ノ ー ト

好 き な 読 書 を 中 心 に 考 え 中 を 記 録 す る ノ ー ト

2013年01月

捨て聖

最近ずっと一遍上人が気になっていて、
ようやく読みだした。
しかし、一遍が何も残さないことを選んで死んだので
(自分で燃やしたりして)
研究しにくいのか、一遍に関する書の少ないことといったら。
時宗が寺を持たずに道場だけだったこともあるかもしれない。

実際杣人とか、マタギとかの方が歩いていると思うけど、
一応有史では、
菅江真澄が一番日本全国を長年行脚した人みたいで、
次いで一遍も日本を十数年遊行したので、
定住しないで漂泊する人のことをずっと読みたかった。
西行とか芭蕉みたいな
恵まれた境遇で旅した浮かれポンチキじゃなくて
真澄や一遍みたいに、
ちゃんと底辺の人々の中を漂泊した人じゃないと意味がない。
私にとっては。

けど読みだした本に
「一遍上人が入滅あそばれたとき」とか執筆者みんなが書いてて、
思わず苦笑した。
いやいや一遍さんだったら「死んだ」でいいんじゃないの?って感じ。
そんな言葉尻にマックス敬語使って飾り立てて、
それで逆に「捨聖」のことなんか描写できんの?って思う。
捨ててんだよ?

人物の伝記や研究書は、その人が偉くなくては作られるわけないから、
という感覚が基本的なスタンスだから
過剰に聖人扱いして書いちゃうんだろうけど、
これって書物を神聖視・特別視するような感覚が前提にある気がする。
文字言語の方が文字を持たない文化よりも上だ、っていう偏見が基盤にあるんじゃ?
そもそも少なくとも日本においては
仏教は「口伝は本経や儀軌より勝る」んじゃないのかな。
なんか読む気が失せてしまった。
杣人やマタギの記録がないから一遍を読むって言う私も
そもそも同じ文字文化至上主義だったかもな。

と思っているうちに、こんなの上映予定なんですね。
http://www.kaerucafe.co.jp/ippenshonin/
ウドちゃんが一遍役って衝撃。。。
今「断捨離」流行りだから、
その延長線上で「捨てる」のが流行ってるのかな?

こっちの動画の方↓が、傑作。
日本語がわかってこんなに幸せだと思うことはないくらい。
モンティ・パイソンを超えている気がする。
ビバ!ゴールデンエッグス!

手製ってほどでもないけど、なキャラクターハンカチ

娘が「自分の保育園用のハンカチはかわいいのがない。
Kちゃん(どうやら年長組の女ボスらしき)が
かわいくないからだめだって言う」
と不満を話してくれた。

私の子供時代もこんなだった。
サンリオのハンカチとか欲しかったけど、
母が漆芸をやってたりしたせいか、
キャラクターものは全否定だった。
友達の誕生会にも母手製のポシェットをプレゼントに持たされたりして、
今考えると素晴らしい母だったのだけど、
当時はいやで仕方がなかった。

だから娘の気持ちもわかる。
そもそも年中で入園するときに買ったハンカチでは
今はもう娘にとっても幼稚すぎるのかもしれない。
幼児の1年は成人の5年以上にも匹敵する気もするし。
なので急きょ、仕事の帰り道、
ヴィレッジ・ヴァンガード店など巡るが
ハンカチって意外と店頭では売ってないのね。
ネットでは売ってるけど、単価が低いせいか。
キーホルダーとかストラップとかチャーム的な?商品の
なんと多いことよ。
カバンって、いろいろ付けてないと、もったらあかんのん?

で、作ったのが↓のハンカチ。
白いハンカチに縫ってみただけですが、
シルヴァニア・ファミリーというおもちゃの
キャラハンカチにしてみました。
P1010250
娘とKちゃんよ、
縫い目が汚いが
ひとまず明日はこれで納得してくれ。

フォーク 

最近CMでまた人気のこの曲


22年前、スペインにいた時仲良かったルミちゃんが
中島みゆきのファンクラブに入ってて
私は「なんで中島みゆき?」と思ってたけど
いい曲なんだよとルミちゃんは
歌詞カード見ながら歌ってくれた。
この曲を最初に知ったのはその時、
グラナダの下宿先のピソの一室で
隣室の下宿生のスペイン語がかしましい中
おとなしいルミちゃんは恥ずかしそうな小声で
けれど真剣な面持ちで歌ってくれた。
中島みゆきは馬鹿にできない。

