ノ ー ト

好 き な 読 書 を 中 心 に 考 え 中 を 記 録 す る ノ ー ト

ひと

Liza!

とうとう見つけてしまった。
Lizaの「the travelin' life」
最初に見たのはエド・サリヴァン・ショー。
帽子づかいがとってもキュートで、ボードビリアンな感じだった。
10代の時よく歌った。
し、スペインから帰ってきて、またあっちへ行くつもりだったから、
もうこういう気分で生きていた気がする。遠い日の思い出。


I never was a stay-at-home
I've wandered hill and valley
With my two companions
Mister Rand and Mister McNalley

Me, I like the travelin' life
Yes, I like to get around
I've found that the life for me
Has bound to be
So free an easy
Easy and free

No matter where I chance to roam
Where I hang my hat, that's home
I know the life for me
Is just to be
So free and easy
Easy and free
The travelin'
The travelin'
I love the travelin' life

Pack your grip
Come with me
And we will see Capri
And be in Napoli
For a weekend of fun
Plan the trip to Paris
There is a bistro on the Left Bank
I like cos it's frankly a place most tourists shun

Why not try the travelin' life
You'll never want to settle down in town
Once you see it my way
Hit the highway
Every main road
Every byway

I won't give up the travelin' life
I'll give it all I've got to give
Now I am free and easy
Easy and free
The travelin' life is the life for me (yes!)
That's the life for me
For me
For me
  


ついでにこれもすごい。
お母さんのジュディー・ガーランドとのあのライブが1時間近く見れる。
ありがたやーyou tube.
barbraとTVのジュディ・ガーランド・ショーでやっとのと同じのを
lizaとやってたのねーーー
マツコさん知ってるよね。一緒に見たいわーーー
 

贔屓

随分ご無沙汰してしまった。

なんでも「やめる!!」といきり立っているときは
かえってやめられなくて、
本当のやめ時って、自然とやめてる時なんだろうな
っていうのを実感した感じ。

片足残したまま戸口から外を覗いても、
そこから見える景色は限られるんだそうだ。
新しいものを見たいなら、
戸を一旦ぴったり閉めて、外に出ないと見えない。
とも女将が言っていたが。

縁あって、噺家の柳家蝠よし(ふくよし)さんを
勤め先の蕎麦屋の女将といっしょに応援することになりやした。
「必ずえらくなっておうかがいします!!」と宣言されたので、
早くえらくなってもらいたいもんです。
ネットで検索しても、
ちっとも蝠よしさんの名前がみつからないので、
ネット上に足跡付けるつもりで書いてみようと、
それで久々のブログ。

ここ最近とんとご無沙汰していた落語だっただけに、うれしくもあり。
馬桜さんと喬太郎さんと蝠よしさんが贔屓と言ったら、
蝠よしさんはかえって居心地悪そうだけど。

敗北の方法

とうとう吉本(隆明)さんが亡くなった。


このわたしに影響を与え、わたしを構成してきた沢山の人たちが
近年、続けて亡くなる。
それでもわたしが平気で生きていられるのは、
失ってもまた違う誰かに出会っているからなのだろう。
このいわば「エネルギー保存の法則」のようなものが崩れた時、
多分ひとは正気でいられないのだろうな、と思う。


今の私は、吉本さんの考え方を「これだ」と一口には言えない。
言えないほど、最近の著書を目にしても来なかった。
けれど、読まなくても欠乏を感じないくらいに、
吉本さんの考え方は私の中に常にあるような気がしていた。

私の父は全共闘運動をかなり中心でやってきた人間だったので、
吉本さんの著書は家に沢山あって、そのうち知らず知らず読むようになった。

15歳の時、スペインへ行くことになって本をあまり持参できなかったけど、
吉本さんの『悲劇の解読』の文庫本をバッグに入れて、飛行機に乗った。
そして父に、文庫内で扱われる横光利一や小林秀雄、芥川龍之介等々の作品を
スペインからリクエストし、送ってもらっては、むさぼり読んだ。
不思議なことに、スペインに行ってからが1番、日本語の文学を読んだ。

こんなだから、私が日本語で考えるということは、
少なからず常に吉本さんをベースにしているとも言えるかもしれない。

学生のころ「吉本主義者」とさかんに呼ばれていた父も近年は
「吉本は終わった」とよく言っていた。
その気持ちもわかる気がした。
しかし“吉本さん自身が終わった”のではなく、
むしろ、父の中での“吉本さんが終わった”と言った方が正しいのだろう。
父はもう、吉本さんに期待しなくてもよくなったのだ。
それは純粋に良いことだと思った。
なぜなら、
<何者かになるのではなく、自分の立場から世界を見ることの重要さ>
これこそが、吉本さんから学んだ主たることだったのだから。


こうした、ある時期に強い影響を受けた側の者と、
与えた側の者の両者の関係を肌身に感じて、
私は吉本さんが、かつての自分のカリスマ像を破壊してまわってるんじゃないか、と想像した。
そしてそれは大成功している、と。
吉本さんが晩年、良寛や賢治、ヴェイユなどを中心に語ったことを考えれば、
カリスマでいると“ほんとうの”ことがわからなくなると考えていたに違いないと思う。
カリスマ像を脱ぎ去った吉本さんは、
ほんとうの読者をやっと見つけることができるだろう。


私にとって吉本さんは“体制から逃走する人”だった。
反体制も時を経れば、必ず体制になってしまうヒトの歴史の中で、
絶対に体制側にはならないその嗅覚は鋭かった。
世間が黒といえば白といい、白といえば黒という。
天の邪鬼なまでに、逆の可能性を探った人だったと思う。
例えば、専門家をほめたたえる昨今の風潮の中で、
専門家がかならず職業病で身体の一部分を悪くしてしまうことを引き合いに出して、
だから「専門家なんて偏っている」と言ってのける、そういう人だった。
正しさを主張しても、その正しさへの盲信を批判されるというような、
吉本さんのまえでは、誰も安穏と胡坐をかくことができなかっただろう。

かつて吉本さんを、
「無神論者のくせに、神学者の中に入ってきて議論するタイプ」と批判した人がいたけど、
あながち間違っていない気がする。
同じ知識量、同じ教養をもってして語ることが当たり前のような業界の語らいの中で、
吉本さんがつっこむのは全く違う角度だった。
「そんなこと言いながらあんた服の趣味は悪いよ」とか、
そんなことをむちゃぶりして、相手を黙らせるようなことだった気がする。

そういう吉本さんを卑怯だと思う人もいただろうし、
服なんてそんなこと関係ないじゃないか、今問題にしてるのはこの事でしょ、
話しを逸らすな、とかいって憤慨するような人も沢山いただろう。
けれど、
“ある問題だけを切り取ってそれを学問することが可能だなんて、
馬鹿言うんじゃねえよ、そんなのただのアカデミズム的嗜好じゃねえか、
日常と関係ねえ問題なんかこの世のどこにあるんだよ、そんなのアンタが決めることじゃねえだろ、
そんな自己満足的ガクモンじゃ、この現実を何にもとらえることができねぇよ”
というようなことを、吉本さんだったら言うだろう(あくまで想像)。

以下、吉本さんの文章を転載。


市井の片隅に生まれ、そだち、子を生み、生活し、老いて死ぬといった生涯をくりかえした無数の人物は、千年に一度しかこの世にあらわれない人物の価値とまったくおなじである。市井の片隅に生き死にした人物のほうが、判断の蓄積や、生涯にであったことの累積について、けっして単純でもなければ劣っているわけでもない。これは、じつはわたしたちがかんがえているよりもずっと怖ろしいことである。

 知識について関与せず生き死にした市井の無数の人物よりも、知識に関与し、記述の歴史に登場したものは価値があり、またなみはずれて関与したものは、なみはずれて価値あるものであると幻想することも、人間にとって必然であるといえる。しかし、この種の認識はあくまでも幻想の領域に属している。幻想の領域から、現実の領域へとはせくだるとき、じつはこういった判断がなりたたないことがすぐにわかる。


自分の考えの中に、いかに嘘や幻想が含まれているかを気付かせる人、
それが吉本さんだったと思う。

父が吉本さんを「終わった」と言ったように、
上野千鶴子氏も「吉本さんは結局何もしてくれなかった」と言った。
けれどその上野氏の言葉を制して、
女性活動家としては上野氏も到底頭の上がらないほどの存在である、
森崎和江氏は「吉本さんは生き様が哲学なのよ」と優しく語ったことがある。
なんの対談かは忘れたが、非常に忘れがたい言葉だった。
多分、森崎和江氏のように、最後まで虐げられる側の現場に立ち、
援助活動を不断なく続けてきたような人にしか、
近年の吉本さんを理解できる人はいなかったんじゃないかと思う。


「本当の師は、弟子に乗り越えられるのを望んでいる」
これは臨済哲学を学んでいる父から教わった考えだけれど、
その意味でも、吉本さんはかつての信者から失望されるのも意に介さなかったと思う。
多くの人が吉本さんに心酔し、吉本さんを通過し、去って行った。
けれどこんなにも多くの人が通れる通過点になれた人は、そういないだろう。
そういう点でも、吉本さんはとてつもなく大きな『場』であったことに間違いはない。


吉本さんの『初期ノート』の中に
“今戦えば敗北しかない。しかし戦わなければ、敗北することさえ許されない”
というような言葉がある。
この言葉はずっと吉本さんに表れていた気がする。
けれど今は、
勝ち方を知らないで戦う奴隷と、
勝つことが分かっているから戦う卑怯者の、
2通りしかいない。

3月16日、
敗北することが分かっていても戦う人が、1人いなくなった。


追悼 松田直樹選手

本当はBの続きを書こうと思っていたのだけど、

年が近いせいもあってか、
ここ松本のクラブ「松本山雅」に属していたからか、
よくわからないけれど、
多くの人がそうであったように、
松田選手の急逝は本当に本当にショックだった。

「(中田)ヒデを殴れるのは俺だけ」と自負していた松田選手、
「出さなかったら殺すぞというオーラが出ている」と、
トルシエ元監督に言わせた松田選手。

詳しく知らないのにエピソードだけ追っているのは情けないが、
日本人選手には珍しい反骨精神というか、勇ましさが、
この人には強くあったと聞く。

松本山雅に入って、
最愛の古巣「横浜マリノスと対戦できることがマリノスへの恩返し」、
と語ったという話は何度聞いても胸を打たれる。
それで、彼は余計に頑張っていたんじゃないだろうか。

「最後の瞬間まで現役だったのは幸せだったんじゃないか」、
とかなんとか言う人もいるようだが、
それはちょっと待ってくれ、と思う。

AEDさえ、練習中に携帯していれば、救えた命かもしれないのだ。
なんで、山雅はAEDを持ってなかったんだ?
だからって、山雅だけを悪者にしないでほしい。
日本サッカー協会のJリーグ準加盟制度の条件を見たって、
法人の役員のこととか、ホームスタジアムの規模だなんちゃらのことばかり。
協会はもっと他に、最初に条件づけることがあるでしょうが!

