(最後再度加筆しました--更に追記 )

前回、記事に書いた、
ネットでカンニングをした受験生に対して、
一部では「世間や親のせいにするな」って意見があるようです。
すごいなぁ、みんなご立派なのね、と思った。


世間のせいにしちゃダメなら、
阿部謹也氏の「世間とは何か」という問いだって生まれなかったはずだ。
なんで親のせいにしちゃダメなの?
それを言いだすのは、ただの余計なお世話か、
「自分がいかに立派に自立しているか」の喧伝でしかないんじゃないだろうか。
そういう「自分を棚に上げて」って態度は1番タチが悪い。
カンニングよりも悪質じゃないだろうか。


親のせいにするなって、その受験生に言えるとしたら、実の親だけじゃないのかな。
その子の事情はその子にしかわからない。
だって、身近にいたその子の親だってわからなかったんでしょうから、
まして他人がわかるはずもない。

そもそも、「親のせいにする」のは人の自由じゃないの、
芥川龍之介だって太宰治だって、みーんな「親のせい」にしてきた勢力じゃないか。

そして、その子が親のせいにしているというのなら、
それはその親がその子とそういう関係しか作れなかったことの証しだと思う。
それで、子供ばっかりが我慢するのはおかしい。
子供だって、すんなりと巣立ちが出来るもんなら、そうしたいはずなのだ。
一体自然界では、巣立ちを必要以上に遅延させる動物がいるだろうか。


だいたい、結婚式に親を呼ぶのだって、「親のせい」のようなもんじゃないか。
親に孫を見せたいと思うのだって、「親のせい」じゃないの?
ヒトはゴリラのように、
群れから完全に孤立して独立するほど、もともと自立してもないくせに、
何言ってんだ。

子供が、親のせいにするのもダメって、
そしたら、自分のせいなんでしょうか。
何でも自分のせいなのだとしたら、
この国は自殺者がいっこうに減らない訳だ。
解決方法が自罰的な方向だもの。
(他罰的ならいい訳じゃありません。でも実際、自殺者の方が殺人者より多い)


私は親子関係が人にとって1番重要な関係だと思っています。
会ったことのない友人や、恋人や伴侶から影響を受けることはないが、
会ったことのない親からは影響を受ける。
私は母を7歳で亡くしたが、いまだに影響を受け続けている。


そして、
あるとき、たいがいパンクな私の父に向って、
「お父さんはそんなに父親としてロクデナシなのに、よく娘に“お父さん”って呼ばせるよね!」
と言ったら、
「それはお父さんがお前の“お父さん”だからでしょ」
と言われて拍子抜けしたことがある。
どんなに酷くても、それでも父親でいられるのは、父親だからだ、とそう彼は言った訳です。


友達なら、ある事に失望したり憤慨して縁を切ることは可能でしょうし、
もう友達とは呼ばない、認めないってことも可能でしょう。
けれど、親は(家族は)そうはいかない。
ほとんどの関係はある条件をもとに成立している契約関係と言えるので、
関係の解除は出来ます。
友人だって、恋人だって、伴侶だって、です。

けれど、ある条件に同意して成立する関係とは、親子関係は異なる。
全く次元の違う関係です。
親を契約解除することは出来ない。
(法律上でも、親の籍から出たところで、子の「親の相続を受ける権利」は続くそうだし。)

一生、親子関係は人にとってのテーマであり続けると思う。

「親のせいにするな」という親ほど、子供の話しを聞いていない親はいないと思う。
そして、そういう人ほどどうせ、
「なんでも政治のせいにするな」と政治家に言われたら、
なんと国民を無視した政治家だ!って憤慨するんだろ。


多分、この受験生は、カンニング事件を起こしてしまったけれど、
親子の問題という人生で1番難しい問題に正面から取り組むことになっただろう。
それは1人で解く問題ではない。
親と一緒に解く問題だ。
その機会を、彼は得た。大学の入学許可書と引き換えに。


※追記
 同志社大学は被害届を出さないとのこと。
 キリスト教主義大学として面目躍如たるものだった。
 京都における難関大学として、偏差値では京大に劣るものの、
 むしろ同志社らしさを全国的にプロモートできただろう。