ノ ー ト

好 き な 読 書 を 中 心 に 考 え 中 を 記 録 す る ノ ー ト

家事・料理・年中行事

この冬の手芸とりあえず

★娘と一緒に作った猫のぬいぐるみ。
設計図なしでまたぶっつけ本番で縫いだしたもの。
思いのほかうまくできた。
娘は「ミーニャ」と命名。
右目は左目と同じ色のネコ目のパーツなんだけど、
娘が油性マジックで緑に縫った。
デビット・ボウイみたいです。
しっぽで自立します。
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★娘に作ったレッグウォーマー。
生まれて初めて、小物用の輪編み専用わっか棒?を買って作成。
指が釣りそうだった。
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娘のスカート

娘のスカートを2枚とベスト?を1枚作りました。
娘の小学校の音楽会にちょうどいいと思ったけど、
クラスTシャツを着るそうなので、当日着られるかはわからない。
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↓ベストとセットアップで。
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意外といいなと思うスカートは売っていない。
トーカイの会員価格で1mの布地2枚とゴムと糸で1900円位でした。

参考にした作り方の本は、
結構昔に出たらしい直線縫いの女の子のスカートの本。
図書館で借りました。
画像のせようかと思ったけど、ネットで検索しても出てこない。
珍しく渋谷系ではない良い本だったのにな。

トイレのクッションシート

最近、家のことが楽しい。
引越しを30回以上してきた私にとって、
模様替えなどはちょっとした引越し気分なのかもしれない。

他の部屋はどうにかなったのだけど、
前入居者が残していった汚れが落ちないトイレの床だけが、気がかりで。

そこで、クッションシートを上からのせることにしました。
貼らないのは、娘がまだソソウをするし、
たまにクッションシートを外して床を拭けるようにしておきたいため。

(↓上 BEFORE 下 AFTER)
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シャレオツなテラッコタ調です。流行らしい。
サンゲツ社製とシンコール社製と迷ったものの、
定番の?サンゲツにしました。
自分の思った通りの方でよかった。
メーカーによって、タイルの大きさとか色が違うみたいです。
楽天最安値の送料込のお店で最短の90㎝を購入。1200円くらい。

いかんせん狭小のトイレのため、型紙をとるのも一苦労。
型紙は新聞紙で。
いい加減にかたどったけど何とかなりました。
便器部分のカーブは気持ち内側にとる方が微調整が効いて良い気がします。

ほんとはちゃんと板でも貼れればいいんだけどー。

↓は台所の窓。
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カーテンは高いのでなるべく買わないので、
突っ張り棒などで布をカーテン代わりにしています。
カーテンレールのついていない窓には意外と使える手なのでは?と思います。

これぞ完全なる手前味噌か。

セント・ジェームスを直して着る、の段

ボーダーのバスクシャツで有名な「saint james」。
渋谷系やーね、とのたまいつつも、
私の普段着は、この渋谷系のシンボルのよーな
saint jamesだったりするのですが、
セント・ジェームスの気に入っているところ、というと

「ブラジャーしなくてもばれない」

という一点に尽きるわけで。
ノーブラ族にはこれは最重要ポイント。
生地が厚いからでしょうか?
最近のセント・ジェームスは知らないけど。
私の持っているシャツは全部ほぼ15年選手。

私にとってブラジャーしなくても透けない長袖は「saint james」、
半袖は「GOOD WEAR」が定番で、その殆どがボロボロ。

で、あんまり恥ずかしいんで、
セント・ジェームスのシャツを直しました。
これで多少寿命が延びた。

↓Beforeがこれ。性差別だけど、自分が男だったら、このまま着る。
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↓Afterがこれ。バイアステープで縁取りました。
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↓実は脇の下も破れてて、これは1年前ほどに直しました。
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あ~愛着湧いちゃう~。執着だよー。