プロスポーツなんだから、AED不携帯は大問題。
そこにお金かけないでどうすんだ。
それを条件にしないでどうすんだ。
お金のない地方クラブなんて、
中央からがっちり指導して、選手を保護してやらなきゃダメじゃんか。

プロスポーツはみんな過度に体を酷使するもので、
どっちかっていると、体にはよくないもんだと思う。
体にはよくないことを人にやらせているという認識が、
協会側にはないんだろう。

「マリノスにいたら、こんなことにならなかった」って、
横浜の人たちが悲しむのだとしたら、情けないし、何とも言えない。

スポーツするときにはAED、
これ、どうか全ての基本にしてください。


ニカさんのこと

※追記しました(22時13分)

二階堂和美 「あなたと歩くの」

先日、糸井重里氏のサイト「ほぼ日」を開いたら、
「二階堂和美」の名前が。
思わず「おっ」と声に出してしまった。
そうかついに、ほぼ日で...これでブレイクだろうか、
実に遅い気がするけど。


二階堂和美さんは広島在住の歌手で、
「ニカ」さんと呼ばれています。
私も、ニカさんの歌声を生で聴いたのは1回しかなくて、
全くの不案内にもかかわらず、なぜか「ニカさん」とずっと呼んでいる。

ニカさんには、
中嶋君がやっていた「喫茶クラクラ」に1度来て歌ってもらったことがあります。
単独ライブではなく、
2006年のマウント・イアリ(旧マイクロフォンズ)の来日ツアーに、
ニカさんが一緒に回っているというものでしたが。


その頃の喫茶クラクラは、閉店秒読み状態で、
駆け込みのように毎週末、音楽イベントが続いていました。
地方都市で「イベントって言うとイコール音楽イベント」なのが、
モノカルチャーで「なんだかなー」って気分が私たちの中で高じていて、
イベントやってもらっててエラソーなこと言えないんだけど、
音楽業界の人たちのあの選民意識というか、すかした感じ、
下手するとドラッグカルチャーを崇めそうな勘違いした感じに
いい加減嫌気がさしていた(ミュージシャンというより、特にイベンターの側の)。
それでも、クラクラでやってもらったミュージシャンは殆ど良い方たちでしたが。


そんな、音楽にややげんなりした気分の中、ニカさんはやって来たのだった。

うって変わってニカさんは、
いつもニコニコしていて、チャーミングで、礼儀正しい、まさしく「お嬢」だった。
それが新鮮で新鮮で、私はすぐに魅せられてしまった。
(実際、彼女の音楽をよく聴いている訳ではないのですが、
ニカさんという存在を完全に信頼してしまった感じです。)
ニカさんは業界に染まっていない、自立した純粋な人だと思う。
そういう意味で、私は、ニカさんに強い「スター性」を感じる。

美空ひばりとか笠置シヅ子とか、バーブラ・ストライサンドと同じような、
ヴォードビルタイプの正統派の歌い手の存在感を、
私はニカさんに勝手に感じていたりします。
周りの人から大切にされてる感も、“ザ・スター”な気がする。
おきゃんで可愛くて、良い意味で完全に「浮いて」いるというか。
周りが汚れて見えるくらいの。

ニカさんが御実家のお寺で尼さんをしていると知ったのはずっとあとのことだった。

「クラクラは防音設備がないので大きい音が出せません」と説明しても、嫌な顔一つしないし、
電気に繋げなかったり、大きい音が出せないとふてくされる誰かさんとは違って、
ニカさんには、電気や大音量に依存しない、自分の音楽への自信があるんだろうと思ったし、
実際、そうなのだと思う。
公演が終わって、関係者がうようよと動き回り、騒がしくしている中、
ニカさんは端でちょこんと座り、その日のライブ録音だかをイヤホンで聴きながら、
ノートにメモを取り一人反省会をやっている姿は、ヨーロッパで見た学生みたいで、
ニカさんの努力家で謙虚な人柄を表す美しい情景だったので、
折りに触れて思い出すことが多い。

だから、ニカさんが多くの人に聴かれるととても嬉しい。

音楽(表現)と人柄の一致は、なかなか難しくて、
どちらかが良くても、他方が既存の形式に引っ張られてしまうからなんでしょうが、
なかなか両方がいいっていう人はいない。
表現と人柄の一致を望んでいた喫茶クラクラ関係者として、
そんなニカさんが活躍されることは本望なのです。


ニカさんのHPに、やっぱり上関原発反対のリンクが。
こちらも応援したいです。

※今日、ustreamで20時からニカさんのライブがあるそうです。


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ここから追記


ustreamのライブ配信を見ました。
ニカさんは、さらにスケールが大きくなっていた!
歌唱力、表現力、素晴らしーーい!!
ラジカセにつないで見ていたのだけど、大興奮!
久々、歌で感動した気がする。
いいなぁ、すごいなぁ。素晴らしい。
くーっ、素晴らしすぎるー!!
どこかでこの配信、再度見られるようになるといいのだけど。
見られた方はお互い、おめでとう。乾杯したい気分だね。

やっぱり、洋の東西を問わず、
芸能の民は元々河原乞食や流浪の民なわけだけど、
だから地域性とか国境とか、そういうのを超えて、
多くの人の心に響く力強さを有してきたんだと思う。
ニカさんは、まさにヴォードビリアンであり、
ジャンルはだからワールドミュージックなんだよ、って言いたくなってきた。

先生2 ~ 単層から重層的に

私はそういうつもりで書いている訳ではなくても、
「全ては偶然ではない」と考えたい人の中には、
陰謀論の類が大好きな人も多くて、
それと混同されることもあるでしょう。

ただ私は、少数が多数を操っているような、そんな考えはどうも苦手なのです。
「前衛」対「後衛」という前世紀的な構図が、しっかり頭に染み付いた人が、
“真実に気付いている自分は少数派=前衛だ”なーんて自惚れるあまり、
「少数」対「多数」という発想パターンから抜け出れなくなっているんじゃないか、
と思ったりもする。

陰謀論にはいつも、ピラミッド状のヒエラルキーの構図が前提にあって、
そこは、全てがトップダウン的にしか作用しない世界に見える。
「1人の人間は所詮歯車でしかない」と腐って考える奴隷根性みたいで、
あんまりいい気がしない。
そんな一方向性だけの世界って本当にあるのかしらん?
自然界はこうも相互作用的なのに?
そして、
結局その「トップダウン」が理屈として成立するからには「頂点」と「中心」が必要なはず。
頂点と中心は、あくまでヒトの心が生む幻想であって、
「道をもって観ればものに貴賎なし」の心でいけば、
陰謀論に陥るのは、貴賎の意識があることを表明しているようなもの、
じゃないのだろーか。


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6月1日、歯医者さんに行った後、
まゆみさんが通っている絵の教室に見学に行かせてもらった。
まゆみさんから話を聞くにつけ、娘にその教室に通ってもらいたかったので。
そしたらなんと、ちょうどその日は園児クラスが開設される「初日」だった。
これも偶然ではないのだろう。


今春より娘は保育園に通っていて、
だからこそ保育園と並行して、別の「教室」に行かせたいと思っていた。
学ぶ場所が1つで、1つの価値観&仲間にしか触れられないのは息苦しいし、
そういった閉塞感が精神衛生的にとても危険なことを、自分で体験済みだから。
正直、それが絵の教室だろうが、音楽の教室だろうが、ジャンルは何でも構わなかった。
娘は絵がうまいんだけど(親バカ)、でも、
「絵画教室でその才能を伸ばしてやろう」とかそういう思惑からではないのです。

しかし、私にとって“世間(学校)の言うこと”と“父の言うこと”が、
あまりにも乖離していたので板挟みになり、
結果、そのどちらをも疑うようになる、ということが起きたように、
複数の異なる価値観の前で、娘が混乱するということもあるかもしれない。
けれど、この世に生を受けたからには、
「この世に生まれてきてよかった」と娘に思って欲しいのだ。

しかしながら、この「この世に生まれてきてよかった」というのは、 
ただ安楽や快楽の享受だけによって発される言葉ではないはずだ。
そんなものは、あくまでこの世の一部分でしかないから。
「この世」を全体としてとらえなければ、
本当の意味で「この世に生まれてきてよかった」なんて感慨には至れないのなら、
やっぱり娘には、この世の苦しい部分も学んでほしいと思う。


漱石は自分の奥方を馬鹿にするような人物だったので、
本当は好きじゃないんだけれど、
先の「住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。
 どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。」
であるならば、むしろ、
この「どこへ越しても住みにくい」という生き方は、
この世を、「住み<易い>ところ」と、「住み<難い>ところ」とに分断しない生き方
全体を生きる生き方とも言えるんじゃないだろうか。

「貧富の差(南北問題を代表とする)」や、
「農村と都市/地方と中央」といった対立項を超える、
「道をもって観ればものに貴賎なし」の精神性につながる生き方なのかもしれない。
本人はそうとう辛いかもしれないけれど。


けれど、今の私は娘に、「同時性と非同時性」ということを話してあげられる。
かつての幼い私には誰も話してくれなかったことだ。
この「同時性と非同時性」とは、シナジェティックス研究所の梶川泰司氏が使っている言葉で、
私には超ド級の画期的な言葉だった。(例えばーー「(続)非同時性」を参照のこと)
これと、同氏による、
「仕事と職業は完全に一致しない(※「テクノロジー」参照)」という言葉があれば、
大抵の失意は絶望にはならない。
というか、〝絶望も希望の一形態である(安部公房の弁)”ということもわかるだろう。


とにかくそんな色々な思いが、
娘にとっての“別の教室の存在”を中嶋君と私に検討させたのでした。

娘が絵画教室の“園児クラス”に参加させてもらっている間、
中嶋君と私は、
北澤先生(美術家であり、まゆみさんの絵の先生です)に鉛筆を使わせてもらった。
鉛筆を削るのと、線を描くのを少し教えてもらう。

まゆみさんから聞いてはいたけれど、
北澤さんの発する言葉がスゴイ。
スゴイというのは結局、“逃げた”表現だけれど、
でも、北澤先生の言葉は“含蓄がある”とか“深い”とか
言い換えて形容してみたところで、
そんな優等生的表現は感動から距離があり過ぎるのだ。それは高慢。
高慢になるくらいなら、まだ卑怯だと言われる方がいい。


本当にメモすればよかったと思うような“北澤語録”。
この日私たちが線を描くのは「剣道じゃなくて、チャンバラで良い」とか
(これを聞いてずっと「木枯らし紋次郎」の
〝画期的なリアリズム”と評された殺陣のシーンを思い出していた)、
「(描いて行って)成り立ったものをどうするかっていう世界」
(「成り立った」ということが偶然でないとしたら?なんて思った)
「ガラスのこちら側だけ拭いてもさ、向こう側の汚れが見えるでしょ」
「自由に書きなさいってことは誰にも言わない(子供にも)。」
(“自由”には基礎が要るってこと)
デッサンの練習は、
「火をおこすのと同じなんだよ。500回目に火がついても、499回までは火はつかないでしょ。
それがわからない人が多い」
などなど...


