ノ ー ト

好 き な 読 書 を 中 心 に 考 え 中 を 記 録 す る ノ ー ト

音楽

安富さんとヘブライとシャムキャッツ

最近図書館でかりてきて衝撃だった本。
親としても震撼したとも言える一冊 。
安富歩氏が共著で大分前に出された①「ハラスメントは連鎖する」。

例えば子供の時に親から条件付きの情(ハラスメント)を受けて育つと、
自分の情動を信じられなくて、直観よりも理屈に答えを求めちゃう。
心がいつも晴れなくて、結果誰かにハラスメントしてしまうっていう連鎖。

言葉を使う以上、物理的な暴力以上に、暴力的になってしまうこともあるわけで。
どんなに気を付けていてもハラスメントに加担してしまう。
てか、どんな表現やコミュニケーションをも、相手にはハラスメントとする自由があるわけで。
それも、他者性なるものがあることの証しだと理解したい。

先日読んだ岩波ジュニア新書の②「ヨーロッパ思想入門」とシンクロ。
岩波ジュニア新書は良書が多いのはもうすでに一般認識ではあるけれども、
1冊でヨーロッパ思想を著わさんとするのに、
選び抜かれた哲学者のラインナップのなかで
レヴィナスにページが多くさかれていたのに興味を覚えて読んだ。
この本はとても面白かった。

子供のころに思った
「本当に神様がいるんだったらどうして戦争は起こるの?」
的な疑問の、ヘブライ的な回答が②にのってる。
どうして神は人間の似姿をしているのかってことも。

ある意味、都合のいい考え方なのかもしれないけど、
愛とは無条件。
相手がどんな悪いひとでも関係ない。
戦争しようが悪事を働こうが関係ない。
自分と相手は違うのだ。
神にとって理想的な人間がいたとしたら、
それは神自身または神の投影でしかない。
それでは人間を作る意味がない。
自分とは違うもの、他者性を生むために神は人間を作られた、的な。

聖書に「まず神は言葉を作られた」ってあるみたいだけど、
だからハラスメントは絶対生まれる。
どう考えてもハラスメントとは無縁ではいられない。
でも、ハラスメントをなるべく連鎖させないことの努力、
はできるかもしれない。

その挑戦をガンディーもしたわけで。
ガンディーは①に載ってたんだけど
“正しくないからある「法」に従わないっていうのじゃなくて、
気に入らないから従わないって態度”でいきたい的なこと言ってたらしい。

理屈じゃなくて気に入らないからっていうのが理由って
なんか駄々っ子みたいなんだけど、
でも理屈じゃなくて自分の情動を信じられるのって
無条件に愛されたからで。
これあくまで安富さんたちの表現だけど。

こないだYUKIちゃんが言ってました。
「何かを選ぶときに、良いから正しいからって選ばない。
どっちが楽しいかで選ぶ。
そうしたら誰のせいにもしないから。」

理屈に逃げちゃうってのは武装みたいなものかも。
①で学問しちゃうような人ってみんなハラスメントを受けた人
みたいなこと書いてあった。
なんかの“せい”にしたいんだよね。

自分と向き合うことのキツサ、ツラサはしんどすぎて。
でもそれってハラスメントを連鎖させないための
1つのかけらにはなりうる気がする。

まるで永遠にハラスメントとは加害者としても被害者としても
無縁ではいられない気がするけど、
それが他者性でもあって、
他者性があるから自分も鍛えられるし、見方も広がる。
これってガダマーだよね。
先入見なくしてはひとはものさえ見れないけど、
先入見を否定的なものとしてとらえるのこそ先入見で。
先入見が挫折するからこそはじめて真の理解が生まれるっていう。
だから挫折しなくちゃいけないんだね。

だけど相手の知らなかった気持ちを知ったりして、
でも知っちゃうと、それも自分の解釈でしかなくて、
結局、他者性はするすると逃げていく。
っていうか掴まえられないから他者性なので。
「現在の地平は過去へとくりこまれ続ける」
まさにガダマー?

だからひたすら先入見は挫折し続けなくちゃいけない。
安保法制でこんな時だからじゃないけど、
ハラスメントを連鎖させない努力、
これが本当の教育の要なんじゃないかな。

シャムキャッツの夏目君がどこかで言っていた。
「勝った時の気分ってつまらない」
この感覚を表現できる音楽があるのはすてき。
fishmansもそうだったし。

シャムキャッツ 「AFTER HOURS」


シャムキャッツかなりすきです。

Liza!

