ノ ー ト

好 き な 読 書 を 中 心 に 考 え 中 を 記 録 す る ノ ー ト

2012年07月

A氏に

私の父が東北へ今日から旅に出かけた。
火焔土器や遮光器土器などを見に縄文遺跡を回る。
誰かも言ってたけれど、
この列島の人は自然を謳う以外は表現方法はないんだ。
自然を観察することが肝心要。
だけど「自然は自然を模倣しない」(らしい)。
結局、種や形の違いは「創発」の結果そのものだからなのかな。

蝶と蕎麦

先日の私の誕生日にサナギから羽化したキアゲハ↓
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最初、ドウダンツツジについている蛾の幼虫を、
勤めている蕎麦屋さんで娘がもらったのだけど、
ネットの図鑑を駆使しても、何の蛾の幼虫か特定できなかった。
直也君がセリなど、その他の草を投入してみたけど、
全く食指を示さないので、娘に話して飼うのを断念。
私たちが一概に呼ぶ「蝶や蛾の幼虫」も、
それぞれ種類によって餌は全然異なる。

その代わりに「これなら餌がわかるので」ということでキアゲハを飼うことに。
キアゲハの食草はせり科の植物や人参、パセリ、フェンネルなど、らしい。
直也君が田んぼからセリを取ってきてくれた。
でも、このキアゲハは夕方に羽化してから飛び立つまで、1晩かかった(多分)。
なかなか羽が乾かなかったのだ。
飼育器にラップをかけて飼っていたから通気性がなかったわけではないだろうけど、
この時期は梅雨や台風があって、外では風が強い日が続いていたので、
外にいたらもっと通気性があったんだろう。
こんな時に羽化するキアゲハは、
その風の吹き方を想定していたんじゃないか、と思った。
サナギの中だって完全な密閉空間じゃないだろうし、
サナギの状態でも多少風を受けている必要があったのではないか、と。

やはり、生き物を飼うのは控えよう。
不自然の中で飼っていても、自然は一向にわからない。
飼うと本当の意味での観察からは遠のいてしまう気がした。

ちょうどシナジェティクス研究所の梶川泰司氏のブログに、
以下のようなテキストがありました。
「青虫」って概称は、「雑草」という概称に等しい。

全世界について

「キャベツにつく青虫はキャベツが全世界だと思っている」
ーーーーーーーユダヤの格言

この格言は動物行動学を反映していない。

もしキャベツが全世界ならば
モンシロチョウは産卵のために
ミカンやサンショウではなく
キャベツを選ばなかっただろう。

事実、アゲハチョウの幼虫は
キャベツの中では
何も食べられないので餓死する。

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↓の写真は、
茹でて残った蕎麦に少量の小麦と水と塩を加えて、
フライパンでノシて焼いたもの。
ごま油で焼くと、より美味。
蕎麦屋の女将さんに教わった食べ方。

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メモ

http://kenko100.jp/news/2012/07/11/02から。削除される前に。

全文転載開始
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やっぱり母は偉大? 声と心音で早産時の健康状態が改善

米研究

母の声


 早産児の場合、新生児集中治療室(NICU)で一命を取り留める確率は高いものの、NICUは子宮と全く同じ理想的な発育環境というわけではない。米ブリガム・アンド・ウィメンズ病院新生児研究所のLaura Doheny氏らは、NICUに入院した早産児に母親の声と心拍音を録音して聞かせると、無呼吸や徐脈などの心肺イベント(心臓や肺に関する事故)の発生率が減ったとの研究結果を、英医学誌「Journal of Maternal-Fetal and Neonatal Medicine」(電子版)に報告した。

在胎期間33週以上の子供で高い効果

 NICUには熟練した看護者が付き、気温と湿度が調節できる保育器も備わっている。しかし、Doheny氏らは「NICUに足りないものは、胎児が子宮の中で聞いていたであろう母親の声と心拍音だ」と考え、聴覚に働き掛ける処置が心肺イベント発生率に及ぼす影響を検討することにした。

