ノ ー ト

好 き な 読 書 を 中 心 に 考 え 中 を 記 録 す る ノ ー ト

覚書

可動

青字部分を追加

蕎麦屋は結局7か月で退職し、
以前勤めていたスーパーの鮮魚部門に舞い戻りました。
やっぱり庶民派のワタクシ、こっちの方が合ってるなー、と思う。

蕎麦はまぁ普通、飢饉の時の食べ物であって、
本来“ど庶民”の食べ物なんだろうけど、
勤めていた蕎麦屋はなんだか格調の高い?有名店だったので、
今のスーパー勤務とでは、結構、落差はある。

蕎麦屋の時は裏方の仕事で、主に2畳分しか動く範囲がなくて、
ヒマな時は女将とお茶を飲みながら話をしているだけで、
実際、からだが鈍ったし、体重も4キロ以上増加した。
働いていないのに、まかないとして蕎麦を3人前くらい食べるのも辛かった。
「働かざる者食うべからず」とはよく言ったものだとつくづく思った。
30代も半ばを過ぎると、
この言葉は怠け者を非難するものではなくて、
からだの健康のこと、自己管理を諭した先人の知恵ではなかったかと思うようになった。

スーパーに戻って、1番いいのは移動が自在にできるところ。
人手が足りなくて大忙しなのでからだをフルに動かせられる。
1か月で3キロ減量できた。

蕎麦屋の女将とはいろんな話ができたし、
文化的には、非常に毎日刺激的だったのだけど、
そういう精神の自由?があっても、
からだが囚われの状態であっては自由度を感じにくいのではないかと思った。
動物とは動くものだから、そもそもそういうものなんじゃないだろうか。
これは非常に勉強になった。

あとこれは毎日3人前蕎麦を食べた上での思いつきなんだけど、
「空腹こそが最高の調味料」と言うけれど、
なかでも蕎麦は、空腹時が1番美味しい食べ物ではないか、ということ。
うどんでは蕎麦ほどまでには空腹状態を要請しない気がする。
蕎麦は飢餓の時に食べた、という記憶が
どこかこのからだにも伝わっているんではないだろうか、と思う。

税と選挙

先日青色申告ソフトを購入し、
確定申告に向けて中嶋農産の決算書を作成中。
一応、青色申告の複式簿記。
1日でも遅れると控除額が減るのでなんだか毎日そわそわ落ち着かない。

先の選挙で自民党が大勝して意気消沈したけれど、
今はいかに所得税を払わないかに努力したい。
ぜったいに払いたくない。

選挙は、ぼろいメディアのキャンペーンで、
簡単に世論とやらは操作されて、その通りの勝敗が出る。
例えば、投票に行かなくても白紙で投票しても、
それは何の抵抗を示すことにもならない。
投票率が60%以下なら選挙は永遠に無効です、とか
白紙票が全体の○%を占めれば無効です、とか
法律で決まっているならいざ知らず、
現状はどんなに低い投票率でも、
世論操作の効果があった党が勝つだけの仕組みになっている。
この現状でできることは、
私は選挙に行って反対票を投じるしかないと思っている。

でも議会制民主主義なんて民主主義じゃない。
「みなさんは働いて税金おさめてくださーい、政治は勝手にこっちでやっときますから」
ってことに過ぎないから。

だったら税金をなるたけ払わない生き方をしたい。
防衛費だのなんだの予算を上げるために払いたくないし、
税金を納めることで共犯に仕立てられていくのは嫌だ。

みんなバイトしながら個人事業主にでもなって、
赤字を出し続けて税金おさめないような生き方をしたらどうだろうか。
年金も払わないか全額免除にしてもらう。

それで日本が破綻して、亡命先を自分で決められればいいのに。
多分日本が中国になっても、合衆国になっても
庶民の暮らしは意外と変わらなっかたりして。
でもその前にIMFと世界銀行に巣食われるんだろうな。