とうとう見つけてしまった。
Lizaの「the travelin' life」
最初に見たのはエド・サリヴァン・ショー。
帽子づかいがとってもキュートで、ボードビリアンな感じだった。
10代の時よく歌った。
し、スペインから帰ってきて、またあっちへ行くつもりだったから、
もうこういう気分で生きていた気がする。遠い日の思い出。


I never was a stay-at-home
I've wandered hill and valley
With my two companions
Mister Rand and Mister McNalley

Me, I like the travelin' life
Yes, I like to get around
I've found that the life for me
Has bound to be
So free an easy
Easy and free

No matter where I chance to roam
Where I hang my hat, that's home
I know the life for me
Is just to be
So free and easy
Easy and free
The travelin'
The travelin'
I love the travelin' life

Pack your grip
Come with me
And we will see Capri
And be in Napoli
For a weekend of fun
Plan the trip to Paris
There is a bistro on the Left Bank
I like cos it's frankly a place most tourists shun

Why not try the travelin' life
You'll never want to settle down in town
Once you see it my way
Hit the highway
Every main road
Every byway

I won't give up the travelin' life
I'll give it all I've got to give
Now I am free and easy
Easy and free
The travelin' life is the life for me (yes!)
That's the life for me
For me
For me
  


ついでにこれもすごい。
お母さんのジュディー・ガーランドとのあのライブが1時間近く見れる。
ありがたやーyou tube.
barbraとTVのジュディ・ガーランド・ショーでやっとのと同じのを
lizaとやってたのねーーー
マツコさん知ってるよね。一緒に見たいわーーー
 

都合よすぎるようつべの使い方

有名になりたくてyou tubeに自分の動画のせてたのに、
有名になったとたん
自分が出てる動画許可しないっていうの、なんで?

歌が歌えるって

最近とても好きな奇妙礼太郎氏。
久しぶりにワクワクする感じ。

ひとのうたとか自分のうたとか関係なく、
ただただひたすら歌うのが大好きっていう感じ。
でも全部、奇妙礼太郎の歌になっている。

歌が歌えるってなんて素敵なんだろう。
しかも、こんなに。

都知事選は私としては残念な結果になったし、
政策を実現することよりも、
これだけ歌えるなら、
歌手の方が断然いいよ。

ひとの心にすっと入って、ずっと残ってる。
そして大事な時にまたふっと思いおこせば、
またそのひとの中で流れ出す。

「喫茶クラクラ」をまだやっていたなら、呼んでみたかった。
多分、来てくれた気がするんだな。
誰か松本に呼んでよ。

奇妙くんの曲を聴きながら、
「楽器出来なくてもいいから、
歌う事だけはずっとずっと好きでいてよね」
と娘に思わず言っちゃったね。

どれも奇妙くんのうたは素晴らしい。
ぜひぜひ聴いてください。




とにかく、
フィッシュマンズの佐藤君以上の人に早く会わせてほしい。
これはかなり切実な願いなんだよ。

戦う君の歌を戦わないやつらが笑う

かなり誤解されそうなのだけど、というか、
実は誤解でもなんでもなかったりするのだけど、
私はあんまり、
ベテランの、この道ウン十年とかの経験保有者が語る、
その道の極意的な、悟り的な語り、というのが好きになれない。

これは私側の卑屈さが原因なのかもしれないけど、
どうしたって説教臭く思えるわけです。
お年寄りは大切に、と思いつつも、
やっぱりdon't trust over thirtyでいたい。
(ってなると、自分のことも信用できないんですけどー!羽交い絞め~)

確かにその人にとっての確信めいたものは、
ある真理をついてはいるでしょう。
でも、「私はこうなんじゃないかなぁと思う」くらいの、
多少、自分の会得したものに対する疑念を最後まで持ちながら、
断言しきらないところに私は知性を感じるし、
聞く側と何か対等なまなざしを持とうとするその人の気持ちが、
ただ嬉しいし、素敵じゃないですか。

とりわけ最近何かを始めたばかりの、
うきうきとしたフレッシュな報告などは、
聞いていてもとても楽しい。
子供の「初めての出来事」を語るさまなどはただただ垂涎の的です。

先日、NHKのロシア語講座をぼんやり見ていたら、
ロシア革命のことをやっていた。
私はレーニンは嫌いではない。なかなか良い顔をしている。
スターリンが意地悪そうな傲慢な顔をしているのに比べて。
スターリンが嫌いだからレーニンが良く見えているのかもしれないけど、
そのスターリンも影武者の方なのかもしらんが。

最初レーニンが目指したことはいいことだったんだろうと思う。
けれど、やはり何事も実際やってみると、
うまくいかないことがあるのが普通。
そういう局面に達したら、
こういうところがやっぱりうまくいかない、と言って
一旦ロープブレイクしちゃいけないんでしょうかね?
だれかいいアイデアない?って聞いちゃいけないんだろうか。
実際、1人の人が何から何まで万能に分かるなんてこと無いし。
結局はブレインストーミング的なやり方しかない気がする。
そして自分はリーダーから降りて、
別の新たなリーダーを見つければよかったんじゃないか。

