松本の「丸茂旅館」&「喫茶まるも」を経営されていた新田貞雄さんが5月に亡くなりました。
94歳でした。
新田さんのことを私たち従業員は「旦那さん」と呼んでいました。
なので以後、旦那さんと表記します。

旦那さんの元で私が働いたのは5年と、プラス、少しブランクを開けてお手伝いの半年くらい。
働きだしたのは21歳からで、松本へ来てわりとすぐのことだったので、
私にとっては松本の歴史と旦那さんの存在は重なります。
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私が入った時には、旦那さんはほとんど目が見えなかったのだけど、
80歳を超えても当時は、丸茂旅館の一階の部屋で1人寝泊りをされていました。
夜ごはんを一緒に食べたり、夜11時まで話し相手をしたりと、
丸茂で働いた数年は、生活と仕事が一緒くたでした。
大動脈の大きい手術をされた後は、
夕飯のお世話も従業員の仕事でしたし、病床で旦那さんの身体を支えながら食事を介護したり、
しばらく背負っていた酸素ボンベの圧力の調整とか、ラジオの選局も大事な仕事だった。
その後、旦那さんは自宅の方で寝泊りをする生活を始められ、
私は少し経ってから、丸茂旅館に住みこみを始めました。
ある年の元旦、まるもは休業日だったけど、私は住み込みだったので留守番をしていました。
旦那さんはまるもに日参するのが日課なので、やはりやってきて、
私はまるもに届いた100通以上の年賀状の、差出人の住所氏名と内容を読みあげて、
旦那さんと話をしながら、宛名を書き返事を書いた。
私にとって、他人であるご老人とここまで深く接したことはなかったので、
今思い返しても大きな経験だったと思う。

私は滑舌はあまり良くないのだけど、目の見えない旦那さんに対しては、
音声だけが頼りだと気をつけていたからか、とてもしっかりとしたはきはきとした口調で話せた。
それで、旦那さんと話すこと自体が好きだったし、旦那さんには色んな事が自由に話せたので、楽しかった。
旦那さんに朗読をするお陰で、読むはずもない本も沢山読めて、思い返せば、とても影響を受けた気がする。

とくに、音楽。
喫茶まるもはその昔、名曲喫茶だった(今は違うと思うけど)。
旦那さんは音楽家の友人も多いし、サイトウキネンや才能教育などとも関係が深い。
旦那さんが有名なのは、「まるも」が松本における民芸運動のサロンとして機能していたことと、
レコードがまだ高かった時代に、クラシックやロシア民謡やシャンソンを流すなどして、
松本の音楽文化に貢献してきたことが、主たる理由だと思う。
旦那さんは戦時中、精神訓話をしなければいけないところで若い兵士たち相手に、
シューベルトを聞かせたりしていたのだそうだ。
そのことを半世紀経ってもありがたく思っていると連絡をしてきた人もいた。
明るいシューベルトの調べと、シューベルト自身の悲しい末路を思うと、
その当時の兵隊さんたちがどのような気持ちで聴いたろうと、思わず泣けてくる。
私はクラシックに通じているわけではないけれど、とても興味があったので、
旦那さんの話もよく聴いたし、
旦那さんのレコードのコレクションをアルファベット順に整理する役目も頂いたりしたので、
音楽に関して、旦那さんからの私への信頼は厚かった気がする。
普段は喫茶店のBGMもCDで流していたけれど、
旦那さんがあのレコードが聴きたいと言えば、すぐに出してかける、それが大事な仕事でもありました。
旦那さんはテノールが大好きで、特にジーリ、マリオ・デル・モナコが好きだった。
チェリストのカザルスやグレゴリウス聖歌。
そして何といっても、バッハ。
まるもで初めて聴いたバッハの「平均律クラヴィーア」は忘れ難い思い出です。
旦那さんの影響で好きになったクラシックや現代音楽は数知れない。

そして一番大きいのが、人を見る目。
旦那さんはとても有名人で、本人は迷士と言っていたけれど、
松本の都市文化の生き字引というか、名士として有名でした。
だから旦那さんを訪ねて、まるもには年中、有名・著名人のお客さんが全国から来ました。
でも、旦那さんは孤独な人だった。
あれだけ華やかな人脈だったけど、本当に気の許せる人は少なかったと思う。
大抵そんなものだと思うけれど。
旦那さんもそれは感じていたと思う。
従業員の私たちにはよく本音を漏らしていたから。
だから、私は旦那さんの周りの人を常によく観察していたと思う。
商売や売名行為に利用しようとして、旦那さんに近づく人はいっぱいいた。
自称教養人・文化人のお高くとまった人たち。
「出会い」だの「言霊」だの「たましい」だの「神」を軽々しく口にする人たち。
その傾向と分析を積み上げ、私はこのように偏見に満ちた固い頭になってしまったけど、
でもそれで大きく“外れ”たことはない。

