ノ ー ト

好 き な 読 書 を 中 心 に 考 え 中 を 記 録 す る ノ ー ト

学校の問題

覚書

ライブは好き、コンサートも好き、だけどフェスは嫌い。
会合は好きだけど集会は嫌い。

立岩真也氏、かなり好きです。
たとえば「不登校新聞」

『自閉症連続体の時代』みすず書房

お金がないから買えなかったけど、ちらり立ち読み。
これ図書館に入ったら絶対読もう。

病や障害と認定されるとはどういうことか。認定されなければ社会で生きづらく、
認定されれば「自分のせいではなく、病のせい」だと免責される。

では、認定されなければ社会に居場所はないのだろうか。

これどきっとしました。

踊る阿呆のその後

随分前のことになってしまったけれど、
娘の参観日の授業の後、学級PTAが行われて、
「松本ぼんぼん」への参加に関してのミーティングが
担任教師と保護者の間で行われました。

今回は私ではなく、直也君に参加してもらった。
直也君曰く、
あるお母さんが
「こないだ○○ちゃんのお母さんが言われた通り、
ゴミの問題などもきちんと子供に話してください」
と私の意見に対する賛同の声を上げてくれたそうだ。

直也君もトイレが不足している話などマナーのことを話してくれて、
担任教師も協力的な姿勢であるという。

なんだ、孤立していなかったかのかー、ととてもうれしかった。
孤立しているという錯覚は被害妄想を生みますね。

賛同してくれたお母さんは、笑われたと私が思っていたお母さんで、
笑っていたのは、その方も共感してくれていたからなのだろう。
その方のお子さんは牛乳アレルギーで、
肌に牛乳のしずくがとんだだけでアウトらしい。
とてもはっきりと要望する方で、
やはりそのくらい強い人じゃないと、子どもは守れんなー、と思いました。

何でも意見は、言わないより言った方がいい、
ということを改めて学んだ気がしました。


踊る阿呆に見る阿呆

娘の通う小学校では、
各学級が年度の目玉として何をやるか決めるそうなんだけど、
それが今年、娘のクラスは
担任教師の意向で「松本ぼんぼんへの参加」になりました。

私は松本ぼんぼんが大嫌いです。見るのもいや。
歌も酷いし、踊りにも何のエスプリを感じない。
私は松本ぼんぼんは「祭り」じゃないと思ってる。
「聖」なんか一切ない、ただの「俗」。
失うことがないイベントは「祭り」じゃない。
祭りはリスクがあってこそ。非生産・脱生産のもの。
職場のストライキだってなんだって、
失職するかもしれないリスクの上でやるもの。
反原発のデモはノーリスクだけど、実は職場ストの方がハイリスク。
ヨーロッパのストライキの様子をニュースで見るけど、
あっちの方がよっぽど祭りだと思う。

ぼんぼんは農耕儀礼とも一切関係ない。
ただの乱痴気騒ぎ・ばか騒ぎに過ぎないと思う。
サッカー日本代表の試合の後に、
渋谷のスクランブル交差点で大騒ぎしてるのと全く変わらないと思う。
ナイティナインの岡村君は
「(サッカーが本当に好きなら)黙ってみてるわな。
ワールドカップ決まった瞬間。あんなとこおれへんがな。おれへんがな!
アホしかいてへんやんあんなとこ、騒いで…」
言ったけど、本当にそう。

昔働いていた喫茶店は、ぼんぼんの連が目の前を通ったんだけど(今はコース外)、
店の入り口に座りこむし、トイレだけ勝手に使いに入ってくるし、
ゴミは捨てていくし、たばこのポイ捨てしていくし、
去年働いていた蕎麦屋では、鉢植えが傷んだ。
禁止されていても、踊りの連には酒気帯びの人が沢山いる。
そんなのみんな暗黙の了解。
とにかくお行儀が悪すぎる。

イベントは、参加した人すべてに連帯責任があると思う。
ゴミやたばこの吸い殻のポイ捨ても、
参加するなら、6歳の娘もその責を負う必要がある。
そのくらいのつもりじゃないと参加する意味がない。
地元の商店の人でぼんぼんを嫌がっている人は結構いる。
そんなイベントに有志参加ならいざ知らず、
学級として参加することに何のメリットがあるのだろうか?
輝かしい6歳・7歳の子供の顔に泥を塗るのに等しくないか?

学級として何かをするなら、
ぼんぼんの終わった後の清掃活動をしたらいいんだ。
その方がずっと勉強になる。
いかに大人がどうしようもないか、よくわかるだろうし。

イベントに参加して何かやった気になる、
1人でできない馬鹿騒ぎも集団ならできる。
それは戦争を肯定するのと同じことだと思う。
個人はヒトを殺しちゃいけないのに、戦争で大量殺戮するのは許される。
それとおんなじ。

土曜日に親子親睦会があって、
担任がみんなの前で
「いろんな意見があると思いますが、松本ぼんぼんに参加したいと思います」
と宣言した。
私は挙手をして名を名乗って、こう言いました。
というかこれしか言えなかった。
「私は松本ぼんぼんが大嫌いで、行くのも見るのもいやです。
昔、連の通る前の店で働いていたことがあって、
ゴミや吸い殻のポイ捨てされるし、トイレを勝手に使われるし、
とにかくお行儀が悪いからです。
植え木を荒らされたり、地元の商店の人たちも嫌がっている人はたくさんいます。
そんなみんなが歓迎していないようなイベントに
6歳・7歳の子供を参加させてもいいのか、と思います。
とにかく、ゴミのこととか、嫌がっている人もいるんだってこと、
そういうお祭りの裏側のことも同時に教えてもらいたいと思います。
光の部分だけじゃなくて、影の部分、その両方教えないと、
上っ面ばかりでは何の教育にもならないと思うんで、
先生よろしくお願いします」