そうすればスターリンが権力を握ることを、
レーニンは阻止できたんじゃないだろうか。
レーニンはスターリンを嫌がってたけど、自分のせいもあるじゃんか。
ある座に長く居続けることは、
結局、自分の立場を正当化するために生きるようになってしまう。
そうなるとせっかくの当初の素晴らしい理念にまで泥を塗ることになる。
カストロはこのまま長寿を全うしそうだけど、ゲバラは39歳で処刑された。
権力の座に収まったカストロよりも、
動き続けるゲバラの方が恐ろしかったってことだろう。

中島みゆきの曲に
♪ガキのくせに、と頬をうたれ 少年たちの目が年をとる~
っていうのがある。
「いずれわかるよ」とか「私にもそういう時期あったけど」とか
若い人や経験の浅い人に言っちゃう人いますね。
話し聞いてるふりして自分のドーダ話にすり替えてしまうという。
そんな話されると、黙っちゃう。
めんどくさくて黙っちゃう。
こうして周りが黙るから、
この手のめんどくさい人の声や意見ばかりがまかり通ってしまう、という悲劇。
相手に二の句を出させないとか黙らせるっていうのは暴力ではないか。
黙らせておいて勝ち誇る人の、なんと多いことか。

ハンセン病患者に対して長年差別をしながら、
やれ中国は人権意識が低いとのたまう。
放射能ばらまいておいて、
イタイイタイ病や足尾銅山事件も終わってないのに、
中国を環境汚染の元凶のように言う。
やれカンボジアに学校を作ろうとか言っちゃう。
これ全部みーんな、相手に「ガキのくせに」って言ってるのとおんなじだ。

戦う君の歌を笑わないでいられるのは、
今も同じように戦っている人だけだ。
再現性だけでなく、
たった1回きりのことをkagakuすることができたなら、
どんなにいいだろう。

流行り

6歳の娘はもう勧善懲悪モノのアニメはとっくに卒業し、
最近はもっぱら、大人向けのナンセンスアニメがお好みである。
「日常」のミヨちゃんの声の完コピをし、
「ヤンヤンマチコ」のアグーの声を完コピし、
またそれらの絵をマスターした。

↓「なめこ栽培」の絵もマスター。う、うますぎる!!
P1010288


↓私もストロー人形を作った。
朝5時からせっせと作っていると内職気分。
私が、まんがなど絵を描いてきたのはこのためだったか、と思う。
娘曰く、私は娘の母親になるために生まれてきたそーだ。
P1010289

↓娘と一緒にはまっている曲。
「アナコンダ・ラブ♥」from 天才テレビくん。
ROLLYかっこええやん。ファッショニスタやん。
やっぱりワタクシ、イカ天世代です。
(埋め込み無効になっていたらyou tubeで見るを押してください)

フォーク 

最近CMでまた人気のこの曲


22年前、スペインにいた時仲良かったルミちゃんが
中島みゆきのファンクラブに入ってて
私は「なんで中島みゆき?」と思ってたけど
いい曲なんだよとルミちゃんは
歌詞カード見ながら歌ってくれた。
この曲を最初に知ったのはその時、
グラナダの下宿先のピソの一室で
隣室の下宿生のスペイン語がかしましい中
おとなしいルミちゃんは恥ずかしそうな小声で
けれど真剣な面持ちで歌ってくれた。
中島みゆきは馬鹿にできない。

♪ 勝つか負けるかそれはわからない
  それでもとにかく闘いの
  出場通知を抱きしめて
  あいつは海になりました

 
♪ ああ 小魚たちの群れきらきらと
  海の中の国境を越えてゆく
  締めという名の鎖を
  身をよじってほどいてゆく

現実にすり寄って生きるのではなく
理想だけを見て生きたい、と思う。

頑張れ、と人が言ったら
「お前こそ頑張れ」と内心思う。
頑張っている人しか、
ヒトに頑張れとは言えない。

最近、ボブ・ディランってなんだったんだろうって考えた事があった。
別に答えは出ないけど。
彼の言動は当時、これから変わっていく何かを宣言しているんだろう、と
みんなが期待したんだろう。
けれど、彼は彼の歌の持ち主ではなかったし、
彼自身、自分の歌をよくわかっていなかったのかもしれない。
彼もいわゆる口寄せでしかなく。
そうして多分、彼の歌は詠み人知らずで残っていくんだろう。