まるもを止めた理由は、色々あるけど、
あそこにいると勘違いするから。
サロンの雰囲気にいい気になって、自分に何の技術もついたわけでないのに、
まるで自分自身がメインストリームの住人になった錯覚に陥ってしまう。
例えば、私は高倉健さんにコーヒーをいれたことがあります。
だけど、それが一体どうしたんでしょう。
それと私の人間性とは一切何一つ関係ない。
そういう、ひとがひとの名前や地位を利用したり、便乗したり、いやらしい情念が渦巻いている所に身を置く事が、
もう潮時だと思ったんだと思う。
そして、まるもの問題の全ては、そこにあるんじゃないかと思う。
これ以上は家庭や経営問題の干渉になるので、書きませんけど。
旦那さんに対しても矛盾を感じたり、おかしいと思うところは沢山あった。
それでも、何故か憎みきれない無邪気さが旦那さんにはあったと思う。

旦那さんを詳しく知りたい方は、「私の半生」を読んでください。
旦那さんが自らの来し方について語ったのが「タウン情報」のシリーズ「私の半生」で連載され、
それが本にもなっています。
本当は、旦那さんはそんなに満足していなかった。
大事な話があまり採用されていないと私も思う。
この連載の時も、使用する写真をFさんと探し出してきて、
「これはこういう写真ですよ、構図はこうで、場所はこういうところです、
こういう人が映ってます」と私が口頭で伝えて、
旦那さんが「ああ、それはあの時の写真だわ」と一緒に検証する作業をした。
戦時中の写真も沢山あって、当然だけど旦那さんも、戦争体験がその後の人生を大きく左右したと思う。
旦那さんには戦争中に受けた大きな弾痕が背中にあった。
死体扱いになるすんでのところで命拾いをされ、臨死体験もしている。
私はだからか、臨死体験を心情的に理解したい気持ちがどうしてもある。
この体験がその後の旦那さんの考えや信仰に大きく影響をしている。
80歳前後で、目が見えないのに、モンゴルに中国からジープで入り、
戦時中モンゴルで亡くなったというお兄さんのお弔いの旅もされた。
お兄さんの遺骨は戻ってきていない。
モンゴルの草原の中で「にいさーん!」と何度も呼ぶ旦那さんの声の収録されたテープは何度も聴いた。
あれは忘れられない。
モンゴル音楽も大好きだった。
ブッシュが嫌いで、サダムフセインを応援すると言って、フセインの帽子に似た帽子を愛用していた。

私は4人の祖父母を早くに亡くしたので、旦那さんを通して戦争体験を伝え聞いています。
私にとっての旦那さんという人物は、生身の戦争体験者でした。
このことは本当に何度感謝してもしきれないと思う。
長く生きるのは素晴らしい。
イタリアの詩人サバの
「生きることほど、 人生の疲れを癒してくれるものは、ない。」
という一文を私が好きなのは、旦那さんがとても影響している気がした。
旦那さんは中卒で、それをある意味自慢にしていたけれど、
サバも中学中退でトリエステの書店の主人をやった。
サバは第一次大戦で兵隊だったけど、パイプ姿といい、なぜか私の中で旦那さんが重なっている気がする。
と、いうことを今気付きました。
(ちなみに後年旦那さんは禁煙しましたが)

明日は旦那さんの音楽葬。
お誘いも受けたので、行きたい気持ちもあったけれど、
色々考えたあげく、行かないことにしました。
私はまるもにいた時、「私のここでのボスは旦那さんだけ」と思い、
旦那さんの奥さんには一切お目通りしないことにしていた。
双方の強い個性に振り回されて双頭状態になるのが嫌だったのです。
音楽葬に出かけないのも、
旦那さんのことで八方美人にならないことを貫いた、私なりの流儀でいい気もする。

生前私たちの前で旦那さんは「死んだらシベリウスを流して欲しい」と言っていた。
一日早いけど、旦那さんがリクエストしていた「フィンランディア賛歌」を流しておしまいにします。

旦那さんありがとうございました。
最晩年は無沙汰をしたけど、旦那さんのことは一生忘れません。
もしかすると、旦那さん、
あなたは私の青春だったのかもしれません。