私にとって、アマゾンに住むピダハン族はすごい驚きだった。
一般的に言われている「未開の」部族というのは、
いつだって刺激的なものだけど、
ピダハンに関する研究の内容はずば抜けている。
以前も書いたんだけど(↓自分のブログから)
ピダハン語の衝撃。
アマゾンの部族のピダハン語には、「右」と「左」も「神」も色や数の識別もない。
平等に分配するので数は必要ないらしい。
そして「入れ子状」の再帰的な文がない。
つまり、「彼女が欲しいと言っていた、ピンクの帽子は既に売り切れですと、
店員が彼女に言ったと妻が話した」みたいな入れ子状がないんだって。
英語で言うとthatでつながる文章が、ピダハンにはない。
で、チョムスキーが相当不機嫌になっているらしい。
普遍文法説を唱えている人はそりゃ、ナーバスになるだろうな。
で、ピダハン族と一緒に暮らしていた言語学者に
ピダハン族と接触できないように圧力がかかったらしい。
まだ本を読んでないんだけど、加えてピダハンには伝承がないらしい
神話がないんだって。
ピダハン族は、基本、実際経験したことしか話さないんだけど、
ある人が死んだら、その人が生きていた時に話したことは無効になるらしい。
死んだ人が語った内容を話すことはしなくなるらしい。
生きている人の 経験したことしか話さない。
だから伝承も信じないし、神話がない。
これってすごいことじゃないか?本当なら。

 ピダハンのこのことを知ってから色々思いを巡らすと、
アニミズムとか自然崇拝っていうのを、
私たちはえらく原始的なもののように思い込んでいるけれど、
実は「入れ子状の再帰的な文法」が獲得された社会の
屈折した発明品であるような気がしてくる。

多分この「入れ子」というのは、貨幣(制度)の事じゃないかって気がする。
貨幣というのは等価という価値観を前提としている。
でも物々交換というのは互換性ではあるけれど、厳密にいうと等価ではない。
貨幣はそれを担保している存在が別にあって、
その存在が無くなると、貨幣自体が無価値になるような性質のものだけど、
物々交換の「もの」は、それ自体が価値を持っている。

「入れ子状の再帰的な文法」が獲得された社会と
不平等な社会は強い相関関係があるんじゃないかな。

随分前に、池谷裕二さんのツイートで
「ルールは平等でも不平等は自然発生します。例えば各人一万円づつ持つ集団。
ランダムに2人選んで一方から一方へ百円渡すという無作為トレードを延々繰り返すと、
一部の大金持ちと大勢の貧乏人に分かれます。
この数学的に自明な事実を知らずに自由や公平を謳うと色々な誤解が生じるように思うのです」
ってのがあったんだけど、
こういう不公平っていうのはお金だから起きるんじゃないかなって思った。

これ実験の道具がオレンジだったらどうなんだろう。
確かにあの人のオレンジは大きいけどあまり甘くないとか、
私はオレンジ嫌いだから少なくていいとか。。。
もっと実験が面倒なものになるだろうな。
お金はみんな貰いたがるものって思ってるでしょ?!
なんかその前提、うっとおしいんだなー。

このツイートでは、
平等不平等って、誰かがジャッジできるものになってるけど、
本当の実際の平等不平等って感覚って、主観的な訴えであるのが普通。
結局、平等不平等っていうのは錯覚か妄想みたいなもの。
でも、平等不平等って、つまり通約可能な世界を前提としてるわけだから、
等価の世界の文化なんじゃないかな。
つまり
平等不平等っていう意識の文化は、貨幣制度から生まれた
んじゃないのかな?

以前もここで書いたけど、
関係と呼ばれるものがつねに通約不可能な何かとのかかわりであり、
関係の1項と他項とを
絶対的に等価でないものにするものとの関わりである
(青字ジャン・リュック・ナンシー)。
これはレヴィナスも言っていたことだったりする気がする。

本当の関係っていうのは、平等不平等とは簡単に言えない関係
のことじゃないかな。

ピダハンは分配が基本だから数は数えなくていい。
実際数えないから平等に分配されているかどうかはわからないわけで。
だから西洋人が分配だって?!素晴らしい!!なんて絶賛しても、
分配自体、ピダハンにとってどーでもいいことだったりして。
でももしかしたら、特殊に鍛えられたピダハンの脳は、
大体の数を誤差なく平等に分けられるのかもしれない。
殆どの人間の行為は無意識的なので、
そういう可能性はないとはおおいに言えない。

ピダハンは私たちの理想でもあり、
こうあってほしいという願望なのかもしれない。
だから私たちにとって都合がいい。
都合がいいから、根絶されなかったのかもしれない。
そう思うと世界は人間が願った通りの世界なのかもしれない。
どんなに残酷でも、それを人間は願ったのだと。