中島みゆきはやっぱり日本のボブ・ディランなんじゃないかな。

my heart belongs to me

ある方に言われた大きな1言。

「その人は神様のお使いかもしれないけど、いいね、
でも決して神様じゃないんだよ。
神様は1人1人にいるもので、目に見えないものだからね。」

私にとって、
人も本も(宮澤賢治やリルケにしても)、一切の出来事や何もかも、
それらは“神様のお使い”なのだ。
でも、それは決して“神様そのもの”ではない。
答えではない。
自分への答えはやはり自分で出すものだ、と知った。
他人が稼いだお金では、ひとは決して幸せになれないのと似て。

私は神様のお使いを、神様そのものだと思っていたのだろう。
神様のお使いは私に「答え」をくれるわけではない。
くれるのはあくまで「きっかけ」なのだ。
でも、その「きっかけ」がとても貴重で、
同じ場所にいながら旅をさせてもらうようなものではないだろうか。

(ヒトの進化が、移動と交易=コミュニケーションによってなされたならば、
 ヒトとは旅をしなければいられないものではないかと最近思う)

神様のお使いに答えを求めるのも、
神様のお使いに褒められた気になったり、
そしられた気になるのも、
そもそも全て勘違いだった。
そう思うようになってから、
色んなことへの依存心が薄らいだ気がする。

私の答えは私が私に出さなければ、
それは答えではないのだろう。

(もちろん、この「神様」ということばは便宜上のもので
 もっとふさわしい言葉があるかもしれません)

My Heart Belongs To Me
本文とこの曲、全く関係ないけど、この曲の解釈が変わりました

キーボー




追悼 尾崎紀世彦さん

私のおじさんがジミー時田氏のバンドで、
バイオリンを演奏していた時期があったんだけど、
そのジミー時田氏のバンドに紀世彦さんも在籍したことがあったらしい。
それでずっと強い親近感を抱いていました。

やっぱり素晴らしい歌声。生で聴きたかった。

ちなみにキーボーは和製トム・ジョーンズって言われていた。
トム・ジョーンズも大大大好き。

ちなみにトム・ジョーンズを初めて知ったのはこれ↓
多分「エド・サリヴァン・ショー」の再放送。16歳の頃。


ゆっくり尾崎紀世彦さんの音源を聴きたい。

WORLD ORDER 「MACHINE CIVILIZATION」


ここ何日か、world orderの動画ばかり見てしまう。
格闘家でありながら、同時にこんなに脆さと繊細さを表現できるなんて、
どうなってるんだろう。
それが不思議で、思わず見入ってしまう。

須藤元気さんにとっては「格闘技も非日常の世界だから」、
ダンスで非日常性を表現して提供するのは難しくないらしい。

日常的な人の歩く速さから遅れて見せるだけで、
こんなにも非日常が表せるなんて。

人間の「歩き方」などの日常動作は、
長い歴史と生活史を経て選択・適応して残ってきた「1つの文化」なんだとか。
正解というよりも、1つの人間の地点。
文化だから、それから外れている人は自然と監視されてしまう。
だからこそ、動作を通じて、遠目にも他人から病的なものを感じたり、
非日常=異常なものを感じとったりするんだろう。

ちなみに、歩行動作照合による本人確認は、
指紋照合による本人確認よりもさらに精度が高いらしい。
自分と同じ歩き方をする他人は、ほぼ「いない」らしい。

実際1人1人違う歩き方をしているというのに、
どこからどこまでが正常で、
どこからが異常だとかって感じてしまうんだろう。

むしろ、個別性を感じない歩き方をしている人を見ると不安になる、
っていうことなのかもしれないな。
個別性がないってことは「分身」を感じさせるから。
分身に自分が奪われてしまうような危機感なのだろうか。

うちのお兄ちゃんは2人とも、
統合失調症を発症後に歩き方が変わったと思う。
うまく言えないけど、「統合失調症の人だな」って歩き方をする。
その人の「まなざし」と「向かっている方向」と「足運びの速度」、
そういうもののバランスがとれてない感じ。
少し「この世のものではない雰囲気」を漂わせながら、歩く。

ニカさんのこと

※追記しました(22時13分)

二階堂和美 「あなたと歩くの」

先日、糸井重里氏のサイト「ほぼ日」を開いたら、
「二階堂和美」の名前が。
思わず「おっ」と声に出してしまった。
そうかついに、ほぼ日で...これでブレイクだろうか、
実に遅い気がするけど。


二階堂和美さんは広島在住の歌手で、
「ニカ」さんと呼ばれています。
私も、ニカさんの歌声を生で聴いたのは1回しかなくて、
全くの不案内にもかかわらず、なぜか「ニカさん」とずっと呼んでいる。

ニカさんには、
中嶋君がやっていた「喫茶クラクラ」に1度来て歌ってもらったことがあります。
単独ライブではなく、
2006年のマウント・イアリ(旧マイクロフォンズ)の来日ツアーに、
ニカさんが一緒に回っているというものでしたが。