線を描くということは、絵を習うこととは、恐ろしいと思った。
1本1本が自分を表しているのだ。
火がつこうがつくまいが、全ての記録。
火がつかなかったことの記録であり、火がついたことの記録であり...
多分、刃を砥ぐことと似ている、と過去の自分の経験で一番近いものを思い出す。
あの、全ての砥ぎで受けた作用が、あますことなく刃の形状として現れることと似ていて...


例えば言葉は、1部の詩歌を除いて、字面がそのまま景色である、なんてことは起きない。
(私の好きな詩人の詩は字面が景色になっているんだけども)
いつも言っているように、言葉には“和音”がないけれど、
(つまり、同時に複数の異なる単語を存在させて、新たに別の1つの概念を生む、
ということは出来ないということ)

線は即座に、景色‐和音‐ボリュームにつながるのだ。
特にデッサンでは、
例え消しゴムで線を消しても、完全に消し去ることは出来ないように思えた。
過去に引いた線はそこに残り、上書きされた線に確実に影を落とす。
「ボリューム」とはパソコン用語では
連続した記憶領域のことを意味するらしいと初めて知ったけど、
ボリュームと記憶領域、なんかしっくりする気がする。
描かれた線は触ることが出来る自分の考えや心、そんな気がした。
そして「過去」も「現在」として紙の上に現れること
(それがボリュームってことなんだけど...。)

つまり絵を習うことは、
単層的ではなく重層的なはたらきを学ぶこと
なんじゃないだろうか、と思った。


その日、
その絵画教室の、新たな講座や企画についてのパンフレットを頂いたのだけど、
それを見せてもらってまゆみさんがすぐに、
「(自分の)ブログで紹介してもいいけど、上手く伝わらないと嫌だから...
こういうのって難しいでしょ。
だから(パンフレットの内容の)HPがあれば、それを紹介すればいいんだけど...」
というようなことを北澤さんたちに思慮深く言った。

直観というのは、決して直情(径行)とは違う。
世間では誤解されているように思う。
一瞬にして重層的な配慮や考えが出来ることを、「直観力」と呼ぶんだろう。
そう、まゆみさんを見ていて感じた。

直観は、過去を余すところなく現在に表現する力、なんじゃないかしら。

例のアニメ「カンフーパンダ」のウーグウェイ導師のセリフに、
「昨日とは過去の物、明日とは未知の物、今日の日は儲け物、それは天からの贈り物」
というのがあったのだけど、
 元の英語のセリフでは実際こうだ↓。
 "Yesterday is a history, tomorrow is a mystery, but today is a gift.
That is why it is called the present."
本当は導師は「“天から”の贈り物」だなんてことは言ってなくて、
むしろ、
「今日の日はギフトです。だって現在形のことを「present(プレゼント)」と呼ぶでしょう?」
っていう方が近いと思う。
1つの言語内で充分に真実は語れる、という絶好の例。


この日は、歯科医師の先生と、北澤先生と、
娘の「園児クラス」の先生である仁科先生とまゆみさん
という4方の「直観力」に触れて、とんでもなく刺激的な1日だった。
「もしかしたら今日会ったこの人たちは、
分類したら、同じ人間である私ではなく、
むしろ野生動物の方が近いと言えるんじゃないだろうか。」
なんて考えていたら、中嶋君が、
「世の中のろくでもない大人だけじゃなくて、
あんな大人もいるんだってことを、情報として知っているだけでもすごいことだけど、
(娘が今日の4人を)直接知っているってことは、(娘の人生にとって)かなりのことだよ。」
と言っていた。


多分、四の五の言っても、
これがこの日の総括でしょう。



先生1 ~ 単層から重層的に

「この世に偶然などない。あるのは必然だけだ。」と言う人がいる。
それが真実なのかどうかという追求とは別に、
まず、「偶然はない」ということを前提にしてみたのなら。


そうしたら、
それが“前提である場合”と“ない場合”では、
まるで全てが違って見えてくる。

まゆみさんに歯医者さんを紹介してもらって、
6月1日の日に、
まゆみさんの住む町の、ある歯医者さんを訪ねました。
娘の虫歯がかなり進行しているのと、
娘の歯のかみ合わせのことでおうかがいを立てたのでした。

実は今まで、娘(現在4歳)は歯科検診というのを生まれてから1度も受けていない。
行政から案内される幼児健診は、徴兵検査か検閲のようで恐ろしく()、
過度の心労となった10ヶ月健診を最後に、受けるのを拒否してきた。

それを拒否することは当時の私の精神状態から言って、必要なことだったんだろうとは思う。
けれども、それが1つの現実逃避であったことには変わりがないし、
娘の虫歯を進行させたのは、
歯科検診まで拒否してきた経緯もそれを後押ししたんじゃないか、と
自責の念が絶えなかった。

漱石の「草枕」だかに出てくる、
「智に働けば角が立つ。情に掉させば流される。意地を通せば窮屈だ。
兎角に人の世は住みにくい。」
とは、よく言ったものだと思う。
娘と自分双方の、心身の健康を導き出そうと意図したつもりが、
あちらを立てればこちらが立たず、結局は何かが至らない。
本当に不甲斐ない思い。
でも、
そういえば、上の漱石の言葉はこうも続くのだった。
「住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。
どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。」
と。
私には、こうしてブログで「書く」くらいのことしか起きないけれど。

娘が病気で床に伏せている時は、
アニメーションのDVDをレンタルしてきて観ることが多いのだけど、
最近見た「カンフーパンダ」は本当に良かった。
よく、文化の違う米国人が、
東洋思想をちらばせながらこんなエンターテイメント作品が作れたもんだと感心する。
カンフーの本場中国でも評価は高く、
中国政府の顧問委員会さえもが
「“なぜ『カンフー・パンダ』のような作品が中国で製作されないのか”というテーマで討論を行った」
とのこと。

ちなみに、「この世に偶然はない」というセリフは、
このアニメーションの中で、カンフーのウーグウェイ導師(ゾウガメ)も言っていたこと。

ならば、まゆみさんから紹介してもらったこのタイミングで、
(まゆみさんは実際自分で試した医者しか、他人には勧めない)
娘の初めての歯医者さんがあの歯医者さんだったことは、
偶然でないのかもしれない。


その歯医者さんは、
恐怖で泣いている娘の口に何を入れるにしても、娘にあらかじめ触らせてくれた。
「痛くないでしょ?これならお口に入れてもいいかな」と、その都度。
虫歯の進行を止める薬も、娘が嫌だと言ったら、何もしなかった。
奥歯と前歯がだいぶの虫歯なのだけれど、虫歯の状態を確認しただけで、
なんの治療行為もなかった。
今の娘の歯の状態の説明と、今後の見通し(2年先くらいまでの)を話してくださった。
とりあえず半年に1度健診を受けることで話はついて、
最後に、
「何かあったら、電話でも良いですから何でも聞いて下さい」と先生は言う。
医者で「(診察を受けずに)電話できいていいですよ」と言う人に、初めて対面した気がする。

(ちなみに米国には、日本の国民健康保険というような制度はないけれど、
子供の病気に関しては、電話診療や電話相談の無料サーヴィスが普及しているそうで、
その子が“病院に行く必要がある状況なのかどうか”などの判断を電話でしてくれるらしい。
何かが不足していても、別の何かが手厚くなっているならば、希望がもてるというもの。)

私も中嶋君も、娘の虫歯をここまでにしたことで、怒られるのを覚悟していた。
けれど、その先生は何一つ怒りもしないし、
娘の虫歯を見て「これはひどいねー」とかいった、“あいのて”のような、“時間つぶし”のような、
いわゆるたわいもない独りごとや感想さえ、一切口にしなかった。
何気ない医者の一言が患者を傷つける、ということはよくあることだ。
でも、先生はこちらが委縮するような、がっくりするようなことを何1つ言わなかった。

思い返せば、その医院は完全予約制で、1度に1人しか診察しないらしいので、
別の患者の歯を削る音を聞くこともなくて、
娘も過度に怖くならないで済んだのだと思う。
待ちあいの掲示物にも、
いかなる感染症の患者さんも受診できるよう、“病院に行って病気をもらってくる”ということがないように
「完全滅菌している」
と書いてあった。

「何をしてくれたか」はわかりやすいけれども、「何をしてくれなかったか」はわかりにくい。
けれども、目に見えない、引き算のようなサーヴィスこそが1番、
実践するのが難しいんじゃないだろうか。

どこをどうとっても、その歯医者さんには品格があった。
そしてその所作振る舞い、一挙手一投足の全てが偶然ではなく、
先生自身の意思と動機を体現しているのだろうと思う。

先生という1人の蓄積と歴史が、現在に華開いている。
それは非常に感動的だった。

その“有難さ”に、中嶋君も私も診療後、
まるで娘が生まれた時、産婦人科のスタッフの方たちに言ったのと全く同じような、
「ありがとうございます」を、先生に連呼していた。


まゆみさんにも心から感謝。


帰り道

今日も午前中から昼過ぎまで雪。

細雪の降る中のバイトからの帰り道、
融雪剤(塩カル)が巻かれている道路や、除雪車の入った車道はおおむね雪はないものの、
歩道や道端はかなり雪が残った状態。


たまに見かける盲人用の白い杖をついてる男性が、ちょうど私の前を歩く格好になった。
へんな世話心でしかないのだけど、
転倒の可能性を考えて、男性の後ろをついて歩くことにした。

男性は、我が家に面した東西の上り坂の右側(北側)を躊躇なく選んで歩きだした。
いつも見かけるとき、男性は左側を歩いていた気がする。
歩き慣れた側を行く方が楽だろうに、「どうしてだろう?」と思った。


左側通行の道路は歩行者も左側を歩いたほうが、
出会いがしらに車と出くわすことを避けられる。
目の見える私にとっては、多少足元が悪くても長靴をはいていれば、左側の方が良かったりする。
注意してよけるのは後方から来る車に任せればいいからだ。

