ノ ー ト

好 き な 読 書 を 中 心 に 考 え 中 を 記 録 す る ノ ー ト

2013年04月

カレンダー

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↑ダウンロードカレンダーを付けた。
ダウンロードもとはコチラ
自分流に少しカスタマイズできる優秀さ。

いかんせん娘も小学生で、学校の予定もあろうかと
4月も終わりになって、さてカレンダーを用意する気になった。
今までは地区内で配られるゴミカレンダーで済ましていた。

色々好ましいカレンダーをネットでもさがしたけど、
デザイナーズカレンダーは売り切れだし、
送料も高いしで、コレというのがなかった。
そしたらダウンロードできるのを見つけた。
本当は茶系の紙でもあれば良かったんだけど。。
とりあえず3か月分ダウンロード。

適当なカレンダーが見つからないという方、この方法いかがでソーカ。

クリップは無印良品のものでひっかけてるだけ。

最近模様替えをしたので、家のあれこれが楽しい。

エウロパ 私の天の邪鬼

昔もらった本をスーパーの休憩中に読む。
軽いエッセイ集。しかし軽すぎるというか軽薄。

『想い出のカフェ ドゥ マゴからの贈り物』


内容は文化人による、
“自分の知っている欧米のオサレなカフェ自慢大会”。
しかしアメリカ文学者の柴田元幸氏のエッセイだけは秀逸であった。
彼が田舎もんじゃないからだろう。

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ヨーロッパの滞在が、
個人主義を教えてくれた、だの
各人の孤独を尊重してくれる雰囲気が素晴らしかった、
だの言う日本人が沢山いる。
私ももれなくそう思ったクチ(恥ずかしい)。

確かにスペインでの日々は、
私にとって日本にいる時とは全く違う感覚だった。
他人と違っていても
(正確には、自分が社会の本流で成功者でなくとも、ってことなんだけど)
違っていていいんだ、ということが嬉しく思えるのは
それだけで本当に幸福感を与えてくれた。

けれど、仮に本当に、
ヨーロッパの社会が成熟しているとしてみても、
かつての魔女狩りや選民意識、
そして植民地政策などの国家的暴力をどう考えればよいのだろうか。
前時代にそういった暴力やカタルシスを経なければ、
皆が褒めちぎる例の「欧米の自由な雰囲気」は到来しないのだろうか。

ヨーロッパの社会を、
歴史として、つまり蓄積されたものとしては
どう考えればよいのだろうか。
生物とは、個体でつまり蓄積そのものなのだ、ということからすると
現時点での社会だけを評価するというのは嘘になるわけで。

愚かさが、私を親欧にも反欧にもさせる。
それに連動して、私のアジアに対する意識も展転とするような気がする。

ーーーー

文化人、特に海外文学者や文化人類学者が、
自分以外の日本人を
「日本人観光客」とか「やたらな日本人」と描写するのは不快だ。
何故、自分は例外と誇示したいのか全くナゾ。
所詮、為替レートで利益を上げてるだけの、単なるブローカーじゃんか。

まぁ彼らとて生きる術としてそうしているのだし、
私が他人の生きる術を否定しようがないのだけど、
彼らが何をどう誇ろうが、
彼らが売る側で私が買う側の人間だ、
ということに過ぎないのだった。

極論 記号と信号

心理学を志す者と、精神病理学を志す者とでは
全く異なるのではないか、ということ。

前者は治療行為者としての自己満足を得やすいが、
(カウンセラーというのは実は自分が語りたいのだ)
精神病理学においては
満足感を得ることなど端から断念する事なんではないだろうか。

心理学的なカウンセリング行為とは
弱みを握ることに対する無抵抗感を同時に意味し、
心理学の入門はそれ自体、
性的な欲動への入門なのではないだろうか。

ノートに記されたいつかの誰かの言葉、
『言葉は自らに外在する何かを指し示しているという
“語るざわめき”であるのに対し、
絵画とか音楽は非記号である。
それらは1つの沈黙なのだ。
(自らに外在する何ものをも指さないから)

であるならば、
精神病の患者の言葉は、それがどんな激しい奇声であっても、
沈黙であるかもしれない。
記号ではなく、信号であるには変わりないけれども。
精神病理学者は常に自らの言葉の限界に向き合い、
言語の外にあるもの(排除されたもの)を
記号化(社会化)しようと苦悩する者である。

