ノ ー ト

好 き な 読 書 を 中 心 に 考 え 中 を 記 録 す る ノ ー ト

詩歌

the travelin' life



奇妙くんの歌を聴いていると自由を感じる。
奇妙くんは「自由なんかと違うで~」とか言うかもしれないけど。
本人がどう意識してるかとか感じているかっていうことじゃなく、
でもなんかそう思うのだから、
私の思っている自由という言葉の意味に近いものが
奇妙くんの歌には滲んでいるんだろう。

奇妙くんは38歳なのかな。
遅咲きと世間は言うのかもしれない。
でも、歌う事しか上手じゃない(?)奇妙くんは、
自由な感じがする。

今日もどこかでライブをしているんでしょう。
連歌で旅をする歌人のように。
旅するのが仕事って良いなと思う。

中学生の頃、一時、アラビアで遊牧民になるのが夢だった。
奇妙くんを見ていると、今からでもなれるかも?って思える。

みんなが生きたいように生きられれば本当にいいのにね。

メモ

覚書 ~ リルケの詩と


 もろもろの事物のうえに張られている
 成長する輪のなかで私は私の生を生きている
 たぶん私は最後の輪を完成することはないだろう
 でも 私はそれを試みたいと思っている

 私は神を 太古の塔をめぐり
 もう千年もめぐっているが
 まだ知らない 私が鷹なのか 嵐なのか
 それとも大いなる歌なのかを


               

             リルケ 「時祷集-僧院生活の巻」

ーーーーー
大好きなこの詩の言葉の並びを眺めていると、
何かを思いつきそうなので、貼り付けておこう。

「私は私の生を生きている」、
その動機と目的が各々異なるならば、
表現も様式も各々で異なるだろう。
ただそれだけの理由で、
そこには争いや仲たがいが起きもするだろう。
動機と目的を無視したままでの
表現や様式は差異とでしか捉えられないから。
 
けれど、その表現と様式を作り上げている、
動機や目的の構造には
差異を超えたところの
普遍的な原理が見いだせるのだろう。
そしてだから、
原理には争いは存在しないのだろう。

ここでの語らいが、
表現と様式の淵でとどまるのでなく、
その構造にまで届くのなら。
“you're right , i'm right too
there's no one left here
になるんだろう。

原理はそこかしこにあり、
目の前にあるのに、
私たちはみようとしない。
もしくはそれをみる技術を手放してしまったのか。

本能の壊れた人間は、
リアリティの世界において、
積極的に認識しうるものでなければ、
「在る」とできない。

けれど、
波紋が水面の対称性の破綻によって現れるように、
かたちや姿が差異によって私たちに現れるのならば、
本当は、表現や様式こそ、
ひとの動機や目的の構造の“剥き出し”なのだと、
改めて学ぶべきだろう。

既に与えられた「先入見」がなければ、
対象を認識することすらできない私たちを、
しかしそれは「負」なのではなく、
あらゆる生物の中でも最も授乳期間が長く、
育児期間の長い生き物であるがゆえの自然だと思おう。

