ノ ー ト

好 き な 読 書 を 中 心 に 考 え 中 を 記 録 す る ノ ー ト

バタイユ

B その続き2 ~内的体験と瞬間について~

以前、娘と家の近所を散歩していると、
ダウン症の女性が歩いてきたので、こちらからあいさつをしたら、
嬉しそうに話しかけてくれたことがあった。
20歳の学生らしい。家も本当に近所だということが分かった。
ひとしきり話した後、その女性と別れた後で娘は、
「いいお姉ちゃんだったね、本当に家に遊びに来てくれるかな?
明日来てくれるかもしれないね」と言う。

今月5歳になったばかりの娘には、
一般的な意味での「健常者」と「障碍者」の区別がない。
私の統合失調症の兄とも仲良しだ。
だから、
無知が差別を生むのではなく、
中途半端な「知」こそが差別を生んでいる

というのが私の実感だし、多くの人にとってもそうだろう。

加えて、以前「パーソナルスペース」という記事で書いた通り↓、

人は無意識のうちに他人との間に距離をとって、快適な空間を保とうとし、
この個人的な空間のことを「パーソナル・スペース」と言うのだそうです。
パーソナルスペースとは心理的な私的空間で「持ち運び可能な縄張り」とも言えるそうです。
恐らく精神病の人との人間関係の困難さと、彼らが受ける社会的な偏見の原因は、
このパーソナルスペースを互いに上手く取れないことにあると思います。
直接危害を加えられたわけでもないのに、相手に恐怖を感じ、退けようとするのは、
ヒトに、物理的な侵犯だけでなく、心理的な侵犯ということがあるんだ、ということだと思います
というように、人間にとって、
“パーソナルスペースが侵犯されるかもしれない”という不安こそが、
大抵の差別や偏見を引き起こしていると私は思う。
この意味においては、
幼子というのは常に抱っこされたり触れられるのに慣れており、
それが故に、
「パーソナルスペースの領域が狭い=偏見が少ない」という構造はある気がする。
(余談だけれど、小児科医の黒部信一氏によると、
乳幼児のアトピーの原因は“触られすぎ”にある場合があるそうで、
小さな子供にはパーソナルスペースの意識はない、としてしまうのは全くの間違いだろう。)

こうして考えると、一般的な「知」とは、
<主体>という領域の「拡大」や「連続性」を意味するのではないだろうか。
身体の実寸を超えて延長していく、
領域としての自分の拡大・連続性が「パーソナルスペース」の広さなのだろうし、
実際、高い地位の人ほどパーソナルスペースは広いらしい。
嗅覚や聴覚といった、“動的”な電気信号に対する能力が、
生物にとっては身を守るための重要な鍵となるように、
「存在」とは、実寸以上へと、サイズと空間を超えてくるものなのだろう。
ゆえに、存在者=存在ではない、と言えるのだろう。

 (多分、中学生のころの私だったら、
 この手の連続性を、
 「それこそ肥大化し続ける自意識なんだ、
 そうして他人事まで自分の事にしてしまうから、私の悩みの領域が広がり続けるんだ」
 と、憂鬱な顔をして言っただろう。
 
 例えば、Aさんと知り合って、「私はAさんをこういう人だ」と思うとする。
 すると、私の了解以上のAさんは存在しなくなる。
 私の理解を超えるAさんの<他者性>は、私の世界から奪われてしまうから、
 認識や理解とは、他者性を奪う暴力としての側面を同時に持つ。
  
 つまり中学生の時に、倫理学者のレヴィナスが言ったところの、
 「対象を認識するとは、対象を我有化することに他ならない」という感覚が私にはあった。
 そのころの私は、
 “こんな私が”手を付ける(=我有化してしまう)ことで、
 見る世界すべてがつまらなくなるようで怖かった。
 それが一種の境界性人格障害のような形で、
 自己否定へと当時の私を突き動かしていたんだと思う。)


領域の拡大・連続性ということで言えば、
権威はどうだろう。
権威は支配し、多くのものを従属させるものだ。
権威は連続的に威力を持たなければ「権威」にもなりえないし、
体制も、連続的に支配しているから「体制」となりえるわけだ。
権威はその勢力範囲を広げようとする運動体である。
だから反対に、
「瞬間的」でしかない存在は、権威化や体制化の過程において脱落する。