♪ 勝つか負けるかそれはわからない
  それでもとにかく闘いの
  出場通知を抱きしめて
  あいつは海になりました

 
♪ ああ 小魚たちの群れきらきらと
  海の中の国境を越えてゆく
  締めという名の鎖を
  身をよじってほどいてゆく

現実にすり寄って生きるのではなく
理想だけを見て生きたい、と思う。

頑張れ、と人が言ったら
「お前こそ頑張れ」と内心思う。
頑張っている人しか、
ヒトに頑張れとは言えない。

最近、ボブ・ディランってなんだったんだろうって考えた事があった。
別に答えは出ないけど。
彼の言動は当時、これから変わっていく何かを宣言しているんだろう、と
みんなが期待したんだろう。
けれど、彼は彼の歌の持ち主ではなかったし、
彼自身、自分の歌をよくわかっていなかったのかもしれない。
彼もいわゆる口寄せでしかなく。
そうして多分、彼の歌は詠み人知らずで残っていくんだろう。

中島みゆきはやっぱり日本のボブ・ディランなんじゃないかな。

食べ物の値段を上げろ 


最近のワタクシのヒーロー、新妻エイジ(from 「バクマン。」)
好きで好きでしょうがないもの(彼にとっては漫画、)を見つけることと、
真面目で熱意のある仲間を持つことは、この上ない幸せのような気がする。

最近、パンは「SWEET」で買うことにしている。
うちの玄米も測っている「信州放射能ラボ」で放射線測定しているから。
原料に国産のものを使ってないから測れるんだよ、とか言う人いるけど、
おいしいかおいしくないか以前に、
食べ物はできるだけ安全なものを届けようとするのが基本だと思う。
SWEETの若社長も一人の父親なわけで、親としてもちゃんとしてる。
自分の作っているパン、こうなんだよって言って子供に食べさせられるのは、
全然違うと思う。

しかし、食べ物の値段が安過ぎるのが、諸問題の元凶のような気がする。
大正時代の非農家の給料の半分が食費に消えていたわけで、
そのくらい食費はかかってもいい気がする。
食べ物の値段がこんなに安くては、食育もへったくれもないと思う。
みんなハイオクのガソリン入れても、食用油は最低のものを平気で使ってるし。
アレルギーは4,5人に1人。自閉症は5人に1人、と言われる昨今において、
どの農家もそこそこ食べられるくらいなら、ここらへんの問題を対応できそうなのに。
自分家が農家なら、製造過程のコンタミの問題とか、就職の問題もなんとかなる。

子供の貧困層の問題で、母子家庭の85%は働いているのに、半分が貧困層だとか。
子供の貧困度は世界で9位だが、働いているのに貧困なのは世界で1位なんだそうだ。
学校で給食食べられないと、飢えてしまう子供がいる。
働いていても食べられないのは、人件費が安いからだし、
人件費が安いのは、食べ物の値段が安いせいじゃないのかな。
あと物々交換じゃなくて、貨幣が余計にそうさせるんだろうな。
見えないところで色つけるなんてできないから。
相手には知られないようにやる思いやりとか、
そういう余剰を切り捨てる結果にもなっている。

なんか今のメディアは、みんな糸井重里と関係ない人いないんじゃないかってほど
一元化を見せていて=渋谷系化していて、
どの街にも糸井重里系の中心人物がいて、幅を利かせている。
この一元化を拒否すると、たちまち食べられなくなるっていう閉塞感と、
今の日本の「働けど働けどわが暮らし楽にならざり」って閉塞感には
なんか共通する原因がある気がする。
(啄木は全然働いてなかったから、文学=フィクションだけど)
でも、啄木が歌ったくらい、そもそも日本は貧しかった。
民俗学は、なぜこんなに日本はずっと貧しかったのか、を紐解かなくちゃいけない。