とにかく今は確定申告をやろう。

哲学

1人1人に考えや思いはある。
けれどもそれは哲学かって言うとそうじゃない。
思考とか見解は、それ自体が哲学的なわけではない。
哲学とは科学であり、当人の専門分野・職業など、
いかなる前提も抜きにして普遍的に論じられるものを語ることだ。
(実際問題、個人が徹頭徹尾“普遍的”に論ずることができるかどうか、
ということは別の命題として哲学的に論じられればいい。
でも1人で完全に語れなくてもいい。哲学はリレーだから。)

思考や見解が殆ど、蓄積され幾重にも足し算していくものなのだとしたら、
哲学は言葉を重ねながら引き算していく=剥いでいくことだと思う。

哲学は神話を必要としない。
囚われるべき根拠など無いことを、
私たちには制約など本来ないということを、明らかにするものだから。

工芸が、仕事が、つまりおよそ訓練的なものの全てが、
道徳的な表現をとる限り、
それがすたれようとどうなろうと構わない。
道徳とは1つのファッションに過ぎないから。
しかし、工芸や仕事を通じて考え抜いたことが哲学に至るならば、
すたれることはない。
哲学は時代という制約によってすたれるものではないから。

仕事によって得た理念も、往々にして時代や立場が変わると説教でしかない。
つまり説教とは、
ある特定の立場から放たれる「ものいい」=言質のこと。
「同じ言葉でもあの人が言うと違うよねー」を哲学は拒絶する。
哲学は誰にも属さない。

2月6日の記事に「物より心の方が本当は残るんじゃないか」って書いたけど、
厳密には、物を作ることによって生まれた考えが哲学に達した時にのみ、
残るんじゃないかと思う。
語れる仕事は往々にして魅力的に目に映り、尊敬と羨望の的となるけれど、
三浦マイルド氏がしてみせるように、
語り方を手にすれば、誰でも(どんな職業をしていても)語り部になれる。

「太った豚になるよりも、痩せたソクラテスになれ」とは
某国策大学の学長の言葉だったので何とも言えないけど、
普通、人は肥満型の経験や知識を手にするが、
逆にそれによってどんどん痩せていくような
そんな経験や知識を手にしていきたいもんだと思う。
それを可能とする技術が哲学かな、と思う。

貨幣って

誰だって、
誰かが自殺したとかいうイワクつきの部屋なんか借りたくないし、
他人から奪ったものをプレゼントされたとしても嬉しくない。

貨幣はこうした由来やいわれを断ち切るためにある。
貨幣はみんな同じ顔をしている。
これでみんな、血塗られたお金だって気にせず受け取れる。
その自覚はなくとも、自分自身を騙すことに平気になる。

人生の妥協と詐欺性を貨幣は与える。

やっぱり

武士って結局、ただの役人だってことじゃないだろうか。
最近、「まるで武士みたいだ」とか言って
人をホメたりするけど非常に違和感を感じる。
武士なんて、
主君の死の際、側近が「一緒に心中するっ」ていう、
衆道(同性愛)がプラスされただけの役人に過ぎないんじゃ。
江戸時代は武士=官僚大国。
3千万人の農民が150万の武士と50万の公家を支えてたんだから、すごい負担。
いいかげんにしろ。
武士なんてろくなもんじゃない。
          ★

先日、NHKの「プロフェッショナル」で
当代樂吉左衛門さんのことをやってた。
楽さんの焼き物はテレビで見る限り、
あんまり好きな感じじゃない。
でも、楽さんが言ってることはすごく良かった。
最近思うのは、「物はどうでもいいんじゃないか」ってこと。

「物」って資源だし、自然を加工するわけだし、残るものだから、
作家や職人の人間性よりも、まず「作られた物」がどうかで判断すべき。
って考えが普通だけど、
なんか最近はやっぱり表現された物質的な形よりも、
その人の物を作るときの考えや心の動きの方が大事じゃないか
って思うようになった。
別にそれを、その人は誰にも伝えなくて胸にしまっててもいいわけで。
でも思うのは、物より心の方が本当は残るんじゃないかって。