不思議に思いながら後をついて歩いていると、
彼が選択する側の道は雪が融けていることに気が付く。

民家の陰になって寝雪になっている左側(南側)は雪がこんもりしているが、
彼が歩く右側(北側)は雪が融けているのだ。
彼は目では見えないが、原理でものは見えている、と思った。
私なんかよりもはるかに 。
視力健常者の方が盲目的である、という皮肉。

方角とは違い、所詮「右と左」という位置関係なんて、
仮想的な「中心」から発想される「相対的」なものでしかない。

今日はこの男性にとって、
確率からいって、車による事故よりも雪による転倒事故の方が、
優先的に回避すべき事由になるのだろう。
どうして彼が、今日は右側を歩いたのかわかった気がした。

危機管理能力が高いことほど、私が尊敬してしまうものはない。

徒歩の良さは、道のどちら側を歩いても問題にされないところ。
自転車の良さは、その最短コースが行きと帰りで同じではないところ。
そしてこれは、運転免許を持たない者の強がりでもある。


タピエスと松田功さん



前回の記事で文章を引用したスペインの画家、アントニ・タピエスは、
知っていると“ツウ”な画家でもなんでもなく、
多分スペイン(や欧州)では、有名すぎるくらいの画家なんじゃないかと思います。
美術界の事情とか、そういうのは全く知らないので、
これも当てにならないかもしれないけど。
どちらにせよ、タピエスと特別縁があるようなことを書いたけれど、
「ゴッホとは特別縁がある」なんて言うことが、白々しく響くものなのだとしたら、
私のも随分白々しいものだったのかもしれません。
だって、タピエスの原画は(記憶上)3枚しか見たことがないのだから。

私が最初にタピエスの絵を見たのは、イタリア旅行中だったのだけど、
偶然、タピエスの絵のある展覧会に立ち寄って観たのでした。
気に入ったのでその時名前を覚えました。16歳の時。

日本に帰ってきて、父の友人がタピエスにインタビューしているのを読んだ。
それが18歳の時。

以前働いていた旅館&喫茶店の常連さんだった松田功さんの、
坂城町の家に遊びに行った時に、タピエスの原画を見せてもらったのが24歳の時。
両手に挟んで、膝の上に絵を置いて眺めたタピエスは格別なものがあった。
その絵を聞きつけた画商が、何度もミロの原画と交換しないかと松田さんに言ってきたそう。
それを松田さんは全部断った。

当時松田さんはロートレックにご執心で、
面白い面白いと画集を見ては私に語ってくれた。
松田さんは当時84歳くらいだった。
でもその後、わりとすぐに亡くなってしまった。
私にとって、
他人で、お通夜やお葬式まで参列した相手は、菅沼さんと松田さんの2人しかいない。

松田さんには心臓に病があって、
松本市の信州大学付属病院に定期的に通ってきていたので、
私が働いていた旅館には泊まりがけで来ていた。
松田さんに部屋で聞かせてもらった戦争体験の話やら、茶道の話し、
その他諸々を話し合える、私にとって大事な友人でした。
戦争が終わって今日からみんな平等ですよ、と言われた時、
今までだって一等兵同士はみんな平等だった、何が違うのかと思った。

と言っていた松田さんは、戦後、政治によってもたらされた「平等」というもの自体を、
信じていなかった気がする。
それは政治によって与えられるものではない、という確信があったからだと思う。

松田さんは坂城町のご自宅に自分で茶室を造り、庭木を植えていた。
茶道について(所作ではなくその心意気だけだれど)も教えてもらった。
旅館に泊まりに来る時も茶道具一式持ってきてくれて、お茶を点ててくれた。
以前このブログで書いた、
“ウンチクぬきに抹茶を淹れてくれる友人”とは松田さんのことです。

私は基本的に頂いた手紙は時期が来ると全部捨ててしまうのですが、
松田さんから貰った手紙やはがきを処分したことだけは、いつも惜しいと思う。
だから、
何故か私の習字が好きだった松田さんがくれた、硯と筆だけが形見。

上記の旅館のご主人が亡くなったと聞いて、
まずその旅館に問い合わせたのが、
松田さんが自費出版した「生き残った兵隊の綴方」という本の行方。
旅館のご主人と喫茶店の従業員用に2冊、生前の松田さんから頂いていたのだ。
旅館のご主人が亡くなったら、もう、松田さんの戦争体験を語り継ぐ人はいないと思った。
あの本をもう一度読んで、誰かに伝えていかなくちゃ、と思う。
松田さんには、家族が、年老いた独身の妹さんしかいなかった。
その妹さんとも連絡が取れないので、もう亡くなったのかもしれない。
けれど、その旅館には松田さんの本はどこを探してもないのだそうだ。
どうも電話で察するに、先方は「私が持ちだしたのでは?」と疑っているようでもあった。

でもさっき、もしかするとと思って、
「上田地域図書館情報ネットワーク」で検索したら、1冊だけ旧真田町の図書館にあるらしい。
松本平もそうだけど、上田地域の図書館で借りた本はどこの図書館に返してもいいので、
坂城町から真田町まで動いているということは、どなたかが借りて読んだ方がいるのだろう。
それがとても嬉しい。

でも思い起こせば、松田さんの茶室にも一枚の大きな油絵の抽象画が掲げてあって、
それはある有名な画家のものらしかった。
松田さんは、若い美術家や工芸家の世話を随分してきたので、
彼らから託された作品をたくさん持っていた。
だからきっと、松田さんの人柄とその戦争体験は、どこかで脈々と語られているのかも。
そう信じたい。

松田さんは若い人たちと接するのを大事にしていて、
死ぬ間際も、ある悩んだ若者を外に連れ出そうと、旅をしていた。
「命に関わるから、そこまでしなくても」と周りに言われても、
病気を押して出かけていた松田さんは、とり憑かれているようでもあった。
その旅行から戻って体調を悪化させ、すぐに松田さんは亡くなった。

当時、その旅館では勤務時間の長さから言って、私は中心的な役割だったのだけど、
私は精神的にムラがあり、とたんに付き合いが面倒くさくなったり、
集団の中で楽しくやるということに極端に嫌気がさす時があるのですが、
それを松田さんにはよく叱られた。
「元気が出ないんですもん」と言う私に松田さんが返した
元気っていうのは出すもんだ」という言葉をよく思い返す。
色々言っても、あなたの今やっていることは丸茂(その旅館です)でしょ。
他に本当の自分がいるわけじゃないんだ。まず目の前の職場を変えていけないなら、
偉そうなことは言えないよ。

というようなことも度々言われた。

物理学の本(と言っても、ブルーバックスの初心者用に書かれた本)を読んでいる私に、
物理なんて、結局人を大量に殺めるために機能してきただけじゃないか。
そんなの読んでも平和にならないよ
」と松田さんが言ってきたので、
喫茶店で他のお客さんの前で口論になったことがある。
どうしてわかってくれないのか、と当時は思ったけれど、
意見の合意や正しいことを言うことが松田さんの目的ではなかったんだろうと思う。
「松田さんは何でも戦争のことに絡めて考えすぎだよ!」という私の気持ちを
見透かしていたと思う。
でも、生き残った兵隊、それこそが松田さんにとって生涯の自己規定だった。
最後まで、私の前でも松田さんは「生き残った兵隊」として語ってくれたのだと思う。
首から心臓病の薬であるニトロ入りの錠剤を常にぶら下げていた松田さんは、
ここに爆弾が入っているんだよ」と皮肉に笑っていた。

ある美術評論家は“書くことと描く事の一致を夢見て(長崎県美術館のサイトから引用)”、
タピエスと詩画集(「物質のまなざし」)を出していて、
その中に以下の一文があるそうです。
泥の上をのぞけ おまえの身分証明を 見つけること 最低のを。
これを松田さんは知っていたのだろうか。

どうして松田さんが、明るい色彩のミロではなく、
暗い色彩のタピエスを手元に置くことを選んだのか、今はよくわかる気がする。
再現としての絵画ではなく、物質そのものとしての絵画を目指すタピエス。
芸術作品の価値は、その効果によってのみ計られるべきである」と言ったタピエスの絵を、
結果として兵器に利用される物理学に疑いの目を向けた松田さんが、
大事にしていた意味。

何としてでも、いつかまた必ず見つけ出して、
松田さんの書いた「生き残った兵士の綴り方」に辿りつかねば、と思う。
思い出す松田さんの顔はいつも笑っているのです。

幾つかの感想(と憶測)

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↑まゆみさんと娘の共作の絵です(クリックすると大きい画像が出ます)

先週の土曜日、初めて※まゆみさんにお目にかかりました。
(※本当は、沖縄に行かれる前にやっておられたお店には何度か行ったことがあります)
そして翌日曜日、私たちの家に、友人2人を伴って遊びにいらっしゃいました。

「まゆみさんはとてもきれい好きだ」とかねがね直也君から聞いていたのですが、
私からすると直也君自身も超きれい好きで潔癖症なので、
その直也君が言うくらいなのだから相当だろうと思って、
まず掃除をせねば、と思った。
以前まゆみさんのブログで、
ヤモリが紹介された時の写真に映りこんでいた、まゆみさん家のピカピカの台所が思い出される。
なので朝から(娘と)はりきって掃除しました。

日曜日は朝から快晴で、
夏の間垂らしたまんまにしていたお勝手の、南側の窓ののれんを上げたらまぶしくて、
普段気にならなかったホコリや汚れをきれいにすることが出来た。
この日は、多少緊張もしたけれど、ひさしぶりに優雅な気分で時間を過ごす。
掃除をしたことで家がより居心地よくなったからかもしれない、とも思う。
「あそこも掃除しなくちゃいけないのに」と気になりながらも居る、
ということをしないで済むから。

あと、私たちは週末は大抵ほとんど家の中にはいないので、
久方ぶりに家の中でゆっくりした、というのもある。
娘が、初めて会ったまゆみさんにすぐなついたし、
一緒に来てくれたお2方ともに娘は何度も会っているので、
娘の遊び相手が私だけでなかったのも、くつろいだ気分の一因だったかもしれない。

直也君は随分前から腰などを悪くしていて、疲れもたまっているので、
まゆみさんはそれをとても心配してくれて、お灸とマッサージをしてくれました。
私が普段やれるようにと、やり方の指導もしてくれました。
多分、私や直也君の親の誰よりも、
直也君を本気で心配してくれているのは、まゆみさんだけだと思った。
「直也君が倒れると大変だから」とウチの家計のことも含めて心配してくれました。