ボックスティッシュのカバーと等価性

P5080395愛用している無印良品のボックスティッシュカバー。
←もう売っていないようなので、
作ることにしました。
現物は横がファスナーになっているんだけど、
めんどくさいので上からティッシュを入れる式にして
マジックテープで閉じることにしました。










特に見本にした作り方なし。
サイズも適当です。

娘の保育園の時の余った布地を使用。
なので本来は裏の白地を、出来上がりの表にします。
キルティングの方が厚みがあっていい感じ。
キルティングなので最初に布の四方をジグザグでかがってください。

↓中央のティッシュ取り出し口を作ります。
布を中表にして、上下9㎝はミシンで縫って、中16㎝くらいを口にします。
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↓アイロンで開いて、16㎝の部分はまつり縫いをしてとめます。
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底になる部分も、端から1㎝の所を縫います。

↓上の入り口になる所は1.5㎝くらい折り返してアイロンを掛けます。
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↓紐になるテープを下のように織り込んで(少しテープをずらす)、ミシンで縫ってとめます。
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↓折り返した部分を外から1㎝の所で縫って、マジックテープをつければ完成です。
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テープが生成り色なので、渋谷系な感じ。。。
ま、壁になじんでインテリア的にはさっぱりしました。

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晴れた休日に、手芸をしていると本当に幸せ。
これで放射能さえなかったら。

最近、対価のない家事労働などをシャドーワークと呼ぶそうだ。
女性の家事負担を問題にしたわけなんだろうけど、
こういう繕いものなんかの家事は、趣味の世界にも近く、
食いしん坊の私には料理をすることも、それが労働だと言われれば、
労働だけではすまない、嗜好の部分がある気がする。
家事というのは、非常に創意工夫の活かせる領分であって、
対価のある賃金労働よりも自尊心が満たされることもあると思う。
人によっては、なんだけど。

この「人によっては」の部分を社会通念化するのは難しい。
1つのコンセンサスになるには6割くらいの支持者が必要なんだろうし、
「その人にとってだけは」という例外が、カガクの問題にならないからなんだろう。

先日読んだジャン・リュック・ナンシーの「フクシマの後で」

フクシマの後で: 破局・技術・民主主義
ここで語られていたことはまた別の機会に感想を書きたいのだけど、
1番なるほど、と思ったのは「等価性」という観点だった。

西谷修氏が書いたように、
未来とか明日を、何にも汚れていない真っさらな時間のことを指すのだとしたら、
もう放射能で汚染されていない未来・明日などないのだ、ということなのだ。
つまり明日は破壊の翌日でしかなく、ただ今日の翌日にすぎない。
そういう意味で、現代の災厄は終わりなき災厄であって、
この災厄から(放射能)から逃れることのできる人、
関係がないとできる人は誰もいないのだ。
明日この世に初めて生まれてくる新生児だって。
例外はこの世からなくなってしまったのだ。

国に税金を納め、その国が核保有国と友好条約を結び、軍事練習をする。
その時点で、核に協力することに厳密に無関係でいられる国民は1人もいない。

関係と呼ばれるものがつねに通約不可能な何かとのかかわりであり、
関係の1項と他項とを
絶対的に等価でないものにするものとの関わりであるとすれば、(青字ナンシー)
現代は、<例外>や<通約不可能な者>などだれ一人いない世界になったのだ。
全てが等価の世界。要は命よりも貨幣が勝った世界ということだ。

そうやって考えると、
シャドーワーク=対価のない労働=家事というものがあるのだとしたら、
それはむしろ1つの可能性なのではないだろうか。
もしくは、対価のない労働という呼び方自体、ねつ造なのかもしれない。
税をとる側からの共働き推奨のキャンペーンの一環だろう。

昨今のデータで、料理に関心の高い妻を持つ夫は、
そうでない夫に比べると年収が数百万円多い、という結果が出たらしい。
これも実にくだらない統計で、悪意さえ感じるけど、
やはりどの方面の人間も、
シナリオ通りにことを進めているような気がする。

