ノ ー ト

好 き な 読 書 を 中 心 に 考 え 中 を 記 録 す る ノ ー ト

精神・心理

安富さんとヘブライとシャムキャッツ

最近図書館でかりてきて衝撃だった本。
親としても震撼したとも言える一冊 。
安富歩氏が共著で大分前に出された①「ハラスメントは連鎖する」。

例えば子供の時に親から条件付きの情(ハラスメント)を受けて育つと、
自分の情動を信じられなくて、直観よりも理屈に答えを求めちゃう。
心がいつも晴れなくて、結果誰かにハラスメントしてしまうっていう連鎖。

言葉を使う以上、物理的な暴力以上に、暴力的になってしまうこともあるわけで。
どんなに気を付けていてもハラスメントに加担してしまう。
てか、どんな表現やコミュニケーションをも、相手にはハラスメントとする自由があるわけで。
それも、他者性なるものがあることの証しだと理解したい。

先日読んだ岩波ジュニア新書の②「ヨーロッパ思想入門」とシンクロ。
岩波ジュニア新書は良書が多いのはもうすでに一般認識ではあるけれども、
1冊でヨーロッパ思想を著わさんとするのに、
選び抜かれた哲学者のラインナップのなかで
レヴィナスにページが多くさかれていたのに興味を覚えて読んだ。
この本はとても面白かった。

子供のころに思った
「本当に神様がいるんだったらどうして戦争は起こるの?」
的な疑問の、ヘブライ的な回答が②にのってる。
どうして神は人間の似姿をしているのかってことも。

ある意味、都合のいい考え方なのかもしれないけど、
愛とは無条件。
相手がどんな悪いひとでも関係ない。
戦争しようが悪事を働こうが関係ない。
自分と相手は違うのだ。
神にとって理想的な人間がいたとしたら、
それは神自身または神の投影でしかない。
それでは人間を作る意味がない。
自分とは違うもの、他者性を生むために神は人間を作られた、的な。

聖書に「まず神は言葉を作られた」ってあるみたいだけど、
だからハラスメントは絶対生まれる。
どう考えてもハラスメントとは無縁ではいられない。
でも、ハラスメントをなるべく連鎖させないことの努力、
はできるかもしれない。

その挑戦をガンディーもしたわけで。
ガンディーは①に載ってたんだけど
“正しくないからある「法」に従わないっていうのじゃなくて、
気に入らないから従わないって態度”でいきたい的なこと言ってたらしい。

理屈じゃなくて気に入らないからっていうのが理由って
なんか駄々っ子みたいなんだけど、
でも理屈じゃなくて自分の情動を信じられるのって
無条件に愛されたからで。
これあくまで安富さんたちの表現だけど。

こないだYUKIちゃんが言ってました。
「何かを選ぶときに、良いから正しいからって選ばない。
どっちが楽しいかで選ぶ。
そうしたら誰のせいにもしないから。」

理屈に逃げちゃうってのは武装みたいなものかも。
①で学問しちゃうような人ってみんなハラスメントを受けた人
みたいなこと書いてあった。
なんかの“せい”にしたいんだよね。

自分と向き合うことのキツサ、ツラサはしんどすぎて。
でもそれってハラスメントを連鎖させないための
1つのかけらにはなりうる気がする。

まるで永遠にハラスメントとは加害者としても被害者としても
無縁ではいられない気がするけど、
それが他者性でもあって、
他者性があるから自分も鍛えられるし、見方も広がる。
これってガダマーだよね。
先入見なくしてはひとはものさえ見れないけど、
先入見を否定的なものとしてとらえるのこそ先入見で。
先入見が挫折するからこそはじめて真の理解が生まれるっていう。
だから挫折しなくちゃいけないんだね。

だけど相手の知らなかった気持ちを知ったりして、
でも知っちゃうと、それも自分の解釈でしかなくて、
結局、他者性はするすると逃げていく。
っていうか掴まえられないから他者性なので。
「現在の地平は過去へとくりこまれ続ける」
まさにガダマー?

だからひたすら先入見は挫折し続けなくちゃいけない。
安保法制でこんな時だからじゃないけど、
ハラスメントを連鎖させない努力、
これが本当の教育の要なんじゃないかな。

シャムキャッツの夏目君がどこかで言っていた。
「勝った時の気分ってつまらない」
この感覚を表現できる音楽があるのはすてき。
fishmansもそうだったし。

シャムキャッツ 「AFTER HOURS」


シャムキャッツかなりすきです。

覚書

ライブは好き、コンサートも好き、だけどフェスは嫌い。
会合は好きだけど集会は嫌い。

立岩真也氏、かなり好きです。
たとえば「不登校新聞」

『自閉症連続体の時代』みすず書房

お金がないから買えなかったけど、ちらり立ち読み。
これ図書館に入ったら絶対読もう。

病や障害と認定されるとはどういうことか。認定されなければ社会で生きづらく、
認定されれば「自分のせいではなく、病のせい」だと免責される。

では、認定されなければ社会に居場所はないのだろうか。

これどきっとしました。

戦う君の歌を戦わないやつらが笑う

かなり誤解されそうなのだけど、というか、
実は誤解でもなんでもなかったりするのだけど、
私はあんまり、
ベテランの、この道ウン十年とかの経験保有者が語る、
その道の極意的な、悟り的な語り、というのが好きになれない。

これは私側の卑屈さが原因なのかもしれないけど、
どうしたって説教臭く思えるわけです。
お年寄りは大切に、と思いつつも、
やっぱりdon't trust over thirtyでいたい。
(ってなると、自分のことも信用できないんですけどー!羽交い絞め~)

確かにその人にとっての確信めいたものは、
ある真理をついてはいるでしょう。
でも、「私はこうなんじゃないかなぁと思う」くらいの、
多少、自分の会得したものに対する疑念を最後まで持ちながら、
断言しきらないところに私は知性を感じるし、
聞く側と何か対等なまなざしを持とうとするその人の気持ちが、
ただ嬉しいし、素敵じゃないですか。

とりわけ最近何かを始めたばかりの、
うきうきとしたフレッシュな報告などは、
聞いていてもとても楽しい。
子供の「初めての出来事」を語るさまなどはただただ垂涎の的です。

先日、NHKのロシア語講座をぼんやり見ていたら、
ロシア革命のことをやっていた。
私はレーニンは嫌いではない。なかなか良い顔をしている。
スターリンが意地悪そうな傲慢な顔をしているのに比べて。
スターリンが嫌いだからレーニンが良く見えているのかもしれないけど、
そのスターリンも影武者の方なのかもしらんが。

最初レーニンが目指したことはいいことだったんだろうと思う。
けれど、やはり何事も実際やってみると、
うまくいかないことがあるのが普通。
そういう局面に達したら、
こういうところがやっぱりうまくいかない、と言って
一旦ロープブレイクしちゃいけないんでしょうかね?
だれかいいアイデアない?って聞いちゃいけないんだろうか。
実際、1人の人が何から何まで万能に分かるなんてこと無いし。
結局はブレインストーミング的なやり方しかない気がする。
そして自分はリーダーから降りて、
別の新たなリーダーを見つければよかったんじゃないか。

そうすればスターリンが権力を握ることを、
レーニンは阻止できたんじゃないだろうか。
レーニンはスターリンを嫌がってたけど、自分のせいもあるじゃんか。
ある座に長く居続けることは、
結局、自分の立場を正当化するために生きるようになってしまう。
そうなるとせっかくの当初の素晴らしい理念にまで泥を塗ることになる。
カストロはこのまま長寿を全うしそうだけど、ゲバラは39歳で処刑された。
権力の座に収まったカストロよりも、
動き続けるゲバラの方が恐ろしかったってことだろう。

中島みゆきの曲に
♪ガキのくせに、と頬をうたれ 少年たちの目が年をとる~
っていうのがある。
「いずれわかるよ」とか「私にもそういう時期あったけど」とか
若い人や経験の浅い人に言っちゃう人いますね。
話し聞いてるふりして自分のドーダ話にすり替えてしまうという。
そんな話されると、黙っちゃう。
めんどくさくて黙っちゃう。
こうして周りが黙るから、
この手のめんどくさい人の声や意見ばかりがまかり通ってしまう、という悲劇。
相手に二の句を出させないとか黙らせるっていうのは暴力ではないか。
黙らせておいて勝ち誇る人の、なんと多いことか。

ハンセン病患者に対して長年差別をしながら、
やれ中国は人権意識が低いとのたまう。
放射能ばらまいておいて、
イタイイタイ病や足尾銅山事件も終わってないのに、
中国を環境汚染の元凶のように言う。
やれカンボジアに学校を作ろうとか言っちゃう。
これ全部みーんな、相手に「ガキのくせに」って言ってるのとおんなじだ。

戦う君の歌を笑わないでいられるのは、
今も同じように戦っている人だけだ。
再現性だけでなく、
たった1回きりのことをkagakuすることができたなら、
どんなにいいだろう。

ヴァイオレンスのためのヴァイオレンス

先日、松本の花月ホテル向かいに新しくできた、
想雲堂という喫茶店に行きました。
コーヒーも美味しかったし、置いてある本が懐かしいものばかり。
どっかの喫茶店みたいに、左翼系とか美学系だけじゃなく、
フィールドワーク系も多いのが良い。
カウンターのご主人の近くに、民俗学系の本を寄せてあるのが
とくに好ましい。

いろいろ懐かしい本を開いてみたけど、
「あー。。。」と絶句したのが詩人の故田村隆一氏の本。
あんなに読んでいたのに。
何故読まなくなったんだろう。
必要だったのはもしかして、実用的なハウツー的な何かとか、
何が正しいか、とかじゃなく、
田村氏のような、絶対的に“方向音痴にならない感覚”だったんじゃないか、と。

田村隆一氏と吉本隆明氏の対談を読んで、
なんだかもやもやしていたものが晴れた気になった。
吉本氏は方向音痴だから迷うんだけど、
田村氏は迷わないんだよね。

なかでも田村氏の話した、
「自分の中にあるヴァイオレンスっていうのは、
ヴァイオレンスに対するヴァイオレンスしかないんだけど、
ヴァイオレンスが絶対嫌だから、それもしない」
というような内容。
結果、自分の行為が誰からも見つけられなくたって、いいじゃん。
フィッシュマンズの佐藤君が言っていたよね。
「誰にも見つからないような詩を書くのが好き」って。
佐藤君は反権力と歌わなくたって、いつだって反権力でいられた稀有なひとだ。

祭りはあってもいいけど、祭りに参加するっていうのは別問題、
っていう田村氏の指摘も素晴らしい。
参加しないっていう工夫は江戸時代までならずっとあった、と。
田村氏は祭りの協賛金も「精神病だから」とかで払わずに済ましていたらしい。