結局、「形」や「色」に対する許容範囲のレンジって意外と狭い。
育ちや慣習なんかでそういう感覚ってついてしまうから、
ある意味生理現象に近いものがある。
だから受け入れる「幅」がない。
そのくせに、物を見てこれはいいとか悪いとか言うのも正直イヤナ感じ。
物だけの評価では所詮、相手を打ち消しあってしまう。
そんな、場所の占拠を競うようなことが、いいわけない。

楽さんはずっと葛藤している。それが大事。
葛藤し続けてきた人は変わり続けられる。
変わり続けてきた人じゃないと、年を取ってからは変われない。
それこそが1番、物を作る仕事の醍醐味ではないか、と。
物は結局なんでもいい。
器だろうが家具だろうが織物だろうが農作物だろうが。

ガンジーが言った
「全ての人が目標とするのは健康です」っていうのは
こういう事じゃないだろうか。
いい物を作るのが目的ではなく、
物を作るときに養われる心が目的になるべきかな、と。

食べ物の値段を上げろ 


最近のワタクシのヒーロー、新妻エイジ(from 「バクマン。」)
好きで好きでしょうがないもの(彼にとっては漫画、)を見つけることと、
真面目で熱意のある仲間を持つことは、この上ない幸せのような気がする。

最近、パンは「SWEET」で買うことにしている。
うちの玄米も測っている「信州放射能ラボ」で放射線測定しているから。
原料に国産のものを使ってないから測れるんだよ、とか言う人いるけど、
おいしいかおいしくないか以前に、
食べ物はできるだけ安全なものを届けようとするのが基本だと思う。
SWEETの若社長も一人の父親なわけで、親としてもちゃんとしてる。
自分の作っているパン、こうなんだよって言って子供に食べさせられるのは、
全然違うと思う。

しかし、食べ物の値段が安過ぎるのが、諸問題の元凶のような気がする。
大正時代の非農家の給料の半分が食費に消えていたわけで、
そのくらい食費はかかってもいい気がする。
食べ物の値段がこんなに安くては、食育もへったくれもないと思う。
みんなハイオクのガソリン入れても、食用油は最低のものを平気で使ってるし。
アレルギーは4,5人に1人。自閉症は5人に1人、と言われる昨今において、
どの農家もそこそこ食べられるくらいなら、ここらへんの問題を対応できそうなのに。
自分家が農家なら、製造過程のコンタミの問題とか、就職の問題もなんとかなる。

子供の貧困層の問題で、母子家庭の85%は働いているのに、半分が貧困層だとか。
子供の貧困度は世界で9位だが、働いているのに貧困なのは世界で1位なんだそうだ。
学校で給食食べられないと、飢えてしまう子供がいる。
働いていても食べられないのは、人件費が安いからだし、
人件費が安いのは、食べ物の値段が安いせいじゃないのかな。
あと物々交換じゃなくて、貨幣が余計にそうさせるんだろうな。
見えないところで色つけるなんてできないから。
相手には知られないようにやる思いやりとか、
そういう余剰を切り捨てる結果にもなっている。

なんか今のメディアは、みんな糸井重里と関係ない人いないんじゃないかってほど
一元化を見せていて=渋谷系化していて、
どの街にも糸井重里系の中心人物がいて、幅を利かせている。
この一元化を拒否すると、たちまち食べられなくなるっていう閉塞感と、
今の日本の「働けど働けどわが暮らし楽にならざり」って閉塞感には
なんか共通する原因がある気がする。
(啄木は全然働いてなかったから、文学=フィクションだけど)
でも、啄木が歌ったくらい、そもそも日本は貧しかった。
民俗学は、なぜこんなに日本はずっと貧しかったのか、を紐解かなくちゃいけない。