今週のメモ

<学校週6日制復活か?のニュース>
そもそも日本は、学校におんぶにだっこを望みすぎるのではないか。
先日、音大生と話す機会があったものの、非常につまらなくて驚いた。
音大を出ても、学校の先生くらいしか進路がなく、彼女曰く「ピアノは仕事です」とのこと。
日本のクラシック音楽の環境の閉塞感にがっくりする。
いまだに西洋の猿真似程度にすぎないんじゃないか、と。
地域のアンサンブルとかオケとか、そういう縦のつながりが全くない。
少なくとも欧米では、生涯通じて演奏生活を楽しむ気風と環境があるけど。
学校の部活やサークル活動は、世界的にも珍しいことらしい。
世界では、みんなスポーツでも音楽でも、地域のクラブに入って、
多様な年齢層の仲間と楽しむのが普通みたい。
それによって地域のつながりは強まるだろうし。
いっそ、いじめや体罰が減るか見るためにも、一度学校の部活を全廃したらどうだろうか。

<農村の排他性について>
その昔、ある農村で作物の伝染病が発生した時、村あげての消毒実施が提案された。
しかし、2,3戸がそれに反対した。
その理由は、消毒する人足が不足しているということ、消毒代が負担できない、の2点だった。
全村消毒でなければ意味がない、ということで、反対する家の消毒も、村の人が代わりにやった。
そして、翌年も同じ伝染病が発生した。
しかし、消毒に反対する家は前年よりも大幅に増えた。
反対してもやってもらえるし、お金も人足も負担してもらえるから反対に回ったのだった。
結局、その村の生産性は落ち、村の結束はバラバラになるに至ったという。
それに対してある民俗学者は「このように農村にいたっては、1戸の反対も致命傷なのである」と。
農村の閉鎖性は確かに、作物の伝染病という意味でも強い運命共同体であって、
そのために、村の構成員が行動を同じくすることが求められたりしただろう。
それが農村の排他性を生んだかもしれない。
けれど上の民俗学者の指摘はあくまで現実的な結果論にすぎなく、問題の起源論ではない。
問題はやはり作物が、自分たちの食べ物である以外に、納めるべき税として存在したから、だと思う。
自分たちが食べる分だけ作っているならば、伝染病はそこまで深刻な問題とならなかっただろう。
圃場の地力以上の収量を強要したのは、やはり為政者の権力ではなかったか。
現実的な問題と同時に、起源を考えるのでなければ、
結局は、民衆同士の無用な憎しみと争いに転じるだけの気がする。

<「ハウルの動く城」の感想>
結局は魔法とは、魔除けなのではないか、ということ。
ハウルの部屋が物でごちゃごちゃしているのは魔除けのためだったが、
つまり物を収集するということは、魔除けなのではないか、ということ。
つまり物をもちすぎるのは臆病であり、弱さ。
掃除好きのソフィは、つまり臆病ではなく、強い女の子として描かれている。
魔女にかけられた魔法の半分は、実はソフィによる自己暗示だったのではないか、という点。
本人が「自分を生きていない」=コンプレックスを抱いていた、ため老婆に化けた。
ソフィが場面場面で老婆から元の少女の姿に戻ったが、
それは我を忘れている時=ハウルを心配している時だったからか?
我を忘れることが実は自分を生きること、魔法が解けること?
自分で決めた自分の殻を超えること?

真の文明は...

NHKの「日本人は何を考えてきたか」で、
田中正造と熊楠が扱われていた。
http://www.nhk.or.jp/nihonjin/schedule/0122.html

足尾銅山の鉱毒による周辺流域への害も、
当時の東大の調査では
「因果関係は認められない、多少の銅は体に良い」
というような結果だったらしい。どこかで聞いたような表現。
さすが東大。伝統が違うんだな。

まだ、銅による被害は続いているし、
東日本大震災によって、銅山の廃棄物の堆積物に亀裂が生じて、
有害物質が流れ出ているんだとか。
この放送を見てると、本当に今の原発事故と全く同じ状況。
多くの人がそう感じているらしい。

田中正造と一緒に抵抗運動をしたのは主に農民だったわけで、
当時の農民は字をしらないから、と言って愚かなわけじゃない。
今と別に変わらないと思う。
谷中から北海道へ移住した子孫の男性が
いまだに「田中さんは」と親しげに語るのが圧巻。
100年経っても田中正造への信頼は脈々と続いている。
けれど、当事者以外はみんな忘れるんだな。
田中正造は大した人だと思うし、大した考えを紡ぎ出したけど、
日本の教育の中で特に軽んじられてる気がする。
福沢諭吉や夏目漱石がお札になっている今の日本なんだから、当然か。