 研究では、同院NICUに入院した早産児14人(在胎26~32週で出生)に、NICUの入院期間を通じて母親の声と心拍音の録音した音声を1日4回聞かせた。

 その結果、母親の声と心拍音を聞かせた場合、通常の病院内の騒音や音にさらされている場合に比べ、全体的な心肺イベントの発生率が低下することが分かった。この効果は、在胎33週以上で生まれた子供で統計学的に著しく低下したという。

 Doheny氏らは「今回、母親の声と心拍音を聞かせることで早産児の心肺イベントの発生率が低下し、短期的には早産児の健康を改善できることが示唆された」と結論。しかし、「症例数が14人と少なく、こうした介入が早産児の健康に影響を与えられると結論するには、さらなる研究が必要だ」と付け加えている。


(編集部)

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転載終了

覚書 ~ 祝祭など

「脳のゆらぎ」が
「夢をみること」または「夢の内容」を左右している
んじゃないだろうか、と勝手に想像。

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例えば、コップを取るという行動において、
「コップを取ろう」と思う以前に
本当はすでに脳がコップを取る準備をはじめているらしい。
つまり、過去の経験によって形成された反射などによって
脳が準備することに、ヒトの意思が追随しているのだとしたら、
物理的には自由意思など存在しないことになるらしい。
けれど、実際にはその行動を「おこさない」という自由はあるらしい。
ヒトにあるのは「自由否定」のみだ、と。
もちろん、他人から制限されない場合のことを「自由意思」とするなら
それでもいいわけだけど、
そうなるとこの場合の「自由意思」とは、単に倫理的な「自由意思」でしかないみたい。

誰かを見て、「あの人、太ってるな」と反射的に思うとして、
太いっていうのはあくまで相対的なもの、つまり、
私にとっての「太い」とは、今までの自分の経験が勝手につくりだした感覚でしかない。
この感覚から自由になるなんてことは、そうそう私はできない。
でも「あの人、太い」と思っても、口に出さない、ことはできる。

だから、反射的な行動を否定するっていうのが
唯一ヒトにとっての自由なのかも...
とこれまた文系的な曲解をしてみたりする。
「やろう」よりも、「やらない」の方が本当は難しいのかも。
太極拳は反射運動の否定だから、なのでなおさら可能性を感じるわけです。

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「祝祭」は多くの人が基本、好きなはず。
普通、社会的なストレスがたまると祝祭は当然必要になるもの。
デモやどんちゃん騒ぎは嫌いでも、祇園祭が好きとか花火が好きとかは、ある。
脳的には、前者に参加している人も後者に参加している人も
同じ脳の部位が活性化しているに違いない。

ではどうして、ヒトは前者と後者を区別できるだろうか。
それはやっぱり日頃からそれらの違いを習慣的に考えているか、
でしかない気がする。
“普段”から“不断”に考え続けていないと、
脳は反射的に祝祭を肯定するだけだろう。

祝祭に進化や洗練などは必要ないように、
多分デモやストに進化や洗練はない。
最初の形が最終形でしかないと思う。
だから、未熟でも稚拙でも最初の1歩だから仕方がない、
今後につながるだろう、というのは多分違う。

数(体制)に対抗するために、
数(デモや署名)を戦術に採用するのだとしたら、
それは同じ方法論の踏襲である以上に、
この限られた時間の中では2度手間だ、ということなのだろう。

私たちの投票は結局「委任状」を出した程度のことでしかない。
私たちは大事なことを決める時に、
進んで欠席をすることを選ぶ社会に住んでいる。
デモは、自分や自分の親が欠席してきたことを棚に上げて
欠席者が集まって、決められた内容に不服を申し立てている。

まず「委任状を出さない方法」「大事な時に欠席しない方法」
が可能かを考えてみたい。

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