今週のメモ

<学校週6日制復活か?のニュース>
そもそも日本は、学校におんぶにだっこを望みすぎるのではないか。
先日、音大生と話す機会があったものの、非常につまらなくて驚いた。
音大を出ても、学校の先生くらいしか進路がなく、彼女曰く「ピアノは仕事です」とのこと。
日本のクラシック音楽の環境の閉塞感にがっくりする。
いまだに西洋の猿真似程度にすぎないんじゃないか、と。
地域のアンサンブルとかオケとか、そういう縦のつながりが全くない。
少なくとも欧米では、生涯通じて演奏生活を楽しむ気風と環境があるけど。
学校の部活やサークル活動は、世界的にも珍しいことらしい。
世界では、みんなスポーツでも音楽でも、地域のクラブに入って、
多様な年齢層の仲間と楽しむのが普通みたい。
それによって地域のつながりは強まるだろうし。
いっそ、いじめや体罰が減るか見るためにも、一度学校の部活を全廃したらどうだろうか。

<農村の排他性について>
その昔、ある農村で作物の伝染病が発生した時、村あげての消毒実施が提案された。
しかし、2,3戸がそれに反対した。
その理由は、消毒する人足が不足しているということ、消毒代が負担できない、の2点だった。
全村消毒でなければ意味がない、ということで、反対する家の消毒も、村の人が代わりにやった。
そして、翌年も同じ伝染病が発生した。
しかし、消毒に反対する家は前年よりも大幅に増えた。
反対してもやってもらえるし、お金も人足も負担してもらえるから反対に回ったのだった。
結局、その村の生産性は落ち、村の結束はバラバラになるに至ったという。
それに対してある民俗学者は「このように農村にいたっては、1戸の反対も致命傷なのである」と。
農村の閉鎖性は確かに、作物の伝染病という意味でも強い運命共同体であって、
そのために、村の構成員が行動を同じくすることが求められたりしただろう。
それが農村の排他性を生んだかもしれない。
けれど上の民俗学者の指摘はあくまで現実的な結果論にすぎなく、問題の起源論ではない。
問題はやはり作物が、自分たちの食べ物である以外に、納めるべき税として存在したから、だと思う。
自分たちが食べる分だけ作っているならば、伝染病はそこまで深刻な問題とならなかっただろう。
圃場の地力以上の収量を強要したのは、やはり為政者の権力ではなかったか。
現実的な問題と同時に、起源を考えるのでなければ、
結局は、民衆同士の無用な憎しみと争いに転じるだけの気がする。

<「ハウルの動く城」の感想>
結局は魔法とは、魔除けなのではないか、ということ。
ハウルの部屋が物でごちゃごちゃしているのは魔除けのためだったが、
つまり物を収集するということは、魔除けなのではないか、ということ。
つまり物をもちすぎるのは臆病であり、弱さ。
掃除好きのソフィは、つまり臆病ではなく、強い女の子として描かれている。
魔女にかけられた魔法の半分は、実はソフィによる自己暗示だったのではないか、という点。
本人が「自分を生きていない」=コンプレックスを抱いていた、ため老婆に化けた。
ソフィが場面場面で老婆から元の少女の姿に戻ったが、
それは我を忘れている時=ハウルを心配している時だったからか?
我を忘れることが実は自分を生きること、魔法が解けること?
自分で決めた自分の殻を超えること?

真の文明は...

NHKの「日本人は何を考えてきたか」で、
田中正造と熊楠が扱われていた。
http://www.nhk.or.jp/nihonjin/schedule/0122.html

足尾銅山の鉱毒による周辺流域への害も、
当時の東大の調査では
「因果関係は認められない、多少の銅は体に良い」
というような結果だったらしい。どこかで聞いたような表現。
さすが東大。伝統が違うんだな。

まだ、銅による被害は続いているし、
東日本大震災によって、銅山の廃棄物の堆積物に亀裂が生じて、
有害物質が流れ出ているんだとか。
この放送を見てると、本当に今の原発事故と全く同じ状況。
多くの人がそう感じているらしい。

田中正造と一緒に抵抗運動をしたのは主に農民だったわけで、
当時の農民は字をしらないから、と言って愚かなわけじゃない。
今と別に変わらないと思う。
谷中から北海道へ移住した子孫の男性が
いまだに「田中さんは」と親しげに語るのが圧巻。
100年経っても田中正造への信頼は脈々と続いている。
けれど、当事者以外はみんな忘れるんだな。
田中正造は大した人だと思うし、大した考えを紡ぎ出したけど、
日本の教育の中で特に軽んじられてる気がする。
福沢諭吉や夏目漱石がお札になっている今の日本なんだから、当然か。