世間にどう思われようと、
やりたくないことはしない。
やらない工夫。
誰のものにもならない人生の工夫って、
強靭な精神でないとできないんだろうな。

極論 記号と信号

心理学を志す者と、精神病理学を志す者とでは
全く異なるのではないか、ということ。

前者は治療行為者としての自己満足を得やすいが、
(カウンセラーというのは実は自分が語りたいのだ)
精神病理学においては
満足感を得ることなど端から断念する事なんではないだろうか。

心理学的なカウンセリング行為とは
弱みを握ることに対する無抵抗感を同時に意味し、
心理学の入門はそれ自体、
性的な欲動への入門なのではないだろうか。

ノートに記されたいつかの誰かの言葉、
『言葉は自らに外在する何かを指し示しているという
“語るざわめき”であるのに対し、
絵画とか音楽は非記号である。
それらは1つの沈黙なのだ。
(自らに外在する何ものをも指さないから)

であるならば、
精神病の患者の言葉は、それがどんな激しい奇声であっても、
沈黙であるかもしれない。
記号ではなく、信号であるには変わりないけれども。
精神病理学者は常に自らの言葉の限界に向き合い、
言語の外にあるもの(排除されたもの)を
記号化(社会化)しようと苦悩する者である。

信号と記号に関しては
昨年読んだバフチン関連の本が面白かった。
「バフチン―“対話”そして“解放の笑い”」
バフチン―“対話”そして“解放の笑い” 新版
この本は松本中央図書館で借りて読んだのだけど、
汚してしまい買い取りました。
なので松本平の皆さん、すいません。中央図書館にはもうありません。

自己愛

相手がどんなに自分と違う考えを持っていても、
その人が私の話に聞く耳を持っている場合、
その人を嫌いになることはない。

またどんなに似た考えをしていても、
自分にとって禁忌とも言える単語や言い回しをする人を
好きにはなれない。

だから好き嫌いというのは結局自己愛でしかなく、
よって「相手を好む、好まざる」というのは
ただのまぼろしなんじゃないだろうか。
まぼろしに振り回されるのは宗教だ。

滑稽な話

今日、明日で最終勤務日になるスーパーマーケットの仕事に出かけた。
(現在、有給消化中で、有給&公休日に蕎麦屋さんで働いている状態)

久々に当スーパーチェーンに寄せられた「お客様の声」のレジュメに目を通した。
私はこの「お客様の声」っていうのを読み聞きするのが大好きなのだ。
やはり梅雨時、品質や夜間の品ぞろえに関する不満が増えていた。

気温が高くなってくると、スーパーの来客数の折り返し時間は、
午後3時から4時というずいぶん遅い時間になってくる。
つまり客足は夜に集中するため、夜間に品ぞろえができてないと、
お客さんの需要に答えられない。
結局、朝に陳列した商品がお客さんに渡るまでの時間が必然的に長くなるので、
鮮度が落ちやすく、クレーム化し易いという訳。

あと、夕飯直前に買い物に来て
「すぐ家に帰ってから食べられる」簡便商品を求める人が多くなるので、
いくら根菜や魚の生切り身が並んでいようと、
消費者は「何も買うものがなかった」という欠乏感を抱く、ということも起きる。
それでクレームも増えてくる。
以外と消費者は、自分の側の環境の変化を意識化できないので、
「店側がヘマをした」と相手の落ち度にしたがる傾向があると思う。
だけど、それを十分見越した対応ができるのが
スーパーの「当たり前」だし、しかもその方法化は大して難しいものでもない。

だけどびっくりしたクレームが
「地場野菜のレタスの中にカエルがいました!気を付けてください!!」
というもの。
それが毒ガエルだったとか、寄生虫がいたとかならわかるけど、
カエルでクレームって...。
昔野菜売り場でバイトしてた時、地場のブロッコリーに青虫がいたら
「ちょっと!青虫がいるじゃない!気持ち悪い。もう、買う気が失せたわ!」って
お客さんに言われたことがある。
そういうオタクも充分気持ち悪いわ!!
と思うような容姿のお客さんだった記憶がある。
毛嫌いしたって、その青虫と同じものを自分は食べようとしてるのにね。

それなのに、ひとはホタルをわざわざ見に出かけたりするんだよね。
それでキレーイ!とか言って写真を撮るんだ。
青虫ヤだけど、蝶の模様入りの服や雑貨は好きなんだよね。
なんて勝手なんだろう。

イオンは会社として、販売する食品の基準を「50ベクレル/kg」だかに自主設定したけど、
まだ私の勤めてきたスーパーには
「放射線量の自主基準をどうして作らないのか?!」などというお客様の声は届いていない。

べクレテいる食べ物にはクレームつけないのに、
カエルにクレームをつけるとは、これ如何に。
食べ物って一体何なんだろう?

美の壺より

先日、NHKの「美の壺」のアンコール放送を見た。
「昭和レトロの家」という回。
詳しくはこちらのページ参照のこと。

←大正以降の家の間取り

興味を持った部分を書きだすと、

・要は大正以降の家はそれ以前の家とは、間取りに大きな違いがある、と。
 従来の家では部屋同士が田の字型で接していて、自分の部屋に行くにも、
 他の部屋を通らざるを得なかったけど、
 大正時代になってからは、プライバシーが問題になって、
 全ての部屋に通づる緩衝通路?である「中廊下」が誕生した、と。
  

それから、
・今までは接客用の座敷が広かったり、日当たりが良かったりして、
 家族のための空間は日当たりの悪い奥座敷へ追いやられていた、と。
 けれど大正以降、むしろ家族自身が居心地良く、休息がちゃんとできる空間にしよう、
 ってことになった、と。

その結果、昭和の時代になって
・近代的な暮らしに合った理想の家はどんなものかっていう今までの研究を経て、
 大都市の近郊に開発された住宅地に「昭和の家」が建てられていった、と。

そして昭和の家で間取りに加えられたもう1つのものが、
ガラス越しに光が降り注ぐ広縁だ、と。

この「昭和レトロの家」の回を見ていて、思ったのは、
サラリーマンがたくさん出現したのは大正以降で、
つまりサラリーマンに都合のいい間取りが「昭和の家」なんだろうなってこと。
自営で仕事をする人じゃなくて、雇われる人の家だな、と。

昔はほとんどの人が第一次産業従事者だったから、
日中さんざんお日様にあたってただろうし、
家に帰ってまで、「光が注ぐ広縁」をそんなに必要としなかったんだろうし。

家で仕事をしていたら、しんどくなったら休むってことはできるけど、
(昔の封建的な時代の農家なんかでは、
多分そんな軽はずみには1人休むなんてことはできなかったろうけど)
務めで8時間労働とかって契約しちゃったら、
「疲れたから家に帰ります」なんてことは、そう通らない。
だから出勤のタイムカードをついて、退勤のタイムカードをつくまでは、
契約上の1時間の昼休息以外はとれない。
会社からも「健康管理は社会人の務めだ」なんてこと言われる。
つまり、「翌日の出勤前までに体調を万全にしとけよ」ってこと。
だから大正以降は、多くの日本人にとって、
家は「仕事をする場所」から
主に「休息を取る場所」になったんだろうな、と。

本当にリフレッシュできるのは、各人が部屋で個別に休息するより、
家族団らん和気あいあい、が理想だろうけど、
家族みんなが「家には寝に帰る」ような勤務をしてたら、
家族同士の距離は広がって行く一方で、
和気あいあいとは易々いかなくなるんだろう、と。

息子が女性を軟禁してたのに気づかなかった、とか
娘の妊娠にも気付かなくて、娘が自宅のトイレで死産した、
とかのニュースを最近よく聞くけど、
これって昭和の家以降の間取りだから可能なことなんじゃないかな。

封建的な昔の家も、息苦しかったり自由がなかったりしたろうけど、
でも勘当されるっていうシステムはいいな、と思う。
今はうまくプライバシーがとれる間取りだから、
日頃からぶつかり合うってことが回避されてるのかもしれない。
そういう意味でも、本当に今の家族は脆いと思う。
うちも例外じゃない。

間取りの狭い団地の未成年の犯罪率は、
戸建てに住む未成年のそれと比べるとかなり高いらしい。
でも未成年の犯罪は社会を写す鏡だから、
社会にとって必要なガス抜きであり、
軌道修正のための良いサインのような気もする。
悪い友より、良き敵の方が色々気づかせてくれるのと似て。
もちろん犯罪を犯す方も、被害者も気の毒なのは当然のこと。

私の勤め先のスーパーの方針は
「人に仕事を充てるのではなく、仕事に人を充てる」で、
思わず耳を疑いそうになるけど、
人件費は必要経費じゃなくて、削減対象のコストでしかないんだな。
それと似ていて、
昭和の家は、家族に合わせた家っていうより、
経済の仕組みに合わせた家だったんじゃないかな。
いい面も悪い面も、両方ある。

ネットと呪詛

先日テレビを観てたら、どこかの大学の先生曰く、
呪いの実現の原理は科学的に言うと「ノーシーボ効果」なのだそうだ。
ノーシーボとは、プラシーボとは効果が逆で、
医学的に害のないものでも「有害だ」と信じることで心身が不調になること


わら人形に相手の住所まで書いて添えるのは、
それを神社にお参りに来た人が目にして、話題にするのが、
ゆくゆくは噂となって当人の耳に入ることを狙ったものだそうだ。
だから「呪い」は、
その行為自体が相手の知れるところにならなければ効果はない、とのこと。

当人は「自分が呪いをかけられてる」と思うことによって心身が不調になったり、
結果、たまたま事故や病気になっても、自他共に“それが呪いによるもの”とみなすことで、
呪いは成立するというのが仕組みのようだ。


ちなみに子供に多いのは、
「こぼしちゃダメだよ!」と言われるとかえって飲み物をこぼしちゃうケース。
小児科医の黒部信一先生も、
「日本はすぐに“風邪をひくよ”とか“目が悪くなるよ”とか言って子供を脅す風潮がある。
だから子供が病気になりやすい」というようなことを著書に書いておられました。
(最近の黒部先生のブログ記事もとても面白いです→http://kurobe-shin.no-blog.jp/bk/

そう思うと、ネットの書き込みは往々にして呪いになりうると思う。
私としては、ネット上で意見の交換を積極的に求めているわけでないし、
議論の場としてもネットは不十分だと思っているので、
今はもう過剰な期待も幻滅もしないけれど。

でも、こういう気持ちに至ったのも、その実「ノーシーボ」効果からでした。
私の記事に関しての、水面下での酷評にある日気付いてから、
一時書くのが面倒くさくなりました。
正直怖かったですし。