「先入見」は必ず打破され、解釈は拡大し続ける。
こうして、長い育児期間がゆえの、
「親離れ」を何度も何度もヒトは繰り返すのだろう。

それが言葉の呪縛であり、
しかし同時に言葉が、跳躍の鍵ともなるわけだ。

先入見を元にした解釈の拡大は、
いわば言語の細胞分裂のようだ。

鎌倉時代の仏僧が、
「本当は“花”など存在しないが、“花”とする」と言ったように、
反証によって私たちはやっと、
原理に至る。


国家による暴力や殺人が正当化されている間は、
ヒトの社会は、
表現や様式を単なる差異としてしかみなしていない。
社会は巣立ちを、親離れを禁ずる。


そこに「在る」ということは、
アクチュアルな時制の中で、
私の事件であり、出来事-happening-である。
ゆえに、「在る」は時間であり、「現在」なのだ。

目の前の表現や様式は過去ではない、決定済みではない。
だから、目の前に「在る」のだ。
まだその意味や価値は決定していない。
事はまだモノになっていない。

なぜ、その意味や価値の未だ決定していないものが、
争いの種になり得ようか。
解釈はこれからである。
始まったばかり。
今は「未(いま)」だ。




歌が歌えるって

最近とても好きな奇妙礼太郎氏。
久しぶりにワクワクする感じ。

ひとのうたとか自分のうたとか関係なく、
ただただひたすら歌うのが大好きっていう感じ。
でも全部、奇妙礼太郎の歌になっている。

歌が歌えるってなんて素敵なんだろう。
しかも、こんなに。

都知事選は私としては残念な結果になったし、
政策を実現することよりも、
これだけ歌えるなら、
歌手の方が断然いいよ。

ひとの心にすっと入って、ずっと残ってる。
そして大事な時にまたふっと思いおこせば、
またそのひとの中で流れ出す。

「喫茶クラクラ」をまだやっていたなら、呼んでみたかった。
多分、来てくれた気がするんだな。
誰か松本に呼んでよ。

奇妙くんの曲を聴きながら、
「楽器出来なくてもいいから、
歌う事だけはずっとずっと好きでいてよね」
と娘に思わず言っちゃったね。

どれも奇妙くんのうたは素晴らしい。
ぜひぜひ聴いてください。




とにかく、
フィッシュマンズの佐藤君以上の人に早く会わせてほしい。
これはかなり切実な願いなんだよ。

フォーク 

最近CMでまた人気のこの曲


22年前、スペインにいた時仲良かったルミちゃんが
中島みゆきのファンクラブに入ってて
私は「なんで中島みゆき?」と思ってたけど
いい曲なんだよとルミちゃんは
歌詞カード見ながら歌ってくれた。
この曲を最初に知ったのはその時、
グラナダの下宿先のピソの一室で
隣室の下宿生のスペイン語がかしましい中
おとなしいルミちゃんは恥ずかしそうな小声で
けれど真剣な面持ちで歌ってくれた。
中島みゆきは馬鹿にできない。

♪ 勝つか負けるかそれはわからない
  それでもとにかく闘いの
  出場通知を抱きしめて
  あいつは海になりました

 
♪ ああ 小魚たちの群れきらきらと
  海の中の国境を越えてゆく
  締めという名の鎖を
  身をよじってほどいてゆく

現実にすり寄って生きるのではなく
理想だけを見て生きたい、と思う。

頑張れ、と人が言ったら
「お前こそ頑張れ」と内心思う。
頑張っている人しか、
ヒトに頑張れとは言えない。

最近、ボブ・ディランってなんだったんだろうって考えた事があった。
別に答えは出ないけど。
彼の言動は当時、これから変わっていく何かを宣言しているんだろう、と
みんなが期待したんだろう。
けれど、彼は彼の歌の持ち主ではなかったし、
彼自身、自分の歌をよくわかっていなかったのかもしれない。
彼もいわゆる口寄せでしかなく。
そうして多分、彼の歌は詠み人知らずで残っていくんだろう。

中島みゆきはやっぱり日本のボブ・ディランなんじゃないかな。

辛卯

  • P1010515








    十干と十二支合わせて干支だから、今年はただのうさぎ年ではなく、
    辛卯(かのとう・しんぼう)と呼ぶ。
    この国が十二支ばかりで年を数えてから久しい。

    『万葉集』には“年賀の歌”はまとめられていないという。
    大好きな実朝の『金隗和歌集』を見ても、
    その“暮れの歌”の多さと対比すると、“新年の歌”はまるでない。

    新年をことさら祝うのは漢字文化圏とベトナムだけだとか(いわゆる柵封体制)。
    皇帝は時間をも支配すると考えられたから“元号”があるのだろうし、
    もしかすると天皇を詠んだ「万代に」とか「君が代に」とか「千々」なんて歌と、
    新年をコトホグ歌は一体・同義だったのではないだろうか...。