例えば、学校で習うような過去の歴史は絶対でもなく、
あくまで現時点での一合意でしかないから、
そもそも、1つの正解を問うような試験の設問になるような類のものではない、
と思うけれど、
文科省が、設問で問うのは真実ではなく「体制的な正解」でよいとするから、
この類の歴史の設問は成り立っている。
このように、“体制的=時間的な連続性”の中に権威は生まれるのだろう。

目的と善悪と教義は、意味が「連続性」を持つがために生まれる表現だ。

だからBさんが言うように、
神秘体験に目的があり、善悪の表現があり、
ある宗教教義や文化にのっとっているのならば、
その体験は外部に権威を持った体験なのだから、
純粋な裸の体験とは言えない。

ならばしかし、
「果たしてひとの体験が、権威から自由になるなんてことあるんだろうか?
外在的な権威・存在理由に支えられないで、社会的動物である私は存在できるのだろうか。」
Bさんもそれに相当悩んだ。「ずたずたになった」と言っている。
そこで、別のbさんからBさんに、あの言葉が語られたのだった。
「(内的)体験自身が権威である」と。


つまり体験自身の中に権威を見出す体験ならば、
体験は「外在的な権威」からは解放されるのではないか、と。
これは体験を別の権威によって根拠づけてきた従来の考え方とは違う。
私はこれを知った時、「道元だ」と思った。

 若かりし道元は「仏法では生き物すべてが仏であると説くのに、
 すでに仏であるはずの人が、なぜ修行をしなくちゃならないんですか?」
 と聞いて回ったけれど、誰も納得できるような答えをくれなかった。
 結局、道元は後年、
 「修行は悟りのためといった、何かの目的のためにするのではない。
 修行が手段で悟りが目的なのではない。
 修行そのものが悟りの証なのだ。」
 という、修行の外に目的・権威を持たないという考えに至った。


「知」や「権威」はこうして、ある状態が保持=連続性があると生み出される。
だから、体験自身が権威であるような自律した体験は、
「瞬間の出来事」でしかありえないのだ。
善悪の判断が介在する余地もないところのものなのだ。


そしてbさんはBさんにこうも言ったそうだ。
「この権威に関して、体験は罪を償わなければならない」と。
「罪を償う」とはどのようになされるかと言えば、
「この裸の体験が新たに、何ものかにとっての外在的な権威とならないよう、自分自身を打ち消す」
ということによって、なされるのだ。
他に向かって命令を発するような存在にならないために、
その保持・連続性を放棄するのだ。

恒常的な実体を持たないものの可能性。
それこそがBさんが「内的体験」に求めた可能性なのだろう。


(つづく)


B その続き1 ~内的体験~

前々回書いた、「内的体験自身は権威である」のこと。

Bさんが意味したかった内的体験とは、
つまり神秘体験というか瞑想体験?のようなものである。
瞑想に関しても全くの不案内なので、あれこれ言う術はないのだが、
前提として、この内的体験は「瞬間の体験」のことだ。
(なぜ瞬間なのか、ということは次回以降に書きます。)


だから前々回の記事で、
私が体験全般を権威であると考えたのと、
Bさんの考えとでは異なります。
Bさんならば、
“一般的な体験は、体験自身が権威なのではなく、
その外部の権威にその価値を担保されているに過ぎない”なんて言うでしょう。


Bさんは若かりし頃、救いを求めて熱心なカトリック信者となった。
物心ついた時にはすでにお父さんが梅毒で全盲になり、
Bさんは、発狂していくお父さんのシモの世話までやらねばならず、
この経験はBさんを、人一倍多感で繊細な人にさせただろう。

たぶん、お父さんを拒絶したい気持ちと、
お父さんを擁護したい気持ち、
そのふたつに引き裂かれるような生活だったろう。
葛藤は最高の試練になるから、そこに教師はいらない。
アカデミックにならずに学ぶことを可能にさせた素質は、
Bさんの中でこのようにして養われただろう(多分)。

人間の社会にとって無用なものとされるだろう、
お父さんの存在。
けれども、無用であろうと、
目の前でアクチュアルに存在する父親の姿に、
有用性だけで生命は語れるのか
というような反発心がBさんに起きただろう。


自分や身内が障碍者だったり、
慢性的な疾患を抱えている場合、
こういった感情はとてもよくわかる。

当時のフロイト的発想では、
正常な個人を人間の基準に据える、
「西欧の人間中心主義」そのものだっただろうし、
精神病棟はただの、社会から排除された人々の掃き溜めだった。
実際に精神病を患った患者だけでなく、
異端審問や魔女狩りのようにして、
社会にとって邪魔とみなされた人々も収容されていた。


