ノ ー ト

好 き な 読 書 を 中 心 に 考 え 中 を 記 録 す る ノ ー ト

スーパーマーケット

メモ 魚とかチリの事

またまた、まゆみさんのブログに付けた自分のコメント。
なんだか最近、自分のブログなんて必要かねって気分。
一か所書き損じがあったのでそこだけ今回直しました。
 

チリ産の養殖塩銀鮭はウチもしばしば買って食べていたので、もう買わないようにしようと思います。なんかのサイトに、チリ産サーモンは年3回(or~6回)が上限と書いてありました。

日本の商社は世界中の魚貝類を買い付けに行っています。昨今の回転寿司の繁栄ぶりはその結果でもありますね。世界の鮭の3分の1を日本の住人が食べています。
ヴェネスエラの友人の話では、南米はヨーロッパ系の移民が富裕層の多くを占めていて、古くからの現地人(言葉が正しくない気がするけど)とは意識が随分違うんじゃないか、という事でした。チリワインもロスチャイルドのアルマヴィーヴァが評価されてからめきめきシェアを伸ばしていて、チリのその経済的な成長ぶりが、なんとなくあぶなっかしい感じがします。反対意見が多数だとしても、2025年までに原発建設する考えを示してフランスと交渉していて、研究炉はすでに2基あるそうです。

チリは高い山々があり、ミネラル豊富な川の栄養が流れ込む沿岸は小さい島々並ぶフィヨルドで、恵まれた漁場のはずでした。実は結構、漁場としては日本の三陸に似ているのかな?って思ってるんです。地震の多さも似ていますね。南北に長いっていうのも似ています。だから、日本の商社が目をつけやすい国のような気がします。太平洋を挟んでちょうど「裏」って感じがする。

日本の養殖の歴史は古くて1000年以上。でも淡水魚だけだったみたいで、海水魚の養殖は昭和3年のハマチが日本では初だそうです。民俗学の本によると、最近まで、マタギが鮎などの淡水魚を温泉場に売りに行ったり、山間部の民が塩分補給するために塩漬けの魚や丸干しが流通するという感じで、実は昔も魚を常食する習慣は一般的ではなかったんじゃないかな、と思います。

ファミレスや給食でも使われているという白身魚ナイルパーチ。イギリス植民地時代、ビクトリア湖に外来種である肉食ナイルパーチを放ち、草食系の魚しかいなかったビクトリア湖の生態系を破壊していると言われています。これに関したドキュメンタリー映画に「ダーウィンの悪夢」があります。私は見てないけど。

でもこの映画も随分嘘があるらしく、自然派活動家とか映像作家も評価が欲しくて作るから、本当のことだけではないみたい。ビクトリア湖を利用しているのは実は商社や企業だけじゃなく、それらに反対を唱えている人も同様なんですね。
悪いことに、後者の左翼系の人たちはデータや数字に弱いから、半分が本当のこと言ってても、半分がいい加減だから、結局は山師みたいに映ってしまうし頼りない。

もちろん、ナイルパーチや養殖魚は減った方がいいのは事実だし、食べない方が良いに決まってるんだけど、それとは別にどっちの意見にも入れ込み過ぎない姿勢っていうのは大事かなって思います。捕鯨の問題もそうですね。世界中の伝統漁業が破壊され、養殖魚が市場の半分以上になりつつある中で、日本の伝統的捕鯨という立場もナンセンスだし、鯨だけを別格視する活動家もナンセンス。これも本当の問題から目を逸らすための装置なんでしょうね。

最近ニュースをにぎわすバナメイ海老の高騰もそう。ブラックタイガーよりも生産性が高くて(=生育が早い)、過密と病気に強いっていうふれこみでバナメイ種が主流になりつつあったんだけど、やっぱり病気になった。

ちなみにブラックタイガーは養殖だけど、網で囲い込んでいるだけで餌をやらないのでほぼ天然です。ただむきエビになっていると薬品を使っているので、天然の殻付き冷凍有頭エビ=ホワイト種がスーパーで売っている中で1番安全かと思います。
鮭は紅サケだけ養殖はなく、全て天然です。日本では取れないので、北海道産となっているものは北海道の漁船がとっただけで、カムチャッカ産です。アメリカ産となっているものはアラスカ・ブリストル湾産です。脂はカムチャッカ産=ロシア産の方が乗っています。
時鮭は白鮭で、秋鮭とものは同じです。秋鮭が産卵と同時に美味しくなくなるので、産卵時期は秋鮭と呼び、それ以外の時期を時鮭と言います。秋鮭時鮭は北海道産や宮城産が主流です。原発以後、天然ものにたいする判断も難しくなってきましたが、大きい魚は大抵回遊魚なので、西の産地であっても難しいです。鯵は黄鯵は回遊しない地鯵です。九州産の黄色い鯵はリスクは低い方だと思います。

