「スペインなるもの」とは何か。
私には、特にこれといった理由もなく、スペインに住んだ時期があるのだけれど、
というのはつまり、それが“不登校”からの一時避難先でしかなかったからだ。
時代が1人の人間に多大な影響を与えることがあるように、
こちら側に決め手があるのではなく、“向こう”から勝手に当て逃げしてくるような、
そんな影響力の強い由縁というものもまた、まま存在するのではないだろうか。
私にとっては、それがやはり「スペイン」なのだった。
これは、自分が過ごしたスペインにおける1時代を、
「特別視したい・価値のあるものだと思いたい」という執着だけがそうさせるのではない気がする。
「スペイン」というよりも、「スペインなるもの」と言った方がいいかもしれない。
この「スペインなるもの」の影をずーっと追っている、という感じ。
私にとっての「スペインなるもの」とは何か。
それは1言でいうと「統合されても、決して統一はされないもの」である。
「常にはみ出し、こぼれ落ちるもの」なのだ。
これが、学校教育からの落ちこぼれであった私に合ったのかもしれない。
以前も書いたことがあるけれど、スペインはヨーロッパの縮図なのだ。
文化的にも気候的にも。
「ムスリムの宮殿」と「キリスト教の聖地への巡礼路」は
同じスペイン国内に同居する世界遺産である。
かつスペインを代表するフラメンコ舞踊は、放浪の民ジプシーの文化である。
スペインは神秘主義者を多く輩出し、つまり苛烈な宗教者が多い土地なのだけど、
強い一神教的宗教心は、貧しい風土から生まれるものだろう。
植民地活動を引き起こす帝国主義は、まさに貧しさゆえだと思う。
スペインの内陸部は非常に貧しい土地だった。
中南米に渡り、ことごとく搾取を続けた人々は、無論この地方出身の人々であった。
貧しさに対する恐怖感は強い宗教心となり、
スペインではグロテスクな異端審問やユダヤ教徒への排除を行った。
例えば、作家のエリウス・カネッティはブルガリアのスパニオルで、
スパニオルとは15世紀にスペインから追われたユダヤ系移民のことだ。
この作家カネッティによると、
人間のつくりだす社会制度や法律、儀礼、建築など、ほとんどの文化は、
他者への恐怖から発生する「接触恐怖」が動機となって引き起こしている
という。
先日、「鍵をかけない生き方」というのをラジオで紹介していたが、
確かに玄関ドアは、「他者に対する警戒」ではないだろうか。
人が建物に入る場所を1か所に限定するというのは。
そう考えると、もう1つの入り口を「勝手口」と呼ぶのもうなずける。
家のいたるところの窓から、人が入ってくるのだとしたら、どうだろう。
建築はそれを拒む箱である。
マイホーム主義の精神とはこの接触恐怖に根ざしているのかもしれない。
こうして恐怖心は、「恐怖を抱く者」と「恐怖を抱かせる者」とに、人を分断する。
スペインがヨーロッパの縮図であるゆえんは、その地形・気候風土の多様性と、
異なる価値観を恐怖心から分断しまくった結果ではないだろうか。
1492年のスペイン統一はイスラム勢力の排除の完結の年であり、
キリスト教統一の年であり、資金を出したコロンブスが新大陸を発見した年であった。
スペインの国家の成立とは、統一とは名ばかりに、「拡散」が同時に始まった歴史であった。
しかし、逃亡するための・逃亡させるための拡張先である土地は、もう現代にはない。
分断され、異なったそれぞれの文化が、居合わせるより仕方がないのだ。
しかし、ローマの植民地からムスリムの植民地という歴史をもったスペインでは、
正統なアイデンティティなど端からないから、どの文化も正統性は主張できない。
世界に誇るスペインの文学は「ドン・キホーテ」で、最初の近代文学と言われている。
17世紀初頭に生まれた「ドン・キホーテ」の先駆性とは、
主人公の自意識が描かれたことと、
登場人物によって異なる「事実に対する認識の相対性」という視点が入っているところである。
異なった文化が居合わせた土地だからこそ、この認識の相対性を表現できたのだろう。
価値観とは絶対ではなく、相対的なものでしかないと。
「ドン・キホーテ」は確かにスペインを象徴する。
先述の作家カネッティはスペイン人画家のゴヤを評して、
「彼(ゴヤ)は目を逸らさなかった。(...)しかし、彼は起こりつつあったことを、
さながら自分が両陣営に属しているかのように見た。
彼の知識は人間にかかわる知識だったからである。
彼は彼以前の、というか、あまつさえ今日の何ぴとにも増して激しく戦争を嫌悪した。
(...)ゴヤの証人としての価値は、パルチザンシップを超えていた。」
と語ったそうだ。
私はこの「両陣営に属している」と「彼の知識は人間にかかわる知識だった」
という表現がかなり気に入ってしまった。
これは統合力である。
統一力ではなく、統合力だ。
例のBさんは「核を<非人間的なもの>と解釈してはならない」というようなことを言った。
非人間的と遠ざけることで、問題は棚上げされてしまう、と。
核とは、人間だけが生んだきわめて人間的なヒューマンな産物である。
そのことから目を逸らせてはならない、と。
これは先だって読書感想を書いた「ツナミの小形而上学」という本に書いてあった、
“悪の為し手を非人間的だと批判することが、かえって批判力を弱めている”という
指摘にも通じている気がする。
ある立場に立ってものを言うことは、誰にでもできる。
しかし常に問題は、1つの立場内のみで起きているのではない。
人間の問題は常に人間全体の問題であり、もっと言えば宇宙全体の問題だからだ。
現時点で相違している、互いが主張する<正しさ>も、
さかのぼれば同じ起源から発していることがほとんどだ。
起源はかならず共有している。
言い換えれば、起源ならば必ず人は共有できる。
問題の起源を語ること、これが現在の異なる立場の統合力になるはずだ。
両陣営に属している意識にしか、解決の糸口はないのではないだろうか。
対話とは、起源を語ることなのかもしれない。
「ドン・キホーテ」はカーニバル文学の元祖である。
カーニバルとは、身分の違いが払拭された価値倒錯の世界だ。
そこでは人々は対等であり、
モノローグではなくポリフォニー的だ。
私がスペインを語るときの単位は、結局「国家」にはなり得ない。
スペインという「統一国家」など、分かりやすいくらいに「幻想」だからだ。
様々な異なる集団が、その土地に居合わせている稀有さ。
そして、結局は個人だけがそれらを統合できる、という事実。
それが私にとっての「スペインなるもの」なのかもしれない。
森