最近思うけど、私にとって立派な人の基準って、
この人は絶対日本のお札にはならないなーって思える人。

脱国家が実現する条件は
全ての国家によって同時にそれが行なわれることだ、
って言われてるみたいに、現状では、
全ての人が同時に被害者となって苦しまなければ、
多分永遠に、みんなが当事者意識を持つことは不可能なんじゃないだろうか。
被害者と非被害者が混在する以上は、
非被害状態が常に正常で、なおかつ、
たて直しの基盤になってしまう。
常に当事者ではない外部が、
もっともらしい“客観的な”意見をありがたくも授けてくれようとする。
それは自分の中にも起こること。
少なくとも福島で原発が吹っ飛んだくらいでは、
政府も大多数の市民もこたえないってことだ。
人類はもっと大きな危機を、
地球レベルの危機を必要としているんだな。

核戦争の用意をしている人々が、
現に世界で権限を握っているんだし、
みんなそんな人に頭を下げる仕組みで暮らしていて、
お金持ちや名声のある人を羨ましいって思ったりするんだから、
本当にばかばかしい。

今週のメモ

先週末から今週にかけて考えたことなどメモ。

整体をやっている人から聞いた話。
福沢諭吉が漢方を全否定したという。
なんでも選択することが不可能になった
今の日本の素地は、こういうところから来てるんじゃないか、と。

体に触れながら施術者に話されると、
ヒトはスポンジのようにその言葉を受け入れる傾向があるらしい。
治療とは関係ないことを話しながら施術する人は避けるべし、とか。

また、目と肝臓と腎臓は関係が深いとのこと。
目が大きい人は肝臓と腎臓に注意すべし、とのこと。
目には多くの栄養を使うので、年取ってから緑内障を発症しても、
無理に治すと、肝臓や腎臓に病が出るとか。
加齢による衰えは自然だから、逆らうと他に症状が出るらしい。

歯も年齢以上に良くすると、消化器官系がついていけなくなるらしい。
生物学では、哺乳類は心拍数○○回目に寿命が来ることになっているらしくて、
人間で言ったら42歳くらいらしい。厄年だ。
40歳以後は、食べ物以外を糧に生きることを考えなくちゃいけない気がする。
40歳以後は特に食べ過ぎが万病の元らしいことから言って。
健康に生きるというより、寿命を全うするってことが大事かな。

老後その人がどうなるかは、お酒を飲んだときどうなるかで結構わかるかも?
老後みんな血管を開く薬を飲むから、飲酒の状態に近くなるとか。

玄米食の人にとっての日本酒(超精白米)の大量摂取とはなんなのか?


ピダハン語の衝撃。
アマゾンの部族のピダハン語には、「右」と「左」も「神」も色や数の識別もない。
平等に分配するので数は必要ないらしい。
そして「入れ子状」の再帰的な文がない。
つまり、「彼女が欲しいと言っていた、ピンクの帽子は既に売り切れですと、
店員が彼女に言ったと妻が話した」みたいな入れ子状がないんだって。
英語で言うとthatでつながる文章が、ピダハンにはない。
で、チョムスキーが相当不機嫌になっているらしい。
普遍文法説を唱えている人はそりゃ、ナーバスになるだろうな。
で、ピダハン族と一緒に暮らしていた言語学者に
ピダハン族と接触できないように圧力がかかったらしい。
圧力のもとは誰か知らないけど、
チョムスキーは反権力のようでいて、同時に権力的でもあるんじゃないか。
結局、権威は進歩的なこと言っても、片方で保守的なこともしてたりして。
だからいくらどんなに影響力のある人が登場したって、
依然、世の中は良くならないんだろうな、と。
人間はイリュージョンならぬ、リカージョン(入れ子)だ!的な
人間って脳で脳のことを考えるみたいな、堂々巡りと矛盾をはらんで進む生き物じゃない?
という私の考えも微塵に砕けそうな勢い。
ちなみに拍手やそれに類する習慣も、身分の分化していない社会では無いらしいし、
差別と職業の多様性と拍手は連動している。