何をしたら富裕層が喜ぶのか、
その顔色ばかり見て世界中が発言しているだけ。

京の味

先日、京都の『松屋常盤』の味噌松風を貰った。
西京味噌が生地に入った小麦粉のお菓子です。

祖母の最後の住まいが堺町通りで、
同じ通りだったので、しょっちゅう祖母に頼まれて買いに行った。
小銭入れだけ持って、ツッカケで買いに走ったあの味。
それも味噌松風の「きれっぱし」をあえて分けてもらうのだ。
だから正規品を貰っても、
味噌松風は薄く切って食べたい。
薄く切って食べると、あの懐かしい味がする。

松屋常盤さんのお菓子は基本、京都でないと買えない。
箱にも京都の市外局番075は省かれている。
そこがなんとも京都らしい。
祖母の思い出。
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カレンダー

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↑ダウンロードカレンダーを付けた。
ダウンロードもとはコチラ
自分流に少しカスタマイズできる優秀さ。

いかんせん娘も小学生で、学校の予定もあろうかと
4月も終わりになって、さてカレンダーを用意する気になった。
今までは地区内で配られるゴミカレンダーで済ましていた。

色々好ましいカレンダーをネットでもさがしたけど、
デザイナーズカレンダーは売り切れだし、
送料も高いしで、コレというのがなかった。
そしたらダウンロードできるのを見つけた。
本当は茶系の紙でもあれば良かったんだけど。。
とりあえず3か月分ダウンロード。

適当なカレンダーが見つからないという方、この方法いかがでソーカ。

クリップは無印良品のものでひっかけてるだけ。

最近模様替えをしたので、家のあれこれが楽しい。

蝶と蕎麦

先日の私の誕生日にサナギから羽化したキアゲハ↓
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最初、ドウダンツツジについている蛾の幼虫を、
勤めている蕎麦屋さんで娘がもらったのだけど、
ネットの図鑑を駆使しても、何の蛾の幼虫か特定できなかった。
直也君がセリなど、その他の草を投入してみたけど、
全く食指を示さないので、娘に話して飼うのを断念。
私たちが一概に呼ぶ「蝶や蛾の幼虫」も、
それぞれ種類によって餌は全然異なる。

その代わりに「これなら餌がわかるので」ということでキアゲハを飼うことに。
キアゲハの食草はせり科の植物や人参、パセリ、フェンネルなど、らしい。
直也君が田んぼからセリを取ってきてくれた。
でも、このキアゲハは夕方に羽化してから飛び立つまで、1晩かかった(多分)。
なかなか羽が乾かなかったのだ。
飼育器にラップをかけて飼っていたから通気性がなかったわけではないだろうけど、
この時期は梅雨や台風があって、外では風が強い日が続いていたので、
外にいたらもっと通気性があったんだろう。
こんな時に羽化するキアゲハは、
その風の吹き方を想定していたんじゃないか、と思った。
サナギの中だって完全な密閉空間じゃないだろうし、
サナギの状態でも多少風を受けている必要があったのではないか、と。

やはり、生き物を飼うのは控えよう。
不自然の中で飼っていても、自然は一向にわからない。
飼うと本当の意味での観察からは遠のいてしまう気がした。

ちょうどシナジェティクス研究所の梶川泰司氏のブログに、
以下のようなテキストがありました。
「青虫」って概称は、「雑草」という概称に等しい。

全世界について

「キャベツにつく青虫はキャベツが全世界だと思っている」
ーーーーーーーユダヤの格言

この格言は動物行動学を反映していない。

もしキャベツが全世界ならば
モンシロチョウは産卵のために
ミカンやサンショウではなく
キャベツを選ばなかっただろう。

事実、アゲハチョウの幼虫は
キャベツの中では
何も食べられないので餓死する。

ーーーーーーーーーー
↓の写真は、
茹でて残った蕎麦に少量の小麦と水と塩を加えて、
フライパンでノシて焼いたもの。
ごま油で焼くと、より美味。
蕎麦屋の女将さんに教わった食べ方。