最近思うけど、私にとって立派な人の基準って、
この人は絶対日本のお札にはならないなーって思える人。

脱国家が実現する条件は
全ての国家によって同時にそれが行なわれることだ、
って言われてるみたいに、現状では、
全ての人が同時に被害者となって苦しまなければ、
多分永遠に、みんなが当事者意識を持つことは不可能なんじゃないだろうか。
被害者と非被害者が混在する以上は、
非被害状態が常に正常で、なおかつ、
たて直しの基盤になってしまう。
常に当事者ではない外部が、
もっともらしい“客観的な”意見をありがたくも授けてくれようとする。
それは自分の中にも起こること。
少なくとも福島で原発が吹っ飛んだくらいでは、
政府も大多数の市民もこたえないってことだ。
人類はもっと大きな危機を、
地球レベルの危機を必要としているんだな。

核戦争の用意をしている人々が、
現に世界で権限を握っているんだし、
みんなそんな人に頭を下げる仕組みで暮らしていて、
お金持ちや名声のある人を羨ましいって思ったりするんだから、
本当にばかばかしい。

今週のメモ

先週末から今週にかけて考えたことなどメモ。

整体をやっている人から聞いた話。
福沢諭吉が漢方を全否定したという。
なんでも選択することが不可能になった
今の日本の素地は、こういうところから来てるんじゃないか、と。

体に触れながら施術者に話されると、
ヒトはスポンジのようにその言葉を受け入れる傾向があるらしい。
治療とは関係ないことを話しながら施術する人は避けるべし、とか。

また、目と肝臓と腎臓は関係が深いとのこと。
目が大きい人は肝臓と腎臓に注意すべし、とのこと。
目には多くの栄養を使うので、年取ってから緑内障を発症しても、
無理に治すと、肝臓や腎臓に病が出るとか。
加齢による衰えは自然だから、逆らうと他に症状が出るらしい。

歯も年齢以上に良くすると、消化器官系がついていけなくなるらしい。
生物学では、哺乳類は心拍数○○回目に寿命が来ることになっているらしくて、
人間で言ったら42歳くらいらしい。厄年だ。
40歳以後は、食べ物以外を糧に生きることを考えなくちゃいけない気がする。
40歳以後は特に食べ過ぎが万病の元らしいことから言って。
健康に生きるというより、寿命を全うするってことが大事かな。

老後その人がどうなるかは、お酒を飲んだときどうなるかで結構わかるかも?
老後みんな血管を開く薬を飲むから、飲酒の状態に近くなるとか。

玄米食の人にとっての日本酒(超精白米)の大量摂取とはなんなのか?


ピダハン語の衝撃。
アマゾンの部族のピダハン語には、「右」と「左」も「神」も色や数の識別もない。
平等に分配するので数は必要ないらしい。
そして「入れ子状」の再帰的な文がない。
つまり、「彼女が欲しいと言っていた、ピンクの帽子は既に売り切れですと、
店員が彼女に言ったと妻が話した」みたいな入れ子状がないんだって。
英語で言うとthatでつながる文章が、ピダハンにはない。
で、チョムスキーが相当不機嫌になっているらしい。
普遍文法説を唱えている人はそりゃ、ナーバスになるだろうな。
で、ピダハン族と一緒に暮らしていた言語学者に
ピダハン族と接触できないように圧力がかかったらしい。
圧力のもとは誰か知らないけど、
チョムスキーは反権力のようでいて、同時に権力的でもあるんじゃないか。
結局、権威は進歩的なこと言っても、片方で保守的なこともしてたりして。
だからいくらどんなに影響力のある人が登場したって、
依然、世の中は良くならないんだろうな、と。
人間はイリュージョンならぬ、リカージョン(入れ子)だ!的な
人間って脳で脳のことを考えるみたいな、堂々巡りと矛盾をはらんで進む生き物じゃない?
という私の考えも微塵に砕けそうな勢い。
ちなみに拍手やそれに類する習慣も、身分の分化していない社会では無いらしいし、
差別と職業の多様性と拍手は連動している。


