会合は好きだけど集会は嫌い。
立岩真也氏、かなり好きです。
たとえば「不登校新聞」
・『自閉症連続体の時代』みすず書房
お金がないから買えなかったけど、ちらり立ち読み。
これ図書館に入ったら絶対読もう。
これどきっとしました。病や障害と認定されるとはどういうことか。認定されなければ社会で生きづらく、
認定されれば「自分のせいではなく、病のせい」だと免責される。
では、認定されなければ社会に居場所はないのだろうか。
好 き な 読 書 を 中 心 に 考 え 中 を 記 録 す る ノ ー ト
これどきっとしました。病や障害と認定されるとはどういうことか。認定されなければ社会で生きづらく、
認定されれば「自分のせいではなく、病のせい」だと免責される。
では、認定されなければ社会に居場所はないのだろうか。
「私は松本ぼんぼんが大嫌いで、行くのも見るのもいやです。
昔、連の通る前の店で働いていたことがあって、
ゴミや吸い殻のポイ捨てされるし、トイレを勝手に使われるし、
とにかくお行儀が悪いからです。
植え木を荒らされたり、地元の商店の人たちも嫌がっている人はたくさんいます。
そんなみんなが歓迎していないようなイベントに
6歳・7歳の子供を参加させてもいいのか、と思います。
とにかく、ゴミのこととか、嫌がっている人もいるんだってこと、
そういうお祭りの裏側のことも同時に教えてもらいたいと思います。
光の部分だけじゃなくて、影の部分、その両方教えないと、
上っ面ばかりでは何の教育にもならないと思うんで、
先生よろしくお願いします」
(A)いじめ、
窃盗を強要したり、親のお金を持ち出させたり、
人前で自慰行為を強要したり、暴力をふるったりするらしい。
(B)決して
「失われた時を求めて」を3日で完読してこいとか、
「革命」を1週間で弾けるようになれとか、
100メートルを5秒台で走れるようになれとか、
この手の無茶な命令は決してしないんだろう。
実際、この方が命令される側も完遂できないから、
よりサディスティックなのは、こっちの方だ。
と思うと、
やはり「いじめ」というのは支配欲であり、組織欲であって、
サディスムとも少し違う気がする。
(A)で命令されるようなことは、極端に言うと、
会社で起きていることとさして変わらない気がする。
その内容は、命令する側にもやってできないような行為ではなく、
むしろ、命令する側も同じことをやっていたり、やってきたことだ。
実際の所、一切損が発生していないにもかかわらず、
お客にキャンセル料を請求するように強制されるし、
ノルマのために会社の商品を親族に買わさせるし、
応援団の団長みたいな大声とそぶりで社訓を発声させられるし、
失敗したら上司に無視されたり罵られたりする。
プルーストを完読したり、ピアノが上手くなったり、
足が速くなると、
その人は、もう、いじめる側の枠では収まらなくなるかもしれない。
本当に自分にはできないようなことを、相手だけには強要する、
というのではない限り、
いじめとは、予見できる未来しか相手に与えないでおこうという、
「閉じ込め」もしくは「封じ込め」の行為なんじゃないだろうか。
そして同時に、加害者はその自らの枠の中に囚われてしまう、というか。
そういう意味ではマゾヒスムなのかもしれない。
つまり加害者は、
被害者の屈辱を予定しなければ(もちろん一方的な予定だけど)、
加害することを通じて興奮は感じ得ないだろうから、
そういう意味では相手と“同位”に身を置いている投影という行為なんじゃないか。
これはどんな群れや組織の中でも、多かれ少なかれ起こることだと思う。
仲が良いと思っている友人関係の中にだって、日常茶飯に起きているだろう。
友人が自分にとって都合が良い振る舞いをすることを望むことは、
どちらかというと、この「支配欲」や「組織欲」に匹敵するんじゃないだろうか。
いじめとはどこか「可愛さ余って憎さ100倍」であって、
自己と自己投影先の相手に対する、想定される・共有される未来への、
自己嫌悪と倦怠なのだろう。
どんなときでも、相手が素敵になる要求ができるようになればいいと思う。
最近ニュースになっている、仙台の受験生のネットによるカンニング事件。
受験したこと自体が無効になったり、合格が取り消されるのは理解出来るけど、
逮捕されるというのはどうなんだろう。
多くの人が疑問を抱いたように、
むしろ、大学側の危機管理に落ち度があったんじゃないだろうか。
昨日たまたま、購読の勧誘目的で届いていた新聞で、
「(学費の安い)国立大学に入学して母親を安心させたかった」と
その受験生が話したことを知ってから、
大学側が怒り心頭で会見していたのを思い返してみると、
大学側がなんとも頭が固くて大人げなく見えてくる。
それより、ブラジルかどこかのサッカー選手が、
サッカー場の中に舞い降りたフクロウを蹴りとばして殺してしまった行為の方が、
逮捕に値する気がするけど。
組織的にネットを通じてカンニングをする事件ならいざ知らず、
追いつめられた1人の青年の、明らかに履歴の残るカンニングによって、
