ただ引用することは、誰にでもできる。
でも、引用をするのは人間くらいだろう。
人間ほど、実践から離れている存在はないから。


と書きつつも、「ただの引用」をしてみる。
翻訳について語られた文章はいくつも読んだけれど、
こんなに心躍った「翻訳論」はない。

翻訳の仕事が“サブ=副次的”なものとしてしか認識されない世界は、
「単一言語的な世界」のことだ。
現代とは、仮に私が日本語しか話せなくても、
世界に対して単一言語的には存在できない時代のことだから、
そんなの、まるで前時代的な価値観なはずだ。

発信元だけが表現者ではない。
情報も、1次情報だけにその価値があるわけではない。
そうでなければ、表現(=メディア)への認識は、
中心主義に陥り、常に単一言語的に後退していくだろう。
単一言語的世界とは、つまり思想統制下の世界のことである。

当然ながら、文科省の、
“教育に関する政策に係る基礎的な事項の調査および研究に関する事務をつかさどっている”、
現「国立教育政策研究所」の前前身は、
第二次大戦中、思想統制に機能した「教学錬成所」なのだ。
まさに、福島医科大学のみならず、
全国に思想統制と治安維持の出先機関は、
学校の形で存在している。


接触と接近である「翻訳」において常に生じる、
「翻訳不可能性」とは、決して残念な乖離のことではなく、
むしろ「自律と関係の対等性への可能性」のことなのだ。
この翻訳の意義を正しく評価することは、
単一言語的な世界への批判の目を持つことだと思う。


「多様なるものの詩学序説」 エドゥアール・グリッサン著 から引用↓

最後に、私が未来のもっとも重要な技術(アール)のひとつになるだろうと考えているものについて簡単に触れてみたいと思います。それは翻訳という技法です。ひとつの言語から他の言語に移行するということで、あらゆる翻訳が根本的に示唆しているのは、世界の言語はどれもかけがえのないものだということです。そしてまさにこの理由から翻訳は、私たちが私たち自身の想像的なもののなかに、さまざまな言語からなる全体性を思い描かなければならないことの徴であり証拠なのです。この全体性を、作家がおのれの表現言語の実践によって実現していくのと同じように、翻訳者は、全体性を構成する個々の言語の単一性に向き合いながら、ひとつの言語から他の言語への移行によって、この全体性を表現するのです。しかし私たちの混沌ー世界においては、他の言語を死滅させることによってはいかなる言語も救えないように、翻訳者の想像的なもののなかに他のあらゆる言語が、彼のそのうちのどれひとつとして知らないとしても力強く現前しているのでなければ、それぞれ単一なものとしてある二つのシステムのあいだに、二つの言語のあいだに翻訳者が関係を確立することはできないでしょう。

詩人がおのれの言語のなかでひとつの言語活動を創造するのと同様に、翻訳者がひとつの言語から他の言語へ移行するのに必要な言語活動を創造することがなかったら、どうなるでしょうか?ひとつの言語から他の言語へと移るのに必要な言語、その二つに共通する、しかし双方それぞれにとっていわば予見不可能な言語活動。翻訳者の言語活動はクレオール化のように、そして世界における関係性のように作用している。つまりこの言語活動は予見できないものを生み出すのです。この意味で、想像的なものの技法である翻訳は、まさにクレオール化を実行することであり、かけがえのない文化的混淆の新しくも不可避な実践となるでしょう。
 全体性ー世界を希求する混血と交差の技法、めのくらむような技法、実りある彷徨の技法である翻訳はこうしてますます私たちの世界の多様性の中に組み込まれていくのです。翻訳はその結果。この新しい群島的思考のなかでもっとも重要なもののひとつとなります。ひとつの言語から他の言語へのフーガの技法、ひとつ目の言語がかき消されることもなければ、二つ目の言語が現れ出るのを諦めることもないフーガの技法です。しかしまた、今日では個々の翻訳が、すべての言語はすべての言語に翻訳できるという翻訳可能性のネットワークの一部となっているだけになおさらこれはフーガの技なのだと言えます。

たしかに言語が消失すれば、それといっしょに人間の想像的なものの一部が消失してしまいますが、どんな言語でも翻訳されれば、この想像的なものが、彷徨いながらも確実に豊かになるのです。翻訳はフーガです。つまりかくも美しくも諦めなのです。たぶん翻訳行為において何より推し量るべきなのは、この諦めの美しさなのです。たしかに詩は他の言語に翻訳されると、そのリズムとか、同類母音反復(アソナンス)とか、エクリチュールというものに必ず生じうる偶然を取り逃してしまいます。しかしたぶん、これは仕方ないと諦めるべきなのです。というのもこの諦めとは、全体性ー世界のなかで、自己の一部を他者へと詩的に打ち委ねることだと思うからです。この諦めは、十分な理性や創意によって支えられるとき、お話ししたような共有の言語活動へと行き着くときには、まさにかすかな接触の思考となり、私たちが世界の風景を再構成するために用いる群島的思考となり、あらゆるシステムの思考に抵抗しながら、私たちに不確かなもの、脅威にさらされているものを、そしてまた、私たちがこれからその中を進んでいくことになる詩的な直感を教えてくれます。
かすかな接触と接近の技法である翻訳は痕跡の実践です。存在の絶対的な制約に逆らって、翻訳の技法は、世界のすべての存在者(エタン)とすべての実存者(エグジスタン)の広がりを積み重ねていこうとするのです。諸言語の中に痕跡を残すこと、それは今後私たちの共通条件となった予見不可能ななもののなかに痕跡を残すことなのです。