その頃の喫茶クラクラは、閉店秒読み状態で、
駆け込みのように毎週末、音楽イベントが続いていました。
地方都市で「イベントって言うとイコール音楽イベント」なのが、
モノカルチャーで「なんだかなー」って気分が私たちの中で高じていて、
イベントやってもらっててエラソーなこと言えないんだけど、
音楽業界の人たちのあの選民意識というか、すかした感じ、
下手するとドラッグカルチャーを崇めそうな勘違いした感じに
いい加減嫌気がさしていた(ミュージシャンというより、特にイベンターの側の)。
それでも、クラクラでやってもらったミュージシャンは殆ど良い方たちでしたが。


そんな、音楽にややげんなりした気分の中、ニカさんはやって来たのだった。

うって変わってニカさんは、
いつもニコニコしていて、チャーミングで、礼儀正しい、まさしく「お嬢」だった。
それが新鮮で新鮮で、私はすぐに魅せられてしまった。
(実際、彼女の音楽をよく聴いている訳ではないのですが、
ニカさんという存在を完全に信頼してしまった感じです。)
ニカさんは業界に染まっていない、自立した純粋な人だと思う。
そういう意味で、私は、ニカさんに強い「スター性」を感じる。

美空ひばりとか笠置シヅ子とか、バーブラ・ストライサンドと同じような、
ヴォードビルタイプの正統派の歌い手の存在感を、
私はニカさんに勝手に感じていたりします。
周りの人から大切にされてる感も、“ザ・スター”な気がする。
おきゃんで可愛くて、良い意味で完全に「浮いて」いるというか。
周りが汚れて見えるくらいの。

ニカさんが御実家のお寺で尼さんをしていると知ったのはずっとあとのことだった。

「クラクラは防音設備がないので大きい音が出せません」と説明しても、嫌な顔一つしないし、
電気に繋げなかったり、大きい音が出せないとふてくされる誰かさんとは違って、
ニカさんには、電気や大音量に依存しない、自分の音楽への自信があるんだろうと思ったし、
実際、そうなのだと思う。
公演が終わって、関係者がうようよと動き回り、騒がしくしている中、
ニカさんは端でちょこんと座り、その日のライブ録音だかをイヤホンで聴きながら、
ノートにメモを取り一人反省会をやっている姿は、ヨーロッパで見た学生みたいで、
ニカさんの努力家で謙虚な人柄を表す美しい情景だったので、
折りに触れて思い出すことが多い。

だから、ニカさんが多くの人に聴かれるととても嬉しい。

音楽(表現)と人柄の一致は、なかなか難しくて、
どちらかが良くても、他方が既存の形式に引っ張られてしまうからなんでしょうが、
なかなか両方がいいっていう人はいない。
表現と人柄の一致を望んでいた喫茶クラクラ関係者として、
そんなニカさんが活躍されることは本望なのです。


ニカさんのHPに、やっぱり上関原発反対のリンクが。
こちらも応援したいです。

※今日、ustreamで20時からニカさんのライブがあるそうです。


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ここから追記


ustreamのライブ配信を見ました。
ニカさんは、さらにスケールが大きくなっていた!
歌唱力、表現力、素晴らしーーい!!
ラジカセにつないで見ていたのだけど、大興奮!
久々、歌で感動した気がする。
いいなぁ、すごいなぁ。素晴らしい。
くーっ、素晴らしすぎるー!!
どこかでこの配信、再度見られるようになるといいのだけど。
見られた方はお互い、おめでとう。乾杯したい気分だね。

やっぱり、洋の東西を問わず、
芸能の民は元々河原乞食や流浪の民なわけだけど、
だから地域性とか国境とか、そういうのを超えて、
多くの人の心に響く力強さを有してきたんだと思う。
ニカさんは、まさにヴォードビリアンであり、
ジャンルはだからワールドミュージックなんだよ、って言いたくなってきた。

テスト sick of recorder



you tubeに動画をアップする方法を練習中
今はなき名古屋のバンドsick of recorder
どこにもなかったので 

覚書 ソングライティング

生前、マイケル・ジャクソンが、
レコーディング・プロデューサーに語ったという言葉が、
とてもいいので記録(赤字にしたのは私)。
以下は「マイケルジャクソンの奇跡を辿るブログ」より引用。

彼(MJ)はソングライティングの美しさを僕に教えてくれた人だ。言われたんだ。
“テディ、昔の人はコンピュータを持っていなかっただろう?”って。
バックトラックから作る音楽は駄目なんだよ。昔の人はピアノか、ギターの伴奏で曲を作っていたよね、
それをデモテープとして録音する。それが大切なのさ”
ってマイケルは言ってくれたんだ。
それからぼくはバックトラックをコンピュータで作ってからはじめるような曲作りは一度もしていないんだ。
ちゃんとシンプルにピアノで弾いて歌ってみて美しい曲じゃなきゃ。マーヴィン・ゲイもそうだろう?
愛し合うことと曲作りは同じさ、心に残るムードが大切なんだよ
                    

