ノ ー ト

好 き な 読 書 を 中 心 に 考 え 中 を 記 録 す る ノ ー ト

与太郎

与太郎 その3 追記

  • 写真の追加紹介です。

    ●前回の記事に書いた、授産施設へ陶芸のお手伝いに行った時の、
     そのお礼として頂いた彼らの作品2組(左)。

    ●直也君所有の障碍者の方による絵皿(右)。

    お気に入りです。

    okimonoezara

    与太郎 その3

    「与太郎」シリーズは今回で一旦終了(強制終了)です。
    本当はもっと書きたいこともあるのだけど、
    今のところ、それらを書くに十分な時間と精神的な余裕がないです。
    デリケートな分野なので、このまま軽はずみに書き続けるわけにもいかない気もする。

    なんだかんだ書いてきましたが、
    差別される当事者(今回は身体&精神障害者)の視点抜きに何を書いても、
    正直片手落ちな気もします。
    私は、実の兄が統合失調症で障害者手帳も有しているので、
    そのことを追い風にして、わりと“いい気になって”書くことが出来ています。
    所詮、職権濫用というか、その立場を利用しているわけです。
    これはある意味、非常に危険なことであって、
    ともすると状況を悪化しかねない類いのものだという自負はあります。

    一般的に言って、
    当事者とその家族以外の人たちが、差別問題に対して口を挟みにくいムードが確実にあるし、
    テレビのドキュメンタリーとか観ていても、
    大抵当事者を尊重するあまり、当事者側からの一方的なメッセージになっていて、
    差別をされる側・する側の双方向的な視点交換に至らない場合が多いと思う。
    (趣味じゃないので観ていないけれど、松たか子主演の「告白」という映画は、
    芥川龍之介の「羅生門」的な“事実の認識の仕方は人によって異なる”ということを描いているから、
    共感を呼んで人気になっているのかな? 憶測ですが。)

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    たとえば、現場主義っていうのがありますけど、
    もちろん現場が大事っていうのは当然なんだけど、何でも“主義”になってしまうとバランスが悪いと思っていて、
    この差別(やいじめ)の問題でも、行きすぎた現場主義っていうのにも弊害があると思うわけです。

    以前、直也君と一緒に、
    知人が職員として勤める、障害者の方たちの授産施設にお邪魔したことがありました。
    直也君には作陶の経験があるので、施設で行う“陶芸の時間”にお手伝いとして出かけたのです。
    それで、詳しいことは省きますが、
    皆が夢中になって粘土をいじっている途中でも、
    職員の方たちが、このくらいで止めさせないと商品として成立しなくなる
    (せっかく出来た形をつぶしてしまう恐れがあるため)
    と判断した時点で、「はいこれで終わりにしようね~」と言って止めさせてしまうんです。
    この部分だけを抜きだして話すと、
    「そんな無理に止めさせてしまうなんて暴力だ。健常者からの表現規制じゃないか」なんて反応が起きるでしょう。
    でも、私たちはその現場で何も言えませんでした。
    商品にして多少は販売に変えなければ(生産性のあるものにしなければ)、
    授産施設での陶芸の時間に“予算がつかない”ことを聞いていたからです。
    職員の人たちもしたくてしている訳じゃありません。
    私は、重度の知的障害者の方たちや、彼らに対応する職員の方たちの逞しさの前で、ただただ圧倒されていました。
    正直、何も言えなくなります。為す術がなかったです。
    “何か しなくてはならない・出来る”という考え自体、傲慢なんですけど。
    職員の方たち専門家の、説明に従うだけです。
    与えられた少ない選択肢の中で、優先順位をつけてやるしかないのが現場です。

    職員の方たちは、夜中に呼び出されることも多々ある激務に関わらず、
    本当に少ないお給料で働いています。
    そして少ない予算の中で活動しています。
    厚労省や政治家のお偉方にこそ「そんな作ってる途中で止めさせるなんてけしからんじゃないか」と、
    ほんと言ったら、言って欲しいですよ。
    現場の人もそう思っていると思います。
    なんなら、みんながそう言い出せばいいんだ、と思います。
    そしてそれを大きな声に変えて、
    商品になるかならないかを気にせずに自由に作れるよう、変えていって欲しいです。
    現場の人は仕事に圧倒されて、時間に余裕が持てないと思います。
    そして何でも現場主義で、現場で解決しろなんて無理な話です。
    現場だけではどうやったって閉塞感がついて回ると思う。

