ノ ー ト

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覚書

覚書 ~ リルケの詩と


 もろもろの事物のうえに張られている
 成長する輪のなかで私は私の生を生きている
 たぶん私は最後の輪を完成することはないだろう
 でも 私はそれを試みたいと思っている

 私は神を 太古の塔をめぐり
 もう千年もめぐっているが
 まだ知らない 私が鷹なのか 嵐なのか
 それとも大いなる歌なのかを


               

             リルケ 「時祷集-僧院生活の巻」

ーーーーー
大好きなこの詩の言葉の並びを眺めていると、
何かを思いつきそうなので、貼り付けておこう。

「私は私の生を生きている」、
その動機と目的が各々異なるならば、
表現も様式も各々で異なるだろう。
ただそれだけの理由で、
そこには争いや仲たがいが起きもするだろう。
動機と目的を無視したままでの
表現や様式は差異とでしか捉えられないから。
 
けれど、その表現と様式を作り上げている、
動機や目的の構造には
差異を超えたところの
普遍的な原理が見いだせるのだろう。
そしてだから、
原理には争いは存在しないのだろう。

ここでの語らいが、
表現と様式の淵でとどまるのでなく、
その構造にまで届くのなら。
“you're right , i'm right too
there's no one left here
になるんだろう。

原理はそこかしこにあり、
目の前にあるのに、
私たちはみようとしない。
もしくはそれをみる技術を手放してしまったのか。

本能の壊れた人間は、
リアリティの世界において、
積極的に認識しうるものでなければ、
「在る」とできない。

けれど、
波紋が水面の対称性の破綻によって現れるように、
かたちや姿が差異によって私たちに現れるのならば、
本当は、表現や様式こそ、
ひとの動機や目的の構造の“剥き出し”なのだと、
改めて学ぶべきだろう。

既に与えられた「先入見」がなければ、
対象を認識することすらできない私たちを、
しかしそれは「負」なのではなく、
あらゆる生物の中でも最も授乳期間が長く、
育児期間の長い生き物であるがゆえの自然だと思おう。

「先入見」は必ず打破され、解釈は拡大し続ける。
こうして、長い育児期間がゆえの、
「親離れ」を何度も何度もヒトは繰り返すのだろう。

それが言葉の呪縛であり、
しかし同時に言葉が、跳躍の鍵ともなるわけだ。

先入見を元にした解釈の拡大は、
いわば言語の細胞分裂のようだ。

鎌倉時代の仏僧が、
「本当は“花”など存在しないが、“花”とする」と言ったように、
反証によって私たちはやっと、
原理に至る。


国家による暴力や殺人が正当化されている間は、
ヒトの社会は、
表現や様式を単なる差異としてしかみなしていない。
社会は巣立ちを、親離れを禁ずる。


そこに「在る」ということは、
アクチュアルな時制の中で、
私の事件であり、出来事-happening-である。
ゆえに、「在る」は時間であり、「現在」なのだ。

目の前の表現や様式は過去ではない、決定済みではない。
だから、目の前に「在る」のだ。
まだその意味や価値は決定していない。
事はまだモノになっていない。

なぜ、その意味や価値の未だ決定していないものが、
争いの種になり得ようか。
解釈はこれからである。
始まったばかり。
今は「未(いま)」だ。




転載

まゆみさんのところに書いたコメントを覚書として転載。

私がスペインに住んでいた時、私が日本人だとわかっているのに、すれ違いざまスペイン人から「中国人!」って呼ばれたことが何度かありました。もちろん彼らは差別的に声をかけたのでしょうが、後で知ったところによると、スペインではアジア人の総称として中国人(chino/china)と呼ぶらしいです。でも私はなんか一歩的に呼びつけられたのが癪だったので、相手のスペイン人を「ポルトガル人!」って呼んでみたんです。そしたらすんごく怒ったから面白かった。隣国同士の対の構造というのは、どこの地域でもあるもんだなーと。
ちなみに「こそこそ逃げる」はスペイン語で、「フランス人のように逃げる」だし、フランス語では「スペイン人のように逃げる」です。イギリスとフランスにもおんなじ構造があるらしい。

まず、隣国同士の者は相手に過剰な意識を持ちすぎる、という傾向自体を忘れてはならないと思います。いつも以上に冷静に考えなくてはいけないかな、と。

わたしが以前から面白い研究されてるなと思っている呉宣児(≒オ・ソンア)さんのレポートはとても面白いです。韓国と日本でおごりについてどう考えるかをインタビューして多声性という問題を考えられています。ネットでは少なくとも2つの論文?が読めます。これが面白い。PDFなんでリンク張れないけど。

抜粋↓
「日常の自然場面ではおごり・割り勘の多様な現象や評価・意味づけが見られるにも関わらず、どうしてインタビュー場面では異口同声に韓国ではおごりが肯定的に語られ、日本では割り勘が肯定的に語られたのだろうか。
呉他(2006)は日本の社会でよく見られることを基準にして行うインタビュー質問項目自体が、時にはすでに良し悪しの評価をつけて問うことになりうることを指摘し、インタビュー場面自体や異なる背景を持つ研究者間の議論場面が、意図せず「日本―韓国」という「対の構造」をもたらしやすいことを指摘している。このことは調査場面だけではなく、文化的背景が異なる研究者同士が共に議論する時にも生じる。」

本来は自分の中に揺れや多声性(ポリフォニー)があるのに、インタビューや考えを述べるくだりになると、モノフォニーになってしまう。声が、本当の声じゃなくなってしまう。自分が自分の専制君主になってしまうんだよね。これが諸悪の根源かな、と。

また日本人はインタビューされたり質問されると、否定されたのかと思って正統性を主張してしまう傾向があるみたい。これはソースは忘れた。でも少なくとも日本人の議論の進め方はそんな感じします。
「セウォル号と同じような事故が日本でも起きてたけど、日本では死者は出なかった」とかいう報道も同じ構造だと思った。他人の不幸に乗じて自分たちは違うよアピール。現在の日本人のナショナリズムの1つのパターンかなって。東海林さだお氏が命名した、謙虚そうにしてるけど自慢する「ひかえめドーダ」ってやつ。とにかくあの報道は気持ち悪かったね。