以上、スーパーの鮮魚部門のパートの意見です。

| 森 | 2013/12/12 20:38 |

滑稽な話

今日、明日で最終勤務日になるスーパーマーケットの仕事に出かけた。
(現在、有給消化中で、有給&公休日に蕎麦屋さんで働いている状態)

久々に当スーパーチェーンに寄せられた「お客様の声」のレジュメに目を通した。
私はこの「お客様の声」っていうのを読み聞きするのが大好きなのだ。
やはり梅雨時、品質や夜間の品ぞろえに関する不満が増えていた。

気温が高くなってくると、スーパーの来客数の折り返し時間は、
午後3時から4時というずいぶん遅い時間になってくる。
つまり客足は夜に集中するため、夜間に品ぞろえができてないと、
お客さんの需要に答えられない。
結局、朝に陳列した商品がお客さんに渡るまでの時間が必然的に長くなるので、
鮮度が落ちやすく、クレーム化し易いという訳。

あと、夕飯直前に買い物に来て
「すぐ家に帰ってから食べられる」簡便商品を求める人が多くなるので、
いくら根菜や魚の生切り身が並んでいようと、
消費者は「何も買うものがなかった」という欠乏感を抱く、ということも起きる。
それでクレームも増えてくる。
以外と消費者は、自分の側の環境の変化を意識化できないので、
「店側がヘマをした」と相手の落ち度にしたがる傾向があると思う。
だけど、それを十分見越した対応ができるのが
スーパーの「当たり前」だし、しかもその方法化は大して難しいものでもない。

だけどびっくりしたクレームが
「地場野菜のレタスの中にカエルがいました!気を付けてください!!」
というもの。
それが毒ガエルだったとか、寄生虫がいたとかならわかるけど、
カエルでクレームって...。
昔野菜売り場でバイトしてた時、地場のブロッコリーに青虫がいたら
「ちょっと!青虫がいるじゃない!気持ち悪い。もう、買う気が失せたわ!」って
お客さんに言われたことがある。
そういうオタクも充分気持ち悪いわ!!
と思うような容姿のお客さんだった記憶がある。
毛嫌いしたって、その青虫と同じものを自分は食べようとしてるのにね。

それなのに、ひとはホタルをわざわざ見に出かけたりするんだよね。
それでキレーイ!とか言って写真を撮るんだ。
青虫ヤだけど、蝶の模様入りの服や雑貨は好きなんだよね。
なんて勝手なんだろう。

イオンは会社として、販売する食品の基準を「50ベクレル/kg」だかに自主設定したけど、
まだ私の勤めてきたスーパーには
「放射線量の自主基準をどうして作らないのか?!」などというお客様の声は届いていない。

べクレテいる食べ物にはクレームつけないのに、
カエルにクレームをつけるとは、これ如何に。
食べ物って一体何なんだろう?

仕事

28日からお蕎麦屋さんで働いています。

7月までは、スーパーとの掛け持ち。
なかなか濃い日々。
たぶんずっとこの感じ、忘れないだろう気がする。

スーパーを辞めるのはずいぶん残念がられたが、
さすが無遅刻無欠勤、頼まれたことは一切断らずにやってきただけあって、
同僚からの協力ムード満載で辞められるのが嬉しい。
まじめに勤めてきて良かった。



美の壺より

先日、NHKの「美の壺」のアンコール放送を見た。
「昭和レトロの家」という回。
詳しくはこちらのページ参照のこと。

←大正以降の家の間取り

興味を持った部分を書きだすと、

・要は大正以降の家はそれ以前の家とは、間取りに大きな違いがある、と。
 従来の家では部屋同士が田の字型で接していて、自分の部屋に行くにも、
 他の部屋を通らざるを得なかったけど、
 大正時代になってからは、プライバシーが問題になって、
 全ての部屋に通づる緩衝通路?である「中廊下」が誕生した、と。
  

それから、
・今までは接客用の座敷が広かったり、日当たりが良かったりして、
 家族のための空間は日当たりの悪い奥座敷へ追いやられていた、と。
 けれど大正以降、むしろ家族自身が居心地良く、休息がちゃんとできる空間にしよう、
 ってことになった、と。

