お風呂に入るときは、ラジオを聴いている。
それは習慣的に。
非常事態であろうと、そうでなかろうと。

この「東日本大震災」以降、
ラジオの選曲は、いつも以上にアッパーでエモ-ショナルな内容になっている。
(だいたい、今の事態を「東日本大震災」という呼称を用いて一括で指し示すことは、
福島の原発問題が「人災」であるという事実を希釈することになるんじゃないだろうか)

さっきお風呂に入っている時も、
ラジオで流れるのは普段私が大嫌いな、応援歌や愛を扱った曲ばかり。
“なかなか良い選曲の番組だな”と思っていた番組さえも、
今はやたら「勇気」やら「前向き」だのを鼓舞するような曲を流している。
それでも、被災地の人の言葉や、また、
彼らに向けた応援の言葉と共に曲が紹介されると、
食うにも寝るにも困っていない私でさえも、さすがに泣きそうになる。


しかし今日、とある番組で、
「絶対に元通りにするって決意したら必ず叶うと思います。
親をまた呼べるように、早くこちらで家を建て直します!」
という相馬市で被災した方のメッセージを紹介した後で、
DJが、
「その方からのリクエストです、エリック・クラプトンで“change the world"」
と言ったのには驚いた。

一体全体、「元に戻したい」のか、「チェンジしたい」のかどっちなんだ。

しかし、この類いのメッセージとこういった類いの曲は、
その意義同士の矛盾なぞ指摘されずに結合したままで、
何食わぬ顔で社会の中で受け入れられていくんだろう。


被災地にまた戻って暮すことが無謀だと言っているのでは決してない。
言いたいのは、
ローンを30年組まなければ買えない「家」という概念や、
エネルギーや生活そのものの概念を変えなければならないんじゃないかということだ。
そうでなければ“change the world”にはならない。


「日本人はこんな非常事態なのに暴動が起きなくて立派だ」と、
世界で高評価らしい。
たしかに、避難所では自主的な自治組織が生まれ、
暴動や窃盗などによる副次的な被害者が出ていないのは大変に誇りうることだと思う。
けれどやっぱり、原発の問題に限っては、
結局は戦後の私たちの、第2次世界大戦に対する反省と総括が不十分だったことが、
今の最悪の状況を生んだと言わざるを得ないんじゃないだろうかと思えてならない。

以前も紹介した、伊丹万作さんの文章をもう一度読んでみよう。

さて、多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。みながみな口を揃え
てだまされていたという。私の知つている範囲ではおれがだましたのだといつた
人間はまだ一人もいない。

そこで私は、試みに諸君にきいてみたい。「諸君は戦争中、ただの一度も自分
の子にうそをつかなかつたか」と。たとえ、はつきりうそを意識しないまでも、
戦争中、一度もまちがつたことを我子に教えなかつたといいきれる親がはたして
いるだろうか。

いたいけな子供たちは何もいいはしないが、もしも彼らが批判の眼を持つてい
たとしたら、彼らから見た世の大人たちは、一人のこらず戦争責任者に見えるに
ちがいないのである。

もしも我々が、真に良心的に、かつ厳粛に考えるならば、戦争責任とは、そう
いうものであろうと思う。
我々は、はからずも、いま政治的には一応解放された。しかしいままで、奴隷
状態を存続せしめた責任を軍や警察や官僚にのみ負担させて、彼らの跳梁を許し
た自分たちの罪を真剣に反省しなかつたならば、日本の国民というものは永久に
救われるときはないであろう。

「だまされていた」という一語の持つ便利な効果におぼれて、一切の責任から解
放された気でいる多くの人人の安易きわまる態度を見るとき、私は日本国民の将
来に対して暗澹たる不安を感ぜざるを得ない。

「だまされていた」といつて平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でも
だまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによつてだまされ始めている
にちがいないのである。

これは大した予言だったと思う。
もし、娘が被曝して健康被害が出た時に、
「お母さんは責任がないんだよ」と娘にのうのうと言えるだろうか。
世間がどう言おうと、
娘と私との関係においては、そんな了解はあり得ないだろう。
私は娘を守れなかった、それが結論になる。