最近日本人の礼節の本読んでたんだけど、魏志倭人伝の頃から、日本人は偉い人には頭下げてたらしい。あと柏手打ったらしい。
本の著者曰く、礼節の基本は「攻撃心はありませんよ」ってアピールなんだって。礼節や作法が沢山あるのは、それだけ日本は多種多様な人たちが住んでたルツボだったからだって。みんな一緒ならルール決める必要ないもんね。なんか納得。質問されると言い訳みたいに語るのも、コミュニケーション下手なのも、元々は異なる相手が前提だからじゃないかな、と。だから伝えることをあきらめやすいっていう。

日本は中間層が多くて「みんな一緒」の国民性、っていうのはつい最近のことで、本当は違うんじゃないかなって今は思う。韓国の方がよっぽど単一民族的じゃないだろうか。韓国の人の意識調査でも6割以上の人が韓国は単一民族だって考えてるらしいですね。今は韓国の居住外国人も80万人以上らしいから変わってきてるだろうけど。日本列島は多種多様がいいところだったのに、っていうかそれこそが国の成り立ちだったのに、それを去勢されてしまってる状態なんじゃないかな。

どっちにしても、「礼節」を重んじる「保守本流」の自民党には、攻撃心はありませんよって表現、もっと上手になってもらいたい。

| 森 | 2014/04/22 16:31 | URL | ≫ EDIT




私は東男と京女の子供なので(父方の祖父は会津、母方の祖父は北方のバイキングの末裔という話で丹後出身です)、西は京都までしかよく知らないんですが、去年は民俗学者の宮本常一氏周辺(偏ってる?!)を少なくとも20冊くらい読んで、西と東の見方にすごく変化がありました。

西は確かに豊かですね。絣文化で食器も陶磁器。農村も固定的ではなかった。わりと職業の自由があった。夜這いも西が顕著。歌垣は通説ほど乱交の場ではなかったみたいだけど、南から日本に来た文化ですね。だからこそ色んな人びと、職業や営みが派生した。でも、階層がいろいろできたから、差別は多い。
夫が妻に相談する文化があって、財布は妻に任せる文化。

東は貧しい。紬文化で食器は限定的で、あっても木製が主。農村は固定的で水呑み百姓の子は水呑み百姓。色んな職業が不可能だったから逃げ道・抜け道がなく、嬰児殺し・間引きがさかんに行われて、人口がいつも少ない。その分、差別が少ない。
夫婦の財布はそれぞれが持つ文化。

差別っていうのはあってはならないんだけど、でも豊かさの裏返しだと思いますね。実際は多様であるってことだから。
嬰児殺しは真宗では禁止されていたから、同じ東でも新潟なんかでは行われなく、間引きで人口減した常陸に子供を供給していたのは新潟。新潟は多分、トップレベルの豊かさだったと思います。新潟は東でも別格かなって思う。

宮本常一氏は日本っていう国は、常に西と東が入れ替わることで進んできた国だって書かれてましたね。西と東の勢力争いが日本である、と。

東の貧しさはでも、水田中心主義がもたらしたものだと思いますけども。そういう意味ではイデオロギー的に貧しくさせられた部分はある気がする。食糧こそイデオロギーであり、政治だから。

| 森 | 2014/04/23 15:52 | URL | ≫ EDIT


読書 「暮らしの中の洗浄」辻 薦著

http://www.chijinshokan.co.jp/Books/ISBN4-8052-0463-X.htm

東大の化学・農学博士によるエッセイ的な本。
もともとこの人(故人?)は、工業洗浄に関する専門家のようです。
日本、もとい、世界の洗浄の歴史をかいつまんでエッセイにしてあります。

この本に書かれていて、
改めてハッとしたのは、
まー考えてみれば当たり前なんだけど、
欧米なんかの硬質な水だと、
石鹸などの泡立ちが悪くなるようで、
欧米の市販の洗剤なんかは、
日本の洗剤より一般的な使用感としても「強い」わけです。

わたくし、スペイン在住時に1度、
美容室で「シャンプー&カット」をしてもらったことあったのですが、
そこで使われていたシャンプー&リンス?で、
びっくりするくらい髪が傷んだことがあって。

芸能界の人とか、渋谷系の人って、
外国の洗剤使ったり、「ダウニー」使ってる人多いですけど、
ああいう国内販売品って、日本対応になっているものなのでしょうか?

シャウベルガーの本にも書いてあったんだけど、
水って優秀な溶媒だから、
磨かれた水っていうのは体にはよくない。
体のミネラルを奪ってしまう、と。

肌にも多分、欧米のような硬水の方がいいのかもしれないけど、
洗剤を使う段になると、
硬水は泡立たないからって強い洗剤を使うことになって、
結局肌には強い刺激になってしまうのか?
あちらを立てればこちらが立たず感。

でも、日本は軟水だっていうのはなんか日本っぽいっていうか、
日本列島の住民の精神に多大な影響を与えている気がする。

日本では長らく灰汁が洗浄に使われてきたわけですが、
灰汁はアク≒悪か?っていう話を考えると、
洗浄→浄化にアク→悪が使われてきたって風にもできて、
なるほど興味深い感じ。
まさにカタルシス?

カタルシス(wikiより↓)
「ギリシア語のカタルシスは元来は医学用語で、薬剤を用いて吐かせたり、
下痢を起こさせる行為をいった。」

石鹸はその昔下剤として使われていたわけですけど、
灰汁の成分もまた、下剤らしいです。
便秘解消のために食べるごぼうの灰汁などは特にとらない方が良いらしい。
おもしろい。

勤めていた蕎麦屋の女将が
「その人の味覚は、生まれた土地の水に左右されるのよ」
って言ってたけど、
「水」は本当に大きい前提だす。

読書「不平等について―― 経済学と統計が語る26の話」

不平等について―― 経済学と統計が語る26の話

すず書房だし、なんかよさそうな気がして借りた本。

「結論」
経済学部の人にはいいかもしれないけど、
現在の不平等を私たちはどう変えていけばいいのか、の
切り口的なものを読み取れなかった。
でもって、なんか燃えるものがなくて完読できず。

