みんなで考えましょう。


相手をただ否定する力では勝ち目はない気がする。
私と同様、相手にも権利があるからだ。
だから、自分たちの権利を主張する事でしか、勝つ方法はないと思う。
数で制しようとするのは、たぶん非常にもろく、欠陥が多い気がする。

しかし、ずーっとまだまだ考え中。



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