先生は曇った表情をしていました。
親御さんたちもビミョーな空気。
笑っている人もいました。

先生は参加の最終決定を親睦会で宣言する前に、
既に子供たちにぼんぼん参加を話していました。
娘も、娘のクラスメイトももうやる気満々です。
娘は参加したいし、友達から一緒に踊ろうって言われたそうです。
するいです。
担任の発言の影響力を利用しています。
クラスでやるって言い出したら、
仲間外れにされたくない子供たちはやるに決まっています。
これはある意味、私たちにとっては先生によるパワハラ同然です。

娘が参加したいなら、それを抑えることはしませんが、
非常に不本意な結果になりました。
とても残念で、悲しく、空しいです。
私はワクチン接種よりぼんぼんの方が嫌なんです。

本当に本当に、心の底からガックリしました。
決定的に犯されたような気持ちです。

小学校

娘が小学校に入学するので
体操着入れ、上履き入れ、座布団を作りました。

いかんせん手芸量販店で売っている布地が、
『キャラもの』か『渋谷系』か『演歌系』の三極って感じ。
娘が数年間使うには『キャラもの』では耐用年数が短いので
消去法で『渋谷系』に。
母が私に作ってくれたものは独創的なものだった。
布地のせいにしているが、所詮想像力の違いか。

あとは箸入と給食袋などを作るのみ。
P4060364
















★参考にした体操着入れの作り方はこちら
★上履き入れの作り方はこちら
P4060366
















★座布団&座布団カバーの作り方はこちら


小学校になるとPTAの役員がある。
高学年になると役員の仕事が煩雑になるので、
みんな低学年のうちに立候補するらしい。
なんと小学一年生の母親の全員が立候補に挙手。
あさましいなー。
そんなにやりたくないならPTA廃止運動すればいいじゃん。
それをやらないで自分だけ回避しようとするのは、
自分さえよければいいって発想。
そんなので子供が教育できるんでしょうか。
嫌なことは他人に押し付けていいんだよって親が体現してるんじゃ、
いかん気がするけどなー。

勿論、わたしもやりたかないが、やることになったら
6年生のPTAでもなんでもやってやろうじゃないの。
ってことでずっと立候補はしないことにしてみる。
立候補しないと最後の最後で順番が回ってくるんだって。

いじめ

(A)いじめ、
窃盗を強要したり、親のお金を持ち出させたり、
人前で自慰行為を強要したり、暴力をふるったりするらしい。

(B)決して
「失われた時を求めて」を3日で完読してこいとか、
「革命」を1週間で弾けるようになれとか、
100メートルを5秒台で走れるようになれとか、
この手の無茶な命令は決してしないんだろう。
実際、この方が命令される側も完遂できないから、
よりサディスティックなのは、こっちの方だ。

と思うと、
やはり「いじめ」というのは支配欲であり、組織欲であって、
サディスムとも少し違う気がする。

(A)で命令されるようなことは、極端に言うと、
会社で起きていることとさして変わらない気がする。
その内容は、命令する側にもやってできないような行為ではなく、
むしろ、命令する側も同じことをやっていたり、やってきたことだ。
 
 実際の所、一切損が発生していないにもかかわらず、
 お客にキャンセル料を請求するように強制されるし、
 ノルマのために会社の商品を親族に買わさせるし、
 応援団の団長みたいな大声とそぶりで社訓を発声させられるし、
 失敗したら上司に無視されたり罵られたりする。

プルーストを完読したり、ピアノが上手くなったり、
足が速くなると、
その人は、もう、いじめる側の枠では収まらなくなるかもしれない。

本当に自分にはできないようなことを、相手だけには強要する、
というのではない限り、
いじめとは、予見できる未来しか相手に与えないでおこうという、
「閉じ込め」もしくは「封じ込め」の行為なんじゃないだろうか。
そして同時に、加害者はその自らの枠の中に囚われてしまう、というか。
そういう意味ではマゾヒスムなのかもしれない。

つまり加害者は、
被害者の屈辱を予定しなければ(もちろん一方的な予定だけど)、
加害することを通じて興奮は感じ得ないだろうから、
そういう意味では相手と“同位”に身を置いている投影という行為なんじゃないか。

これはどんな群れや組織の中でも、多かれ少なかれ起こることだと思う。
仲が良いと思っている友人関係の中にだって、日常茶飯に起きているだろう。
友人が自分にとって都合が良い振る舞いをすることを望むことは、
どちらかというと、この「支配欲」や「組織欲」に匹敵するんじゃないだろうか。