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リンクと精進酢麩多

文章を書く時は、いつも詩人リルケの言葉を思い出す。

「作家になれるかなど聞くな。
書くことが何より好きなら、君はすでに作家だ。」
「あなたが見るもの、体験するもの、愛するもの、失うものを、
最初の人間になったつもりで言い表すようにしてごらんなさい。」


文章を書くときは、
なるべく自分だからこその文章を書こうと思う。
他によい書き手はいっぱいいるから、無理に書くのは余計なはなし。

「ブログ主」という言い方同様、記事を「エントリー」と呼ぶのが嫌いだ。
まるでゼッケンをつけられて競争させられているみたいだから。
「主」に「エントリー」って、馬主と競走馬じゃないからね。

ただリンクを張るだけのことは誰でも出来るから、
自分なりの解釈を披露もせずにリンクだけ紹介するのも情けないのですが...。


「原発がどんなものか知ってほしい」
 平井憲夫さん(↓)による文章のサイトです
 1997年1月逝去。
 1級プラント配管技能士、原発事故調査国民会議顧問、原発被曝労働者救済センター代表、
 北陸電力能登 (現・志賀)原発差し止め裁判原告特別補佐人、
 東北電力女川原発差し止め裁判原告特別補佐人、
 福島第2原発3号機運転差し止め訴訟原告証人。
 「原発被曝労働者救済センター」は後継者がなく、閉鎖されました。


(20)に書かれている、女の子の叫び↓は本当にもっともで、そして情けなくなる。
戦争でだまされたと言っている人を糾弾した、伊丹万作氏の文章に通じるものがあります。

「今夜この会場に集まっている大人たちは、大ウソつきのええかっこしばっかりだ。私はその顔を見に来たんだ。どんな顔をして来ているのかと。今の大人たち、特にここにいる大人たちは農薬問題、ゴルフ場問題、原発問題、何かと言えば子どもたちのためにと言って、運動するふりばかりしている。私は泊原発のすぐ近くの共和町に住んで、二四時間被曝している。原子力発電所の周辺、イギリスのセラフィールドで白血病の子どもが生まれる確率が高いというのは、本を読んで知っている。私も女の子です。年頃になったら結婚もするでしょう。私、子ども生んでも大丈夫なんですか?」

 「原発がそんなに大変なものなら、今頃でなくて、なぜ最初に造るときに一生懸命反対してくれなかったのか。まして、ここに来ている大人たちは、二号機も造らせたじゃないのか。たとえ電気がなくなってもいいから、私は原発はいやだ」

 「何で、今になってこういう集会しているのか分からない。私が大人で子どもがいたら、命懸けで体を張ってでも原発を止めている」
政府や行政や電力会社を責めるんなら、
その前に、まず自分の親を、教師を積極的に責めようじゃないか。
日進月歩の科学の前で、いつの時代でも出来ることと言えば、これしかない。
自分の親を責めることは子供の責任だし、反面教師ほど強力な教師はいないから。
来たるべき次の事態に備えるには不断にこれを続けなくてはならない。

誰も無責任でいられる人などいないと自覚すること。
そして、外部と辺境を生み続ける「国家=中心」への未練は一切捨て去るべきだ
常にモニュメントは中心に、出城や城塞は辺境に作られるのだから。
城塞(citadel)に囲まれて生まれる市民(civis)なんて、くそくらえだ。


先日の金八先生のドラマをちらちら観ていたら、いいセリフがあった(から、嫌になる)。
 「悪はどこにありますか?悪はどこにありますか?警察にあるんですか?悪は。
 学校にありますか?路地裏のゲームセンターにありますか?違う。悪はそんなとこにない。
 悪はどこにあるか、皆さんの心の中に悪はあるんです。
  他人の悪をもし批判するというならば自分の悪をしっかり見つめ認識しなさい。
 それが悪を批判するということです。」