大学にとって「最も大事な社会的な契約の1つ」である試験が揺らぐのだとしたら、
大学というところは、なんと脆い「契約」をお金を取ってやっているんだろうか。
だいたい、まぁこれは中卒ならではの戯言なのだけど、
一体どこの学者先生が、本を著す時、
全く他人の本を参照することなしに自力のみで書くことができるだろうか。
教授の部屋のデスクの後ろに並べられた夥しい数の本は、
ただ読書量を誇るためのインテリアなんだろうか。
そうじゃないはずだ。
ただ知識量が多いから本を出せるんじゃなくて、
考え方や論点、切り口が他人と違うからこそ本を出せるんじゃないでしょうか。
今や、助教授の身分だけでは食べていくのも大変な時代ならば、
学問が食べ物に変わるためには、知識量ではなく発想力こそを鍛えなければいけない。
だから一応、最高学府とされる東大の設問は、
「世界史におけるバイカル湖の役割を述べよ」
とかいった、記述問題が特徴的で、
こういった記述問題こそが、やっぱり穴埋めや選択問題に比べて圧倒的に難しいから、
東大は採用しているわけでしょう。
試験だって、参考書や辞書の持ちこみを許可し、
それでも解答を組み立てていくのは難しく、
その解答の正否も専門家でないと判断しかねるような高度でユニークな良問を、
大学側が提供すればいいと思う。
カンニングしたところで、それが正しい解答だと判断し採用するのは生徒の方なのだから、
その生徒のセンス自体を問うような問題を作ればいいのだ。
もちろん、今の暗記中心の試験だって残ってもいいと思うけど、
その試験を行うのは暗記大学・暗記学科でいい。
暗記のスペシャリストを育成する大学で。
スペインにいた時、周りにいる日本人はほとんど大学生で、
慶応、早稲田、上智、同志社、中央、東京外大、拓殖、亜細亜、中部 等々の大学からの留学生だった。
けれど、スペインに留学してきている仏人やドイツ人、オランダ人大学生に聞いても、
上の日本の大学の名前を誰も知らなかった。
スペイン語に訳すと「中央」と「中部」と「亜細亜」大学がいかにも有名な大学っぽくなるため、
1番難しい大学だと誤認されていた。
ヨーロッパの大学は海外から留学生がたくさん来ている。
けれど、日本の大学における海外留学生の乏しさは、一体何だ。
世界で日本の大学が通用しないのは、
やっぱり暗記中心の入試と、入学だけが難しいことが理由じゃないだろうか。
しかも偏差値の高い日本の大学に行っている日本人ほど、文法や語彙は優秀だけど、
スペイン人の友人は少なく会話が下手だった。
常に、フラメンコ留学の女性に、日常会話の流暢さでは負けていた。
私と一緒のホームステイ先だった日本人の友人は、大変努力の人で、
とてもスペイン語が上手だったので、同じ日本人から
「ミキはスペイン語が上手だよね、すごいよね」と言われ続けていた。
でも、ミキちゃんは決まってこう言っていた。
「スペイン語を上手に話すのが目標じゃない。大事なのは何をしゃべるかだよ」と。
とにかく、本音と建前を教えているのは学校だと思う。
二枚舌を容認しているのは。
例えば、昨今のアレルギー体質の児童の増加は、学校が直面している問題だけれど、
アトピーの児童は、体育の授業の後シャワーをするだけで、随分症状が緩和するのだそうです。
北欧やドイツでは、学校で体育の授業の後はシャワーを浴びるのは当たり前になっているけれど、
日本ではまだまだ一般化されていない。
アトピー児童の親などが自治体に働きかけているが、養護教諭の人数が少ないため、
全校でシャワーを実施出来て、現在最大10名くらいなのが現状だそうだ。
しかし、重症なアトピー児童は全体の2%なので、とりあえずは賄えているという判断だとか。ほんまかいな。
※参考リンク↓
http://hiroshima-dermatology.jp/scholar/archive/img/for_patient/Shower_atopic_dermatitis.pdf"target
しかし、
「汗をかいたらシャワーを浴びたい」という、誰でも抱く日常的な感覚が、
学校というハコでは否定されるのだ。
しかも、教室で食事も取らなければならない。
なぜ、食堂を作ることが出来ないんだろう。
学校は日本における「異空間」だと思う。
もっと言えば、
どうして教科書や筆箱を家に持ち帰らなければならないんだろう?と思っていた。
家で勉強したい人だけが教科書を持って帰ればいいのだし、
学校で運動する時は体育着着用と限定しているのだから、
学校と家で使う筆記用具も別々の、専用のそれでいいんじゃないか、と。
ある時、筆箱を忘れて、
先生から「勉強する気があるのか!!」と、みんなの前でどやしつけられたことがある。
だけど、忘れる機会を与えているのは学校だと思った。
学校でクラスみんな共有の筆記用具を置いておけばいいだけじゃないか、と思っていた。
教科書だってみんなで使えばいいだけだ、と。
私は父子家庭だったので、小さい時から洗濯は自分でしなければならなかった。