いじめとはどこか「可愛さ余って憎さ100倍」であって、
自己と自己投影先の相手に対する、想定される・共有される未来への、
自己嫌悪と倦怠なのだろう。

どんなときでも、相手が素敵になる要求ができるようになればいいと思う。

A Liter Of Light

先日テレビで知った「ペットボトルが電気の代わり」になって、
フィリピンの貧民街の人々の日中の室内を明るく照らしている、
という活動。

貧民街のバラックは、無計画に建て増しが進んだり、採光を無視していたりで、
日中でも室内に光が届かないらしい。
家事するにも不自由。勉強したくても家で勉強もできない。
でも、MITに留学しているフィリピン出身の男性が、
ペットボトルをトタンに差し込むだけで、電気の代わりになるアイデアを生んだ。
ただ水と漂白剤を入れたペットボトルを屋根に穴を開けて差し込みむだけ、
というとても簡単なもの。
このペットボトル電気(?)は55ワット相当の明るさになるんだとか。
耐久年数は5年。
こういうのをアイデアっていうんだろうな。

そうはいっても、ペットボトルを作るのに石油を使うわけだし、
社会の富裕層側がペットボトルを作って捨てて、
それを再利用する形のこの「ペットボトル電気」が
永遠に“ナイスアイデア”であってもいけないんだけど。

でも本当にイカシタものは、
こんな風にお金がかからなくて無駄のないもの、なんだなー、きっと。

暗記大学・暗記学科

最近ニュースになっている、仙台の受験生のネットによるカンニング事件。
受験したこと自体が無効になったり、合格が取り消されるのは理解出来るけど、
逮捕されるというのはどうなんだろう。
多くの人が疑問を抱いたように、
むしろ、大学側の危機管理に落ち度があったんじゃないだろうか。

昨日たまたま、購読の勧誘目的で届いていた新聞で、
「(学費の安い)国立大学に入学して母親を安心させたかった」と
その受験生が話したことを知ってから、
大学側が怒り心頭で会見していたのを思い返してみると、
大学側がなんとも頭が固くて大人げなく見えてくる。

それより、ブラジルかどこかのサッカー選手が、
サッカー場の中に舞い降りたフクロウを蹴りとばして殺してしまった行為の方が、
逮捕に値する気がするけど。


組織的にネットを通じてカンニングをする事件ならいざ知らず、
追いつめられた1人の青年の、明らかに履歴の残るカンニングによって、
大学にとって「最も大事な社会的な契約の1つ」である試験が揺らぐのだとしたら、
大学というところは、なんと脆い「契約」をお金を取ってやっているんだろうか。

だいたい、まぁこれは中卒ならではの戯言なのだけど、
一体どこの学者先生が、本を著す時、
全く他人の本を参照することなしに自力のみで書くことができるだろうか。
教授の部屋のデスクの後ろに並べられた夥しい数の本は、
ただ読書量を誇るためのインテリアなんだろうか。
そうじゃないはずだ。


ただ知識量が多いから本を出せるんじゃなくて、
考え方や論点、切り口が他人と違うからこそ本を出せるんじゃないでしょうか。
今や、助教授の身分だけでは食べていくのも大変な時代ならば、
学問が食べ物に変わるためには、知識量ではなく発想力こそを鍛えなければいけない。
だから一応、最高学府とされる東大の設問は、
「世界史におけるバイカル湖の役割を述べよ」
とかいった、記述問題が特徴的で、
こういった記述問題こそが、やっぱり穴埋めや選択問題に比べて圧倒的に難しいから、
東大は採用しているわけでしょう。


試験だって、参考書や辞書の持ちこみを許可し、
それでも解答を組み立てていくのは難しく、
その解答の正否も専門家でないと判断しかねるような高度でユニークな良問を、
大学側が提供すればいいと思う。
カンニングしたところで、それが正しい解答だと判断し採用するのは生徒の方なのだから、
その生徒のセンス自体を問うような問題を作ればいいのだ。
もちろん、今の暗記中心の試験だって残ってもいいと思うけど、
その試験を行うのは暗記大学・暗記学科でいい。
暗記のスペシャリストを育成する大学で。


スペインにいた時、周りにいる日本人はほとんど大学生で、
慶応、早稲田、上智、同志社、中央、東京外大、拓殖、亜細亜、中部 等々の大学からの留学生だった。
けれど、スペインに留学してきている仏人やドイツ人、オランダ人大学生に聞いても、
上の日本の大学の名前を誰も知らなかった。
スペイン語に訳すと「中央」と「中部」と「亜細亜」大学がいかにも有名な大学っぽくなるため、
1番難しい大学だと誤認されていた。
ヨーロッパの大学は海外から留学生がたくさん来ている。
けれど、日本の大学における海外留学生の乏しさは、一体何だ。

世界で日本の大学が通用しないのは、
やっぱり暗記中心の入試と、入学だけが難しいことが理由じゃないだろうか。

しかも偏差値の高い日本の大学に行っている日本人ほど、文法や語彙は優秀だけど、
スペイン人の友人は少なく会話が下手だった。
常に、フラメンコ留学の女性に、日常会話の流暢さでは負けていた。
私と一緒のホームステイ先だった日本人の友人は、大変努力の人で、
とてもスペイン語が上手だったので、同じ日本人から
「ミキはスペイン語が上手だよね、すごいよね」と言われ続けていた。
でも、ミキちゃんは決まってこう言っていた。
「スペイン語を上手に話すのが目標じゃない。大事なのは何をしゃべるかだよ」と。