「気に入らなかったら訪ねてこなければいいでしょ」って思っても、
何度も何度も訪ねてきては嫌がらせの書き込みをする行為は、
ずばり「呪い=ノーシーボ効果」だと思う。
だから本人も止められないんでしょう。お百度詣りにも似て。

先の『再現性としての「理解」とは別に』という記事を書いてから思ったのですが、
ネットの世界っていうのは1人称と3人称過多の状態なんじゃないかって。
だから2人称的な痛みの感覚が欠けてしまうんじゃないか。

実際の2人称の関係なら、お互いが匿名ではないので、
片方の人間だけリスクを背負うなんて関係はあり得ない。

だから、
私はネットの書き込みは“1字¥○”とかの有料制にして、
サイトやブログの主催者※にお金が入るシステムがいいと思う。
そうすればどんなに嫌がらせの書き込みをしても、
相手になんらかのメリットを与えることができる。
一方的ということは少なくとも避けられます。
そもそもコメントとは、
その主催者の発信したものに呼応する形で自らに引き出された言葉なので、
インスピレーションという授かりものを、既にコメント者は主催者より受け取っているという
贈与関係
なのだと思うから。
(※私は「ブログ主」という表現が好きではありませんので、あえて。)

 ちなみに最近思うこと。
 ネットは、自分が本当に理解していることや記憶していることでなくとも、
 ソースやデータを引っ張ってきて、さも3人称的な知識や情報、論理は成立してしまう。
 そしてそれを1人称的に発言することが出来る。
 私なんか、それを実際やってる気がする。
 自分で生みだした小説や詩や造形作品などを発表するのでなかったら、
 何を書いても「編集」ばかりが器用になる気がして、危険だなと思う時がある。


話しは戻って、
まゆみさんのブログで紹介されていた早川由紀夫先生のブログを読んでいて、
「批判と指図は違う」というくだりがあって、なるほどと思った。
批判じゃなくて指図になってしまっている人がいる、と。
少なくとも指図はコメント欄でするべきものじゃないと私も思う。

“批判は言論の自由に守られているが、指図には責任が伴う。
 そこが違う。
 ただし不当な指図には従わない自由が残されている。”
この早川先生の言葉、カッコイイ!しびれてしまった。

本当に皮肉なことだけど、
プラシーボを否定する人ほど、ノーシーボを引き起こしていたりすると思う。
心理的な作用を充分な作用と認めないからこそ、
自分がいかに心理的に負の作用を与えているかが、わからない。


大正時代は、かなりオカルティックな時代だったみたいで、
連日、“透視”の話題が新聞を騒がせたこともあって、
帝大の先生による、地方の霊能力者(女性)の透視能力に関する研究の経過が、
逐一紙面でも報道されていたようだ。

その帝大の先生の前では、彼女は透視を何度も成功させるのだけど、
透視を非科学的だとする批判者が、新たに立ち会いメンバーを選出して透視を見守ると、
彼女は透視を何度やっても失敗してしまって、
それで結局、彼女はとんだ詐欺師だということになってしまい、
その風評被害が高じて、彼女は自ら命を絶ってしまったらしい。


今思うと、これは「透視の実験」というよりは、
プラシーボとノーシーボの実験だったんじゃないだろうか。
この世はプラシーボより、ノーシーボのことの方が多いのかも。
特に、年間3万人自殺者を出している日本では。
現状のノーシーボの圧倒的量からしたら、
プラシーボはむしろもっとあったっていいんじゃないでしょうか。

プラシーボとノーシーボを認めようが認めまいが、
それらと無縁である人はいない、というのが今回の雑感。



再現としての「理解」とは別に

最近ずっと、“理解って何だろうか”と考えていました。
答えは出ていないのだけれど。

私は何故か、
“極論にはさほどの真実は存在しない”と思っているので
(これも1つの極論かもしれませんが)、
「本当に理解することなんて不可能なんだ」とする考え方は、あんまり好みではありません。
ただそれを右傾化した宗教的な人が“ニヒリズム”や“厭世主義”としてとらえて、
「その手のネガティブな態度は社会や人類の為にはならない」と、
やたら公共の利益を盾に卑下してくるのも、違う気がする。
one for allを強要するのはいいが、世界が1度でもall for oneだった試しがあるのか、と思うから。

そもそも、
理解しあえないことを虚無的・厭世的であると断定してしまうこと自体が、単視眼的だと思う。
実際、絶望することの方がよっぽど建設的な行為である場合だって多いし、
所詮、“絶望も希望の一形態”なのだから。
「理解すること」に何の疑問を持たずにあっさり了解してしまうよりは、
「理解すること」を疑えるほうが、理解を丁重に扱ってはいる証拠だと思う。


でも、
これはあくまで経験的な見地によってそうなのですが、
完全に同じように理解する、ということを過剰に期待する必要はない、
と普段の私は思っています。
完全に同じように理解する、ということを目的にした時に生じるデメリット、
つまり、ひとの個性にまで検閲をかけるようなことは、
時間的にも精神的にも労力が半端じゃないから。
だから、その労力を強いる時は、ある特定の場に限定すべきであり、
なおかつ、お互いがそれとあらかじめ了解し合っている時でなければ、
ただの呪いか迷惑の類でしかないことはよくよく承知すべきだと思う。
(ネットではこの類いの呪いと迷惑は日常茶飯事で起きている気がする。)



例えば、実際は地動説が正しいのに、
普段の私たちは「お日さまが沈んだね」と天動説で話をしています。
私のような普通の生活者では、多分、天動説こそが「アクチュアル」であって、
地動説というのは死ぬまで知識としての「リアル」でしかないでしょう。

精神病理学者の木村敏氏が言うところの、
「リアルな時間は一本の流れとして表象される…
これに対してアクチュアルな時間では「いま」の生き生きした存在がすべてである

なのです。

簡単に言えば、
「リアル」とは客観的な「モノ」のことであり、「アクチュアル」とは主観的な「コト」です。

現実はこの「リアル」と「アクチュアル」が対立するのではなく、共存している状態でしょう。
でも、「<わたし>という危機」という一連の記事の中でも書いたように、
統合失調症の患者はこの「アクチュアル」の方だけを信じて、
「リアル」を拒絶してしまう傾向があります。
「リアル」と「アクチュアル」を対立させずに上手く共存させること、
そのバランス感覚をして、私たちは精神の安定を得ているのだと言えると思う。

普段の私は、このようなバランス感覚をもって、
「理解するということ」を「完全に同じように理解すること」と客観的なロジックとして問うのではなしに、
アクチュアルなコトとして了解しているのです。


木村敏氏はまた、ヴァ―チュアリティのことを、
「なんらかの<効力(virtue)>あるいは<力>を備えていながら、まだそれを展開していない状態」
のこと、としています。
ラテン語の語源的に、ヴァ―チュアリティは、
「潜勢態」(内にあって外に現れない状態⇔「顕勢態」)
という意味としてとらえる方が自然だとか。

しかも、「真にアクチュアルであるにはアクチュアリティになりきる前の、
下半身を半分ヴァ―チャリティに浸した状態でなければければならない」

ということを木村氏は言っています。
全てに先行するヴァーチュアリティと、アクチュアリティとリアリティ
私たちの世界がこの3様体によって出来ているのだとしたら、
当然理解にも、これらの様体ごとの別々の理解の在り方があるのではないだろうか?
と思ったのがはじまりでした。

リアリティの理解だけが理解なら、この世はとても薄っぺらいものになる。

例えば、よく言われるのが、
「理解しているっていうのは、他人に説明ができて初めて理解してると言えるんだ」
という言い方。
これは多分、学校や会社で求められる一般的な理解で、再現性を期待したものでしょう。
無論、言葉で説明できない赤ちゃんにしても、
赤ちゃんは“繰り返し”が大好きなので、その再現の行為をつぶさに観察していれば、
赤ちゃんから理解力を記述することは可能でしょう。

けれども結局、一般的な相手が理解しているか否かという論点は、
相手の理解の中身を知るという<関係論>ではなく、
あくまで仕分けという<整理術>ではないだろうか、と私は思う。

多分、私が学校を嫌いなのは、生徒の理解力を関係論でなく整理術で処理しているからだ。
必ずしも第3者に“理解している”と認定されるために、私たちは理解するのではないし、
“わからなければならない”という強迫よりも、
“わかろう”とする心の方が始原的には先行しているはずなので。


ただ、一般的に「理解」という語には“再現性”が含意されているのは承知しよう。
けれども、その枠には収まらない「理解」が他にあるはずだと思う。
理解したかの基準である説明力が一般に通用する場合、
それがリアリティとしての「理解」だとしても、
かたや、その説明が私的にしか通用しないからと言って
「理解していない」と断ずるのではなく、
アクチュアルとしての「理解」の可能性を示唆してもいいんじゃないだろうか。
そして、言葉以前の直感はヴァ―チャリティとしての「理解」でしょうか...

しかしそれらに加えて、<理解>と<わかる>もニュアンスが違う。
<理解>とは、これまでの知識を使って、未知の事象を論理的にとらえることであり、
<わかる>とは、これまで散在していた知識があるきっかけでひとつにつながること、らしい。
論理的な<理解>は知識の蓄積に依存するので記憶容量が増大するけれど、
<わかる>というのは、今その時点の自分に即した状態で起きるので、
記憶量をコンパクト化出来る、と。

大雑把なものの見方(仕分け)をすれば、
<理解>というのは西洋哲学で評価されるものであり、
<わかる>というのは東洋的悟性として評価されるものかもしれない。

そのどちらが良いというわけではないけれど、
前者は努力的・段階的な積み重ねによって至るものなので、
より客観的な説明(再現性)には長けていて、
後者は、当人の暮らしの中のきっかけに契機を得るので、
より当事者的な説明に長けるだろうか。

どちらに親しみを持つかは、受け手の「好み」の問題でしかないと思う。
叙事詩が好きか抒情詩が好きか、のような。
軽はずみに、<わかる>の方が<理解>よりも本質的だ、
なんてことは言いたくない気がする。

最近のニュースで、
プロ・アマの棋士の脳神経回路を分析したら、
「直感」も習慣という日頃の積み重ねによって起こるものだ
ということがわかったらしいし、
決して直感的な<わかる>も、急に降って湧いたものではないということだ。
(ただ、データ上ではプロ棋士内には差は見られなかったのに
 それでも羽生善治氏が圧倒的に将棋が強いのは何故なのか、
 それを示唆するような脳神経回路のデータは未だ採取できていない。)