「原子力資料情報室」 
 小児科医の黒部信一先生のブログで知ったサイト。
 「地震大国に原発はごめんだ」とか「原発震災」などの出版もしています。
 
※「本日(2011/3/31)、20:00頃よりUstreamで、中継を行う予定です。」とのことです。
  後藤政志さん(東芝・元原子炉格納容器設計者、博士(工学))に
  福島原発の現状解説をしていただくそうです。
  中継画面はこちら: "http://www.ustream.tv/channel/cnic-news
 
  後藤さんという人はテレビで貞観津波のことを語った数少ない人でもある。
  原発の詳しい事情は、原発側にいた人にしか聞けないというのが、本当に自分の限界を感じる。
 

             ++++++++++++


◆≪「自己流・精進酢麩多(酢豚の豚の代わりに“お麩”を使います)≫
   豚の代わりのお麩の調理方法だけ書きます。
   その他は、通常の酢豚と同じように作ってください。
A2011033101B2011033102
C2011033103


 ・材料(3人前) <b>油麩8枚~10枚/もしくは 車麩5枚くらい</b>         
  車麩の方が弾力&食べごたえがあり、低カロリーです。

 A--- お麩は水で戻して水を絞ります。
     車麩は水で戻してから4~3等分します(あまりかたく絞ると崩れます)
     おろし生姜少々と醤油、酒、砂糖少々を水で少しのばしたものの中に、
     お麩を浸けてしばらく置きます。
 B--- たれに浸けたAを少し絞って、片栗粉をまぶし、油で揚げます。
    (油の跳ねに注意してください。多めの油で両面焼いても良いです。)  
 C--- 出来上がりはこんなんです。筍の代わりにレンコンでも美味しいです。
    写真は油麩使用です。

borotiti「キューバに伝わるヨルバ族の歌」 ~ 疎外

去年1番聴いたCDから1曲、you tubeにアップ。
レーベルの「ナクソス」のサイトhttp://ml.naxos.jp/album/8.555887で、視聴も出来る。
ナクソスの、そのレンジの広さにただただ感謝。



shojinsubuta
◆≪自己流・精進麻婆豆腐の作り方(4人前)≫
 ひき肉の代わりにオートミールを使います

木綿豆腐 2丁 (5分ほど茹でて水を切っておく)
オートミール 100CC (さっと湯通しして水を切るーーざるに入れたまま茹でると楽です)
・ニンニク・生姜 各1片 (みじん切り)
赤唐辛子 2本 (ぬるま湯で5分ほどつけて戻し、種を取って薄切りに)
ネギ 1/2本 もしくは玉ねぎ1/2玉 (みじん切り)


合わせ調味料 以下のものをボールで合わせておく
Γ しょうゆ 大さじ2
|  みそ またはテンメンジャン 大さじ1
|  砂糖 適宜
|  水 1/2カップ
∟中華だしの素(あれば) 小さじ1/2ーALL植物性で化学調味料無添加がおすすめ

ごま油

①中華鍋にごま油を熱し、ニンニク・生姜・唐辛子を炒める。
②香りが立ってきたら、ネギまたは玉ねぎを炒める。
③水切りしたオートミールを入れて炒める(くっついても大丈夫です)。
④合わせ調味料を入れて全体を混ぜ合わせる。
⑤煮立ってきたら、豆腐を5つぐらいに大きくちぎりながら投入。
⑥そのまま少し煮て、味をなじませて出来上がり。
※片栗粉でトロミをつける必要はありません。オートミールで勝手にトロミが付きます。
(上の写真は上記レシピから「+茄子」「-香辛料」になっています)



ある菜食の宿が、被災地の方を受け入れるという。
しかし、そこに書いてあった「菜食の方優先」という文字に、正直腹が立った。
その宿には全く悪意がないことは知っている。
けれど、初見の人が、特に被災地の人が見たら何と思うだろうか。
いかに菜食が良いものだとしても、
そこに人間的な選別や疎外が表現されるのだとしたら、全く意味がない。
選別や疎外以上に身体に悪いものはないと私は思うから。
「悪いことをするときよりも、良いことをするときこそ、気を使いなさい」
と書いたのは太宰治だった。
だからこの菜食の宿は、太宰治よりもずっとずっと遅れている。見本にする必要はない。


