最近ニュースになっている、仙台の受験生のネットによるカンニング事件。
受験したこと自体が無効になったり、合格が取り消されるのは理解出来るけど、
逮捕されるというのはどうなんだろう。
多くの人が疑問を抱いたように、
むしろ、大学側の危機管理に落ち度があったんじゃないだろうか。

昨日たまたま、購読の勧誘目的で届いていた新聞で、
「(学費の安い)国立大学に入学して母親を安心させたかった」と
その受験生が話したことを知ってから、
大学側が怒り心頭で会見していたのを思い返してみると、
大学側がなんとも頭が固くて大人げなく見えてくる。

それより、ブラジルかどこかのサッカー選手が、
サッカー場の中に舞い降りたフクロウを蹴りとばして殺してしまった行為の方が、
逮捕に値する気がするけど。


組織的にネットを通じてカンニングをする事件ならいざ知らず、
追いつめられた1人の青年の、明らかに履歴の残るカンニングによって、
大学にとって「最も大事な社会的な契約の1つ」である試験が揺らぐのだとしたら、
大学というところは、なんと脆い「契約」をお金を取ってやっているんだろうか。

だいたい、まぁこれは中卒ならではの戯言なのだけど、
一体どこの学者先生が、本を著す時、
全く他人の本を参照することなしに自力のみで書くことができるだろうか。
教授の部屋のデスクの後ろに並べられた夥しい数の本は、
ただ読書量を誇るためのインテリアなんだろうか。
そうじゃないはずだ。


ただ知識量が多いから本を出せるんじゃなくて、
考え方や論点、切り口が他人と違うからこそ本を出せるんじゃないでしょうか。
今や、助教授の身分だけでは食べていくのも大変な時代ならば、
学問が食べ物に変わるためには、知識量ではなく発想力こそを鍛えなければいけない。
だから一応、最高学府とされる東大の設問は、
「世界史におけるバイカル湖の役割を述べよ」
とかいった、記述問題が特徴的で、
こういった記述問題こそが、やっぱり穴埋めや選択問題に比べて圧倒的に難しいから、
東大は採用しているわけでしょう。


試験だって、参考書や辞書の持ちこみを許可し、
それでも解答を組み立てていくのは難しく、
その解答の正否も専門家でないと判断しかねるような高度でユニークな良問を、
大学側が提供すればいいと思う。
カンニングしたところで、それが正しい解答だと判断し採用するのは生徒の方なのだから、
その生徒のセンス自体を問うような問題を作ればいいのだ。
もちろん、今の暗記中心の試験だって残ってもいいと思うけど、
その試験を行うのは暗記大学・暗記学科でいい。
暗記のスペシャリストを育成する大学で。


スペインにいた時、周りにいる日本人はほとんど大学生で、
慶応、早稲田、上智、同志社、中央、東京外大、拓殖、亜細亜、中部 等々の大学からの留学生だった。
けれど、スペインに留学してきている仏人やドイツ人、オランダ人大学生に聞いても、
上の日本の大学の名前を誰も知らなかった。
スペイン語に訳すと「中央」と「中部」と「亜細亜」大学がいかにも有名な大学っぽくなるため、
1番難しい大学だと誤認されていた。
ヨーロッパの大学は海外から留学生がたくさん来ている。
けれど、日本の大学における海外留学生の乏しさは、一体何だ。

世界で日本の大学が通用しないのは、
やっぱり暗記中心の入試と、入学だけが難しいことが理由じゃないだろうか。

しかも偏差値の高い日本の大学に行っている日本人ほど、文法や語彙は優秀だけど、
スペイン人の友人は少なく会話が下手だった。
常に、フラメンコ留学の女性に、日常会話の流暢さでは負けていた。
私と一緒のホームステイ先だった日本人の友人は、大変努力の人で、
とてもスペイン語が上手だったので、同じ日本人から
「ミキはスペイン語が上手だよね、すごいよね」と言われ続けていた。
でも、ミキちゃんは決まってこう言っていた。
「スペイン語を上手に話すのが目標じゃない。大事なのは何をしゃべるかだよ」と。


とにかく、本音と建前を教えているのは学校だと思う。
二枚舌を容認しているのは。

例えば、昨今のアレルギー体質の児童の増加は、学校が直面している問題だけれど、
アトピーの児童は、体育の授業の後シャワーをするだけで、随分症状が緩和するのだそうです。
北欧やドイツでは、学校で体育の授業の後はシャワーを浴びるのは当たり前になっているけれど、
日本ではまだまだ一般化されていない。
アトピー児童の親などが自治体に働きかけているが、養護教諭の人数が少ないため、
全校でシャワーを実施出来て、現在最大10名くらいなのが現状だそうだ。
しかし、重症なアトピー児童は全体の2%なので、とりあえずは賄えているという判断だとか。ほんまかいな。

※参考リンク↓
 http://hiroshima-dermatology.jp/scholar/archive/img/for_patient/Shower_atopic_dermatitis.pdf"target

しかし、
「汗をかいたらシャワーを浴びたい」という、誰でも抱く日常的な感覚が、
学校というハコでは否定されるのだ。
しかも、教室で食事も取らなければならない。
なぜ、食堂を作ることが出来ないんだろう。

学校は日本における「異空間」だと思う。


もっと言えば、
どうして教科書や筆箱を家に持ち帰らなければならないんだろう?と思っていた。
家で勉強したい人だけが教科書を持って帰ればいいのだし、
学校で運動する時は体育着着用と限定しているのだから、
学校と家で使う筆記用具も別々の、専用のそれでいいんじゃないか、と。

ある時、筆箱を忘れて、
先生から「勉強する気があるのか!!」と、みんなの前でどやしつけられたことがある。
だけど、忘れる機会を与えているのは学校だと思った。
学校でクラスみんな共有の筆記用具を置いておけばいいだけじゃないか、と思っていた。
教科書だってみんなで使えばいいだけだ、と。

私は父子家庭だったので、小さい時から洗濯は自分でしなければならなかった。
汚れた体育着を家に持ち帰っても、つい遊んで洗濯を溜めてしまうと、
そのまま汚れた体育着を学校に持っていって、着るしかなかった。
「どうして、大人は何を着て運動してもいいのに、子供はいけないんだろう。」
といつも思っていた。
なんと不条理で、現実の感覚から学校はかけ離れているんだろう、と。

汚れた体育着を着た私に、
「渡部さん(私の旧姓)のお家は一体どうなってるの?!清潔にしなくちゃだめじゃないの!」
とみんなの前で言い放った先生は、
仙台の受験生によるカンニング事件で、怒り心頭の会見をした大学関係者に、
とてもよく似ている。