私の第1外国語はスペイン語なので、
まず、スペイン語で<理解する>・<わかる>を考えてみた。

スペイン語の理解する(・わかる)は単純に言うと、
動詞entendercomprenderの2つがあります。
実際この2つのニュアンスを区別するのは難しくて、とても苦労した。
けれど、良い例文として、
「彼は言ってることは分かってるけどちゃんと理解していない」
とスペイン語で言う時、
「entiende pero no comprende(エンティエンデ ペロ ノー コンプレンデ)」
と言います。

entenderが上辺の理解で、comprenderが本質的な理解の感じ。

まずスペイン語という言語は、
用件が具体的なのか抽象的なのかまたは、
事実なのか少しでも推量を含むことなのかを、
極めて分けよう分けようとする言語なのです。
その他のロマンス言語でもこういったことが起きているかもしれませんが。

例えば、
「彼は来ると思います」はcreo que vieneですが
「彼は来るとは思わない」はno creo que vengaになります。
“確信していること・確実なこと”と“不確定・願望”では動詞の活用が異なってきます。
これは口語体でも変わりません。

なので多分、あらかじめ、
具体的なことだと予感しているものの理解にはentenderを使い、
抽象的なこと(・難解なこと)だと予感しているものの理解にはcomprenderを使っているんだと思います。
comprenderにはある種の心の「覚悟」があります。
どちらの動詞を使うかは、発言者が理解の対象を、
常識や知識だけで理解できると察したか、それらだけでは簡単にわからないものと察したか、
そのことによって分かれるということが言えそうです。

言葉になる前の、ヴァ―チャリティの理解力が選択させているんじゃないでしょうか。
ここがとても興味深いと思います。

ちなみに、
comprenderから発生した名詞comprensionは「思いやり・心の広さ」を意味し、
comprensorは「悟った人・至福を得た人」で、comprensivoは「思いやりのある・包括的な」
を表わすそうです。
comprenderは上で書いてきた<理解>よりも<わかる>に近いのかもしれません。

更に<わかる>は下記のようにも分けられます。

● ver 「(見て取り)わかる」
● enterarse de 「(気がついて)わかる」
● saber「(知識・技能として)わかる、知っている」
● conocer 「(体験として、または熟知して)わかる、知っている」


こうしてみるとヒトがいかに、
どのような経緯や由来で“理解”や“わかる”という現象が起きるのかを、
言葉で表現し差異化して来たのかがよくわかるし、
そのことはつまり、“理解”や“わかる”ということが、その結論・結果のみならず、
それに至った経緯自体がいかに重要かを語っていると思う。

先述の「アクチュアル」と「リアリティ」を考える時、必ず「人称」という問題が出てきます。
統合失調症は「人称」の病とも言えるかもしれないからです。
以前私が、渡辺哲夫氏の著書『<わたし>という危機』の読後感として、
統合失調症の患者は<われわれ>から切り離された、
<わたし>1人でこの世界に存在している孤独者なのだ
、と書いたように。

私は15歳でスペインに行ったので、スペイン語の影響力は強くて、
スペイン語の「1人称・2人称・3人称×単数/複数」によって動詞が活用するという経験が、
私に「人称」の問題を与えてくれたと思う。

偶然、ある人が「<わかる>にも人称がある」と書いているのを見つけました。
これを見つけた時はかなり衝撃でした。
それこそ、バラバラだったピースがつながった気がしました。

●1人称の<わかる>--- ものの良さ・食べ物の味の良さがわかる
●2人称の<わかる>--- 相手の悲しみ・痛み・喜びがわかる
●3人称の<わかる>--- 再現性としてのわかる

多分、「本当に理解することなんてできない」という感傷が成立するのは、
この2人称の<わかる>においてなんじゃないか。
理解できないということは、1人称の<わかる>でも3人称の<わかる>でも、
沢山のオプションの中の1つの事実に過ぎないかもしれないけれど、
2人称の<わかる>において、わからないということは極めて致命的な問題で、
誰とも置き換えが不可能な私とあなたの関係の破綻を意味しかねない。
この「本当に理解することなんてできない」が感傷たりえるには、2人称的な<わかる>においてであって、
それだけ1番困難な痛みを伴う<わかる>は、この2人称の<わかる>なのだろう。
精神科医として患者と3人称的に接することのプロフェッショナルはいても、
2人称の相手として患者と接することは容易ではない。

また、フランスの哲学者のジャンケレビッチという人が、「死」を3つの人称に区分しています。
●1人称の死は自分自身の死であり、生の中で自分がこれを語ることは出来ない。
●3人称の死は、抽象的で顔をもたない無名の死。別れの体験を持たない死。
          客観的な分析の対象。非人格的であり、非時間的である。
つまり、これら上の「死」は自分の経験の外の死であったのに対して、
●2人称の死は、近親者の死であり、そこでは私は死と差し向かいの状態になる。
          この特質は現在である。

多分、「私」にとって本当に肉薄したアクチュアルな「死」とは2人称の死であって、
戦争や治療行為が可能なのは、死を3人称として処理するからだ。

娘(4歳)を見ていると、
悲しい話や恐ろしい話に対して怯え、テレビを観ていても「見たくない!」と
私の後ろに逃げ込んで、チャンネルを換えるように懇願してくる。
話の中で誰かが死ぬと、すぐに号泣してしまう。
娘は「死」を理解してはいないのかもしれないけれど、
別れの体験であるということは知っている。
幼子のすごさとは、多くの体験を2人称として、
つまり固定されない動的なものとして経験しているところだ。
経験の濃さがまるで違うと思う。

郡司ペギオ幸夫という方がこう言っているそうだ、

世界は静的な幾何学として用意されていて、
 3人称的描像から1人称的描像へ、幾何学的変換として転倒が可能になってくる。
 対して、2人称ってどういう概念か。
 それは、齟齬のあるわたしと他者の間の、動的な交渉を通してはじめて出現するもんだよね。
 だから、転倒が可能な世界像、もっと言うと、
 通約不可能な1人称(主観)と3人称(客観)が対立軸を成す世界像において、
 原理的に2人称は排除されちゃう。

小説でも、語り部の人称は1人称と3人称が一般的であって、
2人称というのは基本的に存在しない。
多分、世界を描くのは1人称と3人称であった方が楽なのだ。

特に近年の戦争は、国民総出の消耗戦から、システムの麻痺戦に変っている。
システム対システムの戦いでは国民が必要ないように、
軍需産業に支えられている社会では痛みの共感(2人称の<わかる>)は積極的に教えなくともよい。

「あなたの気持ちわかるよ」と言っても、本当に同じことが私の中で追体験できている訳でもない。
そしてそのことは相手も知っている。
まして相手の存在が具体的であるからこそ、
自分との違いがより明確で齟齬が前提とも言えるこの2人称の関係性の中で、
「わかる」ということは両者の同意のもとに共同で導かれるものでしかない。
その同意はどちらか片方の人間のものではなく、どちらかにだけ属するものでもない。
同意は両者の関係性の中だけに存在する。

なお、ここにおいては誤解や曲解も必ずしもリセットすべき間違いでもないのだ。
2人称の理解とは、comprenderなのだから。
端から形式ではないもの・抽象的なもの・難解なものとして覚悟している理解。

この不可思議なもの、
人の組み合わせが違えば、また新たに構築し直さなければならない一回性のような理解、
これもまた確かに、理解なのだ。

個性こそが金を生むと信じ込まされて肥大化する1人称の理解や、
教育によって強化される3人称の理解に比べると、ひどく脆弱で揺らいではいるが、
通約可能でかつ再現性のない2人称の理解というものが、確かにこの世に存在している
ように私には思える。



<スペイン語補足>
●【entender】意味 理解する・分かる・了解する
語源はラテン語のintendere(注意を向ける) 
in(の方へ)+ tendere → atender(注意を払う・世話する)tender(傾向がある)
仏語でentendre聞く 英語でintend意図する


●【comprender】意味 理解する・分かる・包含する
語源はラテン語のcomprhendere
com(一緒に)prender(捕える・固定する・根付く・接ぎ木が付く・伝播する)

当事者研究

『当事者研究』とは、
北海道・浦河町の“精神障害等をかかえた当事者の地域活動拠点”である、
『べてるの家』(※リンク)がやっている、
“自分で自分自身のことを研究し、それを発表する”作業です。
私はこの当事者研究という発想が、とても気に入っています。
全ての人ができて、当人にしかできない研究だからです。

お気に入りの番組であるNHKの『100歳バンザイ』を観ていると、
いつも思うのですが、
そこに出演される100歳を超えて元気な方は、
みんな自分なりの生活の法則なり、食事法・運動法を持っていらっしゃる気がします。
まぁ番組で取り上げる100歳を超えて元気な方なんて、全体の数パーセントなんでしょうし、
そこで見えるものを全体の総括とするのは拙速だし誤解に過ぎないのですが。
(少なくともそういう方々が、そのNHKの番組に取り上げられやすい、ということは言えそうです)

でも、そこで見る限り、
世間が言う一般的な健康法やら運動なんていうのは、わりとお構いなしで、
おのおのが“自分なり”の健康法を編み出して思い思いに実践されているのが、
どうやら私には、彼らの“元気で長生き”の秘訣に思われるのでした。
世間に振り回され過ぎない、というのも長寿の秘訣かも。

それら、ご長寿の面々が自分なりに見つけられた毎日の健康法・習慣というのは、
まさに"当事者研究”そのものだ、と思うのです。
そういう意味でとても興味深い。

最近、私は足の外反母趾と内反小趾を改善しようと思いたちました。
きっかけは、足の小指の爪が反り返って生えてくる不快感と、
パート労働中の足の冷えでした。



   ※これより先の文章には、商品情報や営利目的のサイトのリンクがあります。
 あくまで私個人の感想・当事者研究であって、他人に推奨するものではありません。
 くれぐれも鵜呑みにされませんように。
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私の足の小指は内反小趾の影響からか、常に下に曲がった状態でして、
床と垂直方向に対する踏ん張りの力が働いていません。
そのまま小指の爪が伸びると床方向で頭打ちになるからか、反り返って生えてきたんです。
下のイラストの上部です。
このまま肉に埋まっていったり、巻き爪になると手術が必要になったりします。
BlogPaint







私は食品スーパーの鮮魚売り場に半日勤めているのですが、
物流の搬入口から外の風が直撃する厨房は、恐ろしく寒く、
この年末年始は足の震えが止まらないのが常態という日々でした。
もちろん、会社指定の安い長靴で、余計に冷えます。
大きめの長靴に靴下を幾重にも履いて、足用カイロを貼ってもダメでした。
その冷えが腰や背中の痛みにつながって、しんどかった。

それ以外にも、
しもやけ・かかとのガサガサ・産後から足がつる・下顎を全開するとギシギシ鳴る
足の冷えやむくみ・肩こり・猫背 
などなど
今の私が自覚できる症状の全てに、
足病医学(ポダイアトリー)のサイトをいくつか見ていると、
どうも私の足の外反母趾と内反小趾が関係しているように思えました。
いわゆるヒトにとっての基礎である足が歪むことによって、
腰や肩・首がバランスを取ろうとして歪み、“代償”が起きているというわけです。