                   新しい「マイケル・ジャクソン」の教科書より抜粋 著者 西寺 郷太

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(つづきはここから)


私の知り合いの、
一流の技術習得へ歩んでいる工芸家たちの中には、
“オーガニック”とかは偽善っぽいと思って、拒否反応を示す人がいる。
(まぁ、確かに“コスプレの類”でしかないような人たちもいるから。)

緻密に計算し、技を磨き、自然を加工・構築する彼らは、
自分たちといわゆる自然派の人々との間に大きな隔たりがあると感じている。
でも、彼らは一様に、機械的に大量生産されたものよりも、
丁寧に作られたものを讃美する。
(私の大好きな河井寛次郎は、機械生産ばかりをマイナスに捉えることを批判しています。
なるほどと思うので、別記事でいつか転載します)

私は、マイケルが言ったように、
大事な人に音楽を勧める時、
バックトラックから作った音楽は勧めたくない
、と思う。
仮に自分ではそういう音楽を聴いたとしても。

でもそれは、私にしてみれば、
天然酵母でない、イーストフードで出来たパンをあえて、
大事な人には勧めたりしないのと一緒
だと思う。
日常でイーストフードのパンを食べたとしても。
そう言ったら、彼らはわかってくれるだろうか。

ただ作るだけ・食べるだけなら、何でもいいかもしれない。
でも、そこに“自分なりの誠意を表したい”という願望があるなら、
何でもいいわけじゃない。

「100年先も残るものを作る」という工芸家の気概は、
自然や社会に対する責任の表れだろうし、
工芸はだから、“自分なりの誠意をいかに示すか”、という仕事だと思う。
(私にしてみれば、“作らない”というのも最大の誠意の1つなのだけど。)

世間から異端だの亜流だと呼ばれようが、
「これが、自分なりの誠意の示し方だ」と熟慮して思えるなら、
それはすべからく“正統”を自負する権利がある。

と、何となく思った。

おまけ♥ ニーナ・シモン  名盤ニーナ・シモン・アンド・ピアノより


ぼくを探しに the missing piace

このブログでも何度か文章を引用している元の本(過去記事)、
「おばんざい 京の味ごよみ」(朝日新聞京都市局編・中外書房)は、
私が折に触れて目を通す大好きな、いわば“料理コラム本”なのですが、
以前も書いた通り、
昨今のなんちゃって町家ブームに代表されるような、うわっつらな京都案内ではなく、
昭和41年当時にすでに変わりゆく京都の暮らしを、
日々のおかずを通して、京ことばで綴ったものなのです。
これは祖母が残した本(初版)で、
私にとっては祖母と母という2人の京おんなを偲ぶ為の唯一の手段のような気がして、
ことのほか思い入れが強い。

この本のコラムは3人の大正生まれの京おんな、
秋山十三子・大村しげ・平山千鶴の3氏によって、
各回担当制で書かれたものです。


先日、この3氏が書いた文章をもっと読みたいものだなぁと思って検索すると、
大村しげ氏はとても有名な方らしく、著作もたくさん残っている。
他の2氏は、殆どが絶版状態。
60年代か70年代位に書かれた本が欲しいと思い、続けて検索していると、
大村しげ氏のある本の帯だか何かに、
例の婦女子に大人気のスタイリスト(?)I氏の文章があるらしい。
とたんに興が冷めた。
もうI氏の手が伸びていないものはないのだろうか。
確かに彼女の方が大村氏に対しての造詣ははるかに深いのだろうし、
それが御商売なので、とかく文句を言うのも間違っているかもしれないけれど。

特定の有名スタイリストとか、そういう人が推薦しているだけで、
ある人たちにとっては付加価値であるのかもしれないけれど、
私にとってはただただ興醒めの元でしかない。

あの渋谷系の人たちは貪欲なので、全てをスローライフだとか、
つつましやかな清貧のシンプルライフだとかに一括、編集し直してしまう。
戦前から続く当たり前の京の暮らしを、
自分たちの、ほんの一時でしかないバブルの反動や反省の道具に利用してしまうのだ。
今は、賢い暮らし方を知っていることが、まるで免罪符※のように扱われているけれど、
(※免罪符は本当は贖宥状<しょくゆうじょう>と訳すのが正しいらしい)
スローライフやシンプルライフ関連の本や写真集を売り買いすることは、
もしかすると、かつてのカトリック教会がやった“贖宥状の売買”や、
“お札の売買”にかなり似ているんじゃないか、
とフト思う。

