ノ ー ト

好 き な 読 書 を 中 心 に 考 え 中 を 記 録 す る ノ ー ト

2012年01月

覚書 ~ 均一性は不毛 

「自然は脈動する」から


【メモと感想&補足】森林と樹木に関して


・気候変化の速度が現在のように早いと、新しい種が根づく前に絶滅する種が出てくる。    
ーー>例えば日本の伝統(工)芸の世界も同じ  


・セコイア杉は寿命2000年以上だが、今では60年(3%)で伐採される。   
ーー>世阿弥の「時々の花」の考えからすれば、寿命をまっとうせず、ある時期だけが特化されると
    文化は平坦な薄っぺらいものになってしまう。つまりこれも一種のモノカルチャー。
    年長の親木は若木を支え、栄養を与える役割がある。


・他の植物が生えない=モノカルチャーだと、かえって樹木の競争は激しくなる。
 樹木の年齢と種類が同じになるから
-->内ゲバの仕組みは、つまりこういう道理に違いない。


・地面は上の木々に守られて涼しく、水分が保たれスポンジ状の豊かな腐植土は
 雨水の最大85%を保持する。
 これによって地下水面は補充され、 地下水は完全に循環できるようになる。
ーー>樹を伐採するということは、土壌の基礎を破壊するのと同じ。
 家の樹を切れば、敷地の基礎はそれだけもろくなる。


・薬用植物は生物多様性が最高度の森林でしか成長しない。
ーー>漢方の薬学は森林が支えてきた?仙人は古字で「僊人」と書いたそうだ。
 「僊」とは天に向けた縦方向の作用を意図するものらしい(横方向への作用は「遷」という漢字)
 「僊」の字義は“天地のエネルギー”を人の中に取り入れることによって、
 “天地のエネルギー”に同化させること、とある。
 「僊」とは「植物が太陽エネルギーの光波を地上の創造的成長に変換させる」ことに似ている。

・水は、血液・リンパ液・樹液・乳として、生命の成長と発達の基礎となり、生命をもたらし、
 維持するあらゆる液体の形をとる。
 あらゆる生命体は水の入った柱であり、容れ物
ーー>ホメオパシーへの認識に役立つ


・光を求める木=樹皮が厚い 
 蔭を求める木=樹皮が薄い(日光にさらされると幹を守るために枝を余分に伸ばす)
ーー>これを知ってから「国定アルプスあずみの公園」に行って、無理な伐採と剪定が行われていると感じた。


・木の病気が増えているが、蔭を求める種が直射日光と熱にさらされているからだ。
 枝を余分に伸ばしているからといって蔭を求める木は健康ではない。むしろ逆。
ーー>年輪の間隔が広いことをして、十分成長できたと判断するのは間違い。
 熱によって膨張させられているだけ。


・蔭になっているが良好な土壌条件で生長する木では、毛細管がほぼまっすぐで、木材はよく響く。
ーー>名器と言われるほどの木製の楽器もまた、モノカルチャーからは製造できない。
 しかし、その楽器を聴くことのできた一部の人々の大多数が、モノカルチャーであったという皮肉。


・雨は落ちてくるときに大気中の酸素・窒素・その他の微量ガスを吸収するだけでなく、
 下方に回転する動きによって強い生体電気場・生体磁気場も作りだす。
 植物が従来の灌漑システムの水を与えた時に比べ、
 雨のあとにはるかに強い生命力と活力を示すのはこのため。     
ーー>ますます水耕栽培の欠点を感じる。微量ミネラルの研究がもっと進めば、必ずや、水耕栽培は時代遅れになる。


・蔭を求める木が、光にさらされる状況に置かれると年輪が不規則になって、中心が偏り、芯腐れしたり、
 放射状の割れ目を生じる。細菌や寄生虫が生じやすくなる。
 寄生虫は、病気を引き起こしているのではなく、病気の結果わいてくる。
 寄生虫は進化的に生存できないあらゆる生命を取り除く役割「自然の健康警察」
ーー>幾度か記事にしたけれど、畑では弱った植物にしか寄生虫は見られない。
 植物自体が健康であれば、寄生虫を寄せ付けないは本当だと思う。人間の身体と同じ。


・モノカルチャーでは、同一種の木の根がすべて同じ深さに根を張ることで固い層が形成され、
 その層を超えて地下から 栄養が上がってくることができなくなる。
 均一性とは不毛を意味するのであり、これを自然は忌み嫌う。
 地面の下の根系のやりとりは、地表の植物の相互関係性より複雑
ーー>根の深い樹木は地下深くから栄養を吸い上げ、腐植土を作り、根の浅い植物に栄養をもたらす。
 地球上では最初根の浅い植物から誕生し、より根の深い植物が生まれた。
 根の浅い植物も、根の深い植物も同様に、土壌の肥沃化には必要である。
 人にはいろんな考えがあるけれど、植物の根の共生のようであればいいと思う。
 種類の違いは豊かさをもたらす。