Bさんは頭のいい人なので、
ニーチェの影響もあったかもしれないけれど、
お父さんのことで救いを求めたものの、
そのカトリックが、というか、
キリスト教的道徳観が、
このような様々な差別や矛盾を生んでいることを、
見抜いた。


私が中学生のころ、
全ての自分の悩みが、己の自意識過剰から来ることを感じて、
自意識を抑えよう抑えようとしたのにも似ている。
所詮、自意識は、全くの自分の目というわけではなく、
他人の目や世間の価値基準といった、
外部の権威によって私にもたらされたものに過ぎなかった。
他人の目を、自分の目と錯誤しているから、不自然なのだ。

苦しみとは、自然の調和がとれていないときに感じる
ものだ。
本来は、他人の目をさらに覗き込み凝視する目こそを、
自分の目にしなければならなかったのだ。
つまり誰のものでもない(特定の誰かにだけ有利に働くのではない)目でなければ、
本当の<わたし>を救ってくれるものはないのだ
、ということを。

そんな訳で(?)、Bさんはカトリックの神秘主義者に憧れながらも、
彼らが神の存在に固執してしまって、
カトリックの教義を超えることができないことに対して限界を感じ、
特定の宗教教義に束縛されるような神秘体験ではない、
別の神秘体験、
純粋な「裸の体験」=「内的体験」を見つけたかったんだと思う。


神秘体験が、
結局は、常識や教義に裏打ちされることで成立しているなんて!
これは昨今のスピリチュアル的な表現も全く同様だ、
と言える気がする。
所詮は、既存の宗教の神秘体験の真似事をしているだけなのだろう。
そうでないならば、
既存の価値や表現を踏襲することで、
自分たちの表現に代えようとは決してしないはずだ、と思う。
そうであれば流行のスピリチュアルも、
易々と人々を満足させたり勧誘したりする質のものではなくなるだろう。


こうした上辺だけのスピリチュアルとは一線を画して、
だからBさんは、
本当の「至高性とはなにものでもない」と、
言うに至るのだ。
この“なにものでもない”の迫力は、深い思慮から生まれているのだ。

純粋な裸の体験、それがなければ、
人間は一切の野性を失い、
予定調和の知によってこの世から他者性を失うだろう。
それは同時に、<わたし>や知そのものの「死」に他ならないから。

(つづく)

B

私自身、妄想癖がある方なので、混同は日常茶飯事。
けれど、ゆえに、混同が何をもたらすかということはよく分かる、
というか、しばしば経験していることだったりする。

大好きなBという人がかつて、また別のBという人にこういわれたそうだ。
「体験自身は権威である」と。
この助言に前者のBさんは驚いたようだが、
その驚いたという話を知って私も驚いた。


以前1度書いたことだけど、
驚きついでに私は、
今まで自分が「権威=権力」と認識の混同をしていたことに、
その時初めて気がついた。

権威は、もっと別のところ(自分とは縁のないところ)にあると思っていた。
権力者にしか権威はないと思っていた。
けれど、(内的)体験自身が権威であると、後者のBさんは言うわけだ。
つまり、私も権威とは無縁ではない、ということだ。
だから体験は唯一無二な価値として、憧憬されもし妬みの対象にもなる。

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ちなみに「内的体験とは何か」っていうことは置いておきます。
「(内的)体験自身は権威である」という言葉を受けて、
前者のBさんがその後考えたことと、
私が考えたことは全然違っています。
もちろん、前者のBさんが考えたことはもっともっとすんごいことです。
だから、ここからは一旦、一切Bさんとは離れます。

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けれど、同時に、
権威が権力を必ず持つかどうかは別問題だ、ということにも気が付いた。
すべての体験が権威であるとしても、すべての権威が権力となるわけではない。
そうでなければ、権力を止めることもできなくなってしまう。
つまり権威と権力を個別に認識できなければ、
権力の構造を理解できないわけだから、権力化を未然に防ぐ技術を永遠に得られない訳だ。


最近読んだ本や、
まゆみさんに教わった飯島秀行氏の考え方に触れて、
(飯島さんの「テレビが50インチだなんてえばったってしょうがないんです。
電波がなければテレビなんて映らないんです」っていう表現はとても分かりやすくて好きです。)
「やはり 間にある、動いているものによって、存在はやっと輪郭を得ているに過ぎない」
と改めて思った。
<存在>の理解には、間の理解が必要だ、と。
これはある方にメールでも書いたのだけど。


