昔もらった本をスーパーの休憩中に読む。
軽いエッセイ集。しかし軽すぎるというか軽薄。

『想い出のカフェ ドゥ マゴからの贈り物』


内容は文化人による、
“自分の知っている欧米のオサレなカフェ自慢大会”。
しかしアメリカ文学者の柴田元幸氏のエッセイだけは秀逸であった。
彼が田舎もんじゃないからだろう。

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ヨーロッパの滞在が、
個人主義を教えてくれた、だの
各人の孤独を尊重してくれる雰囲気が素晴らしかった、
だの言う日本人が沢山いる。
私ももれなくそう思ったクチ(恥ずかしい)。

確かにスペインでの日々は、
私にとって日本にいる時とは全く違う感覚だった。
他人と違っていても
(正確には、自分が社会の本流で成功者でなくとも、ってことなんだけど)
違っていていいんだ、ということが嬉しく思えるのは
それだけで本当に幸福感を与えてくれた。

けれど、仮に本当に、
ヨーロッパの社会が成熟しているとしてみても、
かつての魔女狩りや選民意識、
そして植民地政策などの国家的暴力をどう考えればよいのだろうか。
前時代にそういった暴力やカタルシスを経なければ、
皆が褒めちぎる例の「欧米の自由な雰囲気」は到来しないのだろうか。

ヨーロッパの社会を、
歴史として、つまり蓄積されたものとしては
どう考えればよいのだろうか。
生物とは、個体でつまり蓄積そのものなのだ、ということからすると
現時点での社会だけを評価するというのは嘘になるわけで。

愚かさが、私を親欧にも反欧にもさせる。
それに連動して、私のアジアに対する意識も展転とするような気がする。

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文化人、特に海外文学者や文化人類学者が、
自分以外の日本人を
「日本人観光客」とか「やたらな日本人」と描写するのは不快だ。
何故、自分は例外と誇示したいのか全くナゾ。
所詮、為替レートで利益を上げてるだけの、単なるブローカーじゃんか。

まぁ彼らとて生きる術としてそうしているのだし、
私が他人の生きる術を否定しようがないのだけど、
彼らが何をどう誇ろうが、
彼らが売る側で私が買う側の人間だ、
ということに過ぎないのだった。