私が特に、『暮らしの手帖』の模造品や、スローライフ関連のものを嫌悪する理由は、
多分、そういうところにあるのかもしれない。
ちなみに11月4日付けの記事「覚書 ~隷属 主題から発想することと労働~」の前半は、
こういった渋谷系や、道具云々を掲げるスローライフ喧伝者を念頭にして書いた。
特に下記部分↓。
○○を知っている私、××に価値を見い出している私 が自己表現だと思っている人は、
問題にする主題/主語が何であるか、ということに依存しているが、
「主」が何であるか・誰であるか に依存しているのはまるで奴隷的発想のよう。


でもこうして考えると、
私は渋谷系やらに反感を抱く事で自分のバランスを取ろうとしていたことがわかる。
多分、私には過剰なものや重複するもの、そういうものは削ろうとし、
自分に不足しているものには憧憬を抱いたり、補おうとする。
まぁ、なんの新しい話でもないのですが。
シルヴァスタイン氏の有名な絵本「ぼくを探しに(the missing piace)」を思い出す。
“何かが足りない
それでぼくは楽しくない
足りないかけらを探しに行く”
 の“ぼく”を。


日本のamazonの書評に、原題のthe missing piaceのmissingとは、
元々あったものが欠けているという意味で、
そう読むと面白いというようなことが書いてあった。
ただの欠けらではなく、元々あった欠けらを失くした球体というのは、
“ホリスティック”な状態の破綻を意味しているんでしょうか。
そういえば、「people」という曲(アメリカ合衆国では誰しもが飽くほどの道徳ソングなのでしょうが)
にはそんなようなくだりがあります。
訳すと非常に恥ずかしいんですけども...

♪A feeling deep in your soul 
Says you were half,now you're whole.
No more hunger and thirst
But first be a person who needs people.
People who need people
Are the luckiest people in the world♪


♪心の奥底が言っている、
あなたは半分だったけど、今は全部だ、と。
もう飢えや乾きはない
でもまずひとを必要とする人であれ。
ひとを必要なひとが世界で一番ラッキーなひとだから


この歌からすると、
私にどんな嫌悪しているものがあったとしても、
それを私は必要としているということになるのかもしれません。
自分自身について考えたり気付いたりするときに、
必要なきっかけだったり材料だったりするのは確かですし。
♪people who need people are the luckiest people in the worldならば、
好きなものよりも、嫌いなものの方が多い私だとしても、
私も一等幸運な人間の部類だ、ということになるのでしょう。

ネットで、当たり屋みたいにつっかかってくる人や、誹謗中傷をしている人たちは、
きっと、自分を知りたくて知りたくてしようがない飢えと渇きに充ちた人たちなのでしょう。
その自覚ができた時に、多分、
本当に自分が求めているものがどこにあるかの“感”は戻ってくるでしょう。
今は彷徨っているけれど。
けれど、長く続き過ぎた飢えと渇きでは、背に腹は代えられぬ思いで、
手近なものを口にして、インスタントな満足感を得てしまいがちなのが難だったりして。
そういう手の施しようがない状態にならないよう、自分も気をつけなくちゃ、と思う。

しかしながらno more hunger and thirstというのは拙速な気がする。
絵本「ぼくを探して」では、
最後に球体(欠けてるから球体じゃないんだけど)は、探していたかけらと出会うものの、
結局、その欠けらとは別れてまた1人で転がっていく、
というのがお話の結末。、
何だかこっちの方が含蓄があっていいなぁと思う。
いやでも、同じ歌手の曲に「free again」という、
別離の後にまた元の自由な自分に戻れたわ♪という歌があるじゃないか、
と思ったけれど、それはまた別の話し。

とりあえず、嫌いなものから学んだという雑感でした。

フィッシュマンズについて その5

※少し補足しました。

前回、「後で書き足します」なんて書いてしまったけれど、結局時間がなくて書けませんでした。
しかし、本当はもう、フィッシュマンズに関する記事は終わらせてしまいたい。
ダラダラと愚痴のように書く文章は、フィッシュマンズに似合わないし、
佐藤君が死んだことによって、ある種フィッシュマンズが伝説になりつつあるけれど、
そういうことは佐藤君が本来とても苦手としていたことだと思う。
自分が書けば書くほど、なんだか空虚なフィッシュマンズにまつわる幻想を生みだしている気がして、
居心地も悪い。
早く終わらせてしまいたい。いつものフィッシュマンズとの静かな付き合い方に戻りたい。
正直、そんな感じです。
ただ、書かないというのも私にとって不自然なので、やっぱり書くのですが...。
今回で終わりますように。

