ノ ー ト

好 き な 読 書 を 中 心 に 考 え 中 を 記 録 す る ノ ー ト

2014年06月

Liza!

とうとう見つけてしまった。
Lizaの「the travelin' life」
最初に見たのはエド・サリヴァン・ショー。
帽子づかいがとってもキュートで、ボードビリアンな感じだった。
10代の時よく歌った。
し、スペインから帰ってきて、またあっちへ行くつもりだったから、
もうこういう気分で生きていた気がする。遠い日の思い出。


I never was a stay-at-home
I've wandered hill and valley
With my two companions
Mister Rand and Mister McNalley

Me, I like the travelin' life
Yes, I like to get around
I've found that the life for me
Has bound to be
So free an easy
Easy and free

No matter where I chance to roam
Where I hang my hat, that's home
I know the life for me
Is just to be
So free and easy
Easy and free
The travelin'
The travelin'
I love the travelin' life

Pack your grip
Come with me
And we will see Capri
And be in Napoli
For a weekend of fun
Plan the trip to Paris
There is a bistro on the Left Bank
I like cos it's frankly a place most tourists shun

Why not try the travelin' life
You'll never want to settle down in town
Once you see it my way
Hit the highway
Every main road
Every byway

I won't give up the travelin' life
I'll give it all I've got to give
Now I am free and easy
Easy and free
The travelin' life is the life for me (yes!)
That's the life for me
For me
For me
  


ついでにこれもすごい。
お母さんのジュディー・ガーランドとのあのライブが1時間近く見れる。
ありがたやーyou tube.
barbraとTVのジュディ・ガーランド・ショーでやっとのと同じのを
lizaとやってたのねーーー
マツコさん知ってるよね。一緒に見たいわーーー
 

覚書 ~ リルケの詩と


 もろもろの事物のうえに張られている
 成長する輪のなかで私は私の生を生きている
 たぶん私は最後の輪を完成することはないだろう
 でも 私はそれを試みたいと思っている

 私は神を 太古の塔をめぐり
 もう千年もめぐっているが
 まだ知らない 私が鷹なのか 嵐なのか
 それとも大いなる歌なのかを


               

             リルケ 「時祷集-僧院生活の巻」

ーーーーー
大好きなこの詩の言葉の並びを眺めていると、
何かを思いつきそうなので、貼り付けておこう。

「私は私の生を生きている」、
その動機と目的が各々異なるならば、
表現も様式も各々で異なるだろう。
ただそれだけの理由で、
そこには争いや仲たがいが起きもするだろう。
動機と目的を無視したままでの
表現や様式は差異とでしか捉えられないから。
 
けれど、その表現と様式を作り上げている、
動機や目的の構造には
差異を超えたところの
普遍的な原理が見いだせるのだろう。
そしてだから、
原理には争いは存在しないのだろう。

ここでの語らいが、
表現と様式の淵でとどまるのでなく、
その構造にまで届くのなら。
“you're right , i'm right too
there's no one left here
になるんだろう。

原理はそこかしこにあり、
目の前にあるのに、
私たちはみようとしない。
もしくはそれをみる技術を手放してしまったのか。

本能の壊れた人間は、
リアリティの世界において、
積極的に認識しうるものでなければ、
「在る」とできない。

けれど、
波紋が水面の対称性の破綻によって現れるように、
かたちや姿が差異によって私たちに現れるのならば、
本当は、表現や様式こそ、
ひとの動機や目的の構造の“剥き出し”なのだと、
改めて学ぶべきだろう。

既に与えられた「先入見」がなければ、
対象を認識することすらできない私たちを、
しかしそれは「負」なのではなく、
あらゆる生物の中でも最も授乳期間が長く、
育児期間の長い生き物であるがゆえの自然だと思おう。

「先入見」は必ず打破され、解釈は拡大し続ける。
こうして、長い育児期間がゆえの、
「親離れ」を何度も何度もヒトは繰り返すのだろう。

それが言葉の呪縛であり、
しかし同時に言葉が、跳躍の鍵ともなるわけだ。

先入見を元にした解釈の拡大は、
いわば言語の細胞分裂のようだ。

鎌倉時代の仏僧が、
「本当は“花”など存在しないが、“花”とする」と言ったように、
反証によって私たちはやっと、
原理に至る。


国家による暴力や殺人が正当化されている間は、
ヒトの社会は、
表現や様式を単なる差異としてしかみなしていない。
社会は巣立ちを、親離れを禁ずる。


そこに「在る」ということは、
アクチュアルな時制の中で、
私の事件であり、出来事-happening-である。
ゆえに、「在る」は時間であり、「現在」なのだ。

目の前の表現や様式は過去ではない、決定済みではない。
だから、目の前に「在る」のだ。
まだその意味や価値は決定していない。
事はまだモノになっていない。

なぜ、その意味や価値の未だ決定していないものが、
争いの種になり得ようか。
解釈はこれからである。
始まったばかり。
今は「未(いま)」だ。




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