まゆみさんのブログに付けたコメント

直也君が畑をやっているのを間近で見ていると、作物が苗になる頃までに栄養や環境面で苦難があると、決定的に食味に影響するような気がします。「三つ子の魂百まで的」な、すごく重要な時期だと思います。でも、有用性をあまりに強く考えて農作業をするとしたら、私にはちょっと窮屈ですね。雑草に対しては全くの放任で、栄養素なんて考えてやらないけど、作物が食物だから追肥とか考えるわけだし、栽培技術っていうのはあくまで人間の側のものであって、植物全体にとってはどうなんだろう。生長過程では動けない植物だからこそ、ネットワークというか、知っていることはすごいんじゃないか、と思います。近々「植物はそこまで知っている」って本読んでみたいと思っています。

農業の歴史は収奪の歴史とも重なるわけで、農業史=栽培史じゃなくてむしろ労働史に近いと感じています。中世ヨーロッパもペストで農奴制が崩壊して、かなりの農地が人手の要らない牧地に変わったらしいです。ヨーロッパもそこまで肉食じゃなかったかもしれない。それだけ、食べ物と権力って強い関係があると思います。江戸時代は良くて5公5民の割合で農作物を納税していたとか。日本列島の水稲の歴史は多く見積もって3000年。つまり3000回しか水稲を実践したことがないってことだけど、これはすごく少ない数(練習3000回しかしてないプロっていないと思う)。
その内、納税を考えないで(規制をされずに自発的に)水稲やれたのは実際問題、何回なんだろう?って思います。陸稲じゃなくて水稲になったってこと自体も、規制の結果かもしれませんし。だから自発的な作物との関係史ってまだ始まってないんじゃないかなって気がします。

例えば、普段農薬いっぱい使う農家も、自家消費用の田畑はかなり減農薬をしています。実際、労働として作る作物と、食べる作物が違うってことなんですよね。そこに大きな問題があると思います。
あと、近所にトマトジュースメーカーと契約しているトマトの畑があるんですが、結構手入れもいい加減で見た目ワイルドです(もちろんウチに比べると草も全然ないけど)。生食用に出荷するトマト畑もそのくらいワイルドだっていいんじゃないかって思うくらい。でも、ジュース用みたいに元の形がそんなに買い手から要求されないなら、慣行農家もわりとワイルドにやれるんだと思う。だから農家は、誰に食べてもらえるのか(どこに出荷するのか)っていうことに非常に依存して作っているのが現状だと思う。誤解を生みやすい言い方ですが、公が規制してきたのを、今は消費者が規制しているって感じかな、と。スーパーの売り場は、多くの私たちの頭の中身そのままってことですね。

今は、お肉や魚、加工品にお金を払うのはいいけど、野菜に高いお金を払う気になれないって人がとても多い気がします。でも民俗学の方が言うには、昔の農家の人って「自家製品は全部タダ」って意識が強くて、都会の人が何か売ってくれって言っても値段を付けられなかったらしいんです(だから「民芸運動」の人たちはタダ同然でかなりの民具を押収≒収集したんじゃないかな)。江戸末期の日本住民3300万のうち3000万が農民ということは、今の日本住民のほとんどが元をたどれば農家出身なわけですから、野菜に高いお金を払うっていう文化が浅い理由もまぁ、わかる気もするのです。室町のころは、古米が新米の2割増しの値段で流通していたっていうし(古米は水を吸うので炊くと2割増しの量になるから)、近年まで米の品種だってもっと多様で基本ブレンド米だった事からすると、今は野菜に対する価値観がすごく狭くなっていると思うし、結果、収量の低い農家を支える層が小さいから、単価安値&収量を追い求める農家が大半になるのも仕方がないかな、と。

とにかく、作物との関係を変えるには、それを食べる側が変わらなくちゃいけないと思います。

私がいいなと思うのは、もちろん各人が自分で畑をやるのが理想ですけど、そうでない場合、個人的に農家とある面積を年単位で契約を結んで、収量を分けるってやり方です。リンゴ園なんかではもう進んでいることですけど、自分で種まきとか、収穫とか要所要所で参加する。それで、できたものを引き受けて食べる。作物との関係が、降ってわいた目の前の商品(点)がいいとか悪いとかの選別になるのではなく、実体のある自分の暮らし(線)そのものを考えるものであってほしいと思います。生まれてきたものを引き受けるっていうのは、子供も作物も同じかな、と。都市生活者の方がメニューを決めてから材料を買いに行くのとは全く違うと思います。

なんか長いし、説教臭くなってきたのでやめます。

| 森 | 2013/07/17 11:34 | URL |