当たり前だけど、
不平等は個人間の勤勉と怠慢の差によって生じるのではなく、
政治が生んでいるんだってことは明言されてて。

あと、農業が主産業であった時代の農民間の不平等よりも、
工業が主流となった時代の、
工業従事者間の不平等の方が大きいってこと。
そりゃそうだ。
工業の方が、設計者と工場労働者といった分業が複雑になるから。
消費者とは会うことのない、遠いところで働いている人ほど賃金が高く、
消費者と直に接するような、近いところで働いている人ほど賃金は安くなる。

アマルティア・セン氏の「不平等の経済学」を読んだ方が面白そうだな。
って思った。

ただ「不平等」っていうのは経済学から問題にすればつまらなくなるのは必至。
倫理的な意味での不平等には憤慨する人多いと思うけど、
経済的な不平等にはそんなに腹が立たない。
お金が全てじゃないってことはみんな実感しているから。

ただ片親世帯の親がパートでどんなに働いても12,3万にしかならなくて、
それじゃ生活保護(約13万くらい?)と同じくらいだってことと、
子供を高校くらいは卒業させないと就職も難しくて学費が払えない
っていうこととかが問題。

だけど、安物、粗悪品を大量生産&消費するようになったから、
自らの労働価値を下げ、賃金を低下させてるわけだから、
不平等のきっかけを与えられると、本当に人々は進んで貧していく。

通約不可能な世界~ピダハン族と

私にとって、アマゾンに住むピダハン族はすごい驚きだった。
一般的に言われている「未開の」部族というのは、
いつだって刺激的なものだけど、
ピダハンに関する研究の内容はずば抜けている。
以前も書いたんだけど(↓自分のブログから)
ピダハン語の衝撃。
アマゾンの部族のピダハン語には、「右」と「左」も「神」も色や数の識別もない。
平等に分配するので数は必要ないらしい。
そして「入れ子状」の再帰的な文がない。
つまり、「彼女が欲しいと言っていた、ピンクの帽子は既に売り切れですと、
店員が彼女に言ったと妻が話した」みたいな入れ子状がないんだって。
英語で言うとthatでつながる文章が、ピダハンにはない。
で、チョムスキーが相当不機嫌になっているらしい。
普遍文法説を唱えている人はそりゃ、ナーバスになるだろうな。
で、ピダハン族と一緒に暮らしていた言語学者に
ピダハン族と接触できないように圧力がかかったらしい。
まだ本を読んでないんだけど、加えてピダハンには伝承がないらしい
神話がないんだって。
ピダハン族は、基本、実際経験したことしか話さないんだけど、
ある人が死んだら、その人が生きていた時に話したことは無効になるらしい。
死んだ人が語った内容を話すことはしなくなるらしい。
生きている人の 経験したことしか話さない。
だから伝承も信じないし、神話がない。
これってすごいことじゃないか?本当なら。

 ピダハンのこのことを知ってから色々思いを巡らすと、
アニミズムとか自然崇拝っていうのを、
私たちはえらく原始的なもののように思い込んでいるけれど、
実は「入れ子状の再帰的な文法」が獲得された社会の
屈折した発明品であるような気がしてくる。

多分この「入れ子」というのは、貨幣(制度)の事じゃないかって気がする。
貨幣というのは等価という価値観を前提としている。
でも物々交換というのは互換性ではあるけれど、厳密にいうと等価ではない。
貨幣はそれを担保している存在が別にあって、
その存在が無くなると、貨幣自体が無価値になるような性質のものだけど、
物々交換の「もの」は、それ自体が価値を持っている。

「入れ子状の再帰的な文法」が獲得された社会と
不平等な社会は強い相関関係があるんじゃないかな。

随分前に、池谷裕二さんのツイートで
「ルールは平等でも不平等は自然発生します。例えば各人一万円づつ持つ集団。
ランダムに2人選んで一方から一方へ百円渡すという無作為トレードを延々繰り返すと、
一部の大金持ちと大勢の貧乏人に分かれます。
この数学的に自明な事実を知らずに自由や公平を謳うと色々な誤解が生じるように思うのです」
ってのがあったんだけど、
こういう不公平っていうのはお金だから起きるんじゃないかなって思った。

これ実験の道具がオレンジだったらどうなんだろう。
確かにあの人のオレンジは大きいけどあまり甘くないとか、
私はオレンジ嫌いだから少なくていいとか。。。
もっと実験が面倒なものになるだろうな。
お金はみんな貰いたがるものって思ってるでしょ?!
なんかその前提、うっとおしいんだなー。

このツイートでは、
平等不平等って、誰かがジャッジできるものになってるけど、
本当の実際の平等不平等って感覚って、主観的な訴えであるのが普通。
結局、平等不平等っていうのは錯覚か妄想みたいなもの。
でも、平等不平等って、つまり通約可能な世界を前提としてるわけだから、
等価の世界の文化なんじゃないかな。
つまり
平等不平等っていう意識の文化は、貨幣制度から生まれた
んじゃないのかな?

以前もここで書いたけど、
関係と呼ばれるものがつねに通約不可能な何かとのかかわりであり、
関係の1項と他項とを
絶対的に等価でないものにするものとの関わりである
(青字ジャン・リュック・ナンシー)。
これはレヴィナスも言っていたことだったりする気がする。

本当の関係っていうのは、平等不平等とは簡単に言えない関係
のことじゃないかな。

ピダハンは分配が基本だから数は数えなくていい。
実際数えないから平等に分配されているかどうかはわからないわけで。
だから西洋人が分配だって?!素晴らしい!!なんて絶賛しても、
分配自体、ピダハンにとってどーでもいいことだったりして。
でももしかしたら、特殊に鍛えられたピダハンの脳は、
大体の数を誤差なく平等に分けられるのかもしれない。
殆どの人間の行為は無意識的なので、
そういう可能性はないとはおおいに言えない。

ピダハンは私たちの理想でもあり、
こうあってほしいという願望なのかもしれない。
だから私たちにとって都合がいい。
都合がいいから、根絶されなかったのかもしれない。
そう思うと世界は人間が願った通りの世界なのかもしれない。
どんなに残酷でも、それを人間は願ったのだと。