詳しく知らないのですが、『正しい歯の噛み合わせで体の歪みが治る』というような考え方があるそうです。
ヒトの身体の1番底の関節が“距骨下関節(きょこつかかんせつ--下で説明)”だとしたら、
ヒトの身体の1番上の関節が“顎関節”なので、なんとなく合点がいきます。

今まで、まず5本指の“絹or綿”の靴下を履いて、その上に靴下を幾重にも重ね履きし、
ズボン下+レッグウォーマーを装着するという、
いわゆる『冷えとり健康法』はやってきました。
これで随分むくみがとれました。
ただ私の場合、リンパの流れが悪いので、少しでも履き口のきつい靴下はNG
どんなに良い5本指ソックスでも、履き古したゴムゆるゆるのものでないと、
かえって血行不良になります。買ってすぐ履ける5本指の靴下に出会ったことがない。
だから、これを使えば絶対!なんてアイテムはないと思う。身体はひとそれぞれなので。
どこまで行っても当事者研究が必要、そんな気がします。
自分なりのアレンジが必要で、活かすも活かさないも自分にかかっている、と。

そんなこんなで、心機一転、とりあえず購入したのが、
ソルボ社のパッドのはいったサポーターです↓。
sorbo_sorbo torisetsu











“美しくスリムな足”は、もはやどうでもいいけど。

●(左下)サポーター購入以前の私の足です。特に内反小趾(足の小指部分)と「指上げ足(浮き指)」が顕著です。
●(右下)サポーター装着時の足の状態。黒いズボン下は通販生活の“発熱スパッツ(化繊です)”。
gaihanboshisorbo
それに対して、裸足で生活するヒトの足はこんなだそうです↓。
足の指がしっかり地を踏ん張れています。
hadashi






笠原整骨医院・笠原巌氏のサイトから 
購入したサポーターは笠原氏監修のものなので、無断転載いいかしら)

指上げ足(浮き指)というのは、足先の狭いパンプスやヒールのある靴の着用だけが原因ではなく、
まず足裏の刺激が少ない上に、大き過ぎる靴を履いて、
足が前方の方に滑ってしまうことによっても起きるそうです。
実際、子供の指上げ足が増えているそうです。
私は上の両方、該当した時期があったと思う。
私の足の指は踏ん張れないので、歩行時にまるで利いてないんです。
いくら動いても足先の血行は良くならないのです。
と、いうことにやっと自分で気付きました。

ただ、裸足で生活する民族にも外反母趾になる人はいるそうです。
筋肉の衰えや合っていない靴のサイズだけが、外反母趾の理由ではないようです。
詳しくはこちらの記事

市販のレディメイド品のサポーターで強制的に”、
というのでは根本的な治療には至らないことは見えていますが、
春から直也君とカイロプラクティックに通おうと思うので、
それまでの多少のナグサミにはなろうかと期待しているところです。

履いて仕事に行ってみると、足が冷えませんでした。
今までにはなかった、小指が地を踏ん張っている感触が常にあって、
3点歩行には、なっている気がします。
(3点歩行の認識は2通りあるようです。
 指・中足・かかとで3点 or 足の親指・小指・かかとを結んだ三角アーチ)

小指がずっと刺激されるので、小指のしもやけは1両日で治りました。
勿論、コパイバオイルも塗布し併用しているので、サポーターだけの効用ではないとは思います。
また、サポーターの中足部分にソルボのパッドが入っていることもあって、
かかとへの衝撃も激減。
少しかかとが柔らかくなった気もする。

少し調べてみると、外反母趾などの足の変形の主な原因は、
「距骨下関節(きょこつかかんせつ)の過回内(かかいない)」だとか。
私は、体の関節や筋肉の部位名をまるで知らないので、
読んでも読んでも全く頭に入らず、誤解しているところ大ですが要約すると、

<距骨下関節(きょこつかかんせつ)ロック・アンロック理論>******************************

(距骨下関節 --- 距骨と踵骨(しょうこつ)の間にある関節のこと
         かかとの関節と思っていいです)

人間の歩行 接地期加速期によって成立
      接地期 --- 着地する時、衝撃吸収の時
      加速期 --- 蹴り出す時、エネルギー伝達の時

良い歩行  上の2つの時期が途切れることなくスムースにつながることを言う

●接地期において 体重がかかると距骨下関節は内側に傾く(“回内”)
        これによって地面からの衝撃を吸収することが可能となる     
        
●加速期において 足は固いテコの状態になり、距骨下関節は外側に傾く(“回外”)

距骨下関節と接している横足根関節(おうそっこんかんせつ)が、
接地期に締まり(アンロック)、加速期には緩むことで(ロック)、歩行の2つの時期の切り替えを行っている

外反母趾や偏平足などの変形は、上の内側に傾く動きが大きすぎ(過回内で)、回外ができなくなることで起きる
変形が起きると上のロック・アンロックの切り替えがうまく出来なくなる。

足の問題は、接地期と加速期のどちらでどのような不具合が起きているか、を知ることで分析できる(らしい)。
***************************************************************

シュー・フィッターさんに言わせると、
自分に合った靴は、眼鏡と同じで、自分だけでは選べないそうです。
そして、余裕があって痛くない靴よりも、“我慢できる”窮屈さの靴の方がマシなんだそうです。
履いて足が痛いか痛くないかだけで、靴を決めてはいけないと。
間違ってた...。
いずれ、シュー・フィッターさんのいる店で靴を選んでみたいものです。

記述のサポーターと、マッサージと足指のグーパー運動をやって、
また経過を載せようと思います。

もう一つの戦争

※だいぶ書き直しました

給食の記事の続きは実はまだ何も書いていません。アップは先になりそうです。


アベル・カレバーロ本人の演奏による「アメリカン・プレリュード№1~エヴォカスィオン~」
“エヴォカスィオン”という語には死者の霊を呼び起こす、喚起、回想などの意味があります。



先日、ヴェネスエラとコロンビアの国交断絶のニュースが飛び込んできました。
私には、ヴェネスエラ人と日本人のハーフで、両方の国籍を持っている友達がいます。
彼は今、アメリカ合衆国のマイアミに奥さんと住んでいます。
I君といって、彼と私は彼が12歳の頃からの知り合いです。
12歳の時、単身でヴェネスエラから日本のおじいちゃんのところにやってきたのです。
多分、ちょうど私がスペイン語を話せるからといって、
私たちは引き合わされたのですが、彼の日本語の上達の方が早かったので、
スペイン語云々なんて、はっきり言って私たちの関係には何の影響もなかったと思う。
ただ、当時のI君は、恐らく南米の子供たちの多くがそうであるように、
スペイン諸国からラテンアメリカを独立させ、
ラテンアメリカの統一を志したヴェネスエラ出身のシモン・ボリバルを心から尊敬し、
ヨーロッパの、とりわけスペインの数々の悪行について熱く語る少年だったので、
私はいつも彼から、
「渡部さん(私の旧姓)はどうしてスペインになんか行ったのさ!?」と、ことあるごとに問われ続けました。
何故スペインを選んだのか、私には確固たる理由はなかったけれど、
彼には私を責めるだけの確固たる理由があった。

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(つづきはここから)

ビザの代理申請を扱う旅行会社で働いていた時は、
仕事がら、赤い「ビザ本」という、
渡航者の国籍別の入国条件がまとめられた本にしょっちゅう目を通すことになります。
それを読んでいるうちに、海外渡航における不平等がいかに国家間であるかよく分かります。
私たち日本国籍の人間は観光目的なら大抵、ビザなしでどこにでも行ける。
思い立ったらその日にでも飛んでいけます。
けれども大抵の国の人たちにそんな自由はないのです。
今や欧米諸国や大国には、多くの人たちが資金さえあれば簡単に留学・遊学できるので、
その渡航先を選んだ理由は非常に曖昧で希薄なものになりがちです。
国境は捏造されたものなので、その意味でいけば、
自由に往来する、そのこと自体は本来何も悪いことではないし、やましさを感じることはおかしいことだ。
そういう自負と気概が、ともすると、
自分が、外資をバックにその国に入国しているんだという感覚を麻痺させてしまいます。
そして出入国管理における法は、年々改訂されているものの、
その不均衡さは前時代的で、かつての植民地時代の名残を今にも留めていると思う。

だから、自由往来可能な現代の西側諸国人は、
「何故その国を選んだの?」と、その国がかつて植民地にしていた国の人々から
積極的に質問されたらいいのです。
そこで何が語れるでしょうか。
私には、海外に行くことの醍醐味はこれに尽きる気がする。
一個人が過去や歴史を背負いきることなんて出来るわけもないし、する必要もありませんが、
ただ、そういう問いは確実にあるということ。
そして、その問いを持った人が目の前にいるのだ、ということ。
I君が教えてくれたのはそういうことでした。

これはもしかすると、レヴィナスが言った“顔”にあたるのかもしれないとも思った。
“顔”、それは、
「内容となることを拒むことで現前する。
この意味において、顔は了解し内包することのできないものである」
というような、私に切迫してくる何ものか、けれどもその内容は開示されないもの。
例えば壁にある鍵のかかったドアのようなもの。何が鍵なのかは判明していない。
ドアの先にあるものをドアは語ってはくれないが、
別の空間がそこにあるという暗示を私に与えてくれる。
ドアとは開閉するものと、認知する私がいる限り。

それからは、
「せっかくスペイン語ができるんだったら、役に立てればいいのに」と他人から言われようにも、
もうスペインとはチャラチャラした気持ちではつきあっていられない気がした。
小説が好きな私ではありますが、最終的に翻訳家を目指すにしたって、
今のところ私くらいのスペイン語能力では、
お気に入りのスペインの作家といっても1人くらいしか見つけられない。
日本の小説家だって限られた人しか好きにならないのだもの。
大体、スペイン語で優れた小説を書く作家は中南米の方がはるかに多いだろうし。
あるウルグアイの小説家が大好きになってからは、
もう1度スペイン語圏に行くのだったら絶対ウルグアイだと心に決めたりして、
脱スペインの気持ちは日に日に膨らむ一方だった。
これもI君の影響。

あと、ある南米のサルサ歌手が、
「我々もアメリカ人だ。USAだけがアメリカじゃない」と言ったのを知ってから、
USAのことを単に“アメリカ”と表記することは一切止めた。
これもきっと、I君がいたから。