とにかく、本音と建前を教えているのは学校だと思う。
二枚舌を容認しているのは。

例えば、昨今のアレルギー体質の児童の増加は、学校が直面している問題だけれど、
アトピーの児童は、体育の授業の後シャワーをするだけで、随分症状が緩和するのだそうです。
北欧やドイツでは、学校で体育の授業の後はシャワーを浴びるのは当たり前になっているけれど、
日本ではまだまだ一般化されていない。
アトピー児童の親などが自治体に働きかけているが、養護教諭の人数が少ないため、
全校でシャワーを実施出来て、現在最大10名くらいなのが現状だそうだ。
しかし、重症なアトピー児童は全体の2%なので、とりあえずは賄えているという判断だとか。ほんまかいな。

※参考リンク↓
 http://hiroshima-dermatology.jp/scholar/archive/img/for_patient/Shower_atopic_dermatitis.pdf"target

しかし、
「汗をかいたらシャワーを浴びたい」という、誰でも抱く日常的な感覚が、
学校というハコでは否定されるのだ。
しかも、教室で食事も取らなければならない。
なぜ、食堂を作ることが出来ないんだろう。

学校は日本における「異空間」だと思う。


もっと言えば、
どうして教科書や筆箱を家に持ち帰らなければならないんだろう?と思っていた。
家で勉強したい人だけが教科書を持って帰ればいいのだし、
学校で運動する時は体育着着用と限定しているのだから、
学校と家で使う筆記用具も別々の、専用のそれでいいんじゃないか、と。

ある時、筆箱を忘れて、
先生から「勉強する気があるのか!!」と、みんなの前でどやしつけられたことがある。
だけど、忘れる機会を与えているのは学校だと思った。
学校でクラスみんな共有の筆記用具を置いておけばいいだけじゃないか、と思っていた。
教科書だってみんなで使えばいいだけだ、と。

私は父子家庭だったので、小さい時から洗濯は自分でしなければならなかった。
汚れた体育着を家に持ち帰っても、つい遊んで洗濯を溜めてしまうと、
そのまま汚れた体育着を学校に持っていって、着るしかなかった。
「どうして、大人は何を着て運動してもいいのに、子供はいけないんだろう。」
といつも思っていた。
なんと不条理で、現実の感覚から学校はかけ離れているんだろう、と。

汚れた体育着を着た私に、
「渡部さん(私の旧姓)のお家は一体どうなってるの?!清潔にしなくちゃだめじゃないの!」
とみんなの前で言い放った先生は、
仙台の受験生によるカンニング事件で、怒り心頭の会見をした大学関係者に、
とてもよく似ている。


学校の問題 2

本当は、学校の設備面についてまず書こうと思っていたのですが、
既に書いてある原稿があるでもなし、
ちょうどまた、中学校での武道必修化のニュースがあったので、
このことを少しまとめておこうと思います。
YAHOOニュース 礼儀正しい日本人育成できるか 中学の武道必修化

私は、武道自体が普及することは喜ばしいことだと思うし、
記録や点数ばかりを重視してしまいがちなスポーツよりも、
心身一体で考える武道は、
生涯通じて取り組むものとして素晴らしいと思うのだけど、
やはり、学校での必修化は反対。
ただこんなちっぽけなブログで「反対」云々言っていても、
ただのつぶやきかひとりごとでしかないので、
どういったことができるのか考えなくてはならないと思う。

以前も書いたのですが(過去記事)、
中学高校の武道における事故は相当発生していて、
被害者の子供も親も、泣き寝入りするしかない状況が起きているそうです。
特に多いのは柔道事故。
全国柔道事故被害者の会のHPによると

中学、高校における柔道事故の死亡者は1983年から2009年の27年間で実に110名にも上ります。
(愛知教育大学:内田良講師の資料より)
年平均4人以上の死亡者を出すこの数字は、他のスポーツに比べても、突出して高い数字です。
中学・高校での武道が必修化される中、今こそ柔道の指導方法、安全への配慮が問われなければなりません。
とあります。
これが、ワクチンによる死亡者だったら、皆、黙ってなんかいないでしょう。

私には、現時点の多くの問題を抱える学校が、
正しい武道の教授が児童に対して出来るとは全く思えない。
そもそも、体育の授業として武道を採点するということが、
目的にあっているのか、はなはだ疑問です。

多分、多くの中学生が初心者だろうから、
技術的な組み手が上手く出来るかどうかはあまり問えないから、
結局は、大きい声が出せるかとか、攻める姿勢を見せられるかどうか、とかの、
単に見てくれの部分のみ強調されて教育されるだけなのがオチな気がする。

多くの人が、柔道の世界選を観ていて不満に思ったことがあるはずでしょう、
一本勝ちだけを狙っている日本人選手に、
こざかしく動いている外国人選手が、よく分からない判定で勝ってしまうのに対して。
「静」よりも「動」の方が採点がしやすいから、
いわゆるアグレッシブな方が安易に評価されるということが起きる気がする。
こうした学校教育で指導・採点することをありきで始まって、
せっかくの武道が、かえって希釈されて見てくれだけの部分が伝達されてしまうのではないだろうか。
今や、停まってくれた車に脱帽して最敬礼するよう、児童にその形式だけを教えたり、
回転寿司の直管の裁断機に合わせて、まっすぐな胡瓜が栽培される時代なのだ。
学校で指導しやすい形に、武道も干渉を受けるのではないだろうか。
それがとても心配。