障害者基本法

私は職場で知障の方と働いている。
が、私の所属する会社は以下の障害者基本法を守るために
なんら目に見える効果ある努力をしていない。
憤りとともに、なぜ多くの正社員という給与所得者は、
給与がかなり保障されている身分にもかかわらず、
自分の事しか考えられないでいるのだろうか。
金銭的な余裕は決して他人への想像力や理解を生むものではない。
金銭的余裕は結局、自律的な生き方ではなく
対処療法的、消費的な生き方を引き起こすことになっているケースが散見する。

コミュニケーションを疎ましく思う人は、誰の上司にもなってはいけない。
上からの評価システムしかない会社は、ブラック企業と呼んでもいいと思う。
知障の人を活かす仕事の仕方を工夫もしないで、
知障の人を雇い、知障の人ばかりが苦しむ現状を放置しているのは、
企業として社会的責任を果たしていないし、
これは組織的ないじめだ。
学校のいじめよりももっと悪質なのは、
収入が途絶える不安を必ず被害者に与えるからだ。

明日以降、断固抗議したい。
しかし、こんなにおぞい人しかこの会社にはいないのか。

以下、障害者基本法から抜粋

(差別の禁止)
第四条 何人も、障害者に対して、障害を理由として、差別することその他の権利利益を侵害する行為をしてはならない。
2 社会的障壁の除去は、それを必要としている障害者が現に存し、かつ、その実施に伴う負担が過重でないときは、それを怠ることによつて前項の規定に違反することとならないよう、その実施について必要かつ合理的な配慮がされなければならない。
3 国は、第一項の規定に違反する行為の防止に関する啓発及び知識の普及を図るため、当該行為の防止を図るために必要となる情報の収集、整理及び提供を行うものとする。

(雇用の促進等)
第十九条 国及び地方公共団体は、国及び地方公共団体並びに事業者における障害者の雇用を促進するため、障害者の優先雇用その他の施策を講じなければならない。
2 事業主は、障害者の雇用に関し、その有する能力を正当に評価し、適切な雇用の機会を確保するとともに、個々の障害者の特性に応じた適正な雇用管理を行うことによりその雇用の安定を図るよう努めなければならない。
3 国及び地方公共団体は、障害者を雇用する事業主に対して、障害者の雇用のための経済的負担を軽減し、もつてその雇用の促進及び継続を図るため、障害者が雇用されるのに伴い必要となる施設又は設備の整備等に要する費用の助成その他必要な施策を講じなければならない。

メモ 魚とかチリの事

またまた、まゆみさんのブログに付けた自分のコメント。
なんだか最近、自分のブログなんて必要かねって気分。
一か所書き損じがあったのでそこだけ今回直しました。
 

チリ産の養殖塩銀鮭はウチもしばしば買って食べていたので、もう買わないようにしようと思います。なんかのサイトに、チリ産サーモンは年3回(or~6回)が上限と書いてありました。

日本の商社は世界中の魚貝類を買い付けに行っています。昨今の回転寿司の繁栄ぶりはその結果でもありますね。世界の鮭の3分の1を日本の住人が食べています。
ヴェネスエラの友人の話では、南米はヨーロッパ系の移民が富裕層の多くを占めていて、古くからの現地人(言葉が正しくない気がするけど)とは意識が随分違うんじゃないか、という事でした。チリワインもロスチャイルドのアルマヴィーヴァが評価されてからめきめきシェアを伸ばしていて、チリのその経済的な成長ぶりが、なんとなくあぶなっかしい感じがします。反対意見が多数だとしても、2025年までに原発建設する考えを示してフランスと交渉していて、研究炉はすでに2基あるそうです。

チリは高い山々があり、ミネラル豊富な川の栄養が流れ込む沿岸は小さい島々並ぶフィヨルドで、恵まれた漁場のはずでした。実は結構、漁場としては日本の三陸に似ているのかな?って思ってるんです。地震の多さも似ていますね。南北に長いっていうのも似ています。だから、日本の商社が目をつけやすい国のような気がします。太平洋を挟んでちょうど「裏」って感じがする。

日本の養殖の歴史は古くて1000年以上。でも淡水魚だけだったみたいで、海水魚の養殖は昭和3年のハマチが日本では初だそうです。民俗学の本によると、最近まで、マタギが鮎などの淡水魚を温泉場に売りに行ったり、山間部の民が塩分補給するために塩漬けの魚や丸干しが流通するという感じで、実は昔も魚を常食する習慣は一般的ではなかったんじゃないかな、と思います。

ファミレスや給食でも使われているという白身魚ナイルパーチ。イギリス植民地時代、ビクトリア湖に外来種である肉食ナイルパーチを放ち、草食系の魚しかいなかったビクトリア湖の生態系を破壊していると言われています。これに関したドキュメンタリー映画に「ダーウィンの悪夢」があります。私は見てないけど。

でもこの映画も随分嘘があるらしく、自然派活動家とか映像作家も評価が欲しくて作るから、本当のことだけではないみたい。ビクトリア湖を利用しているのは実は商社や企業だけじゃなく、それらに反対を唱えている人も同様なんですね。
悪いことに、後者の左翼系の人たちはデータや数字に弱いから、半分が本当のこと言ってても、半分がいい加減だから、結局は山師みたいに映ってしまうし頼りない。

もちろん、ナイルパーチや養殖魚は減った方がいいのは事実だし、食べない方が良いに決まってるんだけど、それとは別にどっちの意見にも入れ込み過ぎない姿勢っていうのは大事かなって思います。捕鯨の問題もそうですね。世界中の伝統漁業が破壊され、養殖魚が市場の半分以上になりつつある中で、日本の伝統的捕鯨という立場もナンセンスだし、鯨だけを別格視する活動家もナンセンス。これも本当の問題から目を逸らすための装置なんでしょうね。

最近ニュースをにぎわすバナメイ海老の高騰もそう。ブラックタイガーよりも生産性が高くて(=生育が早い)、過密と病気に強いっていうふれこみでバナメイ種が主流になりつつあったんだけど、やっぱり病気になった。