けれども最近、ひさしぶりにメールのやり取りをしたら、
彼は今、ブートキャンプ(米軍の新兵訓練)に入るための貯金をしていて、
最終的には米海兵隊の航空メカニックを目指しているという。
「兵士としての人生をいく」という文章を読んだ時、本当に信じられなかった。
あれだけまっすぐな子供の目で卑怯さや不正を告発していた彼が、米軍に入るという。
クリスマスで日本に遊びに来た17歳の彼に会った時、
私がチャベス大統領のことを軽はずみに褒めたら、
強い調子で反論してきたことを思い出す。
I君は向こうでは富裕層だし、富裕層を狙った誘拐事件が多発しているヴェネスエラでは、
未成年の彼はとても不自由を感じて暮らしていた。
日本にいるとき彼は
「日本はいいね。自由に外出できるし、安全。
おまけにすぐに食べられるものがどこにでも売っていて安いし、すごい。」と言っていた。
ヴェネスエラの貧困を垣間見る気がした。
だから本当は、彼は日本で暮らしたがっていた。
彼の日本の祖父が彼を、経営の後継者にしたがってはいたけれど、
結局は日本人の風貌じゃないから、また、彼の奥さんがヴェネスエラ人ではなおさら駄目、
というくだらない、本当にくだらない人種差別によって、彼の日本永住の夢は砕かれた。

彼はヴェネスエラでは獣医の免許を取得していて、
動物好きの彼は昔から獣医になりたがっていた。
家庭用のペットや小動物には興味がもてず、大型の家畜の診療を切に望んでいた彼だったけれど、
チャベス大統領によって多くの土地が接収された牧畜業の社会主義化の実態に幻滅して、
その夢をあきらめてしまった。
あと、ヴェネスエラでは確実に人を診る医師と獣医では、前者の方がエリートで歴然とした差があるらしい。
成績の問題で彼は医師にはなれなかったのかもしれない。
彼の弟は医師の道を歩んでいて、その兄弟間の劣等感もあるのかもしれないと思う。

彼は、約1年半の日本滞在後の小学校の夏休み明けに、
戻ってくるはずの日本に戻ってこなかった。
彼の母いわく「日本に行ってから言うことを聞かなくなった。悪い子になって帰ってきた」そうだ。
それは親からの自立で成長だったのだけど、概してそれを親は認めたくないのだろう。
それで母親は息子を手放したくなくなったというわけだった。
12歳で国家の違いによる人の暮らしの違いをまざまざ見てしまった彼なのだ。
批判精神がそこで培われたのは想像に易しい。
そして彼が日本に来た理由は、自分の親と日本の祖父母を結びつけるためだった。
何が彼を日本に単身渡らせたのか。それは親と祖父母間の関係の至らなさのはずでしょう。
そんな親が自分のことを棚に上げて、結果「言うことをきかなくなった」と言う。
ひどいもんです。
I君の日本の同級生にR君というガキ大将的存在の友人がいて、
頭髪が生えない病気があったので(今は完治)常に帽子をかぶっていた。
R君の見た目は不良だったけれど、本当に心優しい男の子だった。
けれどI君の母はI君とR君が付き合うことを禁じた。
「どうして?お母さんは人を外見でしか見ていないよ!」とI君は何度も母親を説得したけれど、
母親は考えを変えなかった。
I君の、元々父親にはすでに抱いていたけれど、母親に対する失望と不信もここに始まり、
結局その溝は埋まらなかったように思う。
これは彼のヴェネスエラに対する失望と不信に重なっている気がする。
彼の両親は結局離婚し、彼の弟は母親と暮らしているそうだ。
ヴェネスエラには彼の居場所がないのかもしれない。

祖国の喪失と脱ヨーロッパと反チャベス。
彼が行く先はもはや合衆国しかなかったのかもしれない。
そういう若者が合衆国には、米軍には沢山集まってくるのだろうと思う。
田中宇さんが下のように書いている。
アメリカはここ数年、極端なチャベス敵視策を展開し、その結果、チャベスを中南米の英雄に仕立ててしまったが、これはもしかするとアメリカの「失策」の結果ではなく、世界を多極化させるために故意にやったことなのかもしれない。アメリカがイラクをわざと泥沼化したり、ウズベキスタンの大統領をわざと怒らせてロシア寄りにさせてしまったりしたのと同じ「故意の失敗」だったのではないかと感じられる。

ヴェネスエラは、中南米は、内部から崩れている。
富裕層と貧困層が引き裂かれ、対立することで消耗させられている。
しかし、この富裕層はもともとヨーロッパからの移民なのだ。
信州大学に留学してきていたアルゼンチン人の友人は、イタリアとの二重国籍だったし、
イギリスの70年代のお笑い集団“モンティ・パイソン”フリークの人の話では、
ヴェネスエラの鉱山の町ではビジネスでパイソンネタが使えるそうだ。
イギリスのケンブリッジ大学で生まれたブラックユーモアの感覚が、
ベネスエラの地方で通用するということだ。
ラテンアメリカは非常に多国籍で、ヨーロッパ系住民が多いとI君も言っていた。

チャベス大統領はIMFと世界銀行から決別し、米州自由貿易圏(FTAA)構想を蹴散らし、
遺伝子組み換え農産物を否定しキューバにならって有機農業を推進している。
すごい決意と表明。
しかし何を言っても、チャベスのことは陰謀論に振り回された暴君としか、
富裕層や西側諸国には理解されないだろう。
私たちがもうすでに、チャベスが闘っている相手をしっかり受け入れてしまっているからなのだ。
以前も引用した河合隼雄氏の
「灯りを持っていない人に灯りを渡して明るくするのは簡単なのです。
厄介なのは、すでに灯りを持っている人です。灯りを取りかえるのは難しい。
もうすでにその人は充分明るいつもりなのですから」
を思い出す。

私は陰謀論は好きじゃない。
オカルトやミステリーのノリで首を突っ込むのは何もしていないよりも悪い時があると思う。
本当のことも私にはわからない。
ただ想像できるのは、チャベスにとっては、私達が陰謀論とみなすものも決して絵空事ではなく、
実感をともなった“現実そのもの”なのだろうということ。
そして間違いなく、I君が米軍に入って悲しむ国家元首はチャベスしかいないと思う。
もう1つのI君の祖国、日本の国家元首はきっと何も感じないことでしょう。

どうかI君、兵士として死なないでください。
そして自らの怨恨ではなく、国家によって植え付けられた架空の怨恨によって、
誰かを殺したりしないでください。
本当に闘う相手は無数にあって、しかもそれらは銃弾や兵器ではどうしようもできないものばかりです。
親と向き合うことや差別と向き合うことの方が、戦争で人を殺すことよりも難しい。

ペット

給食のことは時間がかかりそうなので、また後日になります。

昨今ペットとして、ポピュラーな犬猫以外の珍しい?動物を飼うのが
流行っているのは知っていたけれど、
先日テレビでそれらのぺットを“エキゾチックアニマル”と呼ぶことを初めて知った。

そして、そのエキゾチックアニマルを診る体制がほとんどの動物病院で整っていない、
という現状のことも。
そのテレビ番組では、
世界のエキゾチックアニマル獣医界でも知られている若い日本人獣医が特集されていたのだけど、
その方が言うには「日本の動物病院はほとんど犬猫牛馬に対する知識くらいしかない」そうだ。
そして、
「飼い主は病院に来たら安心してしまうし、
だからこちらも何とかしなくちゃいけないから、プレッシャーですね」
と言っておられた。
そしてその獣医さんによる亀(何という種類の亀か忘れました)の結石手術の様子も放送されたのですが、
(この手術法は彼によって生み出されたもので、
その手法はネットなどによって国内外のエキゾチックアニマル獣医によって共有されているようでした)
しばしば家庭での飼育では、水分が不足したんぱく質が過多になる傾向があるようで、
亀の結石は増えているそうです。
約15㎝の個体から直径1㎝はあろうかという結石が2つも取りだされたのには驚きました。

飼い主自身はその亀を可愛がっているのだろうし、
日本でも数少ないエキゾチックアニマルを診る獣医の元を訪ねているのだから、
良心的な飼い主であると思う。
でも、可愛がってるつもりで、
あれだけの結石を2つためてしまうような生活をペットに強いているとは皮肉でしかないと思う。
結局、売買だけが繰り返されているものの、正しい情報は共有されていなのだ。
多くの動物病院では知識がないために誤った診断と治療法が繰り返されているようだし、
そうやって動物病院で病因がうやむやにされたのでは、
飼い主の方へも、いつまでたっても病気予防の為のノウハウや知識は浸透していかない。
あるサイトでは、
実際多くは、生き物が病気になってから初めて、その病気について調べたり、多くの動物病院ではエキゾチックアニマルを受け入れる体制が整えられていないことを知ることになる。病気になって時間的余裕がなくなってしまっているので、時間も知識もないままに、すぐに受け入れてくれるようなところに行かざるを得ない。
というのが実態のようです。
正しい飼い方を知らないで、
しかもどこに、自分のペットを診てくれる病院があるのかを知らないで
動物を飼うのは非常に残酷だと思う。
私は今はペットを飼わない考え方なので、ペットショップ自体に行かないのでわからないのですが、
エキゾチックアニマルをペットショップが販売する時、
購入者の居住区から最短のエキゾチックアニマル専門動物病院の所在を案内しないのでしょうか。
それをペットショップが行うことで、診療先の情報が偏ったり、
紹介料などが発生したりというトラブルでも起きるんだろうか...。
所轄が厚労省なのか通産省なのか知らないけれど、
エキゾチックアニマル販売業者に、
動物販売時は必ず専門医情報を購入者に案内するよう義務付ける必要があると思う。


それから、娘の予防接種のことで調べていた時に知ったのだけど、
やっぱりペットにも人と同様にワクチンの副作用問題は当然あって、
しかし驚くなかれ、何のワクチンだったか失念しましたが、
ペットのワクチンの副作用データは、ここ10年くらいになってやっと取られるようになったようです。
つまりはそれまで、一定量以上の飼い主が副作用のデータを強く要求してこなかった証しでしょう。
今でこそ、娘の予防接種でなんだかんだと騒いでおりますが、
私とて、18歳位までウチで飼っていた犬の予防接種時に、副作用を心配したことなど
1度もありませんでしたし、
ワクチン接種前に副作用について調べたことなどありませんでした。
ネットで検索すると、ワクチン被害のペットを飼われている飼い主さんのサイトも沢山ありますし、
上記に紹介したような熱心な獣医さんの文章にも出会うことが出来ます。
状況も情報も豊富とは言えないまでも、一通りそろってる。
あとは本当に飼い主次第。