これは本当に小さな世界でのことで、わざわざ話題にするほどのことではないのだけれど、
フィッシュマンズを好きだ、という音楽ファンの中には、
テクノやダブといった音響系の音を好んでいる人たちがいて、
フィッシュマンズもその枠でとらえている人たちがいます。
私はフィッシュマンズを“音響派”だと思ったことはなくて、レゲエとかダブだと思って聴いたことがないのです。
音楽好きだからフィッシュマンズが好き、みたいなワン・チョイスではないんです。
そういうことは「その3」で載せた佐藤君のことば、
『「音響が好きだから音響出す」のと「こういう感情を表現したいからこういう音を出す」っていうのでは、
受ける側は全然違うんじゃないですか。』
であって、
日本語の音楽を卑下している人が言うような、
「フィッシュマンズは音響系だから聴ける」なんていう感覚は
私には一切ないです。
もっとプライベートなところに寄り添うような音楽だと思っているので。

それから、佐藤君が亡くなってからもフィッシュマンズは解散していなくて、
ただひとりのメンバー、ドラムの茂木さんがその後もフィッシュマンズの活動をしていて、
今のところ、あくまで佐藤君生前時の曲の再発だったり、編集だけが、
音源としてリリースされているのですが、
ライブに関しては、過去にフィッシュマンズを脱退していった旧メンバーや、
フィッシュマンズを好んでいるミュージシャンも参加するかたちで
「フィッシュマンズ」のライブが行われています。
別に悪くないし、いいんだけど、でも私はどうしても喜べないのです。
フィッシュマンズの音楽を今後も引き継いでいこうというのもわかる。

だけど、それなら、
ほとんど廃盤となってしまった過去のアルバムを通常の価格で再発すればいいのではないか。
正直、またフィッシュマンズの音源が出たり、DVDが出たりするとゲンナリする。
聴いている側の生理とは全く関係のないタイミングで発売になったりして困惑もする。
佐藤君生前時代は、リスナー側も待つ身だったし、
フィッシュマンズというバンドとリスナーのタイミングがシンクロしていた気がするのだけど、
結局今は、ただ商売に付き合わされている感じが否めない。
だから新譜が出ても、今はむしろ欲しくない。

今のフィッシュマンズのライブは、同窓会と仲良しによるパーティーでしかない。
そんなに、楽しいことだけでいいなんてことはないはずだ、と思う。
和気あいあい楽しいグッドミュージック、そんなのフィッシュマンズじゃない。
あれだけ「売れたら自分の好きなことができなくなる」と恐れていた佐藤君だったのだ、
もうフィッシュマンズを商売にするのも、
フィッシュマンズを聴いていることを自分の手柄みたいに思うのは止め、だ。

下に張り付けた動画のインタビューで佐藤君はこう言っています(2/3の動画内)。
★動画は削除されてしまいました。。。
(ちなみに私自身は全く格闘技は好きではありませんし、格闘技を評価する気はないです)
「今のプロレス界は僕にとってはもう魅力ないです。毎週欠かさず見てるんですけど。
でも、なんかこう、幻影を追っているだけっていうだけで、別に感動もないし
こんなこというと変かもしれないけど、音楽界ではわりと俺は後継者だと思ってて、
プロレスって戦いで、で、...良いですかこんなこと言ってて...なんですけど、
個人の生きざまを見せる場であって、最後は。勝った負けたはどうでもいいことであって、
だから音楽も、例えるなら、例えばライブなんかでは、歌がうまく歌えたっていうのも重要なんですけど、
演奏が上手くいったとか...
それより大事なのは、プロレスと一緒でたたきつけるって感じが大事で、
そういった意味では僕は後継者なんですよ。」
あんまり好きなことばではないけれど、音楽によらず表現は「生きざま」そのものであるはずだし、
懐メロみたいな、甘ったるいのは佐藤君が望んだことじゃないと思う。

中嶋君がかつてやっていた「喫茶クラクラ」では、
かつてフィッシュマンズのメンバーであったHAKASE-SUNや、
フィッシュマンズ後期のレギュラーサポートメンバーだった故HONZIさんに来てもらって、
演奏会を開くことができて、ことばも交わさせてもらったのですが、
もちろん嬉しくはあったけど、上の佐藤君のことばのように
“幻影を追っているだけ”のようで、そこに私の「フィッシュマンズ」はなかった。

申し訳ないけど、佐藤君がいないフィッシュマンズはフィッシュマンズじゃない。
そして、それでいいのだと思う。
フィッシュマンズが何を表現したくてやっていたのか、それを知っているだけでいい。
それで、既にある「型」に自分をすり寄せていくのではないやり方で、
フィッシュマンズのように「生活が表現である」ことを、自分自身でやっていけばいい。
フィッシュマンズの、佐藤君の精神的な後継者になればいいのだ。ただ追随するのでなく。
そんな気がする。

ああ、これで本当にお終い。
フィッシュマンズよ、さようなら。ありがとう。



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