ちなみにブラックタイガーは養殖だけど、網で囲い込んでいるだけで餌をやらないのでほぼ天然です。ただむきエビになっていると薬品を使っているので、天然の殻付き冷凍有頭エビ=ホワイト種がスーパーで売っている中で1番安全かと思います。
鮭は紅サケだけ養殖はなく、全て天然です。日本では取れないので、北海道産となっているものは北海道の漁船がとっただけで、カムチャッカ産です。アメリカ産となっているものはアラスカ・ブリストル湾産です。脂はカムチャッカ産=ロシア産の方が乗っています。
時鮭は白鮭で、秋鮭とものは同じです。秋鮭が産卵と同時に美味しくなくなるので、産卵時期は秋鮭と呼び、それ以外の時期を時鮭と言います。秋鮭時鮭は北海道産や宮城産が主流です。原発以後、天然ものにたいする判断も難しくなってきましたが、大きい魚は大抵回遊魚なので、西の産地であっても難しいです。鯵は黄鯵は回遊しない地鯵です。九州産の黄色い鯵はリスクは低い方だと思います。

以上、スーパーの鮮魚部門のパートの意見です。

| 森 | 2013/12/12 20:38 |

メモ

以前まゆみさんのブログに書いたコメント。メモとして。

以前、まゆみさんも書かれていたような気もしましたが、311以後、定期的に読んでいる栄養士の方のブログには以下のように書いてありました。

「フィチン酸はカルシウム、マグネシウム、鉄、亜鉛などの必須ミネラルと結合することで吸収を阻害するので、フィチン酸が含まれた食材(大豆を含む多くの豆類、穀類)を食べる時には前処理を十分に行うこと」

豆乳もフィチン酸が多いみたいです。
フィチン酸についての先のブログの別の記述はこちら↓。
http://nutmed.exblog.jp/8779106/

大抵の栄養士的な考えって西洋的な栄養学であんまり好きじゃないのですが、この方の文章を読んでると、栄養学って単なる足し算なんかじゃないんだなと改めて思います。もちろん私には、この方の文章の中身を精査するほどの知識はないのですが、その人の体質とか状態、食べ合わせ、摂取期間まで考えると、すんごい複雑な数式よりもっともっと難解なことなんだろうなっていうのだけは確信します。
調べれば調べるほど、これ食べてたら大丈夫!なんていう気持ちにはなれなくなります。

| 森 | 2013/11/07 15:47 | URL | ≫ EDIT


私が書けそうなことってそんなになくて、食餌学的なことでいけば、本当に受け売り状態なので、ちょっと脱線して書いてみます。

モグラではなく、野菜の皮を残したのはネズミです。以前、こちらでまゆみさんが記事を紹介されていた記憶があるのですが、傷ついた茄子は抗酸化作用が倍加するというような内容のもの、ありましたよね。そんな抗酸化作用がたっぷりでポリフェノールたっぷりの皮なのに、ネズミには不要だってことですね。
ちなみにモグラはミミズを食べる時、ミミズをひっくり返しながら食べるそうです。ミミズが食べた土や泥を下へこしながら、まず頭を食べ、ひっくり返して後ろを食べ、土や泥をミミズの真ん中に寄せてそこを残すんですって。野菜に付着した多少の泥や土もミネラルだ、なんて言って良いことしてる気になっている人に教えてあげたい。

直也君の畑のネズミの健康状態や暮らし向きは関知しないので、抗酸化物質なんて必要ない?若いネズミのケースなのかもしれないし、直也君の畑では害獣対策なんて一切してないので、ネズミにとっては食べ放題状態ですっごく飽食状態なのかもしれません。だから一概には言えないんですけど、ただ「一物全体だから食べるべき」だとか、「皮まで食べるのが自然だ」とかっていう理屈は少し強引過ぎる気がしますね。でもマクロビの内部でも、マクロビのあれを食べてもいい・食べちゃいけないっていうマニュアル化の風潮を、まるでミクロビオティックだと言って自己批判する声も出てきているようです。そういうのいいですね。

ポリフェノールは植物の苦味にあたるらしいですけど、緑茶を喜んで飲むのは(確認されている分では)ヒトだけだそうです。あの苦味を飲めるのは中毒性なんだって聞いたことがあります。寿命の長い生物が苦味を好むのかもしれないな、と妄想。寿命の長い生物っていうのはつまり「ゾウの時間 ネズミの時間―サイズの生物学」によるところの、動きの遅い脈拍の遅い生物ですね。ヒトでも小動物系の人は苦味成分はあんまり要らないのかも。

あと、関係ないのですが、よく「昔の人ってよくこんな食べ物が食べられるって知ってたよね」なんて言いますよね、毒性のあるフグとか。それで「ヒトって何が食べられるか自分で人体実験して学習してきたんだろう」って言いますけど、全然そうじゃなくて、私はずばり、ヒトは犬に毒見役をさせてきたって最近思っています。「犬も食わない」って言いかたしますしね。
犬は人間の相棒で、狩りを共にし、なんて言うけど、同時に「あいつは警察の犬」だとか犬を使った差別用語はたくさんあります。以前、ニュースで、故池田満寿夫氏が「飼い主が与える以外の餌は絶対に食べてはいけない」としつけていた飼い犬2頭を山で逃がしてしまい、数日後犬を見つけた時には、本当に何も食べていなくて餓死していたっていうのがありました。
現代、特に西側の人々もこの犬たちと同じような状態じゃないでしょうか。自分で食べるものを自分で考えられない奴隷のようなものなのかもなって。人類が総毒見をさせられているのかも。そういう意味で、「これは絶対体にいいよ」も「人体に害は認められない」も同じ質のものですね。そういうのは鵜呑みにしない。それが大前提かな、と。同時に、そういう類の事、ひとに言いたくないな。

お粗末な内容で相済みません。また何か思いついたら書きます。

| 森 | 2013/11/07 21:36 | URL | ≫ EDIT

「ゾウの時間 ネズミの時間―サイズの生物学」っていう本と、その書評を書いた池谷裕二さんの意見が私の中でごっちゃになっているのですが、殆どの哺乳類の寿命は心拍数○回目(忘れました)と相場が決まっているそうで、小動物になるほど心拍速度は速いし、動きも機敏で短命。でも寿命を迎えるまでの心拍数はゾウもネズミも同じなんだそうです。
その心拍数○回目っていうのを人間に置き換えると40歳前後らしいです。だから40歳以降は人間の技術が得た延命の時間なんじゃないか、と。そう考えると、なんとなく40歳以降はあんまり食べなくても生きていけるんじゃないかって気がするし、食べ物以外を糧にして生きていかなくちゃいけないのかなという気がしています。それを見つけるために勉強って必要なのかな、と。