私は犬が好きなので、黒柴飼いたいなーなんて思っていたこともあります。
でも娘が生まれてから、娘の予防接種も未だこのような状況なのに、
加えてペットの予防接種まで決断するほどの力量が自分にあるとは思えません。
だからペットを飼う資格はないのです。
少なくとも狂犬病の感染時の死亡率は100%だそうで、
中学生の頃、友人の飼い犬にお尻をかまれましたが
何の心配もなく治療しないで済んだのはワクチンのおかげですし、
公衆衛生の感覚も人と動物とで同じものを持つわけにもいかないので、
感染症予防の為にペットがワクチン接種することをはっきりと否定する力は、私にはない。

アニマルセラピーが体系化され、盲導犬や老年夫婦にとってのペットの存在などを考えると、
いきなり人から動物との生活を奪う気持ちにはなれない。
(ただ「ペットは飼われて幸せなのだ」とは思えない。
この筋で行くと、「養豚所の豚は食べられるのが幸せなんだ」というのと同じ次元になってしまうし。
幸せかは本人にしかわからないor本人さえわからない、そういう部類のものだと思う)

ただ、人がいかに動物を都合よく使っているのか、そしてまた、
いかに彼らが人にはないたくさんの力を有しているのかを決して忘れてはならない。
真実、ペットを飼っている全ての人が心の底から
「ペットは家族 家畜ではない」と思っているのであれば、
動物のワクチン問題は、人のワクチン問題とは比較にならないくらい、
もっともっと倫理的にも医学的にも難しい問題なはず
ではないでしょうか。

今の私には恐らく、ペットは家畜にしか見えていないと思う。
直也君の実家の柴犬は、今に始まったことではないのですが、
餌とおやつのあげすぎで肥満状態で、最近病気になり獣医から怒られたそうです。
皮膚病にもなり、毛が抜け落ちました。
もしこれが私の甥っ子・姪っ子だったら、私は病気になるまで看過したりはしないでしょう。
確実に私が「ペットは家族」なんて思っていない証拠です。
もしそれを言ったら偽善になる。

狂犬病のワクチンも、感染症のワクチンも毎年ではなく、3年に1度くらいにするのはどうだろう、
と書かれている獣医さんもおられます。
(リンク先→ 狂犬病 ・ 感染症
ただ、それを後押しする確たるデータがないのが現状です。
なので、ペットを飼っている方は安易に飛びつかず、冷静に学んでから決断されてください。


調べれば調べるほど、己が情けなくなることばかり。

パーソナルスペース

※本文内の●~●部分は追記したところです(13時45分)

前回の記事で直したいところというのは、諺の件(くだり)でした。
本文をいじってもいいのですが、読み返す手間が面倒だと思われるので、こちらに書きます。

書き方がわかりにくかった気がするのですが、要は、
「人の褌で相撲を取る」という諺が今日、絶妙な例えとして口語で使用できるということは、
人の褌で相撲を取っていることを、見抜いてきた人がいた事を意味している。
そして、諺はそこに一般的な支持がなければ、“絶妙な例え”でもないし、共感もされない。
共感されない諺なんて死語になっていくだけです。だけど、この諺は今も大衆的に“的を得た”価値を持っています。
だから「人の褌で相撲を取る」ということを見抜く力は、特殊な能力でもなんでもなく、
大衆が普通に持ってきた力だってことを意味しているんじゃないかってことなのでした。

あとガンジーのことば、
「Happiness is when what you think, what you say, and what you do are in harmony.
幸せとは、 あなたが考えることと、 あなたが言うことと、 あなたがすることの調和が取れている状態です。」
を付け加えておきます。
説教くさいかな。

‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐

ここから新しい記事です。

今や、ベストセラー作家と呼んだ方がいいんじゃないかと思われる、人気分子生物学者の方の本に、
こんなようなことが書かれていました。
浜辺を歩いている時、貝殻を見つけた。触らずとも、すぐにそれが中身のないただの貝殻だということは分かった。人はどうして生きているものと死んでいるものを見分けられるのだろうか。生物と無生物のあいだには何があるんだろうか。
その本には、この答えが書いてあったのかどうかはよく覚えていないのだけど、
“動物的な嗅覚”なんて表現があるように、こういう理屈ではなく明文化できないような、
察知する能力というのがヒトにも備わっていると思います。
そしてこういう能力は、知覚にも必ず影響を与えているに違いない、と思うのです。
‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐

例えば、精神病に関する専門知識がないのに、
精神病患者を、それと見分けられるのは何故でしょうか。
視線が泳ぐとか、1人でブツブツ言ってるとか、赤色に異常に反応するとか、
あとこれは幻聴のせいなのですが、急に笑い出すとか、
とにかく「挙動不審に見えるから」というのが主な理由ではないでしょうか。
そして、何も悪いことをされてもいないのに、精神病者に対して偏見を持ってしまうのは何故でしょうか。

喫茶店で働いていた時に、常連さんに統合失調症の方がいました。
いつもは物静かな方なのですが、その日は、躁の波が来ていたのか、
とても機嫌がよく、ハイテンションでわりと大きい声で独り言を話されていました。
一緒に働いていた女の子たちは怯えて、嫌がっていました。
その彼女たちの態度が無性に腹が立ったので、
「別に怒ったりしてる訳じゃなくてご機嫌なんだからいいじゃん。
機嫌がいいんだから危害を加えられるわけじゃないでしょ!」
と言いました。だけど、彼女たちは怖がっていました。
(彼女たちの感情は畏怖でもあったんだろうと、今は思います。
 畏怖というのはヒトが、自由で天真爛漫な神・ディオニュソス的なものに対して抱く感情だろうと思います。)

彼女たちの怖さの質とは何かというと、それは「脅威」だと思います。
自分の領域(パーソナルスペース)が侵されかねない、侵されているという脅威です。
人は無意識のうちに他人との間に距離をとって、快適な空間を保とうとし、
この個人的な空間のことを「パーソナル・スペース」と言うのだそうです。
パーソナルスペースとは心理的な私的空間で「持ち運び可能な縄張り」とも言えるそうです。
恐らく精神病の人との人間関係の困難さと、彼らが受ける社会的な偏見の原因は、
このパーソナルスペースを互いに上手く取れないことにあると思います。
直接危害を加えられたわけでもないのに、相手に恐怖を感じ、退けようとするのは、
ヒトに、物理的な侵犯だけでなく、心理的な侵犯ということがあるんだ、ということだと思います。
これはハラスメント問題の浸透で、近年とみに見直されている感覚だと思います。
いくつか一般的なパーソナルスペースの例を挙げてみます。
※但し、私がパーソナルスペースについて読んだ本は1、2冊で、15年近く前になります。
 反証されていることや、古いデータであることも含まれるかもしれません。
 きちんと知りたい方は、ご自分でも調べてみてください。
 エドワード・ホールという人は「かくれた次元」という本を出しています。

<パーソナルスペース(とそれに関連するもの)>

パーソナルスペースは4つのゾーンに分かれる
・親密な関係 45cm以内     家族・恋人などとの身体的接触が容易にできる距離
・個人的関係 45~120cm   友人などと個人的な会話を交わすときの距離
・社交的関係 120~360cm  職場の同僚と一緒に仕事をするときなどの距離
・公共的関係 360cm以上    公的な人物と公式的な場で対面するときの距離
そしてその4つのゾーンをさらに「近接相」「遠方相」の2つに分類するそうです(→wiki)

・地位が高いと空間も距離も大きくなる。
・内的統制が取れている人はパーソナルスペースは小さく、外的統制タイプはパーソナルスペースは大きい。
・崇高さや威圧的なものを感じる相手は身長が高く見える。
・正面から他人が来た場合、どちらかに避けるべきかを見極めるために、2.4mまで相手を注視し続ける。
・吊り橋を渡るなどの緊張する体験の直後に出会った人に対しては好意を持つ傾向がある。
・逃走距離は動物が大きくなればなるほど大。
・目撃者が多いほど、援助行動は起こりにくくなる。
・特定の対象を繰り返し経験するだけでその対象に対する高感度、愛着、選好性が増大する。
・狭い空間に閉じ込められる囚人は、高血圧、心臓疾患、心身症になる確率が高くなる。
などなど...


これらはヒトが動物として先天的に持っているものだけでなく、
文化的に後天的に有した感覚のものも多分に占めるでしょうから、個人差があります。
社会や国や民族によっても違ってくるものだそうです。
だけれど、こうしたパーソナルスペースなどに代表される、縄張り意識であるとか、
無意識レベルの生理的な感覚というのは、
ヒトの考えや発想に密接に関係してくるんじゃないかと思うのです。
いかに言語(意識)上の形而上的な考えや、思弁の世界であっても、です。
抽象的な形容ではありますが、“健康的な考え方”とか“バランスのとれた考え方”とかいうのがあって、
なるべくそういう考え方を持ちたいと願うものですが、
その考え方の“健康”や“バランス”には、生体的に持っている縄張り感覚のバランス感覚は関係してくるんじゃないか、
と思うのです。
●自己評価が高すぎる人や低すぎる人は、他人との距離感にバランスを欠く傾向があるように、
落ち着いてバランスのいい考え方をする人は、パーソナルスペースの感覚もバランスがいいのではないかと思います。●
動物的な健康は、人間的(=知的 嫌な言い方ですが)な健康の前提でもあるというか。
ポランニとかいう人がこう言っています。
「全ての発見や創造は自覚できず、明文化出来ない暗黙の知なしにはあり得ない」

上で書いたように、私は精神障害者の方との問題はパーソナルスペースの問題ではないかと思っています。
以前「<わたし>という危機」というシリーズで記事に書いてきた内容とも関係するし、
精神病理学者の木村敏氏の「わたしとは<あいだ>のことである」でもあるのだけれど、
例えば「自分は他人から監視されている」という強迫観念を抱いている精神病の人は、
自分にだけそういうことが起きていると確信します。自分だけがおかしい。
他人に同様なことが起きているとは想像出来ない傾向があると思います。
つまり<わたし>の意識はあるけど<わたしたち>という意識が持てない。
しかし、<わたしたち>の意識を持てないと<わたし>は破たんしてしまうのです。
(<わたし>を日本人という集団に帰属させて考える場合、日本人以外の人を考慮に入れられないという事態が起きます)
<わたしたち>から切り離されてしまった孤独な存在が精神病者であると、私は感じています。

私の意識はほぼ日本語で出来ていますが、日本語は私だけの言語ではありません。
私たちの言語です。
人は1人1人違うはずだし、全く同じわけなんてないのに、
どうして私たちはある種の安心感を持って、「私たち」ということばを使うことができるんでしょうか。
これは私なりの考え方ですが、
「私たち」は私もあなたも溶け合っている無意識の領域の「人称」だからではないか、と思ったりするのです。
無意識の世界はお互いに共通の領域というか。心の無自覚部分は外部の環境と一層密接なんだそうです。