その結果、昭和の時代になって
・近代的な暮らしに合った理想の家はどんなものかっていう今までの研究を経て、
 大都市の近郊に開発された住宅地に「昭和の家」が建てられていった、と。

そして昭和の家で間取りに加えられたもう1つのものが、
ガラス越しに光が降り注ぐ広縁だ、と。

この「昭和レトロの家」の回を見ていて、思ったのは、
サラリーマンがたくさん出現したのは大正以降で、
つまりサラリーマンに都合のいい間取りが「昭和の家」なんだろうなってこと。
自営で仕事をする人じゃなくて、雇われる人の家だな、と。

昔はほとんどの人が第一次産業従事者だったから、
日中さんざんお日様にあたってただろうし、
家に帰ってまで、「光が注ぐ広縁」をそんなに必要としなかったんだろうし。

家で仕事をしていたら、しんどくなったら休むってことはできるけど、
(昔の封建的な時代の農家なんかでは、
多分そんな軽はずみには1人休むなんてことはできなかったろうけど)
務めで8時間労働とかって契約しちゃったら、
「疲れたから家に帰ります」なんてことは、そう通らない。
だから出勤のタイムカードをついて、退勤のタイムカードをつくまでは、
契約上の1時間の昼休息以外はとれない。
会社からも「健康管理は社会人の務めだ」なんてこと言われる。
つまり、「翌日の出勤前までに体調を万全にしとけよ」ってこと。
だから大正以降は、多くの日本人にとって、
家は「仕事をする場所」から
主に「休息を取る場所」になったんだろうな、と。

本当にリフレッシュできるのは、各人が部屋で個別に休息するより、
家族団らん和気あいあい、が理想だろうけど、
家族みんなが「家には寝に帰る」ような勤務をしてたら、
家族同士の距離は広がって行く一方で、
和気あいあいとは易々いかなくなるんだろう、と。

息子が女性を軟禁してたのに気づかなかった、とか
娘の妊娠にも気付かなくて、娘が自宅のトイレで死産した、
とかのニュースを最近よく聞くけど、
これって昭和の家以降の間取りだから可能なことなんじゃないかな。

封建的な昔の家も、息苦しかったり自由がなかったりしたろうけど、
でも勘当されるっていうシステムはいいな、と思う。
今はうまくプライバシーがとれる間取りだから、
日頃からぶつかり合うってことが回避されてるのかもしれない。
そういう意味でも、本当に今の家族は脆いと思う。
うちも例外じゃない。

間取りの狭い団地の未成年の犯罪率は、
戸建てに住む未成年のそれと比べるとかなり高いらしい。
でも未成年の犯罪は社会を写す鏡だから、
社会にとって必要なガス抜きであり、
軌道修正のための良いサインのような気もする。
悪い友より、良き敵の方が色々気づかせてくれるのと似て。
もちろん犯罪を犯す方も、被害者も気の毒なのは当然のこと。

私の勤め先のスーパーの方針は
「人に仕事を充てるのではなく、仕事に人を充てる」で、
思わず耳を疑いそうになるけど、
人件費は必要経費じゃなくて、削減対象のコストでしかないんだな。
それと似ていて、
昭和の家は、家族に合わせた家っていうより、
経済の仕組みに合わせた家だったんじゃないかな。
いい面も悪い面も、両方ある。

食品商業から

アルバイト先のスーパー(SM)の社員さんから借りた今月号の「食品商業」から

記憶に残ったものを記録


◆まちづくり3法とは
  「大規模小売店舗立地法」(大店立地法と略とのこと)2000年
  「中心市街地活性化法」1998年
  「改正都市計画法」2001  
  -------------これらによって大規模店の郊外出店は難しくなっている


◆業界用語 ------ 実際使っていたが今回初めてその意味を知ったものなど
・サッカー台 (支払い済みの商品をレジ袋 or エコバックなどに詰めなおす台の事
      アメリカのSMに“サッカー”という専門の人がいたことによる)
・ジャンブル陳列 (投げ込み陳列のこと、これにより安さを強調 o r安いという暗示がかかる)  
・SKU (商品つくりにおいて最小単位かつ最終単位の事 ストックキーピングユニットの略)
・バンドル販売 (束販売 2個よりどり398円などの販売の仕方)


◆50年後、日本の人口は2/3になる算定
 2.5人に1人が高齢者、生産年齢人口(15歳~64歳)も半減の予想
 つまり1人の高齢者を1.3人の現役世代が支えることになる
 ーーーー>被爆の影響で、50年後の生産年齢人口は半減どころではすまないのでは?と思う