皮を食べるかどうかっていうのも、日本みたいな水資源が豊富なところだと丁寧に洗浄できるけど、野菜を洗う水が制限されているなら、皮をむいた方が早いかもしれない。それをして「作物を無駄にしている」とも言い難いですね。
というか、作物と灌漑技術や水資源の開発っていうのはともに進んできたので、作物を本来どう食べるかっていう問題は、作物単体から紐解こうと思っても不毛なのかもしれない。地球の水資源の6割強は農業用水に使用されていて、地球上の人々の7割くらいの人が水不足に困っている。でも困っている人びとの何割かが、西側の暮らしや衛生概念を押し付けられたためにそう感じているのかもしれない。

多様性が保たれた生態系なら、生物が食べる時間というのは捕食者によって命が1番狙われ易い時間。だから無駄にむさぼり食べたりはしないだろうし、必要なものだけを食べるでしょうね。だからと言って人間みたいに、保身のためにその多様性を破壊しない、それが1つの知性であるのは間違いないかな、と思います。

| 森 | 2013/11/08 08:02 | URL | ≫ EDIT

ヴァイオレンスのためのヴァイオレンス

先日、松本の花月ホテル向かいに新しくできた、
想雲堂という喫茶店に行きました。
コーヒーも美味しかったし、置いてある本が懐かしいものばかり。
どっかの喫茶店みたいに、左翼系とか美学系だけじゃなく、
フィールドワーク系も多いのが良い。
カウンターのご主人の近くに、民俗学系の本を寄せてあるのが
とくに好ましい。

いろいろ懐かしい本を開いてみたけど、
「あー。。。」と絶句したのが詩人の故田村隆一氏の本。
あんなに読んでいたのに。
何故読まなくなったんだろう。
必要だったのはもしかして、実用的なハウツー的な何かとか、
何が正しいか、とかじゃなく、
田村氏のような、絶対的に“方向音痴にならない感覚”だったんじゃないか、と。

田村隆一氏と吉本隆明氏の対談を読んで、
なんだかもやもやしていたものが晴れた気になった。
吉本氏は方向音痴だから迷うんだけど、
田村氏は迷わないんだよね。

なかでも田村氏の話した、
「自分の中にあるヴァイオレンスっていうのは、
ヴァイオレンスに対するヴァイオレンスしかないんだけど、
ヴァイオレンスが絶対嫌だから、それもしない」
というような内容。
結果、自分の行為が誰からも見つけられなくたって、いいじゃん。
フィッシュマンズの佐藤君が言っていたよね。
「誰にも見つからないような詩を書くのが好き」って。
佐藤君は反権力と歌わなくたって、いつだって反権力でいられた稀有なひとだ。

祭りはあってもいいけど、祭りに参加するっていうのは別問題、
っていう田村氏の指摘も素晴らしい。
参加しないっていう工夫は江戸時代までならずっとあった、と。
田村氏は祭りの協賛金も「精神病だから」とかで払わずに済ましていたらしい。

世間にどう思われようと、
やりたくないことはしない。
やらない工夫。
誰のものにもならない人生の工夫って、
強靭な精神でないとできないんだろうな。

近況報告のようなそうでないような 

先日、ハイファッションモデルのTAOさんとジャズミュージシャンの菊池成孔氏の
対談をテレビで観た。かなりおもしろかった。

菊池氏は多方面でマルチに活躍されているらしいのだけど、
「どこにそんな時間があるのか」とTAOさんが尋ねたら、
菊池氏は「ネットを1日30分以内にしたら時間は作れるよ」
と言った。
なんかこの発言は、道理を得ているのだが
かたや、この発言から枝葉を分かつようにして、
いろいろな問題が提起されている気がした。

以前勤めていた蕎麦屋の女将は
インターネットを卑下していた。

なんか古い、頭の固い人なので、
現実の日常とヴァーチャルな世界を積極的に分断して考えたいんだろう。
歴代総理や経済界のおえらさんと接してきた女将のような人にしてみれば、
「なにをネット上で発言したってそんなもの戯言よ」ってなもんだろう。
こういう時代錯誤な誤解というか偏見っていうのはけっこう大多数なんだろな。

ネットはなんでか知らないけど多くの人が匿名でやる。
自ら率先して無名。
だけど有名には、なりたい。
これって気持ちが無整理状態なのかな。
でも私だって無整理状態なまま生きているわけで、
エラソーなことは言えまい。
ネットは、その無整理状態までが露出してしまうのが、
また生々しくて、いいところでもあるんじゃないか、と最近思う。
よっぽどネットの方がヴァーチャルじゃなくて、
リアルっていうかアクチュアルなことなんじゃないか。

匿名でやる人がいる限り、上の女将のような偏見は消えないんだろうけど、
女将の論理でいくと、人前で喧嘩するよりは仮面夫婦でもやって
「理想の夫婦」キャラで儲けた方がいい、てなことになっちゃう。
でもそれってなんかただの嘘っていうか隠蔽。

TAOさんにしても、メディアで露出する仕事なので、
メディア=文字の歴史の世界で名を残す=「露出」できることが
彼女にとっての良いか悪いかの基準なんだろう。
別にTAOさんだけでなく、女将にしたって、大抵みんなそう。

お城や寺社仏閣を見て回るのがブームで、
城マニアさんが築城した人=殿様を熱心に褒めたりするけど、
いやそれ築城した人じゃなくて、築城にお金出しただけの人でしょ
ってことがすんごく多い。
大工の名前や労役に従事した人の名前なんか残んないからね。
無名=文字の歴史に名を残さないでも、
有名なひとよりずっと立派な人、立派な仕事をした人はたくさんいるわけだ。

だからTAOさんは菊池さんの仕事を評価してはいるんだけど、
文字の歴史に名を残している仕事の方がすごいっていうのが基本にあるんじゃないかな。
「時間はある」「ない」って言うけど(私も)、
時間ていうのはみんなにあるわけで。

人から評価されるために費やした時間だけが有意義な時間であるって発想が、
なんか世界の良くないものを生み出している気もする。
ネットっていうのは確かに著作権がかなりアバウトだし、
費やす時間、文字数に対する対価っていうものがあんまり産業化してない。
これがすごく産業化したら、
ネットがヴァーチャルってイメージは消えるんだろう。
でもそれってなんかセコイ。
なんかトリクルダウン神話みたいな?