まゆみさんが新しく住処にした土地は温泉地なので、温泉の話やそのマナーの話しが出て、
曰く「女湯をみんなに見せたい」と。
「化粧を落とし衣服をはぎ取ると、女性は個性がない」ので。
女湯は大抵マナーが悪くて、場所取りをするしゴミを平気で残していくし、
露天に入る際に足を洗ってはいる人なんて皆無だし、ドライヤーを使うのは良いけど、
落としていった長い髪はそのまんまでも平気ときているから、私も女湯ではいつも嫌な思いになる。
まゆみさんが言うとおりで、女湯は素性が出ると思う。
多分男の人の想像をはるかに上回る酷さなんだと思う。

娘が周りを気にせず思ったことを何でも口にしちゃう、という話をしていたら
まゆみさんが「本当のことをみんなが口に出したら、ずっとよくなるよね」と言っていた。
それでふと、スペインで生活していた時のことを思い出した。
彼の地の人々はクラクションをすごく鳴らすし、
窓から顔を出して大声で叫んで要求しあったりするのだけど、
運転という行為は殺傷性もある危険な行為なのだから、
そのぐらいはっきりとした意思表示は、お互いにあっていいはずだと思う。
車に拡声器をつけて、思ったことを何でも言い合ったら交通マナーは良くなる、と思う。
誰が何をどう感じているかを互いに言い合うしか、
自分も相手も気付けないことは沢山あると思うから。

車の装備がよくなればなるほど(特にカーステレオやバックモニターなど)、
公道という場所を走っていても、本音を隠して内へ内へと自閉していくばかりなのかもしれない。
これは、消費によって目先を変えさせる事で、本当の問題から目をそらせるのと同じやり方な気がする。

それでこの「本当のことをみんなが言ったら」というのは、
身体に戻って考えれば1番わかりやすいんだろう、と思った。
身体はその人の全てを表わしている。
あなたが普段何を食べているか言いなさい、あなたがどんな人間か当てましょう
という有名な言葉や、
ある思想家の「専門家(職人)がある体の部位ばかりを使いすぎて病気になるんだとしたら、
専門家だってそんなに立派なもんじゃない。バランスが悪いんだ

という言葉などなど。
“素”を隠したまま他人と接することは出来ると、みんな錯覚しているけれど、
見る人が見れば、その人の素はすでに露わになっている。

ある宮大工が職人を募集した時、使っている鉋の刃の砥ぎの状態ではなく、
鉋台(ボディー)の方を見て採用か不採用かを決めたそうだけど、
刃がどんなに鋭利に砥げていても、刃と木材が水平に当たるかを決めるのは鉋台なので、
その鉋台の仕上がりに手を抜いている人は、
“普段から責任ある仕事をしていない人”だとわかるらしい。

自分の身体の状態や相手の身体の状態について包み隠さず話したら、
「本当のことをみんなが言」うことにもなるんじゃないだろうか。
自分の身体の本当のこと、相手の身体の本当のこと、
コミュニケーションというものが、本当にそこまでを扱うものなのだとしたら、
自分と他人という境界は意味がなくなってしまうだろう。

まゆみさんを見ていて、そう思いました。

私は卵巣のう腫があるのだけど、まゆみさんいわく、
ある針の先生に言わせると、子宮の病気は夫に不満があって、
乳がんなどは子供に不満があるとできるらしい。
それで「でも、森さんは直也君に出会う前から卵巣のう腫があったんだもんね」と言うので、
「でも、私はずっと直也君に出会う前は父親とずっと一緒に生きていくんだと思っていたので、
父親に対して不満があるのかもしれないです」と返した。

ウチは父子家庭だったので、両親が揃った家庭と比べると、
やっぱり父には特殊な依存の仕方をしてきたと思うので。
まゆみさんから、
「その針の先生のところに試しに行ってみたら?
でも針だけじゃなくて、病気の根本を直さないといけないから」
との勧めを受けた。
私と父親との問題を正していかなくてはいけない、ということ。
親子関係の問題は本当に終りがない。ずっと変容していくんだなぁ、とつくづく。
(まだ何もしていませんけども)

直也君とはるかぶりに再開したまゆみさんの、直也君の印象は、
「前より精悍な顔をしているけど疲れている」
その直也君の身体に対する指摘と、
私の、父親との関係が影響しているかもしれない卵巣のう腫の問題。
今の私たちの問題がはっきりした感じになりました。
同時にそれに対しての“とっかかり”もまゆみさんからもらった。

私が直也君の健康に対して随分力不足なんだと自覚できたし、
直也君も私に対して力不足なところもあるんだろう。
前の記事で、
社会的意義のある誰かの為の労働でもなく、
自分の健康を養う為の労働でなければ、隷属を解決することは出来ないのかもしれない。

と自分で書いたけど、本当に私たちが自立するには、
この身体の問題の改善が、まずやるべき仕事なのだ。

たとえば、直也君に「少し休んだら」と私が言っても、直也君は聞かないけれど、
まゆみさんがお灸とマッサージの後「直也君は休んだ方が良いよ」と言うと、
直也君はおとなしく休むのです。
まゆみさんに説得力の違いを感じました。

「ことばがつよい」とか、“言葉に説得力がある”っていうのは、
やっぱりうわっつらの“ことばの力や働き”なんではなくて、
ことばにその人の“生”がにじむからなんだと思う。
“心配して相手に力が吸い取られる”というような事態は、
まゆみさんを見ていると別になんの誇張もなく、本当に起きるだろうと思った。

普通のおしゃべりは、その場しのぎで表面的で、
沈黙を埋めるだけの為に発せられたりするもので、
だいたいのおしゃべりがこの手のものだと思うけれど、
昔は「噺家とジャズ演奏家は永生き出来ない、
毎度即興であるそれらのライブは命を切り売りするようなものだから

なんて言ったみたいに、
本気でしゃべったら・ことばを使ったら本当に消耗するんだと思う。
批評家の小林秀雄もかつて、
絵を真剣に鑑賞したら15分もすればぶっ倒れるはずだ
(だから誰も真剣に絵なんて見てはいないのだ)
」というようなことを言った。

私と直也君は毎度人と会うととても疲れるのだけど、
まゆみさんたちが家に来た日の夜は本当に疲れを感じた。
まゆみさんを見ているのと、まゆみさんの話を聞くのに多分すごく集中したと思う。
加えて、私は朝から掃除をしたこともあるかもしれないし、
直也君はお灸とマッサージをしてもらったせいもあるかもしれない。
でも、絵を真剣に見るような集中力を使った気がする。
身体のことについての時間は、特に。
だから同じ長さの時間でも充実感があったのかもしれない。
でも、相手が真剣でなければこちらも真剣になんてなれないのであって。

今日、バイトからの帰り道、
「鑑賞」と「観賞」のことばの違いが頭に浮かんだ。
どうして「鑑(かがみ)」と「観(みる)」で区別するのか。
それで大好きなスペインの画家アントニ・タピエスの言葉を思い出した。
(タピエスとは不思議な縁があるので、特にいつも気になる存在なのです。)
 
「アルタミラの洞窟からベラスケスを経てピカソに至るまで、絵画は常に抽象化作業であった。
熱狂的なリアリズム信奉者に、私は、何度も繰り返して言ったものだ。
現実というものは絵画のなかにはなく、鑑賞者の頭のなかにのみあるのだ、と。
 芸術は記号である…ものである。我々の精神のなかに現実を呼び起こす何かである。
この、現実という概念を呼び起こすという点では、私は抽象と具象の間になんの違いも見出さない。
目が映し出す現実とは、現実の貧弱な影にすぎない(1955年)」 

 「ある作品の意味は、鑑賞者の協力の可能性の上に成り立っている。
常に、それを鑑賞する人の精神がどれほど発達しているかに依存しているのである。
イメージを持たない人、つまり、
心の内部で思考と感情が結びつくために必要な想像力や感受性が欠如している人は、
何も見ることができないのである(1960年)」 

「私は、芸術そのものに内在的な価値があるとは思わない。それ自体は無に等しい。
重要なのは、その、知を得るためのバネ、トランポリンとしての役割である。
色、構成、作業…こういうことを積み重ねて「芸術を豊かにしよう」とする試みを
私がばかげていると思うのは、そのためである。
作品とは、瞑想の支えにすぎない。
注意を喚起し、思考を安定させたり刺激したりするための装置にすぎない。
芸術作品の価値は、その効果によってのみ計られるべきである

「鑑(かがみ)」は、対象を観て自分の心に反射されたものを内省するような意味らしいから、
単に対象物として“観る”のとは違う。
これは世阿弥が言った「まね」の考え方
そもそも能を見ること、知る者は心にて見、知らざるは目にて見るなり。
 心にて見るところは体なり。目にて見るところは用なり。

にも通じるかもしれない。

カーステレオで音楽を聴き、外の音や声を遮断して車を密室化するのや、
自慰的な消費活動を通じて引きこもり自閉していくのと同じで、
「鏡(かがみ)」ばかりをのぞきこんでいる電車内の少女や若者は、
表面的な自分の状態ばかりを反射させて自閉していくばかりで、
心でとらえたものを「鑑」にする機会が奪われていっているのかも。
用(様)は体から生まれるのに、用(様)ばかりにとらわれていると体を見失う。
「鏡」が「鑑」という経験を塗りかえていってるのかもしれない。

そういえば、まゆみさんは
「病気になるときって必ず片方だけだよね、なんでなんだろうね」
と言っていたんだけど、
双子の統合失調症患者は(兄の場合も)、絶対両方が悪いor良いということはない。
片方が良い時、片方が悪い。
対のバランスが崩れる時、それを病と言うのかも。
鑑と鏡もバランスを崩しているのかも、なんてふと思う。
「唐書(魏徴伝)」に著された「三鑑」とは、手本とすべき三つの「かがみ」のことで、
衣冠を正す鏡と、世の移り変わりを知る歴史と、是非を明らかにしてくれるすぐれた人物
のことらしいけど、衣冠を正す「鏡」ばかりじゃいけないってことでもあるのか。
これはまた今度ゆっくり考えます。

タピエスの芸術論に戻って。

「作品をどう見ようと自由だし、作品の価値は相手の中にあるのだから、
その作品がどのように受け入れられるかまでは、作者は干渉しなくてよいorできない」

という考え方はもっともらしいようで、
実は“ボタンの掛け違い”をしてしまっていて、
作品の価値は相手の中にあるのだからこそ、
“芸術作品の価値はその効果によってのみ計られるべき”ならば、
その効果まで配慮に入れることが芸術の仕事なのだ、というのが本当なんじゃないだろうか。
タピエスは表現と鑑賞は一体であると言っていると思うし、
そういう意味では、
自他の境界を超えた“全体的な運動”の中にしか芸術は存在しない、とも言えるかもしれない。
その日私が感じたところのまゆみさんは、正にそういう人でした。
そして、まゆみさんにとって興味のある事は「本当のこと」でしかないということ。
嘘もへつらいも社交辞令も、まゆみさんの相手ではない。