和歌山や山口からハワイへの移民は多く出ている。
しかしその多くが、老後日本に帰ってきているらしい。
漁師(漁師町)は故郷へ帰り易い。
農民と違って、土地の争いがないためだという。
ハワイでの日本の漁師は嫌われたらしい
(かつてハワイの人は春に○○魚を採ったら、秋は△△魚は採らないとかのルールを守っていた)。
移民は豊かさを求めて移住するので、現地の人から見れば収奪に近い働き方だったろう。
海上でハワイ人に日本人は襲撃されることもあったらしいが、
同時に危険を知らせてくれるのもハワイ人であったらしい。
そこに、ポリネシアの人の殺伐としきらない優しさを感じる。


ギュンター・アンダースは「復興とは破壊の破壊である」と言った。
復興とは破壊運動の極致である、と。
阪神淡路大震災後に行った神戸の街に感じた、あの気持ち悪さは多分それだったんだろう。
復興が破壊を忘れることによってなされるならば、
確かに復興とは破壊の後にもっとも不要なことだろう。


肉親に先の大戦の特攻隊員を持つ人の話。
特攻隊で生き残った人たちは、みんな会社の経営者などにはなっていないそうだ。
どこかみんな優しくて、ここぞという時に冷酷になれないからだ、とか。
そもそも戦地に何度も送られた人や、特攻隊員は危険思想を持つ人が多かったという。
つまり政府にとって、死んでも惜しくない人たちだった、ということだろうか。
生き残ったという罪悪感は、仲間を出し抜いたという罪悪感に似ているのだろうか。
そういう人が戦後、また人を出し抜こうとは思わなかったんだろう。


丸茂でお世話になった故新田貞雄氏を思い返しながら。
新田さんにとって、民芸運動と(クラシック)音楽とでは、どちらが大事だっただろうか。
目が見えなくなってからは工芸にそんなに興味を示さなかった。見えないからだろうけど。
けど、音楽に対してはずっと情熱があった。
新田さんが民芸運動に共感したのは「名もない職人が一番えらい」という一点だった。
私たちにはわからないけれど、戦争体験者にとって、
自分とあの戦争のことをどう考えるか、は生きることそのものだったんじゃないかな。
明治以前は、戦争は上の人間のすることで民衆のあずかり知らないものだったという。
そういう政治とは無縁の名もない民衆の発見と再評価、
それが新田さんの、民芸運動への強い動機だったんじゃないか、と思う。
それは新田さんの反戦の思いを兼ねていただろう。


上の意味で、
中国の現代の民衆は、江戸以前の日本の民衆に近いのではないかな、と想像してみた。
私の知っている中国人の友人(女性)は、日本人女性よりずっと意見を言う。
日本は男尊女卑がヒドイと言い、すでにドクターでもある彼女は
夫と娘を中国に残したまま日本やアメリカの大学に更に留学したりする。
信州大学からアメリカの大学に移ってからその後は知らないけど。
中国当局の文句も言っていた。
正直、中国人と比べて、日本人の方が意志薄弱で蹂躙されている気がするくらい。
歌舞伎の玉三郎さんが、「私は日本人よりも中国人との方が付き合いやすい」と言うのは、
中国人の中に、民衆が本来持つ横のつながりやたくましさ、したたかさが
現に残ってあるからじゃないかな。
歌舞伎だって、そんな民衆のエネルギーから生まれたんだから、
かぶく側には、物静かで感情を抑えた人々など、付き合い難いのは当然だ。