◆世帯について 現在、日本の総世帯5184万2000世帯
  その一般世帯全体の1/3が1人暮らし、3人までの世帯が増え、4人以上の世帯は減少

単独世帯-------------32.4%
核家族(夫婦+子)-----27.9%
核家族(夫婦のみ)-----19.8%
核家族(親1人+子)-----8.7%
核家族以外----------10.2%   


◆最近の消費者心理&傾向


・意外なことに、20代30代が1番、レトルト食品を使用することに後ろめたさを感じる
・20代が1番、レシピを見て食事を作る傾向があり、食事のリクエスト・感想・手伝いを家族に求める
・しかし年代が上がるほど、家族に対する要望はなくなる
・味ーーあっさりでだしがきいているものを「美味しい」と感じる傾向
・普通反比例するはずの、簡便化志向と手作り志向が“同時に”減少した。
 放射能汚染の懸念から安全志向は向上した為、簡便商品は売れないが、
 同時に手間がかかるのは嫌という(都合の良い)傾向が広まった
 “ 自分ではなく、他人が手間暇かけた安全なものが食べたい”心理
・健康を意識している消費者は「しょうが、はちみつ、メープルシロップ、酢、みりん」を好む。


こういう業界専門誌を読んでいると、トレンドや群集心理が「いかにつくられたものか」を感じる。
お金を介した「ひとのこだわり」なんて、大した個性でも主張でもないことがわかる。
金銭の手を借りて形をなすような「志向」や「こだわり」や「選択」は、もっとも記号化しやすい、
ということは自負しなければならない。
「健康志向」や「安全志向」や「本物志向」さえ、所詮ただのパターン化だったりする。

少し前に「プラダを着た悪魔」という映画があった。
無理をしてまで観るような映画ではなかったが、
ジャーナリスト志願だった知的きどった女性が、ファッション業界を卑下しているのに対して、
メリル・ストリープ演じるモード誌の編集長が語ったセリフは、真実を射抜いていた。


「あなたには関係ないことよね、家のクローゼットからそのサエない“ブルーのセーター”を選んだ。
“私は着る物なんか気にしない”“マジメな人間”ということね、でも、この色はブルーじゃない。
ターコイズでもラピスでもない。セルリアンよ。
知らないでしょうけど2002年にオスカー・デ・ラ・レンタがその色のソワレを、サンローランがミリタリージャケットを発表。
セルリアンは8つのコレクションに登場。
たちまちブームになり、全米のデパートや安いカジュアル服の店でも販売され、あなたがセールで購入した。
その“ブルー”は無数の労働の象徴よ。
でもとても皮肉ね。
ファッションと無関係と思ったセーターは、そもそもここにいる私たちが選んだのよ。
“こんなの”の中からね」

Bさんは言った。
「自分を断罪しないかぎり、自分を愛することはできない」と。
自分自身を批判の対象にせずには、本当に自分を好きになることはない。
自分は自分にとっても隠蔽されている。

He isn't you ~ 予見不可能性

トマス・スタンコ 美しい

太極拳が、特殊感覚野ばかりに頼らず、
一般感覚野を磨く必要を説くのはなぜかと言うと、
やっぱり自分の姿を鏡に映して、
視覚で確認しながら意識的に身体を動かすのが、
自分の動きを客観的にとらえるのには1番簡単なのだけど、
でも、いつも鏡があるわけじゃないし、
しかも、太極拳は空気の澄んだ屋外でするのが、「気」の面からもいいので、
(もはや放射能のおかげで、外の方が空気が澄んでるとは全く言えないんですけど!!)
鏡によるフィードバックではない、
一般感覚野によるフィードバックの能力を高めるといいんだそうな。
(多分。私の理解では。)

特殊感覚野の中でも、「視力」は情報の8割を占める、
というのはよく知られているようだ。
しかし、本当かどうか知らないけれど、
意識がなくなるときに、順番から言っても、1番最初に奪われるのはその「視力」なんだそうだ。
対して、最後まで残るのは「聴力」だという。