【まとめ・雑感】
  この本を読んで、特に、人も植物もコトワリは同じだと思うようになった。
  “多様性”の中からしか高次の生物は生まれない。  
  議論であれば、ブレインストーミングの形でしか、よりよい実りは期待できないのかもしれない。
  メールはもちろん、ブログの限界を感じるのは、結局はブレインストーミングの形式ではないからだ。
  しかし、本当のことを言えば、カッダフィー大佐の「緑の書」が書いている通り、
  自分の代表は自分でしかなく、誰かに自分の意見を委任したりせず、
  実名ですべての集会に参加して、自分の意見を述べること、が
  人が本当に自立するために必須のことなのだろう。
  たとえば、私は「女性」であり「母」であり、
  「スーパーの従業員」であり「鮮魚部の労働者」である。
  「波田13区」の住人であり、「農作業従事者」であり、「非農協組員」である。
  その全ての集会が存在し、そのすべての集会に参加し発言する必要があると、
  「緑の書」は書いている。
  それが本来の姿なのだ、と思う。
  その本来の姿と、私たちの現状はどれだけ食い違っているだろう。
  どれだけ、私たちは様々なことを他人任せにしているのだろう。
    
  今の私は、特定の誰か・存在者に真実があるとは思わなくなった。
  いわば、沢山の交差した考えの「集合体」の中にしか、
  真実は映し出されないのではないだろうか。
  ありとあらゆるすべての人は、同じ構成員でしかない。
  しかし、局所的な樹木の変化で環境の「微小気候」が変化するように、
  1人の構成員には全体を変化させる力ある。
     
  「地下の根系と土壌の関係は、地表よりも複雑である」との記述の通り、
  表面化したものだけが全てでない、
  ということは片時も忘れてはならないと思う。
  表面化するまでの経緯や背景、意識化以前の前意識の段階、
  内にあって外に現れない状態である潜勢態=ヴァチュアリティに思いを馳せなければならない。
  そうでなければ、植物の地表から上だけを見て、地下の根系を無視することにほかならない。
  特に、HPをhtml言語で作ってみてつくづく思ったのは、ネットは記号だけでできている、ということ。
  でも、世界は記号化されたものだけが全てではない。むしろ、それは一部だ。
  “表面化・記号化されたもの”を議論する時間と同じくらい、否、それ以上の時間を、
  “表面化されていないもの”のことへの理解に充てなければならない。
  それが本当の「対話」となるだろう。


覚書とメモ ネットと本名

(少し加筆)

メールがもはや、限りある時間の中において、
時間の浪費であり遠回りであり時代遅れであるように
(しかし時代遅れも一つの価値だ)、
多分、現在のブログの状況とサービスでは、ブログもまた同じことではないだろうか、
と思いながらブログを書く日々。
(少なくとも、コメントなどの書き込みは有料制にすべきだと思う。)

ネット上で本名を明かさないということは、
例えば「私は○○人ですが」とか「私は○○業界で仕事をしていますが」とか
はたまた「私の専門は○○学ですが」とかいった、
文章内における、書き手当人に関する全ての前提や断りさえもが、
全く無効である、ということである。
つまり、一切の個人的前提に頼らない文章を、成立させなければならない。
これはかなり難しいことだが、これが難しくなくては、
少なくとも「戸籍が認められない、国籍がない」といった苦難の人の問題を、
想像することも、共有することもできないだろう。

だからそれができないなら、無視や誤解をされても、不満に思う道理すらない。
本名を開示する気がないなら、同様に、
自分の職業やパーソナリティについての情報を開示する意味は全くない。

かくして、ハンドルネームという「無責任な形で参加する」というような権利の流通は、
議会制民主主義によって基礎づけられたのではないだろうか。
議会制民主主義がいかに長く続いても、
私たちはいつまでたっても議論する力を持てない。
英語教育を長年受けても英語が話せないのと同じで。

私たちは本名をなぜ持っているのか。
本名を持たないということはどういうことか。
いく度かの戦争や混乱の陰で、「名もなき多くの人々が犠牲になった」と歴史は語る。
しかし、みんな1人1人名前があったはずだ。
私は私を、「名もなき人」とするものに抵抗したい。

ある人は名前のせいで長い間精神的苦痛があり、長年法的手続きを取ったあげく、
ついに新しい名前を獲得した。
本名は変えられる(現状、法律は厳しいが)。決して不変ではない。

だから、本名は生まれながらの戸籍上の名前というよりは、
どう世界に対して自分を名乗っていくか、ということの表明なのではないだろうか。

名前は、決してねつ造したり飾るためのツールではない。
名前は願望でもなく希望でもない。
名前は覚悟と一抹の絶望を含む。

覚書とメモ

「自然は脈動する」から


メモ
・森林の伐採、特に、熱帯雨林の減少により、世界は寒いところはより寒くなり、
  暑いところはさらに暑くなるといったような、気候のバランスの崩れが引き起こされる。
・森は土壌を鉱化、肥沃化させ高度な生命体に必須の栄養をもたらす。
・森林が繁栄した時代があつて3度あり、その時代には大気中の酸素含有量が増加し、
 地球の生命体が爆発的に進化した。
 50万年前の新人の登場時もそうだった。
・進化拡大の時期には地表のおよそ3/4が森林→生物多様性の絶対条件(現在は1/5に過ぎない)
・化石を調べると化石内の気泡に含まれる酸素濃度は30%
(現在、大気中の平均酸素含有量は約20%)