「まゆみさんのおかげで優雅に過ごせた」と言ったら、
誇張だ・言い過ぎだと思う人もいるでしょう。
でも良い絵を見て感激して「おかげで良い時間を過ごせた」と言うのを、
おかしいと思う人はいないでしょう。
鑑賞したい絵がある美術館に足を運ぶのに自分なりのドレスアップをして、
絵を見て、その後、館内のショップで図録を買い、家に帰ってきて発する言葉は多分、
「あーいい絵だった」。
絵1枚にはそれだけの広い力があります。
そして人にも。

目論みとしての祈り ~菅沼さんに捧ぐ~

ここ2・3日、「祈り」という言葉について考えていました。
先に言うと、私はこの「祈り」という言葉が大変に苦手です。
そして、この言葉を多用する人に至っては、はっきり嫌いだと思う。
どうしてこの言葉を使うことに嫌悪感と不信感があるのか、ずっと考えていました。

「自然農」とか「自然な子育て」とか「自然食品」だとか、
そういうキーワードがあったとしたら、私はそういう類に属する方だと思いますし、
ある雑誌の「オーガニックな子育て」特集号とやらをのぞいたら、
載っていた“お勧めの書籍”は、ことごとく持っていたり・読んできたものばかりだったので、苦笑してしまった。
結局は私も、ステレオタイプの、敷かれたレールの上を上手に行ってるだけじゃないのか、と。
思春期に入った中学生がまず最初に太宰治や
澁澤龍彦や寺山修二の本に手を染めるわかり易さと、一体何が違うんだ。

だけれど、上のキーワードに関する本やらサイトやら話やらを見聞きしていると、
みんな「祈り」という言葉を多用し、「祈る」ことを勧めるのにも抵抗がない様子なので、
いつもそこで興冷めし、引いてしまう。そこから先へのめり込むことが出来ない。
私はこんなにも抵抗感を感じている。
どうしてそこが違うのか、それを探っていけば何らかの自分の発見がある気がして、
なのでずっと考えていたわけです。

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私は道元が好きですが、道元の何に魅かれたかというと、
やはり道元その人の疑問の持ち方だと思う。
答えには多分個性は関係ないけれど、疑問や失敗には個性が色濃くあると思う。
何度も引用している映画のセリフ
「answer makes you wise but question makes you human」
だからでもあるだろうし、
何より、答えが見つかるから疑問を持つのではなく、見つからなくても疑問とは抱くものだから、
答える人と疑問を持つ人は必ずしも同人物でも、同時代でなくてもよい。
そこに、“疑問を持つこと”の最初の意味を見る気がするのです。
開かれ即物的ではない、損得を超えた意思というものが、
本当に確かにある事の証しのような気がして。
大抵が余計だったり邪魔だったりする、人の様々な意思の中で、
それこそが人にとってとても大事な意思のような気がするのです。
意思という言葉が適当かは、ちょっと自信がないですけど。
(ただ投げかけるだけで終わらせてしまう無責任さとは、もちろん別物です)

道元は出家したての時、
「仏教では森羅万象全てが仏の存在であると言っているのに、
つまり人は既に仏なのに、どうして修業をしなくちゃならないのか?」
というユニークな疑問を持ったそうです。この疑問の持ち方が好きなのです。
(多分、道元は出自が高貴な身分だったので、仏門にまで立身出世を求める気持ちがなく、
修業をキャリアアップの手段ととらえる発想がなくて済んだからなのかもしれない、と勝手に想像。
貧富関係なく“気立ての良さ”はユニークな疑問を抱くには大事な素質だと思う。)

それでそのことを道元は色んな人に尋ねたものの、
「修業は仏の道に近づくためにするのだ」とか、
道元にとっては矛盾でしかない答えを返す人ばかりで、
誰も道元の疑問に納得できるような返事をしてくれる人はいなかった。
それで彼は中国に渡って、彼なりの答えを見い出す。
それが形になったのが「只管打坐」で、
修業は悟りの為とか何かの目的の為にするのではない、いわば修業自体が目的なのだ、
という答えに至るようなのですが、
私はそういう道元だから、嘘を感じない。
だって皆が皆、出家をして托鉢だけで過ごすのだとしたら、
これは思想としてはアナーキーだと思うのです。
あんまり使いたくない言葉ですが、本当言ったらこれは革命です。

道元は、年老いた病気の母を抱えて出家すべきか迷っている者に、
迷わず出家することを勧めたとか。
息子は自分が母を看なければと思っているけれど、
近所の人に面倒見のいい人がいて、良い出会いがあるかもしれないし、
仮に母親が亡くなったとしても、
その後長らえて病を重くして苦しむよりは良いかもしれない。
多分、ゆだねることはお終いにすることなのではなく、
物事を転じさせていくことでもあるんだ、という考えが道元にあったりしたでしょう。

そして道元的には、“座禅する自分”とは、
座禅している自分と、その場所、そしてその場所を取り囲む世界→宇宙と、
それらを全てひっくるめないと“座禅する自分”は描写できないことになるそうです。
だから、たとい年老いた母親と離れていても、
出家する自分から母親を消去することではなく、
出家する自分に含まれているということになるのかもしれません。
分かんないけど。
でも、これは決して政治的・経済的な解決の仕方ではありません。
年老いた病気の母親を喜ばせること、それが目的ならば
医学や経済学を問題にしたらいいのです。

でも、道元の考えていることは違う。出家はむしろ経済学の否定だと思う。
道元にとって、出家(修業)とは“何かの目的の為に”することではないはずです。
出家(修業)するかしないかは、そもそも母親が問題になるような事ではないんです。
(もちろん宗教法人は食いっぱぐれがないので、俗な意味では今や宗教も経済学でしょうが。)

そういう意味において、
信仰というのは“何らかの目的を達成するために持つもの”じゃないと思う。
信仰は目的と中身(内容)がないから、信仰なのだと思う。
祈りもそうじゃないかと思う。

“平和の為”にとか
“戦争がなくなるように”とか
“飢えや貧困がなくなるように”とかの目的で、
祈るのだとしたら、それは単なる「願い」や「のぞみ」ではないでしょうか。
「祈り」と「願い」や「のぞみ」がイコールならば、祈りという言葉をあえて使う意図とは何なのだろう。
「祈り」を政治利用しようとする企てではないのか。

平和は定義自体が充分ではないので、元来目的にもなり得ないと思うけれど、
戦争をなくしたり飢えや貧困をなくすのが目的ならば、
祈る前にやる事・出来ることは山ほどあるじゃんか。
そんなわかりやすい問題は、そもそも政治学と経済学の次元の問題だと思う。
「飢えや貧困をなくすことは資本主義内部の問題であって、
資本主義の“否定”ではない」
という指摘は間違っていないと思う。

例えば、○月×日△時□分にみんなで一斉に祈りましょう、なんていうイベントがあります。
それに参加する人たちが増えれば増えるほど、確かに何らかの変化は起きるでしょう。
人類みんなが一斉になんてことになったら、劇的な変化があるとも思います。
コンピューター制御以外の全てのシステムが中断し、
物流がとまり、ありとあらゆる生産ラインが止まる、
それだけで大きな変化があるでしょう。
でもどこからどこまでが「祈り」の効果だと、誰が判別できるんでしょうか。
そしてその結果、人にとって必ず良いことが起きるんだと考える根拠は何なのだろう。
今だかつてそれを人類がやったことがないのだろうから、その力は誰にもわからないはず。
何だか、「核の平和利用」という発想と似ている気がするのだけど...。
それでどんな結果になろうとも構わないというのならば、やってもいいと思う。

けれど、あるキリスト教の尼さんは「祈りなさい」と言い、
スピリチュアル好きな人々は「祈りましょう」と言う。
つまり、「命令」と「推奨」には必ずその裏に「さもなくば...」という脅しが隠れているのだと思う。
中学生の英語の授業で、命令形の後 and でつなぐと、
その後のセンテンスは「そうしないと~~になりますよ」
と言う意味になると教わった記憶がある。

そもそも、
その行為によってもたらされる効果を意図しなければ、命令も推奨もあり得ない。
祈りの効果がわかる、というのならば、神なんていないことにならないのかな。
神の否定。

私は道元のような意味での「出家したほうがいい」という推奨(や命令)の形でなければ、
あらゆる命令と推奨には“目的が先立っている”と思う。
「祈ること」を命令したり、推奨したりするからには、そこに具体的な目的があるはずで、
だからその時点で、
ある特定の理想の状態・社会・世界が目論まれていると思わざるを得ないのです。
それを目論んだ「祈り」なんて、決して私の思うところの「祈り」ではないのです。
そんな具体的な目的があるのならば、もっと現実的にやれることをしたらいいのだ。
祈るよりもシオニストの製品の不買活動でもした方がずっといいでしょう。

こうやって考えるうちに、思い出したことがあります。
友人の菅沼さんは33歳という若さで亡くなりました
(私の母が亡くなったのも、母が33歳の時です)。
最終的な病名を、彼女のお母さんにも妹さんにも聞けなかったけれど、
子宮癌か何かで、若さゆえにか転移のスピードも速く、人工肛門をつける手術もしたから、
摘出範囲は広かったんだと思う。
彼女は検査入院してから多分、5カ月も経たずにあっという間に亡くなってしまった。
最初、私はまた彼女のヨーロッパへの長期旅行のチケットの手配をする予定だったし、
彼女は生理が重いので旅行前の軽い健康診断のつもりで受けた検査で、
病気が発覚し、あれよあれよという間に手術を幾つかし亡くなった。
本人には自覚症状がまるでなかったし、あんなに美しい肌をしていたから、
検査さえ受けなかったらもっと生きられたと思うし、少なくとも旅行に行って帰ってこれたと思う。
でも、手術に希望を託したお母さんと彼女の気持ちもわかるから切ない。

亡くなる2週間前ぐらいに、面会拒否をしていると聞いていたけれど、
駄目もとで訪ねてみると、彼女が受け入れてくれた。
私は何にも言えなかった。
彼女は私を見て「ごめんね」と声にならない声で何度も言った。
私は旅行会社を辞めていて、彼女が退院したら、
2人でパンとケーキを作って販売することをやろうと約束しあっていた。
彼女がもう助からない予感の中で、
全身やけどでグルグル巻きの包帯の隙間から、
私を見つめ返してくれたICUの母の目を思い出したりしていた。
私は、ただ彼女と目を合わせているだけでかける言葉も何もなく、彼女の横に立っているだけだった。
こうなればいいとか、ああなればいいとか、そういうことはとうに超えていた気がする。