私がお世話になった松本丸茂旅館の故・新田貞雄氏は、
戦争で負傷して死にかかったときに臨死体験をされていて、その話を多くの人に語ってこられた。
「なるほどなるほど」とうなずいて聞く人、「そんなまさか」といぶかしげな顔をして聞く人、
その表面的な違いはあったが、
内面的には概ね、ほとんど絵空事だと思って、みんな聞いていたように思う。
けれど、視力と聴力は結びついていて、音がヴィジョンを想起させるということがあり、
朦朧とした意識の中で、聴覚だけが最後まで残るならば、
新田さんの臨死体験はあながち嘘の体験とは言えないと思う。
そもそも「臨死体験は聴覚によるもの」というのは、わりと定説にもなっているようだ。
新田さんの晩年は、ほとんどの視力失われたが、耳がとてもよかったので、
大抵のことは1人でこなされていたくらいだ。


多くの人にとってもそうでしょうが、
私も音や音楽によって、過去の記憶が現在に統合されるような感覚に陥ることはよくある。
「He isn't  you」という曲は、あるミュージカル映画の中の1曲で、
♪私の彼の人はこんなに素晴らしいのよ♪
とか言って、ある女性が自分の恋人の素晴らしさを友人の前でほめたたえるのだけど、
♪素敵なあの人はキングのようよ でも素敵なあの人はあなたにはなれない 彼はあなたではない
といって、むしろ“友人との関係の唯一無二性”を歌った曲なのです。

私にとって最も重要な人間関係というのは、影響面で言っても、断然親子関係なのだけど、
もちろんそれは今も変わらないけれど、
普通一般的には、夫婦関係や兄弟関係、親友なんかが、
その人にとっての重要な人間関係になるのだろうけど、
そういう自分にとっての人間関係のヒエラルキーとかプライオリティーは、
ただの慣習であり、その慣習が生んだ願望でしかないんじゃないか、とつくづく最近思う。


最近、職場で2年間も一緒に働いてきた人のお子さんが、ある病気だということを知った。
これは非常にショックなことだった。
そんな大事なことを知らずに、毎日居たのかと思うと愕然とした。
そのつもりはなくとも、何か失礼なことを言ったんじゃないか、
疎外感を抱かせるようなことがあったんじゃないか...。

プライバシーにかかわることだから、
おいそれ簡単に手助けしますよ、という話でもない。
けれど、うちの兄貴は2人とも精神障碍者だし「障害者手帳」も持っている。
直也君の弟も、今の時代なら「知的障碍者」と認定されるだろう。
そんな身内がいるからこそ、どうもまったく他人事な気がしなくて、
何かできることがあったら何でもしたい、と思う。


ちなみに職場には、知的障碍者で「障害者手帳」も有している女性の同僚がいる。
なかなか良い職場なのだ。
お互いパートタイム労働者だけれど、人生はパートタイムではない。
だから、職場の人間関係を本気でやれば、私の人生は大きく変わるのかもしれない。

私は基本、会社の仕事なんて、社長がしなくちゃいけないことを他の人が代理でやる仕事だと思っているので、
そもそも代理だから不自然・無理が生じて当たり前、
人間の生身の機微に応対できるような仕事の割りふりにはなるまいから、
「割り切って」仕事をするようにしている。そうじゃないと、割に合わないし。
だから感情的には一切ならずに仕事をするようにしている。
個人的な考えも同僚に、一切話していない。

けれど、だからこそ、本当に相手のことを思って働いたらどうなるんだろう、と思う。
本当に相手のことを思ったら、やっぱり怒ったりするんだろうし。

当たり前の事なのだけど、
一緒に働いている、あの人やあの人の「代わり」などいないのだ。
どんなにわが子が、家族が大事、なんて特別に線引きをしても、
あの人の代わりはいない。
あの人と私という関係は、唯一無二だ。
それを、誰か他の人との関係と比べようというのが間違いではなかったか。

気に入った人との関係は、自分が好きな自分でいられるから、好意的な関係だろう。
けれど、どんな人との関係においても自分は試されているし、
どんな関係においても、予見不可能な関係性は生まれる可能性がある。

そう思っていた時に「He isn't you」という歌のフレーズが頭の中で鳴ったのだ。
そうか!と思った。電光石火で統合された気分。
あの人はあなたではない。
あなたはあの人ではない。
同時に、私にとって好ましい私もおぞましい私も、同じ私なのだ。

多分、急にはそんなにいい人にはなれない。
「どんな人にも誠心誠意」なんかには、すぐなれないだろう。
だけど、なんか「自」信になった。
そして、この「自」には、私の家族だけじゃなく、
私のあの人もあの人も、含まれているのだろう。
He isn't you.

(これが書きたかったのに、なぜか前回太極拳の話になっちゃったのは何故だろう....)


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