同じ被災地の方でも、家族皆無事だった人もいれば、そうでない人もいて、
「どうして自分(たち)だけは...」という疎外感を抱かざるを得ない人がいると思う。
同じ避難所の中にも、選別と疎外の感情は存在するのだろう。

自閉症の子供のいる家族が、被災したものの、
他人の迷惑になるからと言って避難所にうつるのを遠慮し、
車中で過ごしているという記事を、朝日新聞が書いていた。

今回の地震と津波と原発事故によって、
想定していた人生から、多くの人々は疎外された。
けれど例えば、
その自閉症の子のいる家庭は、それ以前にすでに疎外されていたのだ。

私の統合失調症の兄とて、もし被災して避難所に行ったとしても、
多分、そこに居続けることは出来ないだろうと思う。
もちろん、平穏そうに見える家庭も例外でなく、
どんな家庭だって、傍からでは分からない苦悩や問題はつきものだけれど。


「支援の輪」と言いながら、かたや、欧米諸国はリビアに空爆をすると言う。
自然災害の被害者は支援の対象で、政治による被害者は支援の対象ではないということか。
「被災地の人のことを考えて節電しよう、出来ることをやろう」と湧きかえるのはいいけれど、
どうしても「欲しがりません、勝つまでは」という戦時中の挙国一致と重なってしか見えないのは、
こうした私たちの言動があまりに矛盾しているからだ。


今回の東日本大震災によって浮き彫りになった、
選別と疎外に対して過剰に驚愕し騒ぎ立つのだとしたら、
今までの常なる選別と疎外には全く目を向けていなかったっていうことだ。
24時間テレビで年に1回だけ、障碍者の人をクローズアップするのと全く同じで。


どうして、普段からやれないんだろう。
どうして、起きる前から考えることをしないんだろう。
どうして、非日常や非常事態としてしか取り組めないんだろう。


震災や津波や原発事故の前から、
とうに選別と疎外は存在してきたのだ。


辛卯

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    十干と十二支合わせて干支だから、今年はただのうさぎ年ではなく、
    辛卯(かのとう・しんぼう)と呼ぶ。
    この国が十二支ばかりで年を数えてから久しい。

    『万葉集』には“年賀の歌”はまとめられていないという。
    大好きな実朝の『金隗和歌集』を見ても、
    その“暮れの歌”の多さと対比すると、“新年の歌”はまるでない。

    新年をことさら祝うのは漢字文化圏とベトナムだけだとか(いわゆる柵封体制)。
    皇帝は時間をも支配すると考えられたから“元号”があるのだろうし、
    もしかすると天皇を詠んだ「万代に」とか「君が代に」とか「千々」なんて歌と、
    新年をコトホグ歌は一体・同義だったのではないだろうか...。

    年末は、
    “現実的”な政治は民族主義を土台にしてしかりという、
    コメンテーターたちの露出ばかりが目立って。

    彼らが表現すると、最たる“私たちの現実”とは何にもまして、
    極東アジアの軍事的緊張を意味するようだ。
    けれど、私たちは普通に2足も3足もの草鞋を履いて生活している。
    色んな顔を持っている。
    確固たる主義主張を持っているわけでもないし、
    全ての世帯が、ただ単1個所からの収入で生計をたてているわけではない。
    それと同じように、いくつもの現実を並行して語れないものだろうか。
    普段の私たちの生活はそれをやっているはずだ。

    NHKも、
    共同体主義の代表的論者である教授の「ハーバード大学の白熱教室」の放送を、
    この年末年始にたたみかけて流している。

    “現実的(=軍事)”やら“ハーバード大学”なんかは、脅し文句でしかないじゃないか、と思う。
    脅された上で考えたり決断しても、いいことなんてない。
    シナジェティクス研究所の梶川泰司氏
    「理解に同時性を求めない」と語られているけれど、
    まさに脅しとはその逆で、同時性の強制ではないだろうか。