会社に勤めていると、評価は数値でされるから、
営業成績は件数や額面で評価されるし、
プレゼンが上手な饒舌な人が評価されるのを目の当たりにする。
私の以前勤めていた会社は、一応全国区の大きな会社だったけど、
後続の部下の指導だとか、煩雑な雑用をやっているかどうかを、
評価できるシステムは未構築だった。
今でも大抵の会社が似たり寄ったりだと思う。

結局、どのように見えるか・見せるかという、
表現面ばかり器用になることを重んじる社会とは、
本当に成熟していると言えるのだろうかと常日頃疑問だったけれど、
どうも武道が、こういったビジネスマナーの習得や、
“立派な”社会人育成といったことの裏の目的にしかなっていない気がする。

見えないものを教えることは、一教師によっては可能かもしれないけれど、
学校教育では不可能だと思う。
武道は見えないものこそが大事なんじゃないかという気がする。
これは世阿弥の能哲学も同じことだと思う。
せめて、武道の代わりに華道や茶道も選択可能にしてくれないか、と思う。

決して良い話でもなんでもないけれど、
欧米の徴兵制では良心的兵役拒否権が認められていて、
兵役の代わりに社会福祉活動が選択できるみたいだけど、
そうした代替案がないと、息苦しくてならない。

調べてみると、ある高専に通う生徒が、
信仰する宗教の戒律で剣道などの「格技」が禁止されていたため、
必修科目だった剣道の実技を拒否したら、体育の単位が認定されず、
その事情だけで2年留年し、最終的に退学処分になったこともあったそうだ。
中学校までは義務教育なので、
単位が足りなくて留年したり卒業できなかったりすることはないにせよ、
内申書が高校進学では大きなウェイトがあるため、
生徒にとって「踏み絵」のような状況が生まれるとも限らないと思う。

とにかく学校教育と生徒の問題で、
武道を必修にすれば解決されることなんてない気がする。
問題のすり替えか棚上げでしかないと思う。
そもそも、子供は大人のマネをするのだから、
子供だけを操作しようと思っても間違いじゃないでしょうか。

学校の問題~序~

随分前から書こうと思っていた記事で、書きたいことはたくさんあるのですが、
ブログにかけられる時間がまとまってはそんなにないので、
少しずつシリーズ化して書いていこうと思います。

私は学校が苦手で、
スペインで学校に通ったり、大人になってから職業訓練校などに通ったものの、
基本的に、日本の学校教育の中では中学校までしか学校に行かなかったのは、
非常に正解だったというか、自分の経歴としても、
自分のパーソナリティーを物語るうえで一貫性のあるものになってよかったと思う。

娘ができてから、やっぱり自分の二の舞はさせたくないなんて出しゃばった気分になって、
「そういえば、学校のこういうところが嫌だった」「あれも嫌だった」なんて記憶がよみがえり、
また再度、学校に関して考える機会が生まれています。

私は何かが特に秀でて出来るわけではなかったし、
休み時間のドッジボールや、身体測定に恐怖を覚えるような子供だった。
給食も時間内に食べられず机の中に隠すような時代もあった。
多分、学校の中で行われる1つ1つの事柄に、
全面的にスムースに良い感情を持って臨んだことなぞ、なかった気がする。
若干得意にも思っていた図画工作や美術の授業でも、
先生から「もう少し子供らしい絵が描けないの?」と言われたりして、
故意に下手(実物だったら有り得ないバランスとスケール)にして、
絵を描いたりしたこともあった。


大人の側か制度上の問題でしかないのに、それを棚に上げて、
みんな精神論で解決しようとする学校が嫌でした。
何故、誰かが勝手に決めた“時間内”に給食を食べ終えられないだけで、
バツの悪い感情を抱かなくてはならないのか。
何故、「休憩時間」だというのに半ば強制で、やりたくもないドッジボールをしなくてはならないのか。
そこに必然的な道理や理屈なんてないのに、
ただただ体制側のムードや感情が決めたことに対して、一方的に背負わされる不自由さ。
私の、精神論が苦手なところは、学校によって育まれたものだと思う。
「思いやりをもって」とか、「相手の立場になって」なんて抽象的なことは誰でも言える。
むしろそれを言うことで、自分は加害者でも責任者でもないと見せかけるのならば、
それはただの逃げ口上であり、責任の転嫁でしかないと思う。
本当の「思いやり」とは、多分、具体的な解決策を提示することでしか果たされないようなものだと思う。
私の大好きな思想家が、反「反原発・反核」を語ったことがあるけれど、
その趣旨は、原発と核ありきの社会の中にいて、ただアンチを唱えることはただのポージングでしかない、
本当の「反原発・反核」ならば、それに代わる代替策を提示することでしかない
というものだった。
それとよく似ています。

