心理学を志す者と、精神病理学を志す者とでは
全く異なるのではないか、ということ。
前者は治療行為者としての自己満足を得やすいが、
(カウンセラーというのは実は自分が語りたいのだ)
精神病理学においては
満足感を得ることなど端から断念する事なんではないだろうか。
心理学的なカウンセリング行為とは
弱みを握ることに対する無抵抗感を同時に意味し、
心理学の入門はそれ自体、
性的な欲動への入門なのではないだろうか。
ノートに記されたいつかの誰かの言葉、
『言葉は自らに外在する何かを指し示しているという
“語るざわめき”であるのに対し、
絵画とか音楽は非記号である。
それらは1つの沈黙なのだ。
(自らに外在する何ものをも指さないから)』
であるならば、
精神病の患者の言葉は、それがどんな激しい奇声であっても、
沈黙であるかもしれない。
記号ではなく、信号であるには変わりないけれども。
精神病理学者は常に自らの言葉の限界に向き合い、
言語の外にあるもの(排除されたもの)を
記号化(社会化)しようと苦悩する者である。
信号と記号に関しては
昨年読んだバフチン関連の本が面白かった。
「バフチン―“対話”そして“解放の笑い”」
この本は松本中央図書館で借りて読んだのだけど、
汚してしまい買い取りました。
なので松本平の皆さん、すいません。中央図書館にはもうありません。
全く異なるのではないか、ということ。
前者は治療行為者としての自己満足を得やすいが、
(カウンセラーというのは実は自分が語りたいのだ)
精神病理学においては
満足感を得ることなど端から断念する事なんではないだろうか。
心理学的なカウンセリング行為とは
弱みを握ることに対する無抵抗感を同時に意味し、
心理学の入門はそれ自体、
性的な欲動への入門なのではないだろうか。
ノートに記されたいつかの誰かの言葉、
『言葉は自らに外在する何かを指し示しているという
“語るざわめき”であるのに対し、
絵画とか音楽は非記号である。
それらは1つの沈黙なのだ。
(自らに外在する何ものをも指さないから)』
であるならば、
精神病の患者の言葉は、それがどんな激しい奇声であっても、
沈黙であるかもしれない。
記号ではなく、信号であるには変わりないけれども。
精神病理学者は常に自らの言葉の限界に向き合い、
言語の外にあるもの(排除されたもの)を
記号化(社会化)しようと苦悩する者である。
信号と記号に関しては
昨年読んだバフチン関連の本が面白かった。
「バフチン―“対話”そして“解放の笑い”」
この本は松本中央図書館で借りて読んだのだけど、
汚してしまい買い取りました。
なので松本平の皆さん、すいません。中央図書館にはもうありません。