ノ ー ト

好 き な 読 書 を 中 心 に 考 え 中 を 記 録 す る ノ ー ト

2012年08月

掃除

勤めている蕎麦屋では、
毎朝、店前の掃き掃除をすることになっている。

南隣のお店は、いつも広範囲に掃き掃除をしてくれるで、
何の心配もいらないのだけど、
北隣は1階が商店ではないので、掃き掃除をする人がいない。

最近は落葉がかなりあるので、掃いているのだけど、
時間がないとき、北隣より先を掃くものかどうか、
一瞬だけど躊躇する。

だけど、
自分の店の前の落葉だけ取り除いて
隣は掃かないんだったら、
見る人が見れば、「自分の店の前だけきれいにしている」と思うだろうし、
それはかえって美しくないだろう、と思うから、
一応ふんばって北隣より先を掃くことにする。

だけどもし、
隣の落葉をそのままにしないと間に合わないような忙しいときは、
いっそこちらの店の前も落ち葉だらけの方が
美しいのではないだろうか。
落ち葉は決してゴミではないから。

同じように店内でも、
蜘蛛が引越しした後の蜘蛛の巣は取るけれど、
蜘蛛がいる現役の蜘蛛の巣は、
そのままの方が美しい気がするし、
それが美しく映えるお店にいると思う。

そういうことを考えながらする掃除が、とても面白い。

本を開いたら

“開いたページが、その日のあなたへの言葉です”
というような本を見せてもらって、
昨日開いたページに↓の言葉が。

「まず自分を信頼することから始めなければなりません。
自分を信頼していないと、
自分の良さを自分に証明するために、いつも他人に
頼らなければなりません。
しかし、決して満足しないでしょう。
あなたはいつもどうすればよいか他人に聞き、
同時に、自分が助けを求めた相手にいつも腹をたてるでしょう。」

ひどく納得した。

my heart belongs to me

ある方に言われた大きな1言。

「その人は神様のお使いかもしれないけど、いいね、
でも決して神様じゃないんだよ。
神様は1人1人にいるもので、目に見えないものだからね。」

私にとって、
人も本も(宮澤賢治やリルケにしても)、一切の出来事や何もかも、
それらは“神様のお使い”なのだ。
でも、それは決して“神様そのもの”ではない。
答えではない。
自分への答えはやはり自分で出すものだ、と知った。
他人が稼いだお金では、ひとは決して幸せになれないのと似て。

私は神様のお使いを、神様そのものだと思っていたのだろう。
神様のお使いは私に「答え」をくれるわけではない。
くれるのはあくまで「きっかけ」なのだ。
でも、その「きっかけ」がとても貴重で、
同じ場所にいながら旅をさせてもらうようなものではないだろうか。

(ヒトの進化が、移動と交易=コミュニケーションによってなされたならば、
 ヒトとは旅をしなければいられないものではないかと最近思う)

神様のお使いに答えを求めるのも、
神様のお使いに褒められた気になったり、
そしられた気になるのも、
そもそも全て勘違いだった。
そう思うようになってから、
色んなことへの依存心が薄らいだ気がする。

私の答えは私が私に出さなければ、
それは答えではないのだろう。

(もちろん、この「神様」ということばは便宜上のもので
 もっとふさわしい言葉があるかもしれません)

My Heart Belongs To Me
本文とこの曲、全く関係ないけど、この曲の解釈が変わりました

いじめ

(A)いじめ、
窃盗を強要したり、親のお金を持ち出させたり、
人前で自慰行為を強要したり、暴力をふるったりするらしい。

(B)決して
「失われた時を求めて」を3日で完読してこいとか、
「革命」を1週間で弾けるようになれとか、
100メートルを5秒台で走れるようになれとか、
この手の無茶な命令は決してしないんだろう。
実際、この方が命令される側も完遂できないから、
よりサディスティックなのは、こっちの方だ。

と思うと、
やはり「いじめ」というのは支配欲であり、組織欲であって、
サディスムとも少し違う気がする。

(A)で命令されるようなことは、極端に言うと、
会社で起きていることとさして変わらない気がする。
その内容は、命令する側にもやってできないような行為ではなく、
むしろ、命令する側も同じことをやっていたり、やってきたことだ。
 
 実際の所、一切損が発生していないにもかかわらず、
 お客にキャンセル料を請求するように強制されるし、
 ノルマのために会社の商品を親族に買わさせるし、
 応援団の団長みたいな大声とそぶりで社訓を発声させられるし、
 失敗したら上司に無視されたり罵られたりする。

プルーストを完読したり、ピアノが上手くなったり、
足が速くなると、
その人は、もう、いじめる側の枠では収まらなくなるかもしれない。

本当に自分にはできないようなことを、相手だけには強要する、
というのではない限り、
いじめとは、予見できる未来しか相手に与えないでおこうという、
「閉じ込め」もしくは「封じ込め」の行為なんじゃないだろうか。
そして同時に、加害者はその自らの枠の中に囚われてしまう、というか。
そういう意味ではマゾヒスムなのかもしれない。

つまり加害者は、
被害者の屈辱を予定しなければ(もちろん一方的な予定だけど)、
加害することを通じて興奮は感じ得ないだろうから、
そういう意味では相手と“同位”に身を置いている投影という行為なんじゃないか。

これはどんな群れや組織の中でも、多かれ少なかれ起こることだと思う。
仲が良いと思っている友人関係の中にだって、日常茶飯に起きているだろう。
友人が自分にとって都合が良い振る舞いをすることを望むことは、
どちらかというと、この「支配欲」や「組織欲」に匹敵するんじゃないだろうか。

いじめとはどこか「可愛さ余って憎さ100倍」であって、
自己と自己投影先の相手に対する、想定される・共有される未来への、
自己嫌悪と倦怠なのだろう。

どんなときでも、相手が素敵になる要求ができるようになればいいと思う。

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