読売新聞は嫌いだけど、歌舞伎役者の新・市川猿之助の対談は素晴らしかった。
最近、芝居のワークショップに出てみるといいのでは、との助言をもらった矢先。
現代劇の前に、歌舞伎や能のワークショップを経た方が、
人間の来し方からすると、スジが通ってるかも?と。
以下一部抜粋↓
猿之助「現代劇の限界は、歌舞伎に登場する魑魅魍魎や怨霊などを近代的な合理主義で
切り捨てたところ。現代劇の登場人物は1幕から3幕まで同じ性格ですが、歌舞伎は全然違ったりする。
自分自身も昨日と今日で違うし、そっちの方が本当。現代劇は逆に浅いですね。」
イギリスの役者が、シェークスピア劇を経てから現代劇をやるように。 

掃除

勤めている蕎麦屋では、
毎朝、店前の掃き掃除をすることになっている。

南隣のお店は、いつも広範囲に掃き掃除をしてくれるで、
何の心配もいらないのだけど、
北隣は1階が商店ではないので、掃き掃除をする人がいない。

最近は落葉がかなりあるので、掃いているのだけど、
時間がないとき、北隣より先を掃くものかどうか、
一瞬だけど躊躇する。

だけど、
自分の店の前の落葉だけ取り除いて
隣は掃かないんだったら、
見る人が見れば、「自分の店の前だけきれいにしている」と思うだろうし、
それはかえって美しくないだろう、と思うから、
一応ふんばって北隣より先を掃くことにする。

だけどもし、
隣の落葉をそのままにしないと間に合わないような忙しいときは、
いっそこちらの店の前も落ち葉だらけの方が
美しいのではないだろうか。
落ち葉は決してゴミではないから。

同じように店内でも、
蜘蛛が引越しした後の蜘蛛の巣は取るけれど、
蜘蛛がいる現役の蜘蛛の巣は、
そのままの方が美しい気がするし、
それが美しく映えるお店にいると思う。

そういうことを考えながらする掃除が、とても面白い。

本を開いたら

“開いたページが、その日のあなたへの言葉です”
というような本を見せてもらって、
昨日開いたページに↓の言葉が。

「まず自分を信頼することから始めなければなりません。
自分を信頼していないと、
自分の良さを自分に証明するために、いつも他人に
頼らなければなりません。
しかし、決して満足しないでしょう。
あなたはいつもどうすればよいか他人に聞き、
同時に、自分が助けを求めた相手にいつも腹をたてるでしょう。」

ひどく納得した。

my heart belongs to me

ある方に言われた大きな1言。

「その人は神様のお使いかもしれないけど、いいね、
でも決して神様じゃないんだよ。
神様は1人1人にいるもので、目に見えないものだからね。」

私にとって、
人も本も(宮澤賢治やリルケにしても)、一切の出来事や何もかも、
それらは“神様のお使い”なのだ。
でも、それは決して“神様そのもの”ではない。
答えではない。
自分への答えはやはり自分で出すものだ、と知った。
他人が稼いだお金では、ひとは決して幸せになれないのと似て。

私は神様のお使いを、神様そのものだと思っていたのだろう。
神様のお使いは私に「答え」をくれるわけではない。
くれるのはあくまで「きっかけ」なのだ。
でも、その「きっかけ」がとても貴重で、
同じ場所にいながら旅をさせてもらうようなものではないだろうか。

(ヒトの進化が、移動と交易=コミュニケーションによってなされたならば、
 ヒトとは旅をしなければいられないものではないかと最近思う)

神様のお使いに答えを求めるのも、
神様のお使いに褒められた気になったり、
そしられた気になるのも、
そもそも全て勘違いだった。
そう思うようになってから、
色んなことへの依存心が薄らいだ気がする。

私の答えは私が私に出さなければ、
それは答えではないのだろう。

(もちろん、この「神様」ということばは便宜上のもので
 もっとふさわしい言葉があるかもしれません)

My Heart Belongs To Me
本文とこの曲、全く関係ないけど、この曲の解釈が変わりました

A氏に

私の父が東北へ今日から旅に出かけた。
火焔土器や遮光器土器などを見に縄文遺跡を回る。
誰かも言ってたけれど、
この列島の人は自然を謳う以外は表現方法はないんだ。
自然を観察することが肝心要。
だけど「自然は自然を模倣しない」(らしい)。
結局、種や形の違いは「創発」の結果そのものだからなのかな。