    年末は、
    “現実的”な政治は民族主義を土台にしてしかりという、
    コメンテーターたちの露出ばかりが目立って。

    彼らが表現すると、最たる“私たちの現実”とは何にもまして、
    極東アジアの軍事的緊張を意味するようだ。
    けれど、私たちは普通に2足も3足もの草鞋を履いて生活している。
    色んな顔を持っている。
    確固たる主義主張を持っているわけでもないし、
    全ての世帯が、ただ単1個所からの収入で生計をたてているわけではない。
    それと同じように、いくつもの現実を並行して語れないものだろうか。
    普段の私たちの生活はそれをやっているはずだ。

    NHKも、
    共同体主義の代表的論者である教授の「ハーバード大学の白熱教室」の放送を、
    この年末年始にたたみかけて流している。

    “現実的(=軍事)”やら“ハーバード大学”なんかは、脅し文句でしかないじゃないか、と思う。
    脅された上で考えたり決断しても、いいことなんてない。
    シナジェティクス研究所の梶川泰司氏
    「理解に同時性を求めない」と語られているけれど、
    まさに脅しとはその逆で、同時性の強制ではないだろうか。

    スペインの、国や人民の在り方について模索した、ある文学者は、
    こう書いているそうです。
    真理以外に正しいものはない。
    そして真理は理性にまさるもの、とソフォクレスも言っている。
    それはあたかも、生命が、喜悦や苦悩にまさるものであるというのと同じだ。
    したがって、真理と生命がわたしの箴言であって、理性や喜悦はそうではない。
    喜悦の中に推論したり、理性の中に幸福をみつけるよりも、
    たとい、苦悩するとも真理の中に生きることだ…
    以前、乳児のうちは様々な言語を聞き分けていることをここでも書いて、
    それで赤ちゃんには、実の生母とは異なる言語・民族に育てられようとも、
    それに順応していく能力がすでに搭載済みなのだろう、ということを書いた。
    赤ちゃんは民族主義を超えている、と。

    理性ではなく生命がわたしの箴言、これはいい言葉だと思う。

    おせち、“理性的に”ここ数年やってはいるけれど、
    普段粗食にしているわけでも、砂糖が貴重な生活でもないのだから、
    生命的には、結局は雑煮だけでいい気がして、
    春は来にけり。

    覚書(宮沢賢治)

    自分が「こうだろう」「こうであって欲しい」と思う考えがあったとして、
    それを説明してくれる人物が、
    “偉大な誰もが知っている”人であった方が嬉しい人と、
    “偉大ではあるけれどもあまり一般的には知られてない”人だと嬉しい人。

    多分後者の方が、神秘的な表現に抵抗がない人のような。
    神秘的な表現に抵抗がない人は、概ね、無意識を高く評価するけれども、
    それはつまり、
    無意識というものが自己にとって、
    “偉大であるのに一般的には知られてない”ことをよく知っているから。
    そういう人には詩情があって。

    偉大であることと認知度は伴わないことを1番体現しているのは小さい子供で、
    だから1番詩情に恵まれている世代は幼い年代。

    詩は無意識からの要請を多く含むものであり、
    潜在的にひそんでいるものを再発見したり、
    ラべリングが済んでいないものに普遍的な名前を与えることであるならば、
    詩は科学と似ていて。

    言語活動である詩や科学は、全くの無から意味を立ち上げることではなく、
    全て仮説検証型の表現かもしれないけれど、
    (“あてのない旅”も実は、局所的にはそれなりの“あて”があるように)
    その仮説を要請する存在が、自分自身という私的な個人なのか、もしくは企業や業界なのか。
    それが最も私的な存在からの要請のとき、
    賢治の言う「信仰も科学と同じになる」は起きる気がする。
    この時の“私”とは、
    作りあげている私ではなく、私作りあげている<わたし>の方であって。
    大抵、私作っている私は可視化出来るが、
    作っている<わたし>は隠れている。

    日本語の助詞は、自立語同士の関係を表したり対象を表すもので、
    使い方が非常に曖昧なものだと考えられているけれど、
    むしろその様な助詞、「てにおは(天爾遠波)」の曖昧さは、
    自立語とみなされている単語の“自立”自体を揺さぶるような、
    関係の相補性という、
    動的でリアルなニュアンスを的確に表現することに対応した知恵、なのではないかしら。


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