汚れた体育着を家に持ち帰っても、つい遊んで洗濯を溜めてしまうと、
そのまま汚れた体育着を学校に持っていって、着るしかなかった。
「どうして、大人は何を着て運動してもいいのに、子供はいけないんだろう。」
といつも思っていた。
なんと不条理で、現実の感覚から学校はかけ離れているんだろう、と。
汚れた体育着を着た私に、
「渡部さん(私の旧姓)のお家は一体どうなってるの?!清潔にしなくちゃだめじゃないの!」
とみんなの前で言い放った先生は、
仙台の受験生によるカンニング事件で、怒り心頭の会見をした大学関係者に、
とてもよく似ている。
森
本当は、学校の設備面についてまず書こうと思っていたのですが、
既に書いてある原稿があるでもなし、
ちょうどまた、中学校での武道必修化のニュースがあったので、
このことを少しまとめておこうと思います。
●YAHOOニュース 礼儀正しい日本人育成できるか 中学の武道必修化
私は、武道自体が普及することは喜ばしいことだと思うし、
記録や点数ばかりを重視してしまいがちなスポーツよりも、
心身一体で考える武道は、
生涯通じて取り組むものとして素晴らしいと思うのだけど、
やはり、学校での必修化は反対。
ただこんなちっぽけなブログで「反対」云々言っていても、
ただのつぶやきかひとりごとでしかないので、
どういったことができるのか考えなくてはならないと思う。
以前も書いたのですが(過去記事)、
中学高校の武道における事故は相当発生していて、
被害者の子供も親も、泣き寝入りするしかない状況が起きているそうです。
特に多いのは柔道事故。
全国柔道事故被害者の会のHPによると
中学、高校における柔道事故の死亡者は1983年から2009年の27年間で実に110名にも上ります。とあります。
(愛知教育大学:内田良講師の資料より)
年平均4人以上の死亡者を出すこの数字は、他のスポーツに比べても、突出して高い数字です。
中学・高校での武道が必修化される中、今こそ柔道の指導方法、安全への配慮が問われなければなりません。
私が<デザインサイエンス>と呼ぶ機能とは、新しいアーティファクトを環境に導入して利用可能にすることによって人が自発的に利用するように誘導しながら、問題の発生源だった過去の道具と行動を放棄するきっかけを人に与えて問題を解決することだ。これが本当の「思いやり」という行動なのではないかと思う。
「コズモグラフィ」第1章26頁より引用
“いただき”は、動詞である“頂く”“戴く”の連用形です。山の一番高い部分を、頂(いただき)と言います。ですから、“いただく”は、本来は頭上に物を載せる意味を持つ語になります。中世以降では、自分より立場が上位である者から物を拝領する際に頭上に載せるような習慣があり、“いただく”“もらう”等の謙譲用法が生じました。後に、上位の者から頂いた物や神仏に供えた物を頂き飲用する際にも、やはり、頭上に載せてから食事を始めたことから、飲食をする意味の謙譲用法が生まれ、食前の際に挨拶としての“いただきます”が定着し今日に至ってます。“いただきます”は日本語独特の表現だから、
仏教国のスリランカやチベットでは今尚、頭上に頂く習慣が残っています。
一つ目には、この食事が調うまでの多くの人々の働きに思いをいたします。“いただきます”という精神は、私なんかには非常に普遍的なもののようにしか思われない。
二つ目には、この食事を頂くにあたって自分の行いが相応しいものであるかどうかを反省します。
三つ目には、心を正しく保ち過った行いを避けるために、貪りの心を持たないことを誓います。
四つ目には、この食事を、身体を養い力を得るための良薬として頂きます。
五つ目には、この食事を、仏様の教えを正しく成し遂げるために頂きます。 (偈文の略訳-ウィキより)
まず、(日本泳法では、)水泳の授業では不可欠のウォーミングアップは行わない。「日本泳法は日常の動きを水の中でするもの。それに、洪水に直面したら、準備運動をする暇はないでしょう」と言われ、納得。また、どんな技をしていても、顔を絶対に水につけない。顔を上げたまま平泳ぎが出来ない記者にとっては信じられない光景だ。コツは、 顔を上げようとしないこと 。人間の骨格は顔を上げようとすると胸が反るように出来ているから、体が沈んでしまう。むしろ背中を丸めるような姿勢をとった方がいいのだという。(「クリンスイ・クラブ」の記事より抜粋)
「現在、学校で習う水泳というのは、スピードを重んじる競泳的水泳ですよね。競争社会の現代らしいといえばそうですが、競泳で1位になる人は一人しかいません。しかし日本泳法は自分との戦いで、技を磨くことによって自分を高めることが出来る方法です。したがって一緒に練習する人たちは自分を高めてくれる人たちで、自分の敵ではないのです。海や川で溺れてしまうなどの水難にいかに対処するかも大事ですし、そうした自分の身を守るという目的のほかに、自らを磨き、また互いに磨き合うという、武道の精神をもって日本泳法をぜひおすすめしたいと思っています」。ただ、私としては昨今話題になっている、