※ことば足らずだったので、いくつか補足しました。

フィッシュマンズについて、また書きます。

何だか唐突なようですが、最近また、「ことばによる表現」について考える機会が多いので、
フィッシュマンズの故佐藤伸治さんから、一方的に私が「学んだ」なんて思い込んでいる、
「ことばによる表現」について書きたいと思います。
否、「表現」とはとどのつまり顕在化した時点で、いかなる分野であろうと言語行為のことでしょうし、
「表現する」ということは、その表現が個人の内部内のみで行われるにせよ、
ある表現が自己の中でも、無意識もしくは前意識から顕在化してくるという点においても、
「表現」とは常に「他者」の存在を示唆するものである、と言えそうです
(通俗的に、「無意識」が自己の“他者性”をあぶりだしていると考えても)。
これは、何度も引用している、精神病理学者の木村敏氏の
「自己とは、自己と世界の<あいだ>の関係そのもののことである」という考え方でもあります。

私は、ことばとは知らず与えられる足かせのようでもあり、
知らず与えられる恩恵でもあると感じているのですが、
どちらにせよ、私とは一個の物質ではなく「関係」そのものなのだとしたら、
「関係」とは言語によって立ち上がってくる世界のことですから、
“私は「ことば」である”とも言い換えられるでしょうか。
そうしたときに、この「足かせ/恩恵」を、私は誰から受け継いだのか?と問えば、特定することなんて不可能です。
あまたの人の存在が私のことばには含まれている。
私は、それを意識するかしないかは別として、
「ことばの表現」とは、この「足かせ/恩恵」の義理を返そうとする行為のようなものだろうと思っていて、
返す相手が特定できないのならば、あまたの人がわかるように表現する、というのはある種必須だろうと思っています。
だから、わかりにくい表現、理解できる人にだけ理解されればいいというような表現をする人は、
この「自己とは、自己と世界の<あいだ>の関係そのもののことである」ということを感じてもいないし、
「ヒトは食べたもので出来ている」「身体の原子は蓄積されたりせず、毎日入れ替わっている」
というような、他を取りこむ事で成立している生理現象の事実からも、
はるか遠く遅れてしまっていると言えるのではないかと思う。

きっとそういう人は、幼い人や未だ見ぬこれからの人たちのことを考えていない。
私たちは、私たちがそうであったように、この足かせ/恩恵を、次の世代の人に渡してもゆくのだ。
私は、新しい世代の人たちが、私たち以前よりももっと深く進んだ見方・考え方を見つけて行くことを期待しています。
臨済哲学を学んでいる父が以前教えてくれたのですが、
「本当の師は、弟子から乗り越えられるのを望んでいる」のだそうです。
私も、真に良いものとは、それを乗り越えられることを望んでいるはずだと思う。
以前、ある人にも書いたのだけれど、
乗り越えていかんとする者と乗り越えられるのを待つ者、
両者とも実に孤独ですが、そんな厳しい孤独の中においてこそ、
人間の生み出すものは自然の美と対等に近づく気がするのです。
自然界の厳しさからある程度逃避してしまえる私たちにとって、
残された厳しさと、極限の個(孤)と直面する機会があるとしたら、それしか残っていないでしょう。
結局、理解を拒絶したようなわかりにくい表現をあえてする人や、
わかりもしないことを断定する人というのは、
後から来るひとが自分たちを超えていくことを、終わらせたいのでしょう。
だから、「最終」の人、the ultimateになりたいと欲する。
(キリスト教では、預言者は時代の新しい方が上だそうで、
それでムハンマドの方が新しいからといってイスラムを敵視しているとかなんとか。
そんな意味でも、自分が最終者である必要があるのかもしれません。)

以下は、大好きなある哲学者の思想の解釈(ウィキペディアより)の転載です。
「絶対的原理を廃し、次々と生まれ出る真理の中で、それに戯れ遊ぶ人間を超人とした。」
「(人間とは)流転する価値、生存の前提となる価値を、承認し続けなければならない悲劇的な存在(喜劇的な存在でもある)であるとするのである。だが一方で、そういった悲劇的認識に達することは、既存の価値から離れ自由なる精神を獲得したことであるとする。その流転する世界の中、流転する真理は全て力への意志と言い換えられる。」「いわば彼の思想は、自身の中に(その瞬間では全世界の中に)自身の生存の前提となる価値を持ち、その世界の意志によるすべての結果を受け入れ続けることによって、現にここにある生を肯定し続けていくことを目指したものであり、そういった生の理想的なあり方として提示されたものが「超人」であると言える。」

ことばは正しさを語るためにあるんじゃない。
それこそ唯一無二の<わたし>という、この世界との関係そのものを表現するためにある。
唯一無二は、無限の唯一無二のなかにあるからこそ、二つとないものになる。
この世に一つの価値しかないのなら、唯一無二なんて必要がない。

フィッシュマンズの佐藤君は、この唯一無二の<わたし>の世界を音楽にしようとした人です。
自分の日常に何にもないなら、何にもないことを音楽にすればいい。
言いたいことがなければ、言いたいことがないことを音楽にすればいい。
それが自分自身であるならば、それをきちんと音にする。
音楽には空気のようであってほしい(きっと佐藤君にとっては音楽なしではいられないという意味もあったんじゃないかしら)。
だから、詞も空気のようであってほしい(音楽とことばの一致=表現内容と表現者の一致、と同義だったとは私の勝手な推察)。
はっきりした喜怒哀楽がなければ音楽にならないなんてことはない、
こういうものじゃなきゃ音楽にならないなんてことはない、
と生前、彼は語っていました。
そして、彼はフィッシュマンズのほとんどの曲を作っていたのですが、
音響派と呼ばれていたフィッシュマンズなので、意外な気もするのですが、
曲を作るときいつも、「まずはことばありき」で書いていたそうです。
音を先に作って、そこにことばをあてがうと、ことばが間に合わせみたいで嘘っぽくなるからだそうです。
例えば「あーーーの日♪」の「あーー」を聴いている時、
日本語的に何を言っているのか瞬間的にわからないようなことはしない、と。
日本語に聞こえる音節でリズムを作る、ということを意識していたそうです。
日本語も小学生でもわかることば、英語も中学生でも知っている和製英語のみ。
本当は佐藤君はさらりとスゴイことをしていたのです。

フィッシュマンズ Go Go Round This World!


(つづく)