↑の本に書かれていた一文↓
「西洋諸文化においては、絶対的なものとは、存在の絶対であり、
 存在はみずからを絶対的なものとみなすことなくしては存在することができないと言われています。
 とはいえ、すでにソクラテス以前の哲学において支配的であった考え方によれば、
 存在とは関係である、つまり存在とは絶対的なものでなく、
 他者との関係、世界との関係であり、宇宙との関係なのです。
 いま私たちが回帰しつつあるのは、このソクラテス以前の哲学なのです。」

 以前、このブログでこんなことを書いた(「聞くこと」)。
「意味として理解しようとしなければ、意味は立ちあがってこない。」
 それはそうなのだろうけれど、意味とは本来そういうものだ、で終わるのは何だかもったいない。
 成長する過程で、意味をそういうものにしてしまった(自分が、自分の生活史が)、
 ということを棚上げにしてはいけない気がする。」
と。

人の生活史は、人類史と重ねて考えられる気がして、
赤ちゃんの時と大人の時の意味では、その前提さえ異なるんじゃないか、と思ったのだ。
大人になってからの方が正解だなんてことは、まるでないと思う。
昔と今では、今の方が上等だって、そんな訳にはいかないと思うから。
だから「過去は決定済みではない」と、これまた別のBさんが言ったりしたのだろう。


同じように「存在」という概念だって、
時代によって変容してきただろう。

こうして私たちは、いや、少なくとも私は、
現在一般化している考え方を、ただ、便宜的に採用しているに過ぎないのに、
その考え方が最初から正しいと錯覚してしまう。
そして、ある語の周辺にある同類語を、一緒くたに混同してしまう。
私が権威と権力を混同したように。

たとえば私は、
「クラシック音楽は宮廷音楽だから、権力側の音楽だ。」
とか言う人が苦手だ。
最近も、あるブログのコメント欄で、
「絵や美術は現在支配している人々によって価値を付けられたのだから、
美術に時間を割いてる暇があったら小麦を栽培した方がいい(かなりの意訳です)」
というのがあった。

いやいや、そう言うならば、
あなたコメントしている間に小麦の種一粒でも蒔けるんじゃないの?
と思うけど、
まぁこういうのは、ただ難癖をつけているだけなのだろうから、
相手にしなければいいだけの話なのだけど、
ただただがっくりする。
こういう人は、障碍者の方の絵や美術作品を見たことがないのかな?

作りたいという意欲は、どう評されるか扱われるかということよりも、
先行し、もっと初源的なものじゃないだろうか。
アルタミラとかラスコーとかの洞窟絵画も、
学者は「シャーマンが描いた」ってことにしているけれど、
本当かいな、といつも思う。
分かりもしないのに、勝手に先史時代の洞窟絵画まで、
特権階級の専売特許みたいにしないでほしい。

何もかも混同してしまうと(これを”価値観の横滑り”と言うらしい)、
良いものさえ悪いものとされたり、
どこで間違ったかが分からなくなるらしい。

どこが分岐点だったのかの思慮がなくなるとどうなるか。
まず反省ができない。
これじゃあ間違ったら死ぬしかない。
だけどそれはただの根絶やしの、虐殺の思想だ。
それは、事故や間違いは起きないという前提を元に進められてきた、
この国の原発の建設と何が違うのだろう。


価値観の横滑りをさせ、混同させ、
無駄に市民同士に争わせることこそ、
支配者による言語教育のねらいなんじゃないでしょうか。
だからこそ、冷静な言語教育が自律の最重要課題なんでしょう。
安B公房曰く


一つ「国家信仰」を冷却させるための具体的な提案をしてみたい。
現在の民主主義制度はいちおう権力の楕円型二極構造から、
立法、司法、行政の三権分立をとるまでに進化しています。
この際それに「教育」のための独立した「府」を追加し、四権分立にしてみたらどうでしょう。
もちろん従来の意味での教育とは違います。
DNAが≪ことば≫という鏡の前に立って自己発見するまでの、
系統発生の歴史を教育基本法にすえた、新しい教育体系でなければ意味がありません。
もはやどんなシャーマンの御託宣にも左右されない、強靭な自己凝視のための科学的言語教育です。
存在や認識の「プログラム」を開く≪ことば≫という鍵を、
ついシャーマンの歌にまどわされて手放したりしないための教育です。
人間とはまさに「開かれたプログラム」それ自体にほかならないのですから。
あれ?
書きたいのはこんなことじゃなかったんだけど。
長いわりに。



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