生理的興奮そのものは様々な情動経験の間でよく似ており、どの情動経験に至るかは未定で、
むしろそこから先の一種の自己知覚・自己認知・自己帰属の過程に負うところが大なんだそうです。
私とあなたが違うように思えるのは、
自己知覚~自己帰属という当人の個人的経験が反映された「結論」の部分が違って見えるだけのことなのかもしれません。
その結論の部分を、私たちは<わたし>や<あなた>と呼んでいるだけなのではないかしら。
<わたし>は<わたしたち>なしにはあり得ません。
私とは、<わたし>と<わたしたち>のあいだなのです。
だから私には、<わたし>と<わたしたち>の両方の問題が同じ生の中で起こりうるわけです。

パーソナルスペース・なわばり意識というのは共通感覚ですし、
まさに<わたしたち>の感覚でありつつ、<わたし>を支える部類のものだと思います。
精神病の人のカウンセリングで、パーソナルスペースの取り方を患者に教授する病院もあるみたいです。
精神病患者に対する偏見がすぐには改善されるとも思えないので、
自衛の意味でパーソナルスペースを学ぶことは、わりと患者のストレス軽減に即効性があるかもしれない。
本当は悲しいことなんですが。
動物園の動物の多くが精神病だというのはよく知られたことですが、
原因は環境の変化など諸々あるでしょうが、
檻内の過密さや、群衆に見られることのストレスが主たるところなんではないでしょうか。
これもやはりパーソナルスペースの侵犯が問題だと思います。

先日中嶋君が養豚場のことを記事にしましたが、
こうした過密飼育を止めて、家畜を放牧する飼育方法もわりと盛んになってきました。
家畜にもパーソナルスペースを確保しようという動きです。
ウチは最近卵は食べるのですが、放牧されて育った鶏の卵を買うようにしています。
少なくとも臭いがくさくないです。
ただ、放牧されたものの方が美味しいかはわかりません。
人の味覚ほど当てにならないものはないので。
添加物で出来たイクラの方が美味しいと言い、ブロイラーの焼き鳥の方が美味しいと言ったりします。
放牧して育ったオージービーフは筋肉質で固く、やっぱり柔らかい国産には人気が負けてしまうようです。
ひと昔前、トリと言えば軍鶏肉だったようですが、
現代人が焼き鳥にしてブロイラーの鶏肉と食べ比べると、軍鶏は固くて美味しくないそうです。
昔の人はでも、軍鶏は鍋で食べたそうです。鍋にするなら断然軍鶏肉が美味しいそうです。
素材が違えば食べ方(調理法)も変わるということを忘れて、
純粋に素材として、どちらが美味しいかどうかを判定することなんて出来る話ではないと、私は思います。

本当に動物が好きな人は、檻に入った動物を平気で見られるわけがないから、
動物園には行かないだろうと思うのと同様に、
本当に家畜を大事に思うなら、家畜を過密のところで育てずにパーソナルスペースを確保して育てようとすると思います。
そして、そういう思いやりを真に持っているなら、
人に対してだって、パーソナルスペースを侵犯しようとは思わないはずだと思います。
ウチは放牧で家畜を育ててますと言いながら、
ずんずん近寄って相手のパーソナルスペースを犯してまで家畜を売り込む人がいたとしたら、
「放牧は家畜に優しいから」なんて嘘で、ただ商品価値を上げる為の方便でやっているに過ぎないことは、明白です。

ネットにもパーソナルスペースはあると思います。
それは日常のパーソナルスペースとは異なるかもしれません。
けれどそれは、郷に入っては郷に従え、
社会や民族が変わればパーソナルスペースの感覚が異なることと変わりはないと思います。
ネットは言語の世界ですが、ユーザーは決して言語だけを使っているわけではありません。
例えば、前回書いたハンドルネームや、書き込みの頻度とか、親しくないのに親しい間柄のように書かれたとか、
記事とは関係ないことを書きこんでくるとか、文字と文字のスペースが変だ、とか絵文字が多すぎるとか、
実際交わされた言語の中身だけではなく、そういったことを総合的に感じ取って判断します。
そろそろネットのパーソナルスペースというものを、各々が考える時期が来ているんじゃないでしょうか。
ネットの世界のアクセスの簡便さが、ともすると、
ヒトが本来備えているパーソナルスペースの関係を狂わせてしまいますが、
それが狂ってしまえば、考え方までに悪い影響が出かねません。
パーソナルスペースが十分に確保された方が健康に良いと言うのならば、
ネット上でも同じことが言えるのではないでしょうか。

相手の健康を重んじることは、何よりも先に優先すべき、関係の第一義的項目です。
何を言っても書いても、それができていないなら何の意味もありません。
健康とは、全ての人がみんなで望んだとしても、足りなくなることがなく、
みんなが持てたとしても価値の下がらない珍しい富です。
※この「富」という言い方は、ガンジーやシナジェティクスの梶川さんから拝借していることを白状しておきます。
「皆が持てたとしても決して価値が下がらないもの」こそが、本当の富なんだと思います。
そして、宮沢賢治が求めたものも、そういったものだったんじゃないかと思ったりするのでした。

フィッシュマンズについて その5

※少し補足しました。

前回、「後で書き足します」なんて書いてしまったけれど、結局時間がなくて書けませんでした。
しかし、本当はもう、フィッシュマンズに関する記事は終わらせてしまいたい。
ダラダラと愚痴のように書く文章は、フィッシュマンズに似合わないし、
佐藤君が死んだことによって、ある種フィッシュマンズが伝説になりつつあるけれど、
そういうことは佐藤君が本来とても苦手としていたことだと思う。
自分が書けば書くほど、なんだか空虚なフィッシュマンズにまつわる幻想を生みだしている気がして、
居心地も悪い。
早く終わらせてしまいたい。いつものフィッシュマンズとの静かな付き合い方に戻りたい。
正直、そんな感じです。
ただ、書かないというのも私にとって不自然なので、やっぱり書くのですが...。
今回で終わりますように。

これは本当に小さな世界でのことで、わざわざ話題にするほどのことではないのだけれど、
フィッシュマンズを好きだ、という音楽ファンの中には、
テクノやダブといった音響系の音を好んでいる人たちがいて、
フィッシュマンズもその枠でとらえている人たちがいます。
私はフィッシュマンズを“音響派”だと思ったことはなくて、レゲエとかダブだと思って聴いたことがないのです。
音楽好きだからフィッシュマンズが好き、みたいなワン・チョイスではないんです。
そういうことは「その3」で載せた佐藤君のことば、
『「音響が好きだから音響出す」のと「こういう感情を表現したいからこういう音を出す」っていうのでは、
受ける側は全然違うんじゃないですか。』
であって、
日本語の音楽を卑下している人が言うような、
「フィッシュマンズは音響系だから聴ける」なんていう感覚は
私には一切ないです。
もっとプライベートなところに寄り添うような音楽だと思っているので。

それから、佐藤君が亡くなってからもフィッシュマンズは解散していなくて、
ただひとりのメンバー、ドラムの茂木さんがその後もフィッシュマンズの活動をしていて、
今のところ、あくまで佐藤君生前時の曲の再発だったり、編集だけが、
音源としてリリースされているのですが、
ライブに関しては、過去にフィッシュマンズを脱退していった旧メンバーや、
フィッシュマンズを好んでいるミュージシャンも参加するかたちで
「フィッシュマンズ」のライブが行われています。
別に悪くないし、いいんだけど、でも私はどうしても喜べないのです。
フィッシュマンズの音楽を今後も引き継いでいこうというのもわかる。

だけど、それなら、
ほとんど廃盤となってしまった過去のアルバムを通常の価格で再発すればいいのではないか。
正直、またフィッシュマンズの音源が出たり、DVDが出たりするとゲンナリする。
聴いている側の生理とは全く関係のないタイミングで発売になったりして困惑もする。
佐藤君生前時代は、リスナー側も待つ身だったし、
フィッシュマンズというバンドとリスナーのタイミングがシンクロしていた気がするのだけど、
結局今は、ただ商売に付き合わされている感じが否めない。
だから新譜が出ても、今はむしろ欲しくない。

今のフィッシュマンズのライブは、同窓会と仲良しによるパーティーでしかない。
そんなに、楽しいことだけでいいなんてことはないはずだ、と思う。
和気あいあい楽しいグッドミュージック、そんなのフィッシュマンズじゃない。
あれだけ「売れたら自分の好きなことができなくなる」と恐れていた佐藤君だったのだ、
もうフィッシュマンズを商売にするのも、
フィッシュマンズを聴いていることを自分の手柄みたいに思うのは止め、だ。

下に張り付けた動画のインタビューで佐藤君はこう言っています(2/3の動画内)。
★動画は削除されてしまいました。。。
(ちなみに私自身は全く格闘技は好きではありませんし、格闘技を評価する気はないです)
「今のプロレス界は僕にとってはもう魅力ないです。毎週欠かさず見てるんですけど。
でも、なんかこう、幻影を追っているだけっていうだけで、別に感動もないし
こんなこというと変かもしれないけど、音楽界ではわりと俺は後継者だと思ってて、
プロレスって戦いで、で、...良いですかこんなこと言ってて...なんですけど、
個人の生きざまを見せる場であって、最後は。勝った負けたはどうでもいいことであって、
だから音楽も、例えるなら、例えばライブなんかでは、歌がうまく歌えたっていうのも重要なんですけど、
演奏が上手くいったとか...
それより大事なのは、プロレスと一緒でたたきつけるって感じが大事で、
そういった意味では僕は後継者なんですよ。」
あんまり好きなことばではないけれど、音楽によらず表現は「生きざま」そのものであるはずだし、
懐メロみたいな、甘ったるいのは佐藤君が望んだことじゃないと思う。

中嶋君がかつてやっていた「喫茶クラクラ」では、
かつてフィッシュマンズのメンバーであったHAKASE-SUNや、
フィッシュマンズ後期のレギュラーサポートメンバーだった故HONZIさんに来てもらって、
演奏会を開くことができて、ことばも交わさせてもらったのですが、
もちろん嬉しくはあったけど、上の佐藤君のことばのように
“幻影を追っているだけ”のようで、そこに私の「フィッシュマンズ」はなかった。

申し訳ないけど、佐藤君がいないフィッシュマンズはフィッシュマンズじゃない。
そして、それでいいのだと思う。
フィッシュマンズが何を表現したくてやっていたのか、それを知っているだけでいい。
それで、既にある「型」に自分をすり寄せていくのではないやり方で、
フィッシュマンズのように「生活が表現である」ことを、自分自身でやっていけばいい。
フィッシュマンズの、佐藤君の精神的な後継者になればいいのだ。ただ追随するのでなく。
そんな気がする。

ああ、これで本当にお終い。
フィッシュマンズよ、さようなら。ありがとう。



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