今回の東日本大震災が人工地震かどうかなんてことはもう、別の話だ。
アメリカ合衆国のメディアが言うように、
日本人が「敬意と品格の民族だから暴動が起きない」のではないと思う。
それは、こんなに地震が多い火山国でもあるこの列島に住まう人々の
遺伝子が故のことだと思う。
とどのつまり、
過去の多くの災害を経ても、それでも生き延びてきた子孫だからじゃないだろうか。
だから受容できるんじゃないか。
それで戦争のこともすぐ忘れてしまうんだろう。


そもそも、この災害時の民族性という比較検証とやらだけど、
自然環境や気候風土の異なる国同士で「比較」が成立すること自体、
おかしい気がする。
一体どんな“同じ条件が揃っての比較”なんだ。
それこそ、グローバルスタンダードの思うつぼじゃないか。
どこまでいったって、比較する当人達はみーんな、自分かもしくは欧米人が基準なんだろ。
「こんな時に吠えない動物がいるわよ、珍しいな」って言ってんのと何が違うんだろう。


(火山国の日本は地熱エネルギーの先駆者になれるってニュース、過去にありました。
http://www.afpbb.com/article/environment-science-it/environment/2730249/5805532
原発という選択はつまり「グローバリゼーション」の一環だったんでしょう。
日本の国土条件に真に合致した、別のエネルギー開発の道もあったのだとしたら、
余計に無念だ。)


こんな時に、「お前はあげあしを取ることばかり書いていて恥を知れ」と思う人もいるかもしれない。
「電力会社から供給される電気を使ってブログだって書いてんだろ」、と。
おっしゃる通り、確かにそうだ。
ブログなんか書かずに、節電していた方が良いのかもしれない。
だけど、「でもそういうことじゃないんじゃないか?」と思うから書いてしまう訳です。
それは「何となく思う」というレベルでもなくて、むしろ確信を持ってるというレベルで。


定住しない、固定資産を持たない、定職を持たない、定収入がない、

そういった状況に大して何ら偏見を持たない、挫折感を抱かない。
そういった精神こそが、まず人にとっての基本的なインフラであるべきじゃないか、
ということです。
それが、人のエネルギーだ、と。

在ることに固執した“在る”と、
在ることに固執しない“在る”は、同じ“在る”でもやっぱり違う、
と、そう私には思えるのです。


国家や社会は何かを選択する。それは常に合法的に。
だから決まった以上、市民は大方それを受け入れざるを得ないだろう。
もし、市民や個人が充分に行動できるとしたら、
あくまで国家や社会が決定をしてしまう「前」でしかない
まして、国家や社会のする決定の内容と方向性は、
私たちの感覚から遠くかけ離れたものでもなく、
確実に私たちの心の中のインフラと連動しているのだ、と思う。

旧態依然のインフラを復旧させるのではなく、
新しいインフラを、私たちの心に整備しなければならない。

ここで、小林秀雄の「無常というふこと」から

歴史には死人だけしか現れて来ない。従って退(の)っ引(ぴ)きならぬ
人間の相しか現れぬし、動じない美しい形しか現れぬ。思い出となれば、
みんな美しく見えるとよく言うが、その意味をみんなが間違えている。
僕等が過去を飾り勝ちなのではない。過去の方で僕等に余計な思いを
させないだけなのである。思い出が、僕等を一種の動物である事から
救うのだ。記憶するだけではけないのだろう。思い出さなくては
いけないのだろう。           

人間の置かれた「無常」を見つめるには上手に思い出すことしかない、と思うが、
記憶で頭をいっぱいにしている現代人には、心をむなしくして思い出すことができないし
鎌倉時代の「なま女房」ほどにも、無常ということが分かっていない。
常なるものを見失ったからだ、それが結論だ。

何かが不足しているように思えても人は生きてきた。
生きるということはその内に不足をも含んでいる。
不足はまだ死ではない。


私がラジオDJだったら、
「Igot plenty o nuttin(of nothing)」をかけたい。


気分を害された方がおられたら申し訳ありません。