22歳頃、古本屋でバートランド・ラッセルの「怠惰への賛歌」という文庫本を見つけて、
この本は、多分私のその後のものの見方に決定的な影響を与えたと思うのだけど、
上に書いてきた私の学校への不満は、
この本の中の第3章「建築と社会問題」が全てを語ってくれていると思ったほどだった。
多分、建築や都市空間などを改めさえすれば、
社会の大部分の問題は自ずと解決する問題でしかないんじゃないかと、ラッセルの言うとおり、思った。
特にラッセルの語る「古い建物の子供と母親への害悪」などは特に興味を引いた。
団地住まいの未成年による犯罪が多いのは、団地に住んでいたからよく分かるのだけど、
間取りの問題が影響していると思う。
誰かの言葉、
「女性の人権と社会進出を実現させたのは、社会の成熟や男性の理解ではない。家電の進化である」
は、本当にそうだと思う。
女性の、あくまで“男性社会”でしかないものへの社会進出が本当に良いものなのかは、さておき。
多分、人は発明に遅れてついてくる。
だから群衆の未熟さを精神論で解決することは、かなり効率的ではないのだと思う。
ラッセルも言っていることだけど、芸術的動機によって建築がなされたことは本当は少ないのだと思う。
ある観念を植え付けるための政治的な目的が建築にはあって、
けれどそれらを芸術的な表現面と錯覚してしまっているのが実態なのかもしれない。

つい先日購入した「コズモグラフィ」(バックミンスター・フラー著)という本には、
「人間の行動の改良を試みるのではなく環境を改良すること」と書いてありました。
私が<デザインサイエンス>と呼ぶ機能とは、新しいアーティファクトを環境に導入して利用可能にすることによって人が自発的に利用するように誘導しながら、問題の発生源だった過去の道具と行動を放棄するきっかけを人に与えて問題を解決することだ。
「コズモグラフィ」第1章26頁より引用
これが本当の「思いやり」という行動なのではないかと思う。
具体的でない思いは所詮“思いすごし”でしかない。
この本の訳をされている、フラーが他者に対して初めて認めたデザイン・サイエンティストである、
梶川泰司氏は以前ブログで、
「大切なことは命令形ではなされない」というようなことを書かれていた記憶があるのだけど、
私が老荘思想に感じる過干渉でない自由さにも通ずるような、
強制的に行うのではない変革の姿が、
ラッセルの言うところの「いかなる変革も力ずくではなしてはならない」という変革の姿がここにある気がしました。
そして、宮沢賢治の童話を読むと、彼がしたかったことはこういうことじゃないか、と思う 。
特に「銀河鉄道の夜」や「グスコーブドリの伝記」などに表われているように。
宮沢賢治が童話を表現の場にしたように、だから、
ラッセルやフラーが書いていることは、子供の方がよく分かるんじゃないか、と思う。
多分、今のそれなりに上手く立ち振る舞いが出来るようになった私よりも、
給食が時間内に食べられずにパンを机の奥にぎゅうぎゅう押し込んで隠していた小学1年生の私の方が、
きっと素直に理解が出来たんじゃないかと思うのです。


今、私は非常に猫背なのですが、
これはランドセルを長時間背負っていた登下校の習慣と、
あの憎むべき学校の規格の机と椅子によって生みだされたと確信しています。
4歳の娘を見ると、彼女は長時間同じ姿勢を取ることなんてまだしたことがないので、
羨ましいほど背筋がまっすぐ伸びています。
猫背の状態と背筋がまっすぐのびた状態だと、酸素量が2倍違うそうです。
猫背だと肺が圧迫されるので呼吸が浅くなり、血液やリンパの流れが悪くなるそうです。
私は貧血でむくみ症なので、猫背も相関して悪循環が起きていると思う。
第一、酸素不足に1番敏感に反応するのは脳で、脳の大脳皮質らしいのに、
ああいう猫背を誘発する机とイスに座らせて勉強させてもまったくもって意味がないということです。
あんな机とイスで「集中力がない!」と怒られても、何の説得力もないと思う。
そういうことを今度書きます。


学校の給食 その1

  • tenzo

    ちょうど、私の学校が嫌いな理由などを、恨みつらみにのせて書こうと思っていたところ、
    まゆみさんのブログで、給食に関しての記事を読みました。
    まず、学校のトイレ事情や机や椅子などの備品についての不平不満を書こうと思っていたのですが、
    先に給食のことを書こうと思います。


    私は小学生のころから、父にこう言われて育ちました。
    「給食の時、児童みんなに声をそろえさせ規則的に“いただきます”と言わせるのは、
    軍隊みたいでお父さんは嫌いだ」
    と。
    決して父は“いただきます”と言うのが嫌だとは言っていない。
    あくまで言わされているのが嫌なわけです。
    こんな父だから、紅組などの集団に分かれてする応援合戦が見たくないからと言って、
    小学校の運動会も観に来なかった時もある。
    父の、マスゲーム的なものに対する嫌悪感には一貫性があったと思う。
    卒業式の国歌斉唱でも、「ご父兄の皆さん、ご起立下さい」と言われても、
    最前席で足をくんだまま絶対に立たなかったし歌わなかった父なのです。
    家庭訪問でも先生に向かって「僕は学校には何の期待もしていません」と言ったりしていた。