    差別は社会の中で、ある効果として私たちによって生み出されているのだから、
    差別と無縁な人なんて誰一人としていない。
    時間と金銭に余裕があってぬくぬくと暮らしている人にも、その人なりの差別との関わりがあるはずだから、
    「パンがなければケーキを食べたらいいじゃない」的発言でもいいから、発すればいいんだと思う。
    本当に、パンがなくなってもケーキを代わりに食べられるなら、取り急ぎいい訳だし。
    そして今の西側社会は、その預言?通りになった。

    私は「机上の空論」という発想が大嫌いで、机上が実践の現場だって人もいるだろうによ、と思います。
    ノートを紐解くと、誰の言説か分かりませんが、下のようにメモってありました。
    机上の空論という嫌悪感自体がすでに偏見に満ちている。理論と実践という語り口からすると、理論は実践的でないことを非難されるが、このとき「実践」は「目的の達成」のことに他ならず、もうすでに、理論も実践もおしなべて「道具」化されてしまっている。道具的理性が「単なる事実人」「精神のない専門家」「心情のない享楽人」を生む。
    差別にまつわるタブー感が、失速につながる。
    「全ての人が当事者である」では何故いけないのか。
    どうして発言する資格のある人と、ない人なんていう区別があるのだろうか。
    こうした行き過ぎた現場主義と実践主義は、
    更なる分断を生み、閉塞状況を引き起こし続けるに違いない。

    ちなみに、
    エイブル・アートという障害者の方たちによる美術も、一体どの程度、健常者からの規制がかかっているのか、
    正直それはわかりません。
    でも、商品として完成するということは、副次的なものであって、
    もちろん経済的自立を望む人の助けになるなら、それは幸いなことだけれど、
    作っている間の過程こそが、“表現そのもの”なんだと思うし、
    完成図からの逆算で粘土と交じり合っているような、そんな打算は彼らに一切見受けられなかったから、
    作品を途中で強制終了されてもとくに執着の様子もなかったし、
    拒絶する人はいなかったように記憶しています。
    (そのようなものと学習してしまったのかもしれないけど)
    そこが、そんじょそこらのアーティストと完璧に違って、素晴らしいところだと思う。

                   ☆ ☆ ☆

    通りすがりさんがコメントで書かれていたことがずばり図星だな、と思わせる記述とデータを見つけました↓。
    ●犯罪者に「過去に精神科への通院歴」があったという短いコメントのせいで、ひとりの触法精神障害者がすべての精神障害者を代表してしまう。そして、精神障害者の全体が、線税的(?)な犯罪であるかのように見られてしまう。
    ●また、最近は凶悪犯罪を起こした者に対して、精神科医が好んで指摘したがるが、こうした振る舞いが狂気の犯罪化を助長させている。
    ●しかし、ほとんどすべての精神障害者は犯罪と無縁に生活している。
     実際に精神障害者が犯罪を起こす率は低い。
     ■昭和61年度の犯罪白書によると、全国の成人の刑法犯検挙数は214,513人で、そのうち精神病者や知恵遅れまで含めた広い概念である精神障害者、およびその疑いがある者の合計は2,139人であり、その比率は1%弱に過ぎないのだ。では、一般人口中にどれくらいの精神障害者が含まれているかというと、昭和38年の厚生省が行った実態調査では1.29%である。よって、犯罪者の集団に含まれる精神障害者の比率の方が、一般人口中のそれより低いということになる。
    ●精神障害者が不幸な犯罪を起こすのは、発病に周囲が気がつかなかったり、診療中断によって犯行時にはまったく治療を受けていなかったケースが多く、昭和61年度の犯罪白書によると68.1%と大半を占めている。
    (サイト「セキュリティ・アカデメイア」より抜粋)


    あと今回記事を書くにあたって知った「障害者ではなく障碍者へ」という呼称の問題。
    詳しくはこちらのサイト
    “障「害」者”と呼ぶのは、同じ漢字圏でも日本だけのようです。
    中国では病の残る人「残疾人」と呼ぶそうです。
    「害」という漢字には「人を殺める」という意味があるそうで、全くの誤用だと。
    記事を書いている当初にこのことを知ったのですが、途中から知ったかぶって使うのも嘘になると思い、
    障害者で通しましたが、これからは「障碍者」を使っていきたいと思います。
    呼称は実体を生むと思うので。