以前、ジャンリュックナンシーの本の感想でも書いたけど、
対価のない仕事=シャドウワークって鍵だと思う。
政府にとって1番嫌なのは、お金にもならないことに時間を費やせる人、だろうし。

ネットは共有の世界。
手柄は結局、誰か1人だけによるものじゃないってことが明白にされる世界。
ネットの時間を短くすればって言ったって、
ネット以前はそれが普通の世の中だった。
でもだからと言って、今より良い世の中だったとは言えない。

著作権がなかったり、自分の手柄にならないシャドウワーク大いに結構。

私のことですが、夏は野菜が沢山あって、
やってみたら毎日2時間以上は台所に立ってないと
野菜を消費できなかった。
パートから帰ってほどなく台所へ。
朝6時出勤なので夜ご飯食べてお風呂してほどなくして寝る感じ。
よってネットはほとんど見れなかった。
でも冬は見ると思う。
それでいいんじゃないか、と思う。

ネットも放射能も予防接種も、
何事も踏絵のように機能されては嫌です。

父へのメール

今まさに、東北へ縄文の旅に出ている父へ、
先日送ったメールを記録。

メールありがとうございます。
 
縄文の農耕の本を読んでいるのも、
今や気分だけはすっかり農家なので、
農を基軸に本を選んで読んでいるにすぎないのですが。
水田稲作以前の日本とはどんなものだったのかに関心があります。
 
実際問題、ウチの畑で部分的にやっている無農薬・無施肥というのは、
それイコール有機農業というわけではないので、
(つまり、戦前の慣行農法がみんな有機農法だったように、
 今現在の一般的な有機農業のルーツは、慣行農業なわけですから。)
このやり方を、現代までに栽培化・改良化された作物に適用すると、
収量の問題で非常に難しいです。
 
そこで昔の農業はどうだったのか、
農民の暮らしはどうだったのかを調べだしたのです。
 
きっかけは宮本常一氏の「忘れられた日本人」を読んだこともあるかと思います。
柳田國男の民俗学は「水田=日本」的な一元的な価値観がありますが、
(故に熱烈な支持者がいて、高く評価するに過ぎないと思います)
宮本氏の民俗学はもっと多様な日本をとらえているかと思います。
縄文時代も水田遺構がなければ稲作がなかったとする研究者も根強い。
陸稲と焼畑の文化が無視されています。
 
農業の歴史は収奪の歴史とも重なるわけで、
農業史=栽培史じゃなくてむしろ労働史に近いと感じています。
信長と秀吉が検地をやって石高制が採用された近世以降、
水田稲作=日本という価値観が押し付けられたと思います。
検地以前は農地面積や反収は、
農民のざっくりした申告ですんでいたようです。
この頃は「国破れて山河あり」が成立していた。
政治に巻き込まれない農民という層があった。
今は安倍公房が指摘したように、
世界的にも「国破れて山河なし」の時代です。
 
弥生時代の水田も、焼畑で、
毎年場所を変えて作っていたようです。
弥生時代とて、
水田=農地に人間が固定される、
という図式では決してなかったように思います。
焼畑であれば肥料があまりいらないのに、
検地が進んで農村が固定化し、
良くて5公5民の割合で収奪もされると、
反収をあげることを考えざるを得なくなるでしょう。
収量をあげた結果、連作障害が起きて地力が弱まると、
肥料が必要になるということになります。
 
ここ波田も江戸時代は刈敷の産地であったようですから、
主に松本平の田畑にいれる肥料を作るのが主産業だったと。
畑は焼畑のことで、畠は焼かない畑のことです。
こうして日本は畠と水田を中心に機能するようになったと思います。
まさに信長から中央集権的な近代は始まったんでしょう。
信長と秀吉は平野から出た武将ですが、
それ以外の武将はほとんど山谷出身です。
ウタリの農耕も粟や稗が中心でしたが、
そういった山谷を中心にして栽培された作物と暮らしが衰退していったのも、
近代かと思います。
 
戦後の青森の農民がいうことには、
「津軽の森は食べ物のデパート」だったそうですから、
江戸時代の東日本~東北の大飢饉は、
水田稲作を強要されなければ起きなかったと思います。
 
現代は、
武士だとかサムライというのを褒め言葉として使っていますが、
少なくとも江戸時代以降の武士はただの役人だと思っているので、
なんにも良いようには思えません。
江戸末期の日本人の人口は3300万人で、
内300万人が武士と公家です。
300万の働かない人々を3000万人で支えていたわけです。
 
西行や芭蕉といった、どこへ行っても大歓迎で宿もあったくせに
さもつらい旅をしたような風を吹かした輩よりも、
今は一遍や菅江真澄のような旅人がいいな、と思います。
 
脱線しましたが、これにて。
 

メモ 

まゆみさんのブログに付けたコメント

直也君が畑をやっているのを間近で見ていると、作物が苗になる頃までに栄養や環境面で苦難があると、決定的に食味に影響するような気がします。「三つ子の魂百まで的」な、すごく重要な時期だと思います。でも、有用性をあまりに強く考えて農作業をするとしたら、私にはちょっと窮屈ですね。雑草に対しては全くの放任で、栄養素なんて考えてやらないけど、作物が食物だから追肥とか考えるわけだし、栽培技術っていうのはあくまで人間の側のものであって、植物全体にとってはどうなんだろう。生長過程では動けない植物だからこそ、ネットワークというか、知っていることはすごいんじゃないか、と思います。近々「植物はそこまで知っている」って本読んでみたいと思っています。

農業の歴史は収奪の歴史とも重なるわけで、農業史=栽培史じゃなくてむしろ労働史に近いと感じています。中世ヨーロッパもペストで農奴制が崩壊して、かなりの農地が人手の要らない牧地に変わったらしいです。ヨーロッパもそこまで肉食じゃなかったかもしれない。それだけ、食べ物と権力って強い関係があると思います。江戸時代は良くて5公5民の割合で農作物を納税していたとか。日本列島の水稲の歴史は多く見積もって3000年。つまり3000回しか水稲を実践したことがないってことだけど、これはすごく少ない数(練習3000回しかしてないプロっていないと思う)。
その内、納税を考えないで(規制をされずに自発的に)水稲やれたのは実際問題、何回なんだろう?って思います。陸稲じゃなくて水稲になったってこと自体も、規制の結果かもしれませんし。だから自発的な作物との関係史ってまだ始まってないんじゃないかなって気がします。