彼女が亡くなってからしばらくして、
あの日、彼女の横に言葉もなく立ち尽くしていたのは、
「祈り」のようなものだったのかもしれないと思った。
祈りは、身体を使ってやれることをやりきった後に、最後に人に残されたものだと思う。
もちろん、私が彼女に対して全てやりきっていたとは思わない。
だから、祈りは軽はずみにすべきじゃないと思う。
これは彼女のことで私自身が持った戒めなのだ。

たとえ、戦争をなくすことや飢えや貧困をなくすための「祈り」というものがあったとしても、
「祈り」に頼るにはまだ早すぎる。
私たちはまだ身体を充分に使い切っていない。
まだ何もしていない。

それらを祈る事は、
つまりそれらを実現するための身体を、使わないことへつながるのではないか。
精神が身体を卑下する悪しき考え方が「祈り」にも浸透しはじめている。

もう一つの戦争

※だいぶ書き直しました

給食の記事の続きは実はまだ何も書いていません。アップは先になりそうです。


アベル・カレバーロ本人の演奏による「アメリカン・プレリュード№1~エヴォカスィオン~」
“エヴォカスィオン”という語には死者の霊を呼び起こす、喚起、回想などの意味があります。



先日、ヴェネスエラとコロンビアの国交断絶のニュースが飛び込んできました。
私には、ヴェネスエラ人と日本人のハーフで、両方の国籍を持っている友達がいます。
彼は今、アメリカ合衆国のマイアミに奥さんと住んでいます。
I君といって、彼と私は彼が12歳の頃からの知り合いです。
12歳の時、単身でヴェネスエラから日本のおじいちゃんのところにやってきたのです。
多分、ちょうど私がスペイン語を話せるからといって、
私たちは引き合わされたのですが、彼の日本語の上達の方が早かったので、
スペイン語云々なんて、はっきり言って私たちの関係には何の影響もなかったと思う。
ただ、当時のI君は、恐らく南米の子供たちの多くがそうであるように、
スペイン諸国からラテンアメリカを独立させ、
ラテンアメリカの統一を志したヴェネスエラ出身のシモン・ボリバルを心から尊敬し、
ヨーロッパの、とりわけスペインの数々の悪行について熱く語る少年だったので、
私はいつも彼から、
「渡部さん(私の旧姓)はどうしてスペインになんか行ったのさ!?」と、ことあるごとに問われ続けました。
何故スペインを選んだのか、私には確固たる理由はなかったけれど、
彼には私を責めるだけの確固たる理由があった。

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(つづきはここから)

ビザの代理申請を扱う旅行会社で働いていた時は、
仕事がら、赤い「ビザ本」という、
渡航者の国籍別の入国条件がまとめられた本にしょっちゅう目を通すことになります。
それを読んでいるうちに、海外渡航における不平等がいかに国家間であるかよく分かります。
私たち日本国籍の人間は観光目的なら大抵、ビザなしでどこにでも行ける。
思い立ったらその日にでも飛んでいけます。
けれども大抵の国の人たちにそんな自由はないのです。
今や欧米諸国や大国には、多くの人たちが資金さえあれば簡単に留学・遊学できるので、
その渡航先を選んだ理由は非常に曖昧で希薄なものになりがちです。
国境は捏造されたものなので、その意味でいけば、
自由に往来する、そのこと自体は本来何も悪いことではないし、やましさを感じることはおかしいことだ。
そういう自負と気概が、ともすると、
自分が、外資をバックにその国に入国しているんだという感覚を麻痺させてしまいます。
そして出入国管理における法は、年々改訂されているものの、
その不均衡さは前時代的で、かつての植民地時代の名残を今にも留めていると思う。

だから、自由往来可能な現代の西側諸国人は、
「何故その国を選んだの?」と、その国がかつて植民地にしていた国の人々から
積極的に質問されたらいいのです。
そこで何が語れるでしょうか。
私には、海外に行くことの醍醐味はこれに尽きる気がする。
一個人が過去や歴史を背負いきることなんて出来るわけもないし、する必要もありませんが、
ただ、そういう問いは確実にあるということ。
そして、その問いを持った人が目の前にいるのだ、ということ。
I君が教えてくれたのはそういうことでした。

これはもしかすると、レヴィナスが言った“顔”にあたるのかもしれないとも思った。
“顔”、それは、
「内容となることを拒むことで現前する。
この意味において、顔は了解し内包することのできないものである」
というような、私に切迫してくる何ものか、けれどもその内容は開示されないもの。
例えば壁にある鍵のかかったドアのようなもの。何が鍵なのかは判明していない。
ドアの先にあるものをドアは語ってはくれないが、
別の空間がそこにあるという暗示を私に与えてくれる。
ドアとは開閉するものと、認知する私がいる限り。

それからは、
「せっかくスペイン語ができるんだったら、役に立てればいいのに」と他人から言われようにも、
もうスペインとはチャラチャラした気持ちではつきあっていられない気がした。
小説が好きな私ではありますが、最終的に翻訳家を目指すにしたって、
今のところ私くらいのスペイン語能力では、
お気に入りのスペインの作家といっても1人くらいしか見つけられない。
日本の小説家だって限られた人しか好きにならないのだもの。
大体、スペイン語で優れた小説を書く作家は中南米の方がはるかに多いだろうし。
あるウルグアイの小説家が大好きになってからは、
もう1度スペイン語圏に行くのだったら絶対ウルグアイだと心に決めたりして、
脱スペインの気持ちは日に日に膨らむ一方だった。
これもI君の影響。

あと、ある南米のサルサ歌手が、
「我々もアメリカ人だ。USAだけがアメリカじゃない」と言ったのを知ってから、
USAのことを単に“アメリカ”と表記することは一切止めた。
これもきっと、I君がいたから。

けれども最近、ひさしぶりにメールのやり取りをしたら、
彼は今、ブートキャンプ(米軍の新兵訓練)に入るための貯金をしていて、
最終的には米海兵隊の航空メカニックを目指しているという。
「兵士としての人生をいく」という文章を読んだ時、本当に信じられなかった。
あれだけまっすぐな子供の目で卑怯さや不正を告発していた彼が、米軍に入るという。
クリスマスで日本に遊びに来た17歳の彼に会った時、
私がチャベス大統領のことを軽はずみに褒めたら、
強い調子で反論してきたことを思い出す。
I君は向こうでは富裕層だし、富裕層を狙った誘拐事件が多発しているヴェネスエラでは、
未成年の彼はとても不自由を感じて暮らしていた。
日本にいるとき彼は
「日本はいいね。自由に外出できるし、安全。
おまけにすぐに食べられるものがどこにでも売っていて安いし、すごい。」と言っていた。
ヴェネスエラの貧困を垣間見る気がした。
だから本当は、彼は日本で暮らしたがっていた。
彼の日本の祖父が彼を、経営の後継者にしたがってはいたけれど、
結局は日本人の風貌じゃないから、また、彼の奥さんがヴェネスエラ人ではなおさら駄目、
というくだらない、本当にくだらない人種差別によって、彼の日本永住の夢は砕かれた。

彼はヴェネスエラでは獣医の免許を取得していて、
動物好きの彼は昔から獣医になりたがっていた。
家庭用のペットや小動物には興味がもてず、大型の家畜の診療を切に望んでいた彼だったけれど、
チャベス大統領によって多くの土地が接収された牧畜業の社会主義化の実態に幻滅して、
その夢をあきらめてしまった。
あと、ヴェネスエラでは確実に人を診る医師と獣医では、前者の方がエリートで歴然とした差があるらしい。
成績の問題で彼は医師にはなれなかったのかもしれない。
彼の弟は医師の道を歩んでいて、その兄弟間の劣等感もあるのかもしれないと思う。

彼は、約1年半の日本滞在後の小学校の夏休み明けに、
戻ってくるはずの日本に戻ってこなかった。
彼の母いわく「日本に行ってから言うことを聞かなくなった。悪い子になって帰ってきた」そうだ。
それは親からの自立で成長だったのだけど、概してそれを親は認めたくないのだろう。
それで母親は息子を手放したくなくなったというわけだった。
12歳で国家の違いによる人の暮らしの違いをまざまざ見てしまった彼なのだ。
批判精神がそこで培われたのは想像に易しい。
そして彼が日本に来た理由は、自分の親と日本の祖父母を結びつけるためだった。
何が彼を日本に単身渡らせたのか。それは親と祖父母間の関係の至らなさのはずでしょう。
そんな親が自分のことを棚に上げて、結果「言うことをきかなくなった」と言う。
ひどいもんです。
I君の日本の同級生にR君というガキ大将的存在の友人がいて、
頭髪が生えない病気があったので(今は完治)常に帽子をかぶっていた。
R君の見た目は不良だったけれど、本当に心優しい男の子だった。
けれどI君の母はI君とR君が付き合うことを禁じた。
「どうして?お母さんは人を外見でしか見ていないよ!」とI君は何度も母親を説得したけれど、
母親は考えを変えなかった。
I君の、元々父親にはすでに抱いていたけれど、母親に対する失望と不信もここに始まり、
結局その溝は埋まらなかったように思う。
これは彼のヴェネスエラに対する失望と不信に重なっている気がする。
彼の両親は結局離婚し、彼の弟は母親と暮らしているそうだ。
ヴェネスエラには彼の居場所がないのかもしれない。

祖国の喪失と脱ヨーロッパと反チャベス。
彼が行く先はもはや合衆国しかなかったのかもしれない。
そういう若者が合衆国には、米軍には沢山集まってくるのだろうと思う。
田中宇さんが下のように書いている。
アメリカはここ数年、極端なチャベス敵視策を展開し、その結果、チャベスを中南米の英雄に仕立ててしまったが、これはもしかするとアメリカの「失策」の結果ではなく、世界を多極化させるために故意にやったことなのかもしれない。アメリカがイラクをわざと泥沼化したり、ウズベキスタンの大統領をわざと怒らせてロシア寄りにさせてしまったりしたのと同じ「故意の失敗」だったのではないかと感じられる。

ヴェネスエラは、中南米は、内部から崩れている。
富裕層と貧困層が引き裂かれ、対立することで消耗させられている。
しかし、この富裕層はもともとヨーロッパからの移民なのだ。
信州大学に留学してきていたアルゼンチン人の友人は、イタリアとの二重国籍だったし、
イギリスの70年代のお笑い集団“モンティ・パイソン”フリークの人の話では、
ヴェネスエラの鉱山の町ではビジネスでパイソンネタが使えるそうだ。
イギリスのケンブリッジ大学で生まれたブラックユーモアの感覚が、
ベネスエラの地方で通用するということだ。
ラテンアメリカは非常に多国籍で、ヨーロッパ系住民が多いとI君も言っていた。