和歌山や山口からハワイへの移民は多く出ている。
しかしその多くが、老後日本に帰ってきているらしい。
漁師(漁師町)は故郷へ帰り易い。
農民と違って、土地の争いがないためだという。
ハワイでの日本の漁師は嫌われたらしい
(かつてハワイの人は春に○○魚を採ったら、秋は△△魚は採らないとかのルールを守っていた)。
移民は豊かさを求めて移住するので、現地の人から見れば収奪に近い働き方だったろう。
海上でハワイ人に日本人は襲撃されることもあったらしいが、
同時に危険を知らせてくれるのもハワイ人であったらしい。
そこに、ポリネシアの人の殺伐としきらない優しさを感じる。


ギュンター・アンダースは「復興とは破壊の破壊である」と言った。
復興とは破壊運動の極致である、と。
阪神淡路大震災後に行った神戸の街に感じた、あの気持ち悪さは多分それだったんだろう。
復興が破壊を忘れることによってなされるならば、
確かに復興とは破壊の後にもっとも不要なことだろう。


肉親に先の大戦の特攻隊員を持つ人の話。
特攻隊で生き残った人たちは、みんな会社の経営者などにはなっていないそうだ。
どこかみんな優しくて、ここぞという時に冷酷になれないからだ、とか。
そもそも戦地に何度も送られた人や、特攻隊員は危険思想を持つ人が多かったという。
つまり政府にとって、死んでも惜しくない人たちだった、ということだろうか。
生き残ったという罪悪感は、仲間を出し抜いたという罪悪感に似ているのだろうか。
そういう人が戦後、また人を出し抜こうとは思わなかったんだろう。


丸茂でお世話になった故新田貞雄氏を思い返しながら。
新田さんにとって、民芸運動と(クラシック)音楽とでは、どちらが大事だっただろうか。
目が見えなくなってからは工芸にそんなに興味を示さなかった。見えないからだろうけど。
けど、音楽に対してはずっと情熱があった。
新田さんが民芸運動に共感したのは「名もない職人が一番えらい」という一点だった。
私たちにはわからないけれど、戦争体験者にとって、
自分とあの戦争のことをどう考えるか、は生きることそのものだったんじゃないかな。
明治以前は、戦争は上の人間のすることで民衆のあずかり知らないものだったという。
そういう政治とは無縁の名もない民衆の発見と再評価、
それが新田さんの、民芸運動への強い動機だったんじゃないか、と思う。
それは新田さんの反戦の思いを兼ねていただろう。


上の意味で、
中国の現代の民衆は、江戸以前の日本の民衆に近いのではないかな、と想像してみた。
私の知っている中国人の友人(女性)は、日本人女性よりずっと意見を言う。
日本は男尊女卑がヒドイと言い、すでにドクターでもある彼女は
夫と娘を中国に残したまま日本やアメリカの大学に更に留学したりする。
信州大学からアメリカの大学に移ってからその後は知らないけど。
中国当局の文句も言っていた。
正直、中国人と比べて、日本人の方が意志薄弱で蹂躙されている気がするくらい。
歌舞伎の玉三郎さんが、「私は日本人よりも中国人との方が付き合いやすい」と言うのは、
中国人の中に、民衆が本来持つ横のつながりやたくましさ、したたかさが
現に残ってあるからじゃないかな。
歌舞伎だって、そんな民衆のエネルギーから生まれたんだから、
かぶく側には、物静かで感情を抑えた人々など、付き合い難いのは当然だ。


読売新聞は嫌いだけど、歌舞伎役者の新・市川猿之助の対談は素晴らしかった。
最近、芝居のワークショップに出てみるといいのでは、との助言をもらった矢先。
現代劇の前に、歌舞伎や能のワークショップを経た方が、
人間の来し方からすると、スジが通ってるかも?と。
以下一部抜粋↓
猿之助「現代劇の限界は、歌舞伎に登場する魑魅魍魎や怨霊などを近代的な合理主義で
切り捨てたところ。現代劇の登場人物は1幕から3幕まで同じ性格ですが、歌舞伎は全然違ったりする。
自分自身も昨日と今日で違うし、そっちの方が本当。現代劇は逆に浅いですね。」
イギリスの役者が、シェークスピア劇を経てから現代劇をやるように。 
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