例えば、普段農薬いっぱい使う農家も、自家消費用の田畑はかなり減農薬をしています。実際、労働として作る作物と、食べる作物が違うってことなんですよね。そこに大きな問題があると思います。
あと、近所にトマトジュースメーカーと契約しているトマトの畑があるんですが、結構手入れもいい加減で見た目ワイルドです(もちろんウチに比べると草も全然ないけど)。生食用に出荷するトマト畑もそのくらいワイルドだっていいんじゃないかって思うくらい。でも、ジュース用みたいに元の形がそんなに買い手から要求されないなら、慣行農家もわりとワイルドにやれるんだと思う。だから農家は、誰に食べてもらえるのか(どこに出荷するのか)っていうことに非常に依存して作っているのが現状だと思う。誤解を生みやすい言い方ですが、公が規制してきたのを、今は消費者が規制しているって感じかな、と。スーパーの売り場は、多くの私たちの頭の中身そのままってことですね。

今は、お肉や魚、加工品にお金を払うのはいいけど、野菜に高いお金を払う気になれないって人がとても多い気がします。でも民俗学の方が言うには、昔の農家の人って「自家製品は全部タダ」って意識が強くて、都会の人が何か売ってくれって言っても値段を付けられなかったらしいんです(だから「民芸運動」の人たちはタダ同然でかなりの民具を押収≒収集したんじゃないかな)。江戸末期の日本住民3300万のうち3000万が農民ということは、今の日本住民のほとんどが元をたどれば農家出身なわけですから、野菜に高いお金を払うっていう文化が浅い理由もまぁ、わかる気もするのです。室町のころは、古米が新米の2割増しの値段で流通していたっていうし(古米は水を吸うので炊くと2割増しの量になるから)、近年まで米の品種だってもっと多様で基本ブレンド米だった事からすると、今は野菜に対する価値観がすごく狭くなっていると思うし、結果、収量の低い農家を支える層が小さいから、単価安値&収量を追い求める農家が大半になるのも仕方がないかな、と。

とにかく、作物との関係を変えるには、それを食べる側が変わらなくちゃいけないと思います。

私がいいなと思うのは、もちろん各人が自分で畑をやるのが理想ですけど、そうでない場合、個人的に農家とある面積を年単位で契約を結んで、収量を分けるってやり方です。リンゴ園なんかではもう進んでいることですけど、自分で種まきとか、収穫とか要所要所で参加する。それで、できたものを引き受けて食べる。作物との関係が、降ってわいた目の前の商品(点)がいいとか悪いとかの選別になるのではなく、実体のある自分の暮らし(線)そのものを考えるものであってほしいと思います。生まれてきたものを引き受けるっていうのは、子供も作物も同じかな、と。都市生活者の方がメニューを決めてから材料を買いに行くのとは全く違うと思います。

なんか長いし、説教臭くなってきたのでやめます。

| 森 | 2013/07/17 11:34 | URL | 

戦争とは

戦争とは、
武器の見本市なのだ。
国家統一のための奉り=祭りなのだ。

エウロパ 私の天の邪鬼

昔もらった本をスーパーの休憩中に読む。
軽いエッセイ集。しかし軽すぎるというか軽薄。

『想い出のカフェ ドゥ マゴからの贈り物』


内容は文化人による、
“自分の知っている欧米のオサレなカフェ自慢大会”。
しかしアメリカ文学者の柴田元幸氏のエッセイだけは秀逸であった。
彼が田舎もんじゃないからだろう。

ーーーーーーーーー

ヨーロッパの滞在が、
個人主義を教えてくれた、だの
各人の孤独を尊重してくれる雰囲気が素晴らしかった、
だの言う日本人が沢山いる。
私ももれなくそう思ったクチ(恥ずかしい)。

確かにスペインでの日々は、
私にとって日本にいる時とは全く違う感覚だった。
他人と違っていても
(正確には、自分が社会の本流で成功者でなくとも、ってことなんだけど)
違っていていいんだ、ということが嬉しく思えるのは
それだけで本当に幸福感を与えてくれた。

けれど、仮に本当に、
ヨーロッパの社会が成熟しているとしてみても、
かつての魔女狩りや選民意識、
そして植民地政策などの国家的暴力をどう考えればよいのだろうか。
前時代にそういった暴力やカタルシスを経なければ、
皆が褒めちぎる例の「欧米の自由な雰囲気」は到来しないのだろうか。

ヨーロッパの社会を、
歴史として、つまり蓄積されたものとしては
どう考えればよいのだろうか。
生物とは、個体でつまり蓄積そのものなのだ、ということからすると
現時点での社会だけを評価するというのは嘘になるわけで。

愚かさが、私を親欧にも反欧にもさせる。
それに連動して、私のアジアに対する意識も展転とするような気がする。

ーーーー

文化人、特に海外文学者や文化人類学者が、
自分以外の日本人を
「日本人観光客」とか「やたらな日本人」と描写するのは不快だ。
何故、自分は例外と誇示したいのか全くナゾ。
所詮、為替レートで利益を上げてるだけの、単なるブローカーじゃんか。

まぁ彼らとて生きる術としてそうしているのだし、
私が他人の生きる術を否定しようがないのだけど、
彼らが何をどう誇ろうが、
彼らが売る側で私が買う側の人間だ、
ということに過ぎないのだった。

自己愛

相手がどんなに自分と違う考えを持っていても、
その人が私の話に聞く耳を持っている場合、
その人を嫌いになることはない。

またどんなに似た考えをしていても、
自分にとって禁忌とも言える単語や言い回しをする人を
好きにはなれない。

だから好き嫌いというのは結局自己愛でしかなく、
よって「相手を好む、好まざる」というのは
ただのまぼろしなんじゃないだろうか。
まぼろしに振り回されるのは宗教だ。
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