チャベス大統領はIMFと世界銀行から決別し、米州自由貿易圏(FTAA)構想を蹴散らし、
遺伝子組み換え農産物を否定しキューバにならって有機農業を推進している。
すごい決意と表明。
しかし何を言っても、チャベスのことは陰謀論に振り回された暴君としか、
富裕層や西側諸国には理解されないだろう。
私たちがもうすでに、チャベスが闘っている相手をしっかり受け入れてしまっているからなのだ。
以前も引用した河合隼雄氏の
「灯りを持っていない人に灯りを渡して明るくするのは簡単なのです。
厄介なのは、すでに灯りを持っている人です。灯りを取りかえるのは難しい。
もうすでにその人は充分明るいつもりなのですから」
を思い出す。

私は陰謀論は好きじゃない。
オカルトやミステリーのノリで首を突っ込むのは何もしていないよりも悪い時があると思う。
本当のことも私にはわからない。
ただ想像できるのは、チャベスにとっては、私達が陰謀論とみなすものも決して絵空事ではなく、
実感をともなった“現実そのもの”なのだろうということ。
そして間違いなく、I君が米軍に入って悲しむ国家元首はチャベスしかいないと思う。
もう1つのI君の祖国、日本の国家元首はきっと何も感じないことでしょう。

どうかI君、兵士として死なないでください。
そして自らの怨恨ではなく、国家によって植え付けられた架空の怨恨によって、
誰かを殺したりしないでください。
本当に闘う相手は無数にあって、しかもそれらは銃弾や兵器ではどうしようもできないものばかりです。
親と向き合うことや差別と向き合うことの方が、戦争で人を殺すことよりも難しい。

追悼 新田貞雄さん

松本の「丸茂旅館」&「喫茶まるも」を経営されていた新田貞雄さんが5月に亡くなりました。
94歳でした。
新田さんのことを私たち従業員は「旦那さん」と呼んでいました。
なので以後、旦那さんと表記します。

旦那さんの元で私が働いたのは5年と、プラス、少しブランクを開けてお手伝いの半年くらい。
働きだしたのは21歳からで、松本へ来てわりとすぐのことだったので、
私にとっては松本の歴史と旦那さんの存在は重なります。
‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐

私が入った時には、旦那さんはほとんど目が見えなかったのだけど、
80歳を超えても当時は、丸茂旅館の一階の部屋で1人寝泊りをされていました。
夜ごはんを一緒に食べたり、夜11時まで話し相手をしたりと、
丸茂で働いた数年は、生活と仕事が一緒くたでした。
大動脈の大きい手術をされた後は、
夕飯のお世話も従業員の仕事でしたし、病床で旦那さんの身体を支えながら食事を介護したり、
しばらく背負っていた酸素ボンベの圧力の調整とか、ラジオの選局も大事な仕事だった。
その後、旦那さんは自宅の方で寝泊りをする生活を始められ、
私は少し経ってから、丸茂旅館に住みこみを始めました。
ある年の元旦、まるもは休業日だったけど、私は住み込みだったので留守番をしていました。
旦那さんはまるもに日参するのが日課なので、やはりやってきて、
私はまるもに届いた100通以上の年賀状の、差出人の住所氏名と内容を読みあげて、
旦那さんと話をしながら、宛名を書き返事を書いた。
私にとって、他人であるご老人とここまで深く接したことはなかったので、
今思い返しても大きな経験だったと思う。

私は滑舌はあまり良くないのだけど、目の見えない旦那さんに対しては、
音声だけが頼りだと気をつけていたからか、とてもしっかりとしたはきはきとした口調で話せた。
それで、旦那さんと話すこと自体が好きだったし、旦那さんには色んな事が自由に話せたので、楽しかった。
旦那さんに朗読をするお陰で、読むはずもない本も沢山読めて、思い返せば、とても影響を受けた気がする。

とくに、音楽。
喫茶まるもはその昔、名曲喫茶だった(今は違うと思うけど)。
旦那さんは音楽家の友人も多いし、サイトウキネンや才能教育などとも関係が深い。
旦那さんが有名なのは、「まるも」が松本における民芸運動のサロンとして機能していたことと、
レコードがまだ高かった時代に、クラシックやロシア民謡やシャンソンを流すなどして、
松本の音楽文化に貢献してきたことが、主たる理由だと思う。
旦那さんは戦時中、精神訓話をしなければいけないところで若い兵士たち相手に、
シューベルトを聞かせたりしていたのだそうだ。
そのことを半世紀経ってもありがたく思っていると連絡をしてきた人もいた。
明るいシューベルトの調べと、シューベルト自身の悲しい末路を思うと、
その当時の兵隊さんたちがどのような気持ちで聴いたろうと、思わず泣けてくる。
私はクラシックに通じているわけではないけれど、とても興味があったので、
旦那さんの話もよく聴いたし、
旦那さんのレコードのコレクションをアルファベット順に整理する役目も頂いたりしたので、
音楽に関して、旦那さんからの私への信頼は厚かった気がする。
普段は喫茶店のBGMもCDで流していたけれど、
旦那さんがあのレコードが聴きたいと言えば、すぐに出してかける、それが大事な仕事でもありました。
旦那さんはテノールが大好きで、特にジーリ、マリオ・デル・モナコが好きだった。
チェリストのカザルスやグレゴリウス聖歌。
そして何といっても、バッハ。
まるもで初めて聴いたバッハの「平均律クラヴィーア」は忘れ難い思い出です。
旦那さんの影響で好きになったクラシックや現代音楽は数知れない。

そして一番大きいのが、人を見る目。
旦那さんはとても有名人で、本人は迷士と言っていたけれど、
松本の都市文化の生き字引というか、名士として有名でした。
だから旦那さんを訪ねて、まるもには年中、有名・著名人のお客さんが全国から来ました。
でも、旦那さんは孤独な人だった。
あれだけ華やかな人脈だったけど、本当に気の許せる人は少なかったと思う。
大抵そんなものだと思うけれど。
旦那さんもそれは感じていたと思う。
従業員の私たちにはよく本音を漏らしていたから。
だから、私は旦那さんの周りの人を常によく観察していたと思う。
商売や売名行為に利用しようとして、旦那さんに近づく人はいっぱいいた。
自称教養人・文化人のお高くとまった人たち。
「出会い」だの「言霊」だの「たましい」だの「神」を軽々しく口にする人たち。
その傾向と分析を積み上げ、私はこのように偏見に満ちた固い頭になってしまったけど、
でもそれで大きく“外れ”たことはない。

まるもを止めた理由は、色々あるけど、
あそこにいると勘違いするから。
サロンの雰囲気にいい気になって、自分に何の技術もついたわけでないのに、
まるで自分自身がメインストリームの住人になった錯覚に陥ってしまう。
例えば、私は高倉健さんにコーヒーをいれたことがあります。
だけど、それが一体どうしたんでしょう。
それと私の人間性とは一切何一つ関係ない。
そういう、ひとがひとの名前や地位を利用したり、便乗したり、いやらしい情念が渦巻いている所に身を置く事が、
もう潮時だと思ったんだと思う。
そして、まるもの問題の全ては、そこにあるんじゃないかと思う。
これ以上は家庭や経営問題の干渉になるので、書きませんけど。
旦那さんに対しても矛盾を感じたり、おかしいと思うところは沢山あった。
それでも、何故か憎みきれない無邪気さが旦那さんにはあったと思う。

旦那さんを詳しく知りたい方は、「私の半生」を読んでください。
旦那さんが自らの来し方について語ったのが「タウン情報」のシリーズ「私の半生」で連載され、
それが本にもなっています。
本当は、旦那さんはそんなに満足していなかった。
大事な話があまり採用されていないと私も思う。
この連載の時も、使用する写真をFさんと探し出してきて、
「これはこういう写真ですよ、構図はこうで、場所はこういうところです、
こういう人が映ってます」と私が口頭で伝えて、
旦那さんが「ああ、それはあの時の写真だわ」と一緒に検証する作業をした。
戦時中の写真も沢山あって、当然だけど旦那さんも、戦争体験がその後の人生を大きく左右したと思う。
旦那さんには戦争中に受けた大きな弾痕が背中にあった。
死体扱いになるすんでのところで命拾いをされ、臨死体験もしている。
私はだからか、臨死体験を心情的に理解したい気持ちがどうしてもある。
この体験がその後の旦那さんの考えや信仰に大きく影響をしている。
80歳前後で、目が見えないのに、モンゴルに中国からジープで入り、
戦時中モンゴルで亡くなったというお兄さんのお弔いの旅もされた。
お兄さんの遺骨は戻ってきていない。
モンゴルの草原の中で「にいさーん!」と何度も呼ぶ旦那さんの声の収録されたテープは何度も聴いた。
あれは忘れられない。
モンゴル音楽も大好きだった。
ブッシュが嫌いで、サダムフセインを応援すると言って、フセインの帽子に似た帽子を愛用していた。

私は4人の祖父母を早くに亡くしたので、旦那さんを通して戦争体験を伝え聞いています。
私にとっての旦那さんという人物は、生身の戦争体験者でした。
このことは本当に何度感謝してもしきれないと思う。
長く生きるのは素晴らしい。
イタリアの詩人サバの
「生きることほど、 人生の疲れを癒してくれるものは、ない。」
という一文を私が好きなのは、旦那さんがとても影響している気がした。
旦那さんは中卒で、それをある意味自慢にしていたけれど、
サバも中学中退でトリエステの書店の主人をやった。
サバは第一次大戦で兵隊だったけど、パイプ姿といい、なぜか私の中で旦那さんが重なっている気がする。
と、いうことを今気付きました。
(ちなみに後年旦那さんは禁煙しましたが)

明日は旦那さんの音楽葬。
お誘いも受けたので、行きたい気持ちもあったけれど、
色々考えたあげく、行かないことにしました。
私はまるもにいた時、「私のここでのボスは旦那さんだけ」と思い、
旦那さんの奥さんには一切お目通りしないことにしていた。
双方の強い個性に振り回されて双頭状態になるのが嫌だったのです。
音楽葬に出かけないのも、
旦那さんのことで八方美人にならないことを貫いた、私なりの流儀でいい気もする。

生前私たちの前で旦那さんは「死んだらシベリウスを流して欲しい」と言っていた。
一日早いけど、旦那さんがリクエストしていた「フィンランディア賛歌」を流しておしまいにします。

旦那さんありがとうございました。
最晩年は無沙汰をしたけど、旦那さんのことは一生忘れません。
もしかすると、旦那さん、
あなたは私の青春だったのかもしれません。


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