    スペインの、国や人民の在り方について模索した、ある文学者は、
    こう書いているそうです。
    真理以外に正しいものはない。
    そして真理は理性にまさるもの、とソフォクレスも言っている。
    それはあたかも、生命が、喜悦や苦悩にまさるものであるというのと同じだ。
    したがって、真理と生命がわたしの箴言であって、理性や喜悦はそうではない。
    喜悦の中に推論したり、理性の中に幸福をみつけるよりも、
    たとい、苦悩するとも真理の中に生きることだ…
    以前、乳児のうちは様々な言語を聞き分けていることをここでも書いて、
    それで赤ちゃんには、実の生母とは異なる言語・民族に育てられようとも、
    それに順応していく能力がすでに搭載済みなのだろう、ということを書いた。
    赤ちゃんは民族主義を超えている、と。

    理性ではなく生命がわたしの箴言、これはいい言葉だと思う。

    おせち、“理性的に”ここ数年やってはいるけれど、
    普段粗食にしているわけでも、砂糖が貴重な生活でもないのだから、
    生命的には、結局は雑煮だけでいい気がして、
    春は来にけり。

    迎春

    BlogPaint

    今年もありがとうございました。
    よいお年をお迎えください。

    ぼくを探しに the missing piace

    このブログでも何度か文章を引用している元の本(過去記事)、
    「おばんざい 京の味ごよみ」(朝日新聞京都市局編・中外書房)は、
    私が折に触れて目を通す大好きな、いわば“料理コラム本”なのですが、
    以前も書いた通り、
    昨今のなんちゃって町家ブームに代表されるような、うわっつらな京都案内ではなく、
    昭和41年当時にすでに変わりゆく京都の暮らしを、
    日々のおかずを通して、京ことばで綴ったものなのです。
    これは祖母が残した本(初版)で、
    私にとっては祖母と母という2人の京おんなを偲ぶ為の唯一の手段のような気がして、
    ことのほか思い入れが強い。

    この本のコラムは3人の大正生まれの京おんな、
    秋山十三子・大村しげ・平山千鶴の3氏によって、
    各回担当制で書かれたものです。


    先日、この3氏が書いた文章をもっと読みたいものだなぁと思って検索すると、
    大村しげ氏はとても有名な方らしく、著作もたくさん残っている。
    他の2氏は、殆どが絶版状態。
    60年代か70年代位に書かれた本が欲しいと思い、続けて検索していると、
    大村しげ氏のある本の帯だか何かに、
    例の婦女子に大人気のスタイリスト(?)I氏の文章があるらしい。
    とたんに興が冷めた。
    もうI氏の手が伸びていないものはないのだろうか。
    確かに彼女の方が大村氏に対しての造詣ははるかに深いのだろうし、
    それが御商売なので、とかく文句を言うのも間違っているかもしれないけれど。

    特定の有名スタイリストとか、そういう人が推薦しているだけで、
    ある人たちにとっては付加価値であるのかもしれないけれど、
    私にとってはただただ興醒めの元でしかない。

    あの渋谷系の人たちは貪欲なので、全てをスローライフだとか、
    つつましやかな清貧のシンプルライフだとかに一括、編集し直してしまう。
    戦前から続く当たり前の京の暮らしを、
    自分たちの、ほんの一時でしかないバブルの反動や反省の道具に利用してしまうのだ。
    今は、賢い暮らし方を知っていることが、まるで免罪符※のように扱われているけれど、
    (※免罪符は本当は贖宥状<しょくゆうじょう>と訳すのが正しいらしい)
    スローライフやシンプルライフ関連の本や写真集を売り買いすることは、
    もしかすると、かつてのカトリック教会がやった“贖宥状の売買”や、
    “お札の売買”にかなり似ているんじゃないか、
    とフト思う。