信号と記号に関しては
昨年読んだバフチン関連の本が面白かった。
「バフチン―“対話”そして“解放の笑い”」
バフチン―“対話”そして“解放の笑い” 新版
この本は松本中央図書館で借りて読んだのだけど、
汚してしまい買い取りました。
なので松本平の皆さん、すいません。中央図書館にはもうありません。

自己愛

相手がどんなに自分と違う考えを持っていても、
その人が私の話に聞く耳を持っている場合、
その人を嫌いになることはない。

またどんなに似た考えをしていても、
自分にとって禁忌とも言える単語や言い回しをする人を
好きにはなれない。

だから好き嫌いというのは結局自己愛でしかなく、
よって「相手を好む、好まざる」というのは
ただのまぼろしなんじゃないだろうか。
まぼろしに振り回されるのは宗教だ。

可動

青字部分を追加

蕎麦屋は結局7か月で退職し、
以前勤めていたスーパーの鮮魚部門に舞い戻りました。
やっぱり庶民派のワタクシ、こっちの方が合ってるなー、と思う。

蕎麦はまぁ普通、飢饉の時の食べ物であって、
本来“ど庶民”の食べ物なんだろうけど、
勤めていた蕎麦屋はなんだか格調の高い?有名店だったので、
今のスーパー勤務とでは、結構、落差はある。

蕎麦屋の時は裏方の仕事で、主に2畳分しか動く範囲がなくて、
ヒマな時は女将とお茶を飲みながら話をしているだけで、
実際、からだが鈍ったし、体重も4キロ以上増加した。
働いていないのに、まかないとして蕎麦を3人前くらい食べるのも辛かった。
「働かざる者食うべからず」とはよく言ったものだとつくづく思った。
30代も半ばを過ぎると、
この言葉は怠け者を非難するものではなくて、
からだの健康のこと、自己管理を諭した先人の知恵ではなかったかと思うようになった。

スーパーに戻って、1番いいのは移動が自在にできるところ。
人手が足りなくて大忙しなのでからだをフルに動かせられる。
1か月で3キロ減量できた。

蕎麦屋の女将とはいろんな話ができたし、
文化的には、非常に毎日刺激的だったのだけど、
そういう精神の自由?があっても、
からだが囚われの状態であっては自由度を感じにくいのではないかと思った。
動物とは動くものだから、そもそもそういうものなんじゃないだろうか。
これは非常に勉強になった。

あとこれは毎日3人前蕎麦を食べた上での思いつきなんだけど、
「空腹こそが最高の調味料」と言うけれど、
なかでも蕎麦は、空腹時が1番美味しい食べ物ではないか、ということ。
うどんでは蕎麦ほどまでには空腹状態を要請しない気がする。
蕎麦は飢餓の時に食べた、という記憶が
どこかこのからだにも伝わっているんではないだろうか、と思う。

箸袋 なめこver.

娘の小学校用箸袋作成。
こちらの作り方を参考にしました。
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小学校

娘が小学校に入学するので
体操着入れ、上履き入れ、座布団を作りました。

いかんせん手芸量販店で売っている布地が、
『キャラもの』か『渋谷系』か『演歌系』の三極って感じ。
娘が数年間使うには『キャラもの』では耐用年数が短いので
消去法で『渋谷系』に。
母が私に作ってくれたものは独創的なものだった。
布地のせいにしているが、所詮想像力の違いか。

あとは箸入と給食袋などを作るのみ。
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★参考にした体操着入れの作り方はこちら
★上履き入れの作り方はこちら
P4060366
















★座布団&座布団カバーの作り方はこちら


小学校になるとPTAの役員がある。
高学年になると役員の仕事が煩雑になるので、
みんな低学年のうちに立候補するらしい。
なんと小学一年生の母親の全員が立候補に挙手。
あさましいなー。
そんなにやりたくないならPTA廃止運動すればいいじゃん。
それをやらないで自分だけ回避しようとするのは、
自分さえよければいいって発想。
そんなので子供が教育できるんでしょうか。
嫌なことは他人に押し付けていいんだよって親が体現してるんじゃ、
いかん気がするけどなー。

勿論、わたしもやりたかないが、やることになったら
6年生のPTAでもなんでもやってやろうじゃないの。
ってことでずっと立候補はしないことにしてみる。
立候補しないと最後の最後で順番が回ってくるんだって。
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