    私自身は学校でも普通に“いただきます”と言っていたし、
    それを言うことにいささかの抵抗もなかった。
    語源だとか由来だとかを考えて、それに意味があるから、という筋のある理由でもなく、
    ただ単に、あいさつは何度してもいいものだし、
    あいさつは一日に何度繰り返しても決しておしゃべりにならない、
    希有な言葉だと思うので好きなのです。
    ざっと検索しただけですが、“いただきます”の語源はこんなように書かれていました
    (ただの受け売りです)。
    “いただき”は、動詞である“頂く”“戴く”の連用形です。山の一番高い部分を、頂(いただき)と言います。ですから、“いただく”は、本来は頭上に物を載せる意味を持つ語になります。中世以降では、自分より立場が上位である者から物を拝領する際に頭上に載せるような習慣があり、“いただく”“もらう”等の謙譲用法が生じました。後に、上位の者から頂いた物や神仏に供えた物を頂き飲用する際にも、やはり、頭上に載せてから食事を始めたことから、飲食をする意味の謙譲用法が生まれ、食前の際に挨拶としての“いただきます”が定着し今日に至ってます。
    仏教国のスリランカやチベットでは今尚、頭上に頂く習慣が残っています。
    “いただきます”は日本語独特の表現だから、
    日本人として残していかなければいけないという方もおいでですが、
    私はそれほど日本人としての自覚がありませんので、
    日本の伝統という意味での理由なら強い共感は持てません。
    それこそ世界中に、収穫祭にお供えしたり、
    狩りや漁の前にお供えをするなどの共通の風習はありますし、
    キリスト教だって食事の前にお祈りをするようだし、
    道元の“赴粥飯法(ふしゅくはんぽう)”という、
    食事における心構えの教えの中で日本に紹介されたという、
    食事の前に唱える偈文“五観の偈”だって元々中国から伝えられたものです。
    この“五観の偈”は私なんかには要するに“いただきます”って意味だなと思う。違うのかしら。
     一つ目には、この食事が調うまでの多くの人々の働きに思いをいたします。
     二つ目には、この食事を頂くにあたって自分の行いが相応しいものであるかどうかを反省します。
     三つ目には、心を正しく保ち過った行いを避けるために、貪りの心を持たないことを誓います。
     四つ目には、この食事を、身体を養い力を得るための良薬として頂きます。
     五つ目には、この食事を、仏様の教えを正しく成し遂げるために頂きます。    (偈文の略訳-ウィキより)
    “いただきます”という精神は、私なんかには非常に普遍的なもののようにしか思われない。
    お供えしたものが食卓に並ぶことは“下ること”で、
    お供え物を食べることは“お下がり”を受けることのようです。
    ここにはやっぱり上(頂き)から下へという構図と、
    語源のところにも出た“拝領する”という意識があるように思う。

    それでも、上記のとおりの“変わり者”?の父親に育てられた私としては、
    食事の挨拶は、形式だけの心にもない呪文ならば唱える必要はないと思うし、
    強制すべきではないと思う。
    ただ、子供が言いたくない、と申し出るならわかるけど、
    親がしゃしゃり出てきて“いただきます”と言わせるなというのは筋違いな気がする。
    子供が自ら判断する材料を与えること、それが食育なんじゃないでしょうか。
    大事なのは、どれだけ“いただきます”を実感に変えられるかだと思う。
    これは、精肉卸しや冷凍食品卸しで勤めた経験のある直也君がよく言ってることなんだけど、
    本当に食育というのならば、教師は子供たちと、
    屠殺場で生きた動物がいかに解体されるかを見に行き、
    農作業を体験し、冷凍食品がいかにして作られるかを見学に行かなくちゃいけないと思う。
    それをしてから初めて、子供自身が“いただきます”と言うのか言わないのか、
    という問題ではないでしょうか。

    ただ、私が読んだ本の中の統合失調症の患者さんは、
    子供時代に親に何度か連れていかれた屠殺場の経験が、
    病気の発症に深く関わっているということだったし、
    おそらく授業で屠殺場にいこうもんなら、多くの子供たちがショックを起こすでしょう。
    それをケアする専門家も用意しなくてはならないので、屠殺場見学は現実的ではないでしょう。
    それより保護者が反対して絶対に実現しないとは思いますが...。

    でも本当の実感を持って“いただきます”と言うには、
    それだけの厳しさが必要なのかもしれません。
    でも、こういう体験は学校単位ですることじゃないのかな、
    学校におんぶにだっこっていうのもおかしいし。
    本当だったら親が直接子供に教えなくちゃいけないんでしょう。
    果たしてこの私は、娘を屠殺場に連れていかれるのか?
    ウチは肉は食べないけど、自分トコが食べないからいいって問題でもない。
    それに向けても色々調べなくちゃいけない...。
    ああ、給食の道は長く険しい。

    ※特に曹洞宗の食事作法に関してわかりやすいページのリンクはこちら
    次はもともと書こうと思っていた、給食のことについて書きます。


    つづく

    水泳

    YAHOOのニュースから

    <日本泳法>水泳初心者にもおすすめ 波、流れに応じ多様 水難も防止
    水泳といえば、クロールや平泳ぎといった競泳を思い浮かべる人は多いだろう。だが日本には武芸の一つ「日本泳法」が伝えられ、各地の教室で学ぶことができる。波の高さや流れの速さに応じた泳ぎがあり、水の事故から身を守ることもできる。年齢や体力に合わせて泳げるため、スピードを追求する競泳とはひと味違った生涯スポーツとして、子どもから高齢者まで楽しめるのが特徴だ。....(続きは上の見出しをクリックしてください)

    これいいなぁと思う。是非学校の水泳の授業ではこの「日本泳法」を主軸にしてくれたらいいのに、と思う。
    私は俗にいう「運動神経のよくない」方で、学校の体育の授業には嫌な思い出ばかりがある。
    年長から小学校1年生の時分、スイミングスクールに通っていたけれど、
    そのころと水泳の技術と泳げる距離はあまり変わりがないと思う。
    きっと水泳の授業が嫌いで、それであまり泳ぐことも好きでなくなってしまった。
    こんな私が水難事故にでもあったら自分の身を助けられるだろうか。
    きっと助けられないと思う。
    ‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐

    学校の授業は、というか、本来教育というのは、
    まずいかにして自分の身を守るかという技術の伝授でなければいけないんじゃないか、と思う。
    少なくとも小学校1年生から毎夏、水泳の授業があるわけだけれど、
    そのカリキュラムによって、どの程度、水難事故の当事者にとって役に立っているのだろうか。
    競泳ばかりをやって、生徒たちに水泳に対する苦手意識を植え付けるようでは、本末転倒だと思う。
    (学校に対する怨恨が露わになっていますが...)
    まず、(日本泳法では、)水泳の授業では不可欠のウォーミングアップは行わない。「日本泳法は日常の動きを水の中でするもの。それに、洪水に直面したら、準備運動をする暇はないでしょう」と言われ、納得。また、どんな技をしていても、顔を絶対に水につけない。顔を上げたまま平泳ぎが出来ない記者にとっては信じられない光景だ。コツは、 顔を上げようとしないこと 。人間の骨格は顔を上げようとすると胸が反るように出来ているから、体が沈んでしまう。むしろ背中を丸めるような姿勢をとった方がいいのだという。(「クリンスイ・クラブ」の記事より抜粋)

    棋士の羽生善治さんは、将棋を始める子供たちとその親にアドバイスとしてこう言っていた。
    「まず、勝たせてあげることです。勝つ楽しみを最初に知らなければ、続かない」と。
    「勝ち」という言葉を使う羽生さんの意見と根本は変わらなくって、
    「勝ち」ではないけれども、“泳ぐ楽しみ”をまず知らなければ、その子供の中での「水泳」は終わってしまうと思うのです。
    日本泳法は誰でも泳げるし、初心者に向いているのだそうです。
    まず、日本泳法で身を守るための泳法を身につけてから、
    その後、競泳だって何だってやりたい人はそちらへ進めばいいのではないでしょうか。

    これまた「クリンスイ・クラブ」からの抜粋。
    素晴らしい、と感激した一文です。
    「現在、学校で習う水泳というのは、スピードを重んじる競泳的水泳ですよね。競争社会の現代らしいといえばそうですが、競泳で1位になる人は一人しかいません。しかし日本泳法は自分との戦いで、技を磨くことによって自分を高めることが出来る方法です。したがって一緒に練習する人たちは自分を高めてくれる人たちで、自分の敵ではないのです。海や川で溺れてしまうなどの水難にいかに対処するかも大事ですし、そうした自分の身を守るという目的のほかに、自らを磨き、また互いに磨き合うという、武道の精神をもって日本泳法をぜひおすすめしたいと思っています」。
    ただ、私としては昨今話題になっている、
    「学校教育でも武道を必修にする」という路線には、現時点では反対。
    文科省に言われて強制的に武道をやるというのは、なんか違うと思う。
    どんなに良いことでも、
    特に身体の鍛練といったことで、国家の管理下で強制的にやらされるのは嫌です。
    学校で武道を教えるということになると、それなりの数の指導者が必要になるけれども、
    武道は型だけでなく、精神面も重要だから、
    その両方を兼ね備えた充分な数の指導者が、おいそれと確保できるとも思われない。
    実際指導者の、生徒の体調に対する配慮が充分でなく、柔道の授業で亡くなった生徒も実は沢山いるそうだ。
    この場合、学校も教育委員会もその責任の所在をあやふやにし、多くの親が泣き寝入りに近い状態にあるという。

    群れで生活する哺乳類の中には、病気や傷を負った個体をかばうように仲間が行動する動物がいるようだけど、
    (もちろん、これは人間が解釈したがるような個体同士の優しさの類ではなく、
     群れにとってそれが最善策だ、ということなのかもしれないけれども)
    子供同士も組み合っている相手の状態が本当はよく分かるはずだから、
    子供達が自分で気付いたことを自信を持って指導者に伝える術を持ち、
    なおかつ伝えやすい環境を指導者が作れなければならない。
    もちろん、本人も自分の体調の変化に対して鋭敏な感覚を持ってなくてはいけない。
    それには、そういう感覚を育てる家庭も必要だろうし...。
    私は、5年前にやっと卵巣のう腫があることを知ったのだけれど、
    冷えに関して全く無頓着な父子家庭で育ったので、正直“自分が冷えている”という自覚さえ持っていなかったので。
    でも、こういう考えは行き過ぎると育ちに関する差別にもなりかねないし、
    実際、数々の宗教団体の勧誘ネタにもなってしまっている。

    そういう意味では、
    日本泳法を学校教育でも、というのも急には難しいのだろうと思う。
    本当に口惜しい。
    こういった伝統は、1度断絶すると修復するのに多大な時間とエネルギーがかかってしまう。
    0からではなく、マイナスからの出発になってしまう。
    河井隼雄さんが、
    「灯りを持っていない人に灯りを渡して明るくするのは簡単なんです。
    厄介なのは、すでに灯りを持っている人です。灯りを取りかえるのは難しい。
    もうすでにその人は充分明るいつもりなのですから」
    というようなことをおっしゃっていた。
    そういう難しさ。

    まぁ、でも今日はこの日本泳法を知った喜びにひたろう。
    羽生さんが言ったように、それが次につながるだろうから。
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