覚書
およそ100年前の酸素含有量は24%だったらしい。
この数%の違いが何をもたらすのだろう。
さらに酸素摂取量の低下は体温を低下させ、
「10歳年齢を重ねる事で約10%の酸素摂取量が低下し、80代では30~40%」なんだとか。
体温低下は免疫力を低下させる。
今は医学が発達したが、100年前よりも後退したものが確実にある。


データ
「酸素量はわずかな減少でも体に大きく影響し、
19%になると人は息苦しさを感じ、
16%で酸素マスクが必要な状態に、
10%で意識がなくなり、
8%で失神」する。
ちなみにカラオケボックスは18%、締め切った車内は19%らしい。


結論
森林を伐採するということは、換気をせずに部屋に閉じこもるようなもの。
生物多様性がなくなり独りよがりになり、<わたし>は崩壊する。


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個人的な考えから、美しさと醜さについて

あくまで私の経験上、醜いとされる人は対外的な部分でバランスを欠いた人が多い。
(対外的な部分、というのは、あくまで他人は人を外からしか見ていないからだ)
けれども同様に、美しいとされている人も対外的な部分でバランスを欠いた人が多い。
しかも、問題を長引かせるのは「美しい人」の方だったりする。

人間が人間をして「美しい」だの「醜い」とするのには、絶対的な理由があるわけではないだろう。
時代の感覚、時々のハレやケガレを反映して。
黄金比率だの言う人がいるけれど、人間以外の自然の生物に黄金比率を適用するのはわかるが、
人間のボディーや顔にまで黄金比率を出してくるのは、いささかマーケティングが過ぎる気がする。

時の「美しい人」と「醜い人」は、時代から一方的に選ばれてしまった人だ。
いわば「当て逃げ」されたようなものだ。
(「醜い人」というのは内部の「不健康さ」が顔色に出ている場合もあるけれど)
時代の「美醜」感覚の適用を受けたことで、おのおのの「美醜」感覚に自由さを失ってしまう。

私は独断で、ユダヤ人に優秀な人が多いのは、
もちろん流浪の民がゆえの見聞の広さと経験の豊富さがそうさせるのだろうけど、
むしろ、ユダヤ人の子供は、自分がユダヤ人として生まれたことについて考えるという、
個人を超えたところでの自分に対する自意識を幼少から持っていることが大きいと思う。

他者の価値観と自分の存在の拮抗のような問題意識を持たざるを得ないことは、
そんなに幸せなことではないけれど。

ファッションは、大抵、いつの時代も「よりよく見せるため」の努力であった。
昨今の洋服も、「足が長く見えるパンツ」とか、
そういう自分の「醜さ」を修正しようと意図されたものばかりで、辟易する。
かようにも自分を修正しなければ、外にも出れないほどに、世間は戦々恐々としている。

しかしながら、河合隼雄氏は「ろうそくを持ってない人にろうそくを渡し、灯すのは簡単です」と言う。
「醜い人」が、自分の中に「美しさ」を灯すのは簡単なのだ。
簡単だからこそ、ファッション業界は絶えない。
けれど、河合氏曰く「難しいのは、既に明るいろうそくを持っている人に、ろうそくを交換してもらうことだ」と。

私のかつての友人に「美しい人」がいた。Jさんとする。
Jさんは、母子家庭で、責任感が強く、潔癖で、自分が美しいことに気が付かないふりをしていた。
だけれど、私は彼女に言った「Jさんは美しい」と。
多くの野生動物は「美しいこと」を武器にしている、
それを武器にするかどうかは別としても、自分が「美しい」ということを認識しないでいるのは、
Jさんにとって不自然だ、と。
けれど後年になって思う。
それももしかすると、人間の発情期が年に1度程度だったら、の場合にしか適用されないのかもしれない、と。

「美しい人」で、勉強熱心な人ほど、美しさを鼻にかけてはいけないという制御と抑圧を自分に課してしまう。
自分の「美しさ」をどうとらえていくのか、私は美しくないので全くよくわからないけれど、
それが大変に難しいのだと思う。

美しさははかない。
けれど「はかないもの」を本当の美しさと言えるのだろうか?
「美しさ」という問題を持ってしまったが故の、難問が待っている。
たとえ、チューリングパターンが理解できても、当人にはそうやすやすと解決できないだろう。


結論

「選ばれてあることの恍惚と不安と二つ我にあり」太宰治。

美しさを鼻にかけると、醜くなってしまう(そして醜さが商業を支えている)。
どちらにせよ、「美しさ」と「醜さ」ならば、
その双方が社会によって生み出される共通感覚としての幻想であるならば、
どちらの方がましかは、言い難い。


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