ノ ー ト

好 き な 読 書 を 中 心 に 考 え 中 を 記 録 す る ノ ー ト

2013年08月

memo

クラのつく地名
クランボ・クラシシ=カモシカ≒羚羊の住む場所のこと。
狩猟時代の地名。

父へのメール

今まさに、東北へ縄文の旅に出ている父へ、
先日送ったメールを記録。

メールありがとうございます。
 
縄文の農耕の本を読んでいるのも、
今や気分だけはすっかり農家なので、
農を基軸に本を選んで読んでいるにすぎないのですが。
水田稲作以前の日本とはどんなものだったのかに関心があります。
 
実際問題、ウチの畑で部分的にやっている無農薬・無施肥というのは、
それイコール有機農業というわけではないので、
(つまり、戦前の慣行農法がみんな有機農法だったように、
 今現在の一般的な有機農業のルーツは、慣行農業なわけですから。)
このやり方を、現代までに栽培化・改良化された作物に適用すると、
収量の問題で非常に難しいです。
 
そこで昔の農業はどうだったのか、
農民の暮らしはどうだったのかを調べだしたのです。
 
きっかけは宮本常一氏の「忘れられた日本人」を読んだこともあるかと思います。
柳田國男の民俗学は「水田=日本」的な一元的な価値観がありますが、
(故に熱烈な支持者がいて、高く評価するに過ぎないと思います)
宮本氏の民俗学はもっと多様な日本をとらえているかと思います。
縄文時代も水田遺構がなければ稲作がなかったとする研究者も根強い。
陸稲と焼畑の文化が無視されています。
 
農業の歴史は収奪の歴史とも重なるわけで、
農業史=栽培史じゃなくてむしろ労働史に近いと感じています。
信長と秀吉が検地をやって石高制が採用された近世以降、
水田稲作=日本という価値観が押し付けられたと思います。
検地以前は農地面積や反収は、
農民のざっくりした申告ですんでいたようです。
この頃は「国破れて山河あり」が成立していた。
政治に巻き込まれない農民という層があった。
今は安倍公房が指摘したように、
世界的にも「国破れて山河なし」の時代です。
 
弥生時代の水田も、焼畑で、
毎年場所を変えて作っていたようです。
弥生時代とて、
水田=農地に人間が固定される、
という図式では決してなかったように思います。
焼畑であれば肥料があまりいらないのに、
検地が進んで農村が固定化し、
良くて5公5民の割合で収奪もされると、
反収をあげることを考えざるを得なくなるでしょう。
収量をあげた結果、連作障害が起きて地力が弱まると、
肥料が必要になるということになります。
 
ここ波田も江戸時代は刈敷の産地であったようですから、
主に松本平の田畑にいれる肥料を作るのが主産業だったと。
畑は焼畑のことで、畠は焼かない畑のことです。
こうして日本は畠と水田を中心に機能するようになったと思います。
まさに信長から中央集権的な近代は始まったんでしょう。
信長と秀吉は平野から出た武将ですが、
それ以外の武将はほとんど山谷出身です。
ウタリの農耕も粟や稗が中心でしたが、
そういった山谷を中心にして栽培された作物と暮らしが衰退していったのも、
近代かと思います。
 
戦後の青森の農民がいうことには、
「津軽の森は食べ物のデパート」だったそうですから、
江戸時代の東日本~東北の大飢饉は、
水田稲作を強要されなければ起きなかったと思います。
 
現代は、
武士だとかサムライというのを褒め言葉として使っていますが、
少なくとも江戸時代以降の武士はただの役人だと思っているので、
なんにも良いようには思えません。
江戸末期の日本人の人口は3300万人で、
内300万人が武士と公家です。
300万の働かない人々を3000万人で支えていたわけです。
 
西行や芭蕉といった、どこへ行っても大歓迎で宿もあったくせに
さもつらい旅をしたような風を吹かした輩よりも、
今は一遍や菅江真澄のような旅人がいいな、と思います。
 
脱線しましたが、これにて。
 
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