    私が特に、『暮らしの手帖』の模造品や、スローライフ関連のものを嫌悪する理由は、
    多分、そういうところにあるのかもしれない。
    ちなみに11月4日付けの記事「覚書 ~隷属 主題から発想することと労働~」の前半は、
    こういった渋谷系や、道具云々を掲げるスローライフ喧伝者を念頭にして書いた。
    特に下記部分↓。
    ○○を知っている私、××に価値を見い出している私 が自己表現だと思っている人は、
    問題にする主題/主語が何であるか、ということに依存しているが、
    「主」が何であるか・誰であるか に依存しているのはまるで奴隷的発想のよう。


    でもこうして考えると、
    私は渋谷系やらに反感を抱く事で自分のバランスを取ろうとしていたことがわかる。
    多分、私には過剰なものや重複するもの、そういうものは削ろうとし、
    自分に不足しているものには憧憬を抱いたり、補おうとする。
    まぁ、なんの新しい話でもないのですが。
    シルヴァスタイン氏の有名な絵本「ぼくを探しに(the missing piace)」を思い出す。
    “何かが足りない
    それでぼくは楽しくない
    足りないかけらを探しに行く”
     の“ぼく”を。


    日本のamazonの書評に、原題のthe missing piaceのmissingとは、
    元々あったものが欠けているという意味で、
    そう読むと面白いというようなことが書いてあった。
    ただの欠けらではなく、元々あった欠けらを失くした球体というのは、
    “ホリスティック”な状態の破綻を意味しているんでしょうか。
    そういえば、「people」という曲(アメリカ合衆国では誰しもが飽くほどの道徳ソングなのでしょうが)
    にはそんなようなくだりがあります。
    訳すと非常に恥ずかしいんですけども...

    ♪A feeling deep in your soul 
    Says you were half,now you're whole.
    No more hunger and thirst
    But first be a person who needs people.
    People who need people
    Are the luckiest people in the world♪


    ♪心の奥底が言っている、
    あなたは半分だったけど、今は全部だ、と。
    もう飢えや乾きはない
    でもまずひとを必要とする人であれ。
    ひとを必要なひとが世界で一番ラッキーなひとだから


    この歌からすると、
    私にどんな嫌悪しているものがあったとしても、
    それを私は必要としているということになるのかもしれません。
    自分自身について考えたり気付いたりするときに、
    必要なきっかけだったり材料だったりするのは確かですし。
    ♪people who need people are the luckiest people in the worldならば、
    好きなものよりも、嫌いなものの方が多い私だとしても、
    私も一等幸運な人間の部類だ、ということになるのでしょう。

    ネットで、当たり屋みたいにつっかかってくる人や、誹謗中傷をしている人たちは、
    きっと、自分を知りたくて知りたくてしようがない飢えと渇きに充ちた人たちなのでしょう。
    その自覚ができた時に、多分、
    本当に自分が求めているものがどこにあるかの“感”は戻ってくるでしょう。
    今は彷徨っているけれど。
    けれど、長く続き過ぎた飢えと渇きでは、背に腹は代えられぬ思いで、
    手近なものを口にして、インスタントな満足感を得てしまいがちなのが難だったりして。
    そういう手の施しようがない状態にならないよう、自分も気をつけなくちゃ、と思う。

    しかしながらno more hunger and thirstというのは拙速な気がする。
    絵本「ぼくを探して」では、
    最後に球体(欠けてるから球体じゃないんだけど)は、探していたかけらと出会うものの、
    結局、その欠けらとは別れてまた1人で転がっていく、
    というのがお話の結末。、
    何だかこっちの方が含蓄があっていいなぁと思う。
    いやでも、同じ歌手の曲に「free again」という、
    別離の後にまた元の自由な自分に戻れたわ♪という歌があるじゃないか、
    と思ったけれど、それはまた別の話し。

    とりあえず、嫌いなものから学んだという雑感でした。

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