覚書 ~ 祝祭など

「脳のゆらぎ」が
「夢をみること」または「夢の内容」を左右している
んじゃないだろうか、と勝手に想像。

ーーーーーーー

例えば、コップを取るという行動において、
「コップを取ろう」と思う以前に
本当はすでに脳がコップを取る準備をはじめているらしい。
つまり、過去の経験によって形成された反射などによって
脳が準備することに、ヒトの意思が追随しているのだとしたら、
物理的には自由意思など存在しないことになるらしい。
けれど、実際にはその行動を「おこさない」という自由はあるらしい。
ヒトにあるのは「自由否定」のみだ、と。
もちろん、他人から制限されない場合のことを「自由意思」とするなら
それでもいいわけだけど、
そうなるとこの場合の「自由意思」とは、単に倫理的な「自由意思」でしかないみたい。

誰かを見て、「あの人、太ってるな」と反射的に思うとして、
太いっていうのはあくまで相対的なもの、つまり、
私にとっての「太い」とは、今までの自分の経験が勝手につくりだした感覚でしかない。
この感覚から自由になるなんてことは、そうそう私はできない。
でも「あの人、太い」と思っても、口に出さない、ことはできる。

だから、反射的な行動を否定するっていうのが
唯一ヒトにとっての自由なのかも...
とこれまた文系的な曲解をしてみたりする。
「やろう」よりも、「やらない」の方が本当は難しいのかも。
太極拳は反射運動の否定だから、なのでなおさら可能性を感じるわけです。

ーーーーーーー

「祝祭」は多くの人が基本、好きなはず。
普通、社会的なストレスがたまると祝祭は当然必要になるもの。
デモやどんちゃん騒ぎは嫌いでも、祇園祭が好きとか花火が好きとかは、ある。
脳的には、前者に参加している人も後者に参加している人も
同じ脳の部位が活性化しているに違いない。

ではどうして、ヒトは前者と後者を区別できるだろうか。
それはやっぱり日頃からそれらの違いを習慣的に考えているか、
でしかない気がする。
“普段”から“不断”に考え続けていないと、
脳は反射的に祝祭を肯定するだけだろう。

祝祭に進化や洗練などは必要ないように、
多分デモやストに進化や洗練はない。
最初の形が最終形でしかないと思う。
だから、未熟でも稚拙でも最初の1歩だから仕方がない、
今後につながるだろう、というのは多分違う。

数(体制)に対抗するために、
数(デモや署名)を戦術に採用するのだとしたら、
それは同じ方法論の踏襲である以上に、
この限られた時間の中では2度手間だ、ということなのだろう。

私たちの投票は結局「委任状」を出した程度のことでしかない。
私たちは大事なことを決める時に、
進んで欠席をすることを選ぶ社会に住んでいる。
デモは、自分や自分の親が欠席してきたことを棚に上げて
欠席者が集まって、決められた内容に不服を申し立てている。

まず「委任状を出さない方法」「大事な時に欠席しない方法」
が可能かを考えてみたい。

メモ 太陽

金環日食の朝、生理が始まる。
といっても最近ずっと大潮に生理が来るので、
当たり前といえば当たり前か。

あまり日食を見るのはいけないと思いつつも、
職場の人と金環日食を見に思わず駐車場に出てみた。
しかも裸眼で。
太陽は1秒も直視していられなかった。
偶像崇拝って太陽崇拝から最初に生まれたんじゃないだろうか
ととっさに思う。
月は直視できるけど、太陽は直視できないし。
太陽を崇めるにも、太陽の似姿・媒体物が必要な気がする。

古代エジプトの神様にケプリっていう神様がいて、
頭がフンコロガシ。
フンコロガシの糞を転がしているさまが
天体を転がしているみたいだから、
「太陽の運行を司る」天の神様なんだって。

堀金物産センターで買った太陽柄のふきん↓
てーぶるピカ子ちゃん 「堀金かえでの家」
P5240575

ピカ子はいい仕事をしそうだ。
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