先日、松本の花月ホテル向かいに新しくできた、
想雲堂という喫茶店に行きました。
コーヒーも美味しかったし、置いてある本が懐かしいものばかり。
どっかの喫茶店みたいに、左翼系とか美学系だけじゃなく、
フィールドワーク系も多いのが良い。
カウンターのご主人の近くに、民俗学系の本を寄せてあるのが
とくに好ましい。

いろいろ懐かしい本を開いてみたけど、
「あー。。。」と絶句したのが詩人の故田村隆一氏の本。
あんなに読んでいたのに。
何故読まなくなったんだろう。
必要だったのはもしかして、実用的なハウツー的な何かとか、
何が正しいか、とかじゃなく、
田村氏のような、絶対的に“方向音痴にならない感覚”だったんじゃないか、と。

田村隆一氏と吉本隆明氏の対談を読んで、
なんだかもやもやしていたものが晴れた気になった。
吉本氏は方向音痴だから迷うんだけど、
田村氏は迷わないんだよね。

なかでも田村氏の話した、
「自分の中にあるヴァイオレンスっていうのは、
ヴァイオレンスに対するヴァイオレンスしかないんだけど、
ヴァイオレンスが絶対嫌だから、それもしない」
というような内容。
結果、自分の行為が誰からも見つけられなくたって、いいじゃん。
フィッシュマンズの佐藤君が言っていたよね。
「誰にも見つからないような詩を書くのが好き」って。
佐藤君は反権力と歌わなくたって、いつだって反権力でいられた稀有なひとだ。

祭りはあってもいいけど、祭りに参加するっていうのは別問題、
っていう田村氏の指摘も素晴らしい。
参加しないっていう工夫は江戸時代までならずっとあった、と。
田村氏は祭りの協賛金も「精神病だから」とかで払わずに済ましていたらしい。

世間にどう思われようと、
やりたくないことはしない。
やらない工夫。
誰のものにもならない人生の工夫って、
強靭な精神でないとできないんだろうな。