    最後に、私が大好きな曲のご紹介で締めます。
    その名も「send in the clowns(直訳だと“ピエロを送り込んで”?)」です。
    この曲はミュージカルの中で歌われる曲で、
    難しい決断の直前にお茶を濁したい・一息入れたいという気持ちを歌ったものらしく、
    実際の英詞を読んでも、物語の中の曲だと思わなければ意味不明です。
    サーカスでは、曲芸が失敗した時、場が白けるのを回避するために、
    ピエロを大勢ステージに送り込みます。
    そういう意味での「ピエロを送り込んで」です。
    場つなぎっていうやつでしょうか。
    作詞したソンドハイム氏自身は、「clowns」の代わりに「fools」でもいいと言っています。
    「私たちはみな愚かなんだ」といういうことを書きたかったそうです。
    この曲は多くの人が歌っているけれど、私にとっての絶唱はサラ・ヴォーンによるもの。
    毎回聴くと泣きそうになる。

    私たちはやっぱりトリックスター的な存在に救われ、彼らは私たち自身の化身だと思う。


    与太郎

    ※書ききれなかったので、また「与太郎2」として続きを書きます。
     途中ですがアップします。
     結文まで書いて、途中が矛盾してるなと思ったら手を加えると思います。
     いい加減ですみませんが、結論が未だ自分の中にもないので、なんとも分からないのです。


    「パーソナルスペース」の記事に寄せてくれた通りすがりさんのコメントの内容を読んで、
    すぐ江戸落語における「与太郎」を思い出しました。
    (すみません、上方落語までフォローできていないので「江戸落語」と限定して書きます)

    私も、落語を道徳の教科書のように感じているところが多分にあって、
    それでいつか、
    ある噺家さんのサイトの掲示板に、私の落語に対する思いを書きこんだら、
    噺家さんから「落語は頭で難しく考えたらいけませんよ。」
    とたしなめられたことがあります。
    当代で1番好きな噺家さんからだったので、いやもうおっしゃる通り、その時は本当にがっくりきました。
    お笑いを云々しているくせに、お笑いを語ることばが笑えないなんてぇのは、
    ケチな話じゃねぇかいってことです。

    お笑いについて語る事・弁明?すること自体を、笑いにかえるというのはなかなか難しい。
    だけどそうでなければやっぱりおかしな話だと思う。
    プロの人でも、出来ている人は少ない気がする。ともするとすぐ説教や教訓になってしまうので。
    私にも勿論出来ないので、結局笑いをつかまえようとしても、
    かえって遠のいてしまうということが起きている気がする。
    そのことを噺家さんから教わったんだと思います。未だ改善できてはいないんですけども。
    以来、落語を“有益な教訓”みたいに思っている自分って駄目だなぁというか、
    そういうところが自分は気に食わないなと思ってきました。
    笑いにまで生産性を求めている気がして。
    ---------------------------------------------------------------------------------
    (つづきはここから)

    ただ、
    “落語は業の肯定である”(立川談志師匠の弁)というのなら、
    赤塚不二夫の“これでいいのだ”も同様のことで、
    笑いとは業の肯定のような気がするのです。それは考えすぎではないんじゃないか、と思う。
    このことは何度も書いていますけど。
    無関心の中では笑いは起きないものです。笑うこととは相手を注視すること。
    目をそむけては笑うことは出来ない、そんな風に思います。

    落語の中に出てくる登場人物の1人、与太郎を、知的障害者か精神病の人だと解釈する人もあります。
    そういう視線から、江戸落語における与太郎への愛情ある描写に対して、
    【A】「昔はそういう人に対しても思いやりがあった、
    周囲の人が暖かく見守っていたんじゃないか。昔は良かった...」

    なんていう意見があります。はたまた、
    【B】「与太郎噺は差別につながるから自粛しろ」
    なんて極論に至る方もいます。
    でも、それらは曲解だと思います。
    こういう人は落語をれっきとした文化だと思っていない気がする。
    ただの昔話か道徳の教本としてしか理解できていません(これは私自身の反省から)。
    いわゆる“いい話”だけの薄っぺらいものなら、落語は絶えていると思います。
    デジタルな“意味=教訓”だけに還元できない部分があるからこそ、面白いし、
    落語にはリアリティがあるんだと思うのです。
    落語は、神話なんかに通じる、象徴世界だと思います。
    ノンフィクションとは違い、具体的な問題提起をしているわけではないですが、
    広く普遍性が描かれている世界だと思います。

    確かに与太郎は、のんびりマイペースで、不器用そうです。
    だけど与太郎がなぜ愛されているのかと言えば、「のんびりでマイペースだから」だけの理由じゃありません。
    洒落が上手くて、タイミングが絶妙で、もしかすると禅問答かと思うような、
    言葉に対する気点を持ち合わせているからです。
    ツッコミをうながすための絶妙なボケな訳です。
    与太郎によって、目の前の世界が単一な世界でなく厚みを持ったものに変わる。
    周囲の人が与太郎から学ぶ部分があるから、大事にするんだと思います。
    むしろ、与太郎はわざと馬鹿に見せてる、と談志師匠は言っています。
    いわばトリックスター。非生産性の象徴だ、と。

    上の【A】や【B】の意見に対して、プロの噺家さんで
    【C】「何言ってんだ、与太郎みたいにあんな洒落のわかっているのが
      知的障害や精神病であるわけがない。本当に病気だったら笑えないよ」

    と言う方がいます。少なくともこの発言が差別であることは間違いなさそうですが...。
    どちらにせよ、
    私はこの【A】【B】【C】の意見どれもが、いたって腑に落ちないのです。

    この場合、精神の病を持った方に対してに限定しますが、
    私たちははっきりと専門の医師から精神病だと既に診断された人だけに、
    病的なものを感じるわけではありませんし、
    こちらに病気の専門知識がなければ病気だとみなさないかと言えば、そんなことないと思うんです。
    科学的にはっきりと確定していないことなのだから病的だと感じるな、と言われても、
    そんなわけにはいきません。
    「動物的な感=危機管理能力」が、他人の心の病に対して敏感にさせているのだとしたら、
    これを否定することは、極端に言えばそう感じる側の尊厳?まで否定することにつながりかねません。
    だから簡単な問題ではない、と思います。

    少なくとも統合失調症は、主に思春期にしか発症しないことなどから、
    生殖期における異性※との関係のトラブルやストレスが病気の原因になるとされています
    (母親や父親との関係の難も異性との関係です)。
    このことは種の保存の観点から言っても懸念事項になりますし、
    この種の病気をタブー視する傾向とて、もしかすると、
    既にヒトという動物に搭載された「種の能力」なのかもしれない。
    ※ヘテロセクシャルの方たちだけではないので、この場合感情的な意味での「異性」ということします。
    また同時に、これはとても大事なことなのですが、
    精神病理学の木村敏氏が言うように、
    精神病になるということもヒトに搭載されている「死からの回避能力」である、
    危機管理能力の1つである、ということなのです。
    誰彼にもこの能力は搭載されているんです。
    だから他人事ではないんだ、それは私の考え方の基本でもあります。
    実際、発症者が肉親にいるわけなので、
    私にも精神的な病気を発症する要素があると思いますし。
    もしかすると、私の中学生時代にその兆候の1つはあったのかもしれません。

    とにかく、与太郎が病気かどうかなんて、どうでもいい話だってことです。
    江戸時代に落語の基本は出来ていますし、江戸時代の精神病理学は今に比べて、実に拙いものでした。
    (江戸時代、確かに家庭での保護観察が主だったみたいなので、極端に排除されていたようではないみたいですが)
    当時は、オカルティズムの要素が大だったと思います。
    どうせ、八つぁん・熊つぁんはおろか、町の賢者たるご隠居だって、殿さまだって、
    病気のことなんて何ひとつわかっちゃいないんです。
    今の西洋医学の病気の認識と落語の世界は重なりようがないんです。
    だから、与太郎の描かれ方に対して、病理学的にどうのなんて問う必要がないってことだと、
    これを書いてて思うに至りました。

    ただ、時代が変わろうと変わらない確かなこと、
    つまり与太郎が持つ現代的な意味とは、
    それは与太郎が非生産性の象徴として大事にされている、っていうこと、
    これだけは事実じゃないかと思う。
    だから、古典噺だって、今この瞬間に、笑うことができるんでしょう。
    それで思うのは、与太郎が象徴であるならば、他のものも代替可能だと。
    (上方落語では与太郎的な滑稽な存在に「喜六」という登場人物がいるみたいです)
    象徴ということは、私たちの心が求めていることであり、その投影であるわけですから。

    脱線するのですが、私は暴力団の資金源になっていることは問題だけど、
    賭けごと自体は力士に相応しくないとは思えないのです(非常識かしら)。
    刑法185条の賭博罪は
    賭博のような、偶然の事情に依存して財物の得喪(得失)を争うことは、射倖心(しゃこうしん==思いがけない利益や幸運を望む心)をあおり、社会の健全な風俗を害する恐れがあるため、違法とされ、刑罰が科せられている(ただし競輪や競馬・競艇等は例外)。
    ということらしいです。
    この「偶然の事情に依存して」とか「射幸心(初めて知った言葉です」というくだり、
    これはある種の土着信仰には、少なくとも存在する要素じゃないかと思うのですが...。

    お金をおもちゃにするというか、お金を遊ぶというのは、
    どこか神的な存在の行為のような気がして、神事と全く縁がない気もしないのです。
    私が地区の区長をした時、神社のお祭りや消防の分団の飲み会に、
    無意味なウン万円のお金や、清酒を納めたことがあります。
    これは今まで町全体でしてきた古いならわしで、
    それらがただ飲み代になって無駄に消えていくことはわかっていましたが、
    この世の等価変換とは違う関係、それがお供えの本質だと思っていたので、
    私は、全く抵抗なく会計から支払いをしました。
    (ただ、そのお金が買春などに使われてきたこともあったでしょうから、
     女性としてそれには断固反対したいし、風俗産業の儲けになる事になるので、
     やっぱり当人たちだけ詰め所や社務所に集まって、飲み食いしてパーっと蕩尽・使いきってもらいたいです。)

    お金が非生産的な価値のものに変わる、それは今の世の常識を超えることだと思います。
    野球賭博で、自分や暴力団のもうけ、つまり生産性の追求に転嫁させてしまったこと、
    ここが私には問題だなと思いました。
    神様が、常識人とか経費削減のプロと同じような発想をするとも思えないし、
    なので、賭博が神事である相撲の力士には相応しくないという理由なら、ちょっと抵抗があります。
    相撲が人気商売でプロスポーツだから世論に合わせるしかない、という理由ならしょうがないですけど。

    非生産性を生産を尊ぶ社会から見ると、
    見る人によっては高貴なものに思えたり、反対に卑しいものになったりします。
    ホームレスの方たちに対する考え方も同様に、はっきりと二分しているように思います。
    このように、肯定もされ同時に否定もされるような両義的な境界に立つ存在を、
    私たちは「聖なるもの」と感じたり畏怖の念を抱くんじゃないでしょうか。
    排除という発想は、それが完全に外部のものだという認識の上では起きないと思う。
    自分たちと親和性があって内と外とを往来するものだから、「完全に外部へ」と排除したくなるんだと思います。
    内意識という縄張り意識によるものだと思います。

    昔、ダウンタウンの松本さんが教師に扮したドラマの中で、
    「いじめはなくせない。だからこれからは、いじめを当番制にします。」
    というくだりがあって、衝撃的だったのでよく覚えています。
    いじめの対象者を順番に回して、自分の身が聖になったり俗の存在になったりすることによって、
    聖と俗の概念を日常に変質させ、いじめ自体に飽きさせて、
    いじめを、もうケの発散や爆発に適した場所ではなくさせるというような話だった。
    でも結局、どこかで発散や爆発の場所が別に必要になるから、
    また違う差別を生んだりすることには変わりがないようにその時思いました。

    人の身に起きる不条理な出来ごとの説明や意味付けに、「聖なるもの」が役割を果たしてきたことを考えると、
    科学が「聖なるもの」に代わって説明をしてくれる現代は、少しずつ変わってきたとは思う。
    けれども、「なぜ2番じゃだめなんですか」という言葉に反発を覚えるような、
    世界でも有数と言われている科学者の内(輪)意識だって、どうも私のと比べて大差ない気がするし、
    一体どれだけの科学の知識があったら、「内」意識が薄らぎ、「聖なるもの」を必要としなくなるのか想像もつかない。
    とりあえず、内と外の意識を撤廃することは難しいから、ただもう、内の世界を拡大していくしかない。
    「外部」をひたすら取りこんでいくことで、外部を小さくしていこう。
    そういうむしろ善意をも含んで、数々の戦争や、植民地政策や帝国主義も行われてきたという気もします。
    だから、教科書問題みたいに、相反するような歴史見解も生まれる余地があるというか。
    (私は聖戦のように、何がしか戦争を肯定する考え方は非常に苦手ではありますが。)
    けれど「内」を強固に保持していくには、強固な「外」がなければならないから、
    量的に数は少なくなってはいるものの、
    「外」は質的には依然恐ろしいものだという仮想が繰り返し行われているのが現代なのかもしれません。
    だから「核」の時代にいるんだ、と。

    (つづく)

    ※すいません、コメントに応対する時間が取れないので、
     「与太郎